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日蓮大聖人・池田大作

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東京・関東・東海道合同研修会  

2006.8.16 スピーチ(聖教新聞2006年下)

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2  世界を動かせ!
 かつて“関八州を制する者は、天下を制す”といわれた。
 今、時代は変わった。東京、関東、東海道を制する者は、世界を制す――その心意気で進んでいただきたい。新たな勝利は、この3方面にかかっている。
 日本の総人口は、今年、減少に転じた。そのなかにあって、東京、関東、東海道は、人口が増加中である。〈総務省の発表によれば、本年3月31日現在の全国人口は127,055,025人。1968年の調査開始以来、初めて、前の年より3,505人減少した。そのなかで、東京と山梨で約87,000人、埼玉、千葉、茨城、群馬、栃木で約21,000人、神奈川と静岡で約4万人、それぞれ人口が増加した〉
 この3方面の合計人口は、約4,570万人。これは、日本の総人口の約36%にあたる。この人口は、たとえば、カナダやアルゼンチン、スペイン、オーストラリアよりも多い。
 人口の都道府県別の“上位10傑”には、東京、関東、東海道の5都県が名を連ねる。〈人口の多い都道府県から、東京、神奈川、大阪、愛知、埼玉、千葉、北海道、兵庫、福岡、静岡の順になる〉
 人が集い、活気にあふれる。全国、さらには世界的にも、大きく注目される。
 そうした大きなエネルギーを秘めた天地が、東京であり、関東であり、東海道なのである。
3  本陣の使命
 日蓮大聖人が御聖誕され、世界広布の旭日が昇ったのは、「関東」である。〈1222年、千葉で御聖誕され、1253年に立宗宣言〉
 大聖人が大法戦を展開され、襲いかかる大難を越え、正義の勝利を打ち立てられたのは、「東海道」の天地である。〈1260年、鎌倉で「立正安国論」を提出され、翌1261年、伊豆に流罪。1271年、竜の口の法難。1279年、熱原の法難〉
 大聖人が「立正安国論」の最後の講義をされ、万年の令法久住を遺命されて、御入滅されたのは「東京」である。〈1282年、池上で御入滅〉
 そして、700年の時を経て、創価学会は「東京」で創立され、「関東」「東海道」で発展してきた。
 東京、関東、東海道には、全世界の広宣流布の大本陣たる宿縁があり、使命がある。私は期待している。
4  苦境を越えて
 戸田先生は、わが恩師である。世界一の師匠である。
 思えば55年前、昭和26年(1951年)7月11日の夜。男子部の結成式は、豪雨のなかであった。会場は、西神田の古い小さな本部。
 戸田先生、51歳。私が23歳の時である。
 先生は、開口一番、約180人の参加者を前に語られた。
 「きょう、ここに集まられた諸君のなかから、必ずや、次の創価学会会長が現れるであろう。必ずや、私は、このなかにおられることを信ずるのであります。その方に、私は深く最敬礼をしてお祝い申し上げたい」
 鮮烈であった。厳粛であった。師弟は不二である。
 忘恩の愚者は、それを軽く見、ばかにする。崇高な魂がわからない。
 戸田先生は、牧口先生とともに、軍国主義と戦い、牢獄に行かれた。私は、事業が失敗した戸田先生のもと、すべてをなげうって、先生を守り抜いた。
 あの剛毅な先生が「すまないな、すまないな」と言われていたことが、今も胸から離れない。
 先生は、膨大な借金を抱え、最大の窮地にあった。「戸田の野郎」「インチキ野郎」と罵倒し、去っていく者もいた。
 先生は、熟慮の結果、学会の理事長を辞任。男子部結成の1年前のことだった。私は、阿修羅のごとく戦い、活路を開いた。
 「先生、会長になってください! 準備は整いました!」
 そう申し上げたときの先生の喜び。
 「本当に、弟子というのは、ありがたい。こんなすごい弟子をもって、俺は本当に幸福だ」
 先生は、昭和26年の5月3日、ついに会長に就任された。師弟の道は、わが栄光の道である。
5  師の言のままに
