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日蓮大聖人・池田大作

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各部代表研修会  

2006.8.23 スピーチ(聖教新聞2006年下)

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2  自身を磨け
 “ウクライナのソクラテス”と謳われる哲学者のスコヴォロダは述べている。
 「人間の心は鍛えなくてはならない。それを避けると、高潔な思想も、真理の理解も、英知の精神も、すぐさま高貴な素性とは相容れない、卑劣なものに染まってしまう」
 心を鍛えるのが仏法である。信心である。鍛錬がなければ、人間は堕落してしまう。
 ドイツの哲学者カントも述べている。
 「何人たりとも訓練なくして有徳であることはできない」(御子柴善之訳「コリンズ道徳哲学」、『カント全集20』所収、岩波書店)
 本当にその通りだ。リーダーこそ、率先して自身を訓練していかねばならない。
 牧口先生が傍線を引かれ、拝読しておられた御書の一節に、こう仰せである。
 「摩訶止観に『師にあわなければ邪な智慧が日ごとに増し、生死の迷い、苦しみは月ごとに甚だしい。密林で曲がった木を引きずるように、そこから出る時期がない』とある」(御書153㌻、通解)
 だれの指導も受けない。だれからも、何も言われない。それでは、だんだんおかしくなってしまう。
 師匠がいればこそ、自身の弱さを見つめ、それと向き合うことができる。正しい人生の道を歩み抜くことができる。
 だからこそ、師弟が大切なのだ。
3  アメリカ実践哲学協会会長のマリノフ博士は述べている。
 「苦境こそ真に人間が試されるときだ(中略)自分のなかの基本的な信念が最も輝かしく照らし出されるときでもある」(吉田利子訳『元気哲学──生命篇』アーティストハウスパブリッシャーズ!角川書店)
 マリノブ博士とは、3年ほど前に、21世紀に求められる哲学をめぐって語り合った。〈2003年2月。その際、同協会から名誉会長に「人間哲学貢献賞」が贈られた〉逆境の時に、どう生きるか──そこに人間の真価が現れる。
 イギリスの思想家ラスキンは述べている。
 「試練を受けた心情と知性だけが最良の実を結び、他は結ばない」(内藤史朗訳『世界教育学選集46 芸術教育論』明治図書出版)
 なんの試練もない。また、試練から逃げる。そういう人はい真の幸福をつかむことはできない。勝利者にもなれない。
 仏法においても、法難を避け、ずる賢く立ち回っているような人間は、絶対に仏にはなれないのである。
4  善のために戦え
 「キューバ独立の父」ホセ・マルティは訴えた。
 「生きるということは世の中のために善を行うということである」(青木康征・柳沼孝一郎訳『ホセ・マルティ選集第2巻』日本経済評論社)
 友の幸福のため、よりよき社会の建設のために祈り、語り、行動する。
 広宣流布に生き抜く私たちは、最高の善の人生を歩んでいる。
 デンマークの思想家キルケゴールは綴っている。
 「およそ善の存在するところには、必ず勇気がともなっているものである」(『キルケゴールの講話・遺稿集4』、岩永達郎訳、新地書房)
 信仰で大切なのは勇気である。人生で重要なのも勇気だ。勇気がなければ、敵とも戦えない。
 私は青年時代、学会や戸田先生を誹謗する人間とは、徹底して戦った。厳然と、言論で勝ち抜いた。
 勇気がない。臆病。卑怯。そんなことでは、学会を守ることなどできない。特に青年部の諸君には、先頭に立って、一切の悪を打ち破ってもらいたい。
5  恐れるな! 我に哲学あり
 フランスの文豪ユゴーは、若き友に、こう書き送っている。
 「若い立派な才の持主であり高尚なる精神の持主たる諸君に依って漸次光明は輝いて来る」「諸君の如き若き人々が勝利をかちうるのである」(神津道一訳「追放」、『ユーゴー全集』所収、ユーゴー全集刊行会、現代表記に改めた)
 未来を開くのは青年である。皆さんに、すべてを託す以外にない。
 ユゴーは、こうも綴っている。
 「信念をもっているわれわれは、何をおそれることがあろうか?」(井上究一郎訳「レ・ミゼラブル」、『世界文学全集第44巻』所収、河出書房新社)