 戸田先生は宣言された。
 「三代会長は、青年部に渡す」「譲る会長は一人でありますが、そのときに分裂があってはなりませんぞ。今の牧口門下が私を支えるように、三代会長を戸田門下が支えていきなさい」
 昭和27年の2月17日、第1回青年部研究発表会でのことである。
 私も出席した。当時、女子部だった妻は研究発表をしている。
 先生は、こうも叫ばれた。
 「私は広宣流布のために、身を捨てます。その屍が品川の沖に、また、どこにさらされようとも、三代会長を支えていくならば、絶対に広宣流布はできます」
 その言葉の通り、私は世界広布の道を開いた。
 190もの国と地域に、平和と文化のスクラムを広げた。皆さまが、ご存じの通りである。
 先生は常々、「偉大な第三代会長を全魂込めて守れ! 三代を中心に生き抜け! そうすれば、広宣流布は必ずできる」と語っておられた。これは多くの最高幹部が知っていることだ。
 あの厳格な、人をめったにほめない先生が、こう言い残された。
 私は先生の遺言のままに戦った。先生を世界に宣揚した。師の言を、現実にするか、どうか。これが峻厳なる分かれ道である。悪名を後世に残してはならない。
 〈ある人は、こう書き残している。
 「戸田先生の逝去の後、池田先生が第三代会長に就任されると確信していた。なぜなら、かつて市ケ谷の(学会の)分室に戸田先生に指導を受けに行ったところ、戸田先生はしみじみと『私の後は、私の一番かわいい、しかも目の中に入れても痛くない、私の大事な懐刀の大作がやってくれるから……』と話してくださったからだ」
 また昭和33年3月16日の戸田会長の話として、次のような証言がある。
 「戸田がいなくなっても、第三代会長になられる方は、すでに決まっている。第三代会長になられた方が、戸田亡き後、広宣流布のすべての指揮を執り、世界広布の教えを、すべて残してくださる。第三代会長の後は、だれが会長になっても、第三代会長の教え通りにやっていけば、世界広布は自然にできるようになっている。
 4代から先は、公平な方であれば、だれが会長になっても困らないように、第三代は仕上げてくれます。
 第三代会長の言う通りに実行していけば、世界広布は必ず実行できるのです」〉
6  昭和32年の7月12日、不当な権力に抗議する東京大会が行われた。
 戸田先生は命を振り絞るように師子吼された。
 「会長になった時から、この体は捨てるつもりでいるんだから何も怖くない」
 先生の胸中には、学会こそが、大聖人の御精神を継ぎ、その仰せのままに広宣流布をしてきた教団であるとの自負が燃えていた。この学会の信心以外に、大聖人の御心にかなう信心はない――この大確信と誇りを胸に、勇敢に前進してまいりたい。
7  広布の鑑と仰がれる人生を
 私のもとには、毎日、全国、全世界から、さまざまな報告や連絡、手紙が届く。
 先日、ある婦人部の方からいただいたお便りには、亡くなられたご主人の分まで広宣流布に邁進する決意が綴られていた。
 ――青春時代の原点を胸に、また、多くの励ましをいただきながら、夫は、使命の晴れ舞台で戦いました。私は、夫の遺志を受け継ぎ、さらに強く、明るく、地域広布に走り抜きます
 私は、ご一家の幸福を願い、合掌する思いで読んだ。お盆でもあり、妻とともに、懇ろに追善をさせていただいた。
 亡くなられたご主人はご家族をはじめ、多くの人々の心の中に生きている。広布の理想に徹した姿は、永遠に輝く。
 波瀾万丈を乗り越えて進む“勝利のお母さん”を、私は深く讃えたい。
 大難の嵐の中の昭和54年4月2日恩師の命日に私は書き留めた。
  「死身弘法 不惜身命
  此の心は
  学会精神のみにある」
 限りある人生、どうせ生きるならば、「あの人の生きたように!」と、後世の人に希望と勇気を送る人生でありたい。かの熱原の三烈士のごとく、広布の鑑と仰がれる一生でありたい。
8  学会が強い理由
 世界各地でSGI(創価学会インタナショナル)の運動が注目され、その卓越性が評価されている。そういう時代に入った。
 アメリカの著名な宗教ジャーナリストであるクラーク・ストランド氏も、創価の人間主義に期待する一人である。
 氏は、最近も、こう語っておられた。
 「創価学会の創立によって、仏教の本格的な国際化が始まった。私は、そう見ています」