 学会には最高峰の哲学がある。信念がある。理念がある。それを庶民が真剣に実践しているのだ。
 超一流の哲学者と同じである。我々には、恐れるものなど何もないのだ。
6  「第2の関西」を
 戸田先生は、本当に厳しかった。
 私は、ずいぶん叱られた。一つ一つ徹底して訓練された。10年間、先生から万般の学問の教授も受けた。あまりにも偉大な先生であった。
 私には、弟子としての責任がある。約束がある──そういう思いで、今も戦っている。
 御聖訓には、「師匠となり、弟子となることは三世にわたる約束である」(御書1070㌻、通解)と仰せである。
 これも、牧口先生が傍線を引いて拝しておられた御文である。
 仏法の師弟は厳粛である。決して簡単に考えてはならない。
7  若き日に、私は東京の文京支部で支部長代理として戦った。
 当時(1953年)、文京支部の折伏成果は全国で最下位クラス。支部長は、田中都伎子さんという女性であった。
 支部のあまりの窮状を見かねた戸田先生が、「僕の懐刀を送ることにしよう」と言って、私を派遣されたのである。
 そして、1年もたたないうちに、文京は第一級の支部へと発展を遂げた。
 私は蒲田支部でも、拡大の突破口を開いた。あらゆる戦いに勝利してきた。師匠の期待に応えてきた。
 戸田先生亡き後も、世界広布への道を開いた。
 私は、すべてをやり切ってきた。だから、何の後悔もない。
 なかでも関西は、私が師弟不二の闘争で築いた常勝の城である。
 関西には、頭のてっぺんから足のつま先まで「師弟」の精神が脈動している。だから関西は強い。微動だにしない。
 私は「第2の関西」というべき師弟の城を、この信越をはじめ、各地に築きたい。
 もう一度、新しい学会を築く思いで、戦っていく決意である。
8  団結こそ力!
 大切なのは異体同心の団結である。リーダーが師弟不二の精神に立って、互いに団結していくことだ。
 皆が一つになって戦えれば、これほど楽しいことはない。
 大聖人は池上兄弟に対して、こう仰せである。
 「二人が一体で進む姿は車の両輪のようである。鳥の二つの翼のようである。
 たとえ、妻子などが仲違いをされることがあっても、兄弟二人の仲は、不和になってはなりません。
 こう言うと恐縮ですが、二人がともに日蓮のことを(師匠として)尊いと思って(心を合わせて)いきなさい。
 もし二人の仲が不和になられたならば、二人に対する(諸仏・諸天等の)加護がどうなってしまうかと考えていきなさい」(同1180㌻、通解)
 重要な御文である。
 同志の間に不和があり、異体同心でなかったら、何をやってもうまくいかない。広宣流布は進まない。
 それどころか、かえって広宣流布を妨げる存在となってしまう。
 中国の女性革命家である秋瑾しゅう・きんは述べている。
 「(ニセ革命家とは)いたずらに虚名をうらやみ、現実の行動がなく、互いに排斥し、互いに欺き合い、人に損を与えることで自己を利する者である」
 こうした存在には絶対になってはならない。
9  フランスの大画家ドラクロアは、同じく画家であったプッサンの次の言葉を記している。
 「私は年をとる毎に進む気がする。そしてますます向上しよう、もっともっと完全なものに近づこうという熱望に心の燃えるのを覚える」(植村鷹千代訳『芸術論』創元社、現代表記に改めた)
 年を取ったからといって、情熱を失ってはならない。
 いつまでも、心は青年のごとく! 永遠に向上の人生を! これが妙法を持った私どもの生き方である。
10  自分を飾るな 皆を讃えよ
 リーダーは、徹して誠実であっていただきたい。
 「はたらかさず・つくろわず・もとの儘」──仏法では「本有無作の三身」を説く。形式ではない。変につくろったり、自分を偉く見せる必要もない。
 「心こそ大切」(同1192㌻)である。誠実に、ありのままの自分の良さを出していけばいいのだ。皆に心で訴える。心で感動を与える──そういう一人一人であっていただきたい。
 学会の幹部は皆に奉仕する存在である。自分の思うとおりに皆を動かそうなどと考えるのは、とんでもないことだ。
 意見が合わない人もいるだろう。しかし、そういう時こそ謙虚になって、相手の話によく耳を傾けていくことだ。
 会員の皆さんは、本当に頑張ってくださっている。そうした方々を最大に讃え、ほめていくのがリーダーである。
 また、リーダーは朗らかであってほしい。そうであれば、皆、楽しい。