 「SGIは、驚異的で、強力な組織を持っています。しかも、そこに属する会員は、個人が、高いレベルで自らの力を発揮しています」
 世界の識者は、正視眼で評価する。
 一人一人が自分らしく力を発揮し、幸福になっている。ゆえに、SGIは世界に広がり、強い組織になった。
 一人も残らず友を幸福に――ここにリーダーの責務がある。なかんずく最高幹部は、会員の幸福のために捨て身になって進んでいくことだ。
 さらに、ストランド氏は分析されている。
 「組織が人々を制限しすぎると、組織は発展しません。しかし、制限を取り払うと、組織は分解してしまいます。
 その点、創価学会は、絶妙なバランスを保持していると思います」
 「そのカギは、組織がコミュニケーションを大切にしていることにあるのではないでしょうか」
 「SGIには、『組織のための信仰』でなく、『個人のための信仰』の実践が貫かれています」
 だから、学会は伸びている。それが、いかに至難なことであるか。識者の目は鋭い。
 その難事を成し遂げる根本の力こそ、妙法である。信心の団結である。師弟の精神である。
 〈ストランド氏は、こうも述べている。
 「池田SGI会長の指導性の意義は、運動に制限を加えることなく、運動の発展を啓発しているところにあると思います。それには、並外れた能力が必要となります。
 一般に、宗教指導者は、自らの力を人々に与えながら、同時に、それを通して、人々を支配しようとします。
 SGI会長は、実に強力な組織を築き、信仰の体系を創り出されましたが、あくまでも、人々が自ら力を発揮できるよう、導かれています」
 「とくに、SGI会長は、対話を通して、コミュニケーションをはかられています。
 世界の宗教指導者のなかで、人々との対話を最大の仕事とされているのは、SGI会長をおいて他にはいないでしょう」
 「法が広まるには、力ある指導者の存在が不可欠です。創価学会の三代の会長の存在の意義も、そこにあります」〉
9  わが娘のように女子部を大事に
 きょうは、女子部の代表の皆さんも参加されている。〈名誉会長が紹介すると、女子部の友が立ち、「新しい勝利の突破口を開いてまいります!」と抱負を語った〉
 すごいことだ。ありがたいことだ。自分の娘だと思えば、その尊さがわかる。父親にとって、娘がどれほど大事か。本音を言えば、外に出したくない。
 余計なことはさせたくない。それが親心というものだ。
 しかし、皆さんは、人のため、法のため、自身の一生の幸福のために、日々、勇んで前進しておられる。
 それは、一家の幸福のためでもある。わが娘ならずとも、涙が出てくる思いだ。今、女子部が一番、伸びている。こんなうれしいことはない。
 男性の幹部は、女子部に対して、最大に感謝し讃えゆくことだ。お世辞やごまかしの言葉ではなく、真心こめた励ましを贈ることである。
 そして、徹底して女子部を守りたい。女子部の帰宅が遅くならないよう、こまやかな配慮も大事である。
 「いつも、本当にありがとう」「気をつけて帰ってください」など、心を配り、温かい声をかけていきたい。
10  男性は紳士たれ
 東海道の地で活耀した南条時光。彼の姪に、石河の兵衛入道の姫御前がいた。病気のために若くして亡くなったが、最後まで清らかな信心を貫き通した女性だった。
 女子部の大先輩とも言える姫御前の信心を、日蓮大聖人は次のように讃えておられる。
 「この女性(姫御前)は、自然のうちに、この義(=末法では、余経も法華経も無益であり、ただ南無妙法蓮華経のみが肝心であること)に適って、信心をやり遂げられたのである。尊いことである。尊いことである」(御書1546㌻、通解)
 女子部の純粋な信心。まっすぐな求道心。これが、どれほど尊貴であることか。もしも女子部を軽く見るような幹部がいたら、とんでもないことだ。
 思えば、戸田先生も、女子部を、とりわけ大切にされていた。どうか、壮年部や婦人部の皆さんは、女子部を自分の娘のように大事にしていただきたい。とくに男性は、紳士らしく、礼儀正しく、丁寧な言葉で、女性に接していくべきである。
 そして、女子部や婦人部を守り、代わりになって戦うくらいの責任感と闘魂をもつべきだと私は思う。
11  一人の人材から無限の勝利が!
 大聖人は、東海道の門下である四条金吾の夫人に対し、こう仰せになられた。
 「此の経を持つ女人は一切の女人に・すぎたるのみならず一切の男子に・こえたり
 また別の御書では「今日蓮等の類い・南無妙法蓮華経と唱え奉る者は男女・貴賤共に無上宝聚・不求自得の金言を持つ者なり」とも仰せである。
 日蓮大聖人の仏法は、男女平等である。
 これは、当時の社会状況を考えると、きわめて先駆的であり、偉大な人権思想でもある。健気に広布に進みゆく女性を最大限に尊重するのが、日蓮大聖人の仏法の根本精神である。そして、女性が最高に幸福になるのが、創価の世界である。
 ともあれ、女子部は、あまりにも大切だ。女子部の一人一人には洋々たる未来が広がっている。皆さんの使命は限りなく大きい。
 家庭にあっても、女性は要の存在である。結婚した場合には、夫、そして子どもたちに大きな影響を与えていく。
 その幸福の光は、地域へ、社会へ、そして未来へと、幾重にも大きく広がっていくのである。
 一人の女性を立派に育てていけば、幾百人、幾千人の勝利につながる。一人の人材を見つければ、一万人の勝利になるのである。女子部を増やそう。皆で女子部を応援しよう。
 女子部の皆さんは、聡明に、そして伸び伸びと、思う存分、活躍していただきたい。それこそが、創価の希望なのである。
12  皆が「楽しく」「「喜んで」勝利へ
 夏真っ盛りの「8月24日」が、私の入信記念日である。
 今年も、全世界の同志から祝賀していただいており、この場をお借りして、心から感謝し、御礼を申し上げたい。
 日本はじめ全世界の、毅然として広宣流布に前進しゆく、尊い健気な、わが同志の方々の「健康」と「幸福」と「勝利」を、心からご祈念させていただくのみである。
 今、うれしいことに、全同志の真剣な弘教によって、新しい「広宣流布」の拡大の波が広がっている。新しい「地涌の友」が続々と誕生している。
 日蓮大聖人は、有名な「諸法実相抄」に仰せになられた。
 「末法において妙法蓮華経の五字を弘める者に、男女の分け隔てはない。皆、地涌の菩薩の出現でなければ、唱えがたい題目なのである。
 初めは、日蓮一人が南無妙法蓮華経と唱えたが、二人、三人、百人と次第に唱え伝えたのである。未来もまた同じであろう。これこそ地涌の義ではないか。
 まして広宣流布の時は、日本中が一同に南無妙法蓮華経と唱えることは大地を的とするように確かなことである」(御書1360㌻、通解)
 この御聖訓を、厳然と証明しているのが、創価学会である。
13  入信の日の思い出
 私の入信の日昭和22年(1947年)の8月24日は、日曜日であった。大変に暑い一日であったと記憶している。
 当時は、入会の儀式の勤行が、今よりも、ゆっくりで、憤れていない長時間の正座で足が痛くて苦しかったことを思い出す。
 私は、戸田先生の人格を慕い、深遠な哲学性を求めて入会したが、宗教そのものには抵抗があった。父親は、私の入信に猛反対であった。父と私の間に入って、母は大変に苦しんだ。
 そうした私自身の体験に照らしても、新入会の方々の心境がよくわかる。
 その意味から、私は、入会当時の戸田先生の激励のご指導を、そのまま、伝えさせていただきたい。
 これも、私が若き日から記録し、留めていたものである。
 「これから長い人生である。どういう宿命が待ち構えているか知れない。いつ、どのようになるかもわからない。一生涯、悠々と人生を生きていける信念と哲学が、絶対に必要である」
 「今後、年老いて振り返った時に、どれだけ自分が有意義な人生を生きたか、価値ある人生を生きたかが大事である。
 とくに、死という問題に立ち至った場合、悠々と総仕上げを飾っていけるかどうか。その時に悔いるようなことがあっては、断じてならない。人生は、一瞬のうちに年をとってしまうものだ」
 「一切の人生航路、生命航路の現実は厳しい。それを打開していく根本こそが、この大聖人の仏法である。その仏法を、青年らしく、勉強し、実践してみなさい」
 この師匠の指導の通りに、約60年間、私は、大仏法を実践してきた。先生が教えてくださった通り、最高に有意義な、最大に価値ある人生を生き抜いてくることができた。
 新入会の皆さんにとっても、入会の原点の日が、10年先、20年先に、どれほど重要な人生の記念日となっていくことか。
 そのことを、どうか、晴れ晴れと確信し、良き先輩とともに、良き同志とともに、そして、私とともに、前進していっていただきたい。
14  戦争を起こさせてはならない!