 そして、すべてに責任感をもつ存在であってもらいたい。それが本当の指導者だ。
 統一ドイツのヴァイツゼッカー初代大統領は述べている。
 「繁栄の中で漫然とそれを享受するだけではなくて、責任をまっとうしていくという生き方をすれば、その人の生き方はさらに生きがいのあるもの、意味のあるものになる」(「琉球新報」朝刊、1999年4月17日付)
 重要な指摘であると思う。大統領とは、ドイツの大統領府で語り合ったことが懐かしい。
 スペインの作家セルバンテスの小説『ドン・キホーテ』。その中で、主人公のドン・キホーテが、従者のサンチョ・パンサにこう語る場面がある。
 「お前に起こるあらゆる問題を過つことなく見事に解決するという、固い意志と信念をつねに保持せよということじゃ」(牛島信明訳『ドン・キホーテ後篇(2)』岩波督店)
 目標に向かって進んでいけば、必ず何か問題は起こってくるだろう。
 それから逃げないことだ。断じて乗り越えていく──その強き意志を持つことだ。
11  全魂の指揮を!
 御聖訓には仰せである。
 「この曼陀羅(まんだら=御本尊)を身に持てば、王を武士が護るように、子を親が愛するように、魚が水を頼みとするように、草木が雨を願うように、鳥が木を頼みとするように、一切の仏・神等が集まって、昼夜にわたって影のように護られるでありましょう」(御書1477㌻、通解)
 御本尊を持ち、妙法に生き抜くならば、諸天が守ることは間違いない。凡夫は疑い深いため、なかなか信じられない。しかし、必ずそうなっていくのである。
 また、大聖人は「法華経を信ずる人は、幸いを万里の外から集めることでしょう」(同1492㌻、通解)とも仰せである。妙法に生き抜く人が、幸せにならないわけがない。
 それを、ちょっとしたことで疑う。不平や文句ばかり言う。それでは、せっかくの福運も消えてしまう。結局、損である。
 大聖人は、こうも述べておられる。
 「花は咲いて木の実となり、月は出て必ず満ち、灯火は油をさせば光を増し、草木は雨が降れば茂っていく。(それと同じように)人は善根を積めば、必ず栄える」(同1562㌻、通解)
 学会活動によって私たちは最高の善根を積むことができる。一家一族が大福徳に包まれ、栄えていくことは間違いないのである。
 人生は、最後の勝利が最高の幸福である。私は、全同志の人生の勝利と栄光を毎日、心から祈っている。
 それでは、どうかお元気で! 下半期、そして明年の晴れやかな勝利へ、全魂の指揮を頼みます!
12  「壮年部の日」(8月24日)、おめでとう!
 壮年部の模範として、素晴らしい活躍を示してくださっているのが、各地の「太陽会」(平日昼間の時間帯に活動する壮年部)の方々である。
 皆さんが名称に冠しておられる「太陽」について、少し紹介したい。
 太陽で生み出されるエネルギーは毎秒、およそ「4兆キロワットの1,000億倍」という、莫大な規模である。〈3.8×10の26乗ワット〉
 地球に到達するのは、その22億分の1だが、それでもわずか30分で、世界の年問エネルギーの必要量を満たすという。
 太陽は、その陽光で、日々、地球を照らし、万物を育んでくれている。
 とともに、太陽は、太陽系を包み込むように、「太陽圏」という領域をつくり出している。
 この太陽圏は、太陽から吹き出す物質の流れである「太陽風」の及ぶ領域のことである。
 太陽風は、地球周辺では超音速で吹き抜けており、届く距離は約180億キロメートル。太陽と地球の距離の約120倍である。
 実は太陽系は、この太陽風の働きによって、「星間風」(=星間ガスやちりの流れ)から守られているのである。
 さらに太陽風は、地球上の生命を脅かす「高エネルギー宇宙線」からも同様に、太陽系を守っている。
 もし太陽圏がなかったら、地球には今の5倍以上の宇宙線が到達し、生命にも重大な影響を与えるのではないかと言われている。
13  太陽会をはじめ、壮年部の方々が立ち上がると、温かな陽光が射したように、婦人部も、青年部も、皆が喜ぶ。さらに、人生経験の豊かな力ある壮年部の方々は、地域に、また社会に深き信頼を広げておられる。
 まさしく「太陽風」のように、陰に陽に、わが同志を、そして、わが学会を厳然と護る、安全地帯を形成してくださっている。各地の壮年部、太陽会の皆さんの、ますますのご健康とご長寿を祈っています!