 私はこれまで世界を舞台に、平和のため、人類の未来のために「対話」を重ねてきた。10年前、キューバを訪れ、カストロ議長と会見したことも懐かしい。
 また、アメリカの国務長官を務めたキッシンジャー博士とも、ニューヨークなどで何度も語り合った。冷戦時代、ソ連と中国が対立している時にソ連を訪れ、コスイギン首相と率直に意見を交わしたことも忘れられない。
 私は、「ソ連は中国を攻めない」との首相の言葉を、中国の首脳に伝えた。絶対に戦争を起こさせてはならない――これが私の思いであった。
 また日本でも、世界の識者や各界のリーダーと縦横に語り合った。すべて未来を見すえての行動であった。
 こうして蒔かれた平和と友情の種は、今、世界の各地で大きく花開いている。誠実の行動に勝るものはない。勇気の対話で破れない壁はない。
 どうか、このことを忘れないでいただきたい。
15  「難こそチャンス うれしいと思え」
 人生は、戦いがあるから、おもしろい。
 戸田先生は、関東の同志に呼びかけられた。
 「僣聖増上慢が出ると、私もうれしいと思うが、皆さんもうれしいと思ってもらいたい。その時こそ、仏になれる時だ。最高の名誉をもって、敢然と戦おうではないか!」
 また、こうも言われた。
 「権威で飾り立てた、最も卑しく、ずる賢き、仏法で説く第三の強敵・僣聖増上慢を、決然と迎え撃ちたいのだ」
 大難こそ、仏になるチャンスである。
 仏の生命は、敢然と難と戦ってこそ、そして勝ってこそ、わが身に輝きわたるのである。
 静岡で、戸田先生は教えてくださった。
 「政治、経済、教育、文化、それら各種のものの根底に、真の仏法がなくてはならぬと断ずる。真の仏法を根底において、その活動を育成し、助長して、国家を救い、民衆を幸福のなかに暮らさせんとするものである」
 たとえば政治も、「政治のための政治」ではだめだ。理想や理念がなくなれば、苦しめられるのは庶民である。
 根底に「慈悲の精神」「生命尊厳の哲学」を打ち立てなければ、民衆の不幸は止まらない。
 逝去の直前、戸田先生は静岡の地で叫ばれた。
 「邪悪とは、断固、戦え! 一歩も退いてはならんぞ。追撃の手をゆるめるな!」
 悪に対して容赦してはならない。言論の剣で、責めて責め抜くのだ。倒すまで戦うのだ。
16  「心こそ大切」である。
 どういう心、どういう一念で戦っているか。最後は、信心があるかどうかが、厳しく問われていく。
 日蓮大聖人は、東海道で勇敢な信心を貫いた南条時光に仰せである。
 「日蓮の弟子たちのなかで、法門をよく知っているかのような人たちが、かえって間違いを犯しているようである」(御書1546㌻、通解)
 大聖人の時代も、学識があるとされていた弟子のなかに、かえって邪義に染まっていく人間がいた。尊大ぶって師を教訓し、批判し、後には反逆していく輩もいた。
 創価学会も、こうした「師子身中の虫」と徹して戦った。善悪を明快に叫んできた。だから発展したのである。
17  スピードで勝て
 世界の哲人の言葉には、仏法に通じる智慧が光っている。
 それらは、仏法を深く知り、心広々と展開していくための「序分」「流通分」であるとも言えよう。
 戸田先生は、いつも私に、文学や歴史をはじめ、社会万般のさまざまなことを教えてくださった。
 先生にお供して移動する際も、飛行機の中でも、車の中でも、あらゆるところが「戸田大学」の校舎となった。
 戸田先生は、中国の孫子の兵法についても語っておられた。
 先生は、漢文を好んで引かれた。さまざまな書物を、よく白文(=句読点や訓点のない漢文)で読んでおられた。
 『孫子』には、こう綴られている。
 「戦闘に巧みな人は、その敵を攻撃する時の勢いははげしく、その攻撃する適切な時機は瞬時である」(天野鎮雄釈『孫子・呉子』明治書院)
 時を逃さぬスピードと力。これは、あらゆる戦いの原則である。学会も、これをやってきたから勝った。
 また、『孫子』には、こうある。
 「まず手柄を立てた兵士を表彰することを忘れてはならない」
 「勝ってますます強くなるというのは、このことである」(村山孚訳『孫子・呉子』徳間書店)
 功績を立てた人を、リーダーが顕彰する。皆で讃え合う。そうした組織は、生き生きと伸びていく。
18  勝利は創るもの
 さらに、『孫子』には記されている。
 「勝利は積極的につくることができる」(前掲・天野釈)
 安閑としていては、勝利は得られない。
 「ふざけ」や「遊び」は敗北の因である。
 戦いは、まず自分自身が「必ず勝つ」と決めることだ。祈ることだ。動くことだ。
 そして皆が「楽しく」「喜んで」進むところに勝利はある。
 勢いある前進をしていくことだ。
19  「報告が戦いだ」
 戸田先生は、よく言われた。
 「報告が戦いだ。その代わり、インチキな報告をしたら許さない」
 正確な情報。迅速な情報。急所をつかむ情報。これが勝負を分ける。
 私が先生に「情報自体が間違っていることもありますが」と申し上げると、「そうだな。しかし“におい”をかぐことができる。それで真実がわかることもある」と言われていた。
 私は、友のため、広布のために、あらゆる情報を集めた。
 大事な情報は、先生にすぐ報告した。先生はよく「いい情報」「いい意見だな」とほめてくださった。
 これまで私は、同志が安心して前進し、勝利していけるよう、日々、人知れず、ありとあらゆる手を打ってきた。
 皆、広宣流布の「将の将」であるならば、全身全霊を捧げて、何か価値ある手を、建設的な手を打つことだ。
 立場ではない。責任感さえあれば、智慧はいくらでもわくものだ。
 平和の大道を開き、正義を広げるために、痛快なる勝利の歴史を綴りたい。学会魂を燃やして!
20  きょうも、戸田先生の指導を通して、少々、お話をしたい。
 皆さんのおかげで、創価学会は、未曾有の大発展を遂げている。だからこそ、油断できない。油断すると、悪い人間が必ず出てくる。これだけは絶対に許してはならない。
 民衆の尊き労苦で築かれた、偉大なる希望と幸福の城を、断じて荒らされてなるものか。人の善意につけこむ悪党――そこにひそむのは「権力の魔性」である。
21  戸田先生「極悪を責めて責め抜け」
 戸田先生は、権力をもつ者には、それはそれは厳しかった。
 「極悪を世に知らしめて、責めて責めて責め抜け! 最後まで! これが、正法を行ずる者の使命であり役目である」
 忘れ得ぬ指導である。急所は全部、先生から教わった。
 「大作が聞いていれば、全部、実現されるだろう」。そう先生はわかっておられた。絶対の弟子として信頼してくださった。
 これまでも、同志の真心を踏みにじる、卑劣な反逆の人間が出た。とんでもないことだ。
 民衆が主人なのだ。権力者は“僕”だ。なのに威張って、ふんぞり返っている。今、民衆が覚醒しなかったら大変だ。
 極悪に対して、黙っていたら、こちらまで悪になってしまう。手厳しく、声をあげるのだ。意気地なしであってはならない。ずるい人間であってはならない。
 今こそ、新しい学会をつくる時である。
22   きびきびと闊達に
 新しい発想、新しい協議が大事である。
 戸田先生は「事態の推移とともに、新しい部門が生まれる。これは、きびきびして明朗闊達、学会が生きている証拠だ」と言われていた。
 きびきびと手を打ち、悠然と戦い、勝つ。それが学会の伝統である。
 だらだらと、手をこまねいていて、勝てるわけがない。
 また、大事な会議で、準備がいいかげんだと、戸田先生から容赦なく叱られたものだ。
 すべて戦いである。勝つための会議である。
 一事が万事で、リーダーが後手になれば、結局、魔に食い破られる。戦わない人間が上に立てば、皆が迷惑する。
 学会のため、広布のために、なすべきことは、断じてなすのだ。
23   隅々まで堅塁に
 戸田先生は、仕事や生活上のことも、よく指導された。
 「職業をよくよく大事にして、あらゆる思索を重ねて、成功するよう努力すべきである」
 「自分の勤めに、楽しみと研究とを持ち、自分の持ち場をがっちりと守る覚悟の生活が大事である」
 多くの人生経験をもった先生の言葉は、深い説得力があった。信心の大確信が輝いていた。
 戸田先生は断言された。
 「仏法に一番忠実であることが、世法の上でも最も強い」
 広宣流布に忠実に生き抜く人が、人生でも、社会でも、間違いなく勝っていく。
 私が言うのではない。恩師の指導である。それにのっとるのが、一番正しい。
24  創価学会の組織を隅々にいたるまで堅塁に――これが戸田先生の決心であられた。
 「隅々まで」である。どこか一部ではない。
 さらに、戸田先生は、こう綴っておられる。
 「人の休んだり、遊んだりする時間を、自分は仏様の為に使ったら、これこそ末法適時の修行じゃないか。ここに功徳あり」と。
 広宣流布のため、皆の幸せのために尽くして、功徳が出ないわけがない。
25   その人にあった活躍の舞台を
 一人一人を見て、どこで戦うべきか、どうしたら力を発揮できるかを考える。これもまた、戸田先生から学んだ将軍学である。
 先生は言われた。
 「どんな立派な人間でも、短所がある。また、どんな癖のある人間でも、長所がある。そこを活かしてあげれば、みな、人材として活躍できるのだ。人を見て、その人にあった働き場所を考えることがホシだ」
 一流の事業家でもあった先生は、「人材は金には替えられない」と、よく言われた。
 用事を託す場合でも、だれを行かせるかまで深く考慮し、細かく指示されていた。
 たとえば銀行ならば、男性に行かせるよりも、感じの良い女性に行かせたほうが、銀行側の対応も早い場台がある――こう教えておられた。実際、その通りであった。
 また、折伏も、こわい顔をした男性が行けば、「けんかしにきたのか」となるかもしれない。
 しかし、品のいいお嬢さんが語れば、「学会は嫌いだが、あなたは素晴らしい」と一変する。そういう例が、いくつもある。
 これだけをとっても、女子部がどれだけ偉大かがわかる。
 何より日蓮大聖人が、女性の門下に数多くの御書を贈られている。女性を大事にされた一つの証左とも拝せよう。