 〈「太陽圏」「太陽風」等については編集部でまとめる際、藤井旭著『VISIBLE宇宙大全』作品社、沼澤茂美・脇屋奈々代著『140億光年のすべてが見えてくる宇宙の事典』ナツメ社などを参照しました〉
14  仏の生命を開け
 各地で新しいリーダーが誕生している。
 何度も申し上げるが、指導者は、まず誠実であることだ。
 誠実にかなうものはない。誠実さがないところに、愛情もない。論理も包容力も、ユーモアもなくなる。笑顔も、知恵もなくなる。
 誠実さを欠いて、偉ぶり、焦り、感情的な策を弄するリーダーは嫌われる。
 広宣流布の前進において、気取る必要は一切ない。ざっくばらんでいい。ありのままでいい。そうでないと、周りが安心できない。
 同志が安心できるような、大人物になっていただきたい。
 大人物とは、大きな心をもち、多くの人を、確かな幸福へと導ける人である。そのためには、尊き仏子である学会員の皆さまに仕えることだ。また、御本尊に仕えることである。
 私は、そうしてきた。
 さまざまな人がいるから、当然、忍耐が必要な場合もある。
 しかし、自分自身を変革して、周囲から信頼を勝ち取ることは、諸天善神からの讃嘆に通じるのである。
 仏とは、どこか他の場所にいるのではない。ここにいる。この自身の生命に具わる仏の生命を、開いていくのだ。
 いかなる動きも、すべて「仏界所具」の働きにしていける。また、菩薩の働きに変えていけるのである。
 また、創価のリーダーは、徹して女性に感謝し、ほめたたえていくことだ。
 男女同権であり、平等だ。健気に戦う婦人部、女子部の皆さんを馬鹿にする人間を、絶対に許してはならない。
 女性を尊重すれば、学会はさらに発展する。
 新田次郎氏の小説『芙蓉の人』で、女性の主人公は語っている。
 「なにかにつけて、女を軽蔑する男は許せません。そういう男の存在は日本の将来に決していいことではありませんわ」(文春文庫)
 その通りである。学会も、この点を重々、銘記していかねばならない。
15  信仰の出発点に立ち返れ
 また、“役職が上になればなるほど、偉い。成仏に近い”などという考え方は、日蓮大聖人の仏法にはない。広布の役職は、誉れある「責任職」である。
 いわんや、社会的な肩書や立場、学歴など、信心の世界には関係ない。
 だれ人も尊厳であり、だれ人にも成仏の可能性が平等に開かれているのが、大聖人の仏法である。
 幹部だからといって、「自分は特別である」とか、「自分は十分に戦ってきた」などといった安直な考えに陥ってしまうならば、魔に付け入られてしまう。
 その意味で、これまで戦ってきた人、また責任ある役職についている人ほど、常に信心の原点、信仰の出発点に立ち返ることだ。
 そして、はつらつたる「発心の生命」「初心の生命」を生き生きと燃え上がらせることだ。
 微妙な、しかし重大な「一念」の違いによって、後退してしまうか、成仏の総仕上げを飾ることができるかが決まる。
 ここに、大聖人の仏法の要諦があると拝することができる。
 信心も、人生も、途中ではない。最後で決まる。その勝利を飾るために、師弟がある。
 私も常に、戸田先生の弟子として、広宣流布の戦いを開始した出発点に立ち返っている。
 そして、どんな時でも、戸田先生と二人で、心と心、生命と生命の対話を交わしながら、行動している。ゆえに、絶対に行き詰まることはない。
16  団結し、確固たる態度で!