26  私は19歳から、全てが戸田先生からの訓練の日々であった。10年間、朝から晩までお仕えした。先生は、哲学をはじめ、あらゆる学問を打ち込んでくださった。これが師弟である。
 先生が、「俺が死んでも、大作がいるから心配ない。学会は必ず大きくなる」と言われたこともあった。
 先生の人を見る目は、鋭かった。
 「人を使うということは、非常に重大なことである。人というものは、使う場所を間違うと、一軍の大敗をまねく」と言われた。
 「いかなる場合にも、人物を適材適所におくということが、非常に大切である。
 頭のズサンな者を要職にしたら、とんでもないことになる」
 そう警鐘を鳴らされた。
 多様な「人材」と「人材」を、どう的確に結びつけ、最大限の力を出させていくか。
 それは指導者の一念と、適材適所の配置いかんである戸田先生が指導者論として、常に厳しく教えられたことである。
27  相手をよく知れ
 戸田先生は、「外交」を重視された。
 「学会の正義を、世間にどう認識させるかが勝負である。外交戦がますます重要になるぞ」
 そう言われ、自ら先頭を切って実践された。
 戸田先生が語り合った識者に、徳川夢声氏がいる。〈1894〜1971年。放送芸能家。映画やテレビでも活躍した〉
 話芸の達人と言われた夢声氏だが、対談に臨む姿勢は真摯であった。
 戸田先生は言われた。
 「徳川夢声は、対談する場合、やはり相手の著作を読んで、相手を知ってから対談するという」
 「人と会う場合、その事前に、相手の著書を読んで、その相手のもつ考え、思想を知ってから会うようにすることが必要である」
 当然のことであるが、大事な基本である。
 先生は、こうも教えられた。
 「相手の地位よりも低い紹介者の名刺をもっていくのは、愚かだ」
 「人を訪問するときには、良い服を着て行け」
 緻密な先生であった。人の心をつかむ、名指導者であられた。
28  誰とでも、渡りあえる人になれ
 戸田先生は、だれと会っても、王者のごとく厳然としておられた。
 こう言われていた。
 「どんな人とも、真っ向から、わたりあえる人間になれ!」
 「どんな立場の人に会っても、学会の正義を堂々と語れ!」
 これをだれより実行しているのは、婦人部であろう。
 高い学歴のない一婦人が、大学の教員を見事に折伏した。戸田先生は「偉い、偉い!」と最大に讃えておられた、
 私は青年時代から、どんどん外に打って出て、対話を重ねてきた。日本や世界の指導者とも、戸田先生の弟子として、誇りも高く語り合った。
 閉ざされた青年であってはならない。内外を問わずどんどん人と会い、人と対話せよ! 人の心をつかみ、味方をつくれ! すべてが自分自身の訓練となり、財産となる――これが先生の青年への励ましであった。
29  皆が喜び勇んで「必ず勝ちます」
 戸田先生は訴えておられた。
 「創価学会は、どこまでも『師弟の心』を合致させて、永遠に『広宣流布の勝利』を成し遂げていくのだ!」
 これまでも語ってきたが、昭和31年(1956年)の「大阪の戦い」で、私は師匠である戸田先生の心をわが心として指揮を執り、「絶対に勝てない」といわれた戦いに勝った。
 新聞が「“まさか”が実現」と報ずるほど、大阪中が驚くような勝利を収めた。〈7月に行われた参議院・大阪地方区の選挙で、圧倒的に不利だった学会推薦の候補者が当選を果たした〉
 また、大阪支部として1カ月に11,111世帯の弘教という金字塔も打ち立てた。
 当時、私は28歳。社会的な地位などない青年である。お金もない。自分の車もなかった。
 当時の関西本部もまた、古くて粗末な建物だった。人が建物の中を動くたびに、「ミシッ」「ミシッ」と音がして揺れ動く。活気にあふれた本部は、まるで軍艦のようであった。
 この関西本部を拠点として、私は大阪の地を駆けめぐった。大変なところに飛び込み、友を励まし続けた。皆、喜び勇んで、「私もやります!」「必ず勝ちますよ!」と戦列に加わった。
 そして、不可能を可能とする大勝利の結果をもぎとったのである。
 皆が負けると思っていた大阪が勝った。しかし、勝てると考えていた東京が敗北を喫した。そこには幹部の傲りがあり、油断があった。
 東京に戻った私に対して、戸田先生が「よくやったな。大阪が勝って助かったよ」と、うれしそうな顔で言われたことが忘れられない。
30  不敗の原点
 その翌年の4月、大阪で参議院の補欠選挙が行われることになり、私は急きょ、再び大阪で指揮を執ることになった。
 十分な準備時間のない短期決戦であった。また、1議席を争う選挙であり、前年にも増して厳しい戦いであった。
 私は、闘争に次ぐ闘争で疲れ切っていた。
 東京などから多くの幹部が応援に来たが、遊んでばかりで、真剣に戦おうとしない人間もいた。
 また、あろうことか一部の人間が悪質な買収事件を起こしてしまった。
 結局、戦いは敗北で終わった。痛恨の極みであった。
 そして、この事件をきっかけに、7月、私は公職選挙法違反の容疑で不当逮捕されたのである。
 お前が容疑を認めなければ学会本部を手入れする。戸田を逮捕するそう言って私は恫喝された。
 体の衰弱しつつある戸田先生が入獄するようなことになれば、命にもかかわる。それだけは絶対に避けねばならない。
 私は先生をお守りするために、いったんは検事の言葉に従い、あとは法廷闘争で無実の罪を晴らそうと決めた。苦渋の決断であった。
 後に、裁判で私の無罪判決が下り、身の潔白は証明された。裁判長は公正であった。厳然と真実を見抜いたのである。
 常勝不敗――これがリーダーの使命だ。戦いは、断じて負けてはならない。
31  弟子の闘争が師弟を永遠に
 「大阪の戦い」の前年、昭和30年(1955年)4月の統一地方選挙は、学会の支援活動の初陣であった。
 この時、私は東京の大田区(都議選)と、横浜市の鶴見区(市議選)の両方で、支援の責任者として指揮を執った。
 結果は、どちらも最高点で当選した。
 戸田先生も、「大作はすごいな」と感嘆しておられた。
 「大作は、宝の中の宝だ。最高の誇りだ」
 そう言って私を信頼し、大切にしてくださった。
 師匠のために戦う。それが弟子である。
 私は戸田先生が亡くなられた後も、先生の偉大さを世界に宣揚してきた。先生の名を、全世界に知らしめてきた。
 弟子の闘争によってこそ、師匠の偉大さは後世に残されていくのだ。
32  信心の団結を!
 戸田先生は厳しく言われた。
 「信心の団結で三代の会長を守りながら、前進勝利していけ!」
 大切なのは信心の団結だ。「師弟の精神」を守り抜くことだ。
 忘れてはならない、永遠の指針である。
 また、ルネサンスの巨人レオナルド・ダ・ヴィンチは述べている。
 「城主は、彼の重臣や従者たちに用心するために、最大の注意と最高の配慮をしなければならぬ。なぜならば、彼らこそ彼を裏切るのにきわめて好都合なのだから」(久保尋二著『宮廷人レオナルド・ダ・ヴィンチ』平凡社)
 「内部の者の方が、外にいる敵よりも危害を加えるのに有利な立場にいる」(同)
 これまでも、学会の幹部の中から、大恩ある同志を裏切り、反逆していった不知恩の輩がいた。
 ロシアの文豪ドストエフスキーも「多くの場合味方こそ第一の敵になるものです」(小沼文彦訳『ドストエフスキー全集第17巻』筑摩書房)と綴っている。
 さらに、古代ローマの哲学者ポエティウスは、「どんな悪疫(=悪性の流行病)が友人面をした敵より有害でしょうか」とまで述べているのである(渡辺義雄訳「哲学の慰め」、『世界古典文学全集26』所収、筑摩書房)。
 広宣流布の和合僧団である学会を、絶対に破壊されてはならない。敵の本質を鋭く見破っていくことだ。
33  将の将たれ!
 戸田先生は、青年に限りない期待を寄せていた。
 心の老人になってはならない。みずみずしく、生き生きと語るのだ。
 実績もないのに、偉ぶってはだめだ。一兵卒として、一番大変なところで勝利をつかむのだ。
 戸田先生は叫ばれた。
 「学会の青年のたくましさ、これを吹き込まなければ、今の青年層を本当に救うことはできない」
 隆々たる学会青年部の前進が、どれほど社会全体の希望となるか。
 どうか、正義の青年部は、がっちりと団結して進んでいただきたい。
 全員が、「広宣流布の将の将」である。舞台は世界だ。力ある真の弟子が、続々と出てこなければならない。
 青年ならば、最激戦地へ飛び込み、あえて苦労を求めて、富士のごとき自分を、堂々と鍛え上げていただきたい。

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