 さらに、勝利の条件、リーダー論などについて、古今の箴言、戸田先生の指導から学んでいきたい。
 フランスの文豪ロマン・ロランは、ルネサンスの巨人ミケランジェロを通して述べている。
 「偉大な魂は高い山巓さんてん(=山頂)のようである。風が吹き荒れ雲が包んでしまう。けれどもそこでは他のどこよりも充分にまた強く呼吸できる。空気は清く心のよごれを洗い落す。そうして雲が晴れると、そこから人類を俯瞰できる」(高田博厚訳『ミケランジェロの生涯』岩波文庫)
 また、次のようにも綴った。
 「決して危難と苦悩とが、すぐれた魂の人々を立往生させたことはない。逆に、危難と苦悩とが、すぐれた魂たちをつくり出す」(片山敏彦訳「内面の旅路」、『ロマン・ロラン全集17』所収、みすず書房)
 思わぬ悩みや困難が、人間を鍛える。人生の風雨に鍛えられれば鍛えられるほど、大きく境涯を開き、悠々と歩んでいける。
 アメリカの人権の父キング博士は訴えた。
 「世界の最も影響力ある人物たちの中には、自分の茨を冠に変えた人々が多い」
 「力強く生きるということは常に、そのように自己の魂と自己の置かれた状況に打ち勝つことを含んでいるのである」(蓮見博昭訳『汝の敵を愛せよ』新教出版社)
 私の60年にわたる闘争を振り返っても、まったくその通りだと思う。
 フランスのド・ゴール将軍は、同志に訴えた。
 「成功はふたつの条件を満たさなければ得られないのです。
 すなわち、団結と確固たる態度とです」(村上光彦・山崎庸一郎訳『ドゴール大戦回顧録Ⅳ』みすず書房)
 また、私が対談集を発刊した、フランスの“行動する作家”アンドレ・マルロー氏は、『希望』と題した小説に記している。
 「戦闘の流儀がいくらでもあるはずはない。たった一つしかないのだ。それは勝利者となることだ」(小松清訳『世界文学全集41』河出書房新社)
 いかにすれば広布を進められるか。皆が勝利できるか。これが一切の焦点である。
17  「菩薩」とは人に希望を与える人
 “ウクライナのソクラテス”と謳われる哲学者スコヴォロダは語った。
 「幸福は、精神的な心の快活さの中にある」
 快活であること。それ自体が、人生において大きな力である。
 あのナイチンゲールの看護を受けた患者は、感謝を込めて、こう回想している。
 「意気消沈している者を元気づけるその力は、実にすばらしかった」
 「活き活きした楽しい話しぶりは、何とも言えず、心を引き立ててくれた」(中村妙子訳、エドワード・T・クック著『ナイティンゲール その生涯と思想I』時空出版)
 人に希望を与える人は、菩薩の働きをしているのである。
 イギリス・ロマン主義の文学者ハズリットは「希望は最良の財産である」と綴った(中川誠訳『ハズリット箴言集』彩流社)。
 その通りだ。この「希望」を、どのようにして友の心に広げていくか。それが、学会活動の挑戦である。
18  勝利のためには、何が必要か──。古代インドの政治家カウティリアは記している。
 「常に行動的で、災禍において自軍を敵から守れ。常に行動的で、敵たちの軍の弱点を攻撃せよ」(上村勝彦訳『実利論』岩波文庫)
 これは、あらゆる戦いの鉄則であろう。
 「まず、動く」ことだ。そこから、必ず勝利の道が開かれる。
 「敵を完全に降伏させるまでわれわれは戦うだろう」「すべての手段で戦うのだ。まずなによりも行動を起こせ!」
 これは、ドイツの劇作家ブレヒトの一節である(岩淵達治訳「ホラティ人とクリアティ人」、『ブレヒト戯曲全集第8巻』所収、未来社)。
19  勝利とは地道な努力の連続
 アフリカ・ガーナの初代大統領エンクルマは独立を勝ち取って、こう叫んだ。
 「われわれの闘いがまだ終っていないことを、われわれは忘れてはなりません。われわれはたんに新しい局面に移動しただけなのであります」(野間寛二郎訳『自由のための自由』理論社)
 あらゆる戦いを決する力は、執念である。
 “ひとまず戦いは終わった”というところから、実は、次の戦いが始まっている。
 イギリスの歴史学者トインビー博士は、こう記している。
 「創造的な人間が、ある事業を成就したのちにおちいりがちな受動的な錯誤は、昔大いに努力したから、『その後はずっとしあわせに暮す』資格があると夢想して、愚者の楽園で『漕ぐ手を休める』ことである」(桑原武夫・樋口謹一・橋本峰雄・多田道太郎訳『図説 歴史の研究Ⅰ』学習研究社)
 人間の心理を突いた一文である。
 大聖人は、御書に何度も仰せである。
 「然どもいまだこりず候」「日蓮一度もしりぞく心なし」「今に至るまで軍やむ事なし」「いよいよ・はりあげてせむべし
 攻めて攻めて攻め抜いて、押して押して押し切って、戦って戦って戦い抜いた時に、はじめて、栄光の旭日が昇る。勝利の旭光が輝く。
 大聖人は、そのことをだれよりもご存じであられた。
 先に紹介したロマン・ロランは、「水滴の執拗さがついには岩をも侵食するのです」と、友に書き送っている(山口三夫訳「シュテファン・ツヴァイクとの往復書簡」、『ロマン・ロラン全集38』所収、みすず書房)。
 勝利するといっても、地道な、たゆみない努力の連続である。
 「いよいよ」の心で、下半期も進んでまいりたい!
20  「欲望は偉大な存在に寄りかかる」
 ドイツの哲学者ショーペンハウアーの戒めに、こうある。
 「すべて偉大で美しいものは、それ自身のために存在するはずのものだが、いろいろな欲望のために食いものにされるのだ。
 その欲望は四方八方から寄ってきて、偉大なものに寄りかかり、それに足場を得ようとする。けっきょくそれを覆いかくし台なしにするのだ」(秋山英夫訳『ショーペンハウアー全集14』白水社)
 人類の希望であり宝である創価学会を、厳然と護り抜かねばならない。
 有名な「イソップ物語」には、次のような厳しい一言があった。
 「嘘つきはそれをあばくものがいない時には特に法螺を吹くものです」
 「邪悪はたといどのような親切を尽してやっても、善くなることのないものだ」(山本光雄訳『イソップ寓話集』岩波文庫)
 これが、人の世の常かも知れない。悪質な嘘や、邪な動きを許せば、つけこまれるだけである。それでは学会員が苦しみ、損をするだけだ。こんな愚かしいことはない。
 ロマン・ロランは、鋭く指摘している。
 「人は少しばかりの悪を防ぎ、少しばかりの善をすることを口実にして全体の卑怯さを許そうとします。このなまぬるい善良さは一番わるい悪徳です」(片山敏彦訳「時は来らん」、『ロマン・ロラン全集9』所収、みすず書房)
 本質を突いている。
 “生ぬるい”戦いは無意味なのではなく、かえって悪だというのである。
21  全員が大聖人直結の精神で
 仏法は勝負だ。大聖人は、厳然と仰せになられた。
 「念仏者たちにたぶらかされ、日蓮をうらみに思われたので、(ある有力な権力者は)その本人も、また一門も、皆、滅びてしまわれた」
 「両火房(=良観)を信じ用いられている人が、栄えているとお思いになりますか」(御書1093㌻、通解)
 仏意仏勅の創価学会に敵対した輩も、すべて、この御聖訓に違わぬ末路をたどっていることは、皆さま方が目の当たりにされてきたとおりだ。
 戸田先生は、大聖人の時代の厳しい現証についておっしゃっていた。
 「大聖人御在世において、大進房はじめ幾人かの愚かな大謗法の者が出た。しかし最後は、はかなく人生を終えている。二祖日興上人の時も、五老僧等の名聞名利を求める輩がいたが、正法正義の嫡流の団結によって、彼らは衰微している」
 弟子の団結で師の正義を証明する。これが、大聖人門下の誉れである。
 また、戸田先生は語られた。
 「『異体同心なれば万事を成ず』だよ。
 『異体』は、各自の境遇であり、自己の個性を最大に生かす生活だ。
 『同心』は、信心であり、広宣流布という目的への自覚だ。
 私をはじめ全員が、大聖人の御聖訓のままに進む。これが学会精神である」
 この精神で、学会は永遠に進もう!
22  大いなる祈りが大いなる行動に
 8月24日は、戸田先生と二人で、将来の新聞の構想を語り合った日でもある。
 それは、昭和25年(1950年)の8月24日。当時は、戸田先生の事業が最悪の苦境に立たされていた。戸田先生は、ともに新聞記者の取材を受けた後、言われた。
 「一つの新聞をもっているということは、実に、すごい力をもつことだ。学会も、いつか、なるべく早い時期に新聞をもたなければいけない。大作、考えておいてくれ!」
 聖教新聞の原点も「師弟」である。
 先生は、口ぐせのように言われていた。
 「私は聖教新聞を、日本中、世界中の人に読ませたい。それ自体が、仏縁を結ぶことになる。折伏に通じる」と。
 さらに力強い広布の機関紙として、果たすべき使命は大きい。
23  さらに戸田先生の指導を拝したい。
 先生は常々、「目にははっきりと見えないかもしれないが、功徳は必ずや生命から生命へと伝えられていくのだ」
 「亡くなった人には、題目を唱えて祈念する以外に何も通じないのだ」とおっしゃっていた。
 私たちの信心の功徳は、先祖代々、子孫末代にまで必ず及んでいく。そして、福徳薫る、一家和楽の実証を築くことができる。
 また、「願いのみして行をせぬ、といったような横着な信心では、けっして願いはかなわぬ」とも言われていた。
 信心の行動を起こしてこそ、祈りは叶う。大いなる祈りが、大いなる行動につながる。そして、大いなる結果を生むのである。
24  戸田先生の折々の指導は、いつも実質的であった。
 「しばらく呼吸を整えたら、次の目標へ前進前進。そのためには形式主義を一掃せよ。本当の仕事を重んじろ」
 形式にとらわれ始めると、組織も硬直する。常に心して、悪しき形式主義を破らねばならない。
 「頭があれば指揮は執れる。頭は、勝つために考えるものだ」とも言われていた。
 竹を割ったように単純明快で、要を得ている。
 リーダーは、とにかく頭を使わなければならない。頭を使うのは、タダである。使わなければ損である。
 広布には新しい熱と力が不可欠
25  青年を愛する戸田先生は、「人材は訓練しなければ人材とはならないのだよ」と言われた。
 また、「大聖人の弟子は師子王の子の如し。師子の子は、鍛えれば鍛えるほどたくましくなる」「広宣流布といっても、要は人材の城をつくることだ」とおっしゃっていた。
 中国の古典『管子』には、こうある。
 「一を植えて十の収穫があるのは木材、一を植えて百の収穫があるのは人材である」(諸橋轍次著『中国古典名言事典』講談社学術文庫)
 「地涌の人材」を見いだし、育成し、そして団結していく。これほどの大偉業はない。
 戸田先生の構想は、常に青年とともにあった。
 「広宣流布の大事業は、新しい時代に応じた、新しい熱と力が不可欠なのだ! それには、青年が立つことだ。青年の力を信ずることだ」
 私も、まったく同じ思いでいる。いつの時代も、青年の熱と力が、時代を変える。
 青年部の諸君に、近代ロシアの詩人マヤコフスキーの詩の一節を贈りたい。
 「はこべぬ重荷を/はこぶぼく。/投げ出したいけど、/いや、/投げ出さないぞ!」(小笠原豊樹訳『マヤコフスキイ詩集』彌生書房)
 人間は、真に責任を担い立ったとき、真に高貴となる。その時に、真実の底力が発揮される。
 戸田先生は、ある時に笑顔でおっしゃった。
 「戦いは、いよいよ、これからだよ。楽しく、また断固として一緒に、戦おうじゃないか!」
 この恩師の師子吼を、ともどもに胸に響かせながら、前進し、そして勝利してまいりたい。
 研修期間中、信越の同志の皆さんには、大変にお世話になりました。心から御礼申し上げます。
 結びに、「創価学会、万歳!」「わが偉大なる同志、万歳!」と申し上げて、記念のスピーチとします。皆さん、ありがとう!

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