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日蓮大聖人・池田大作

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元旦初勤行(本部行事) ”如説修行”こそ真の学会精神

1974.1.1 「池田大作講演集」第6巻

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1  明けましておめでとうございます。本年も、どうぞよろしくお願いいたします。(大拍手)創価学会創立四十五年目を迎えるにあたり、ひとことごあいさつ申し上げます。
 皆さまご承知のごとく、本年は戦後最大の深刻な経済情勢下にあって、新年を迎えたわけであります。こういう試練と変化の時代に対処する私どもの心構えについては、おりにふれ申し上げてきたとおりでありますが、本日、年頭にあたりまして、新たなる確認のうえから、ひとこと申し上げさせていただきます。
 「減劫御書」には「大悪は大善の来るべき瑞相なり、一閻浮提うちみだすならば閻浮提内広令流布はよも疑い候はじ」との仰せがございます。
 これは、日蓮大聖人ご在世当時の社会情勢が正嘉の大地震、文永の大彗星、北条一門の同士討ち、そして蒙古襲来等、今日とは比較にならぬ最悪の事態となったとき、大聖人が「決して悲観すべきではない。むしろ、こういう時代こそ仏法の広宣流布という大善が到来するのである」との激励を賜っているのであります。
 いま創価学会は「生命の尊厳」を旗印として、同じく御本仏日蓮大聖人の仏法の広宣流布と、真実の平和社会建設を、日夜にわたって推し進めておりますが、本年こそ前途にいかなる障壁があろうとも「大悪は大善の来るべき瑞相なり」との御文を、色心ともに確信して、スタートをきりたいと思うのであります。
 「生命の尊厳」に関して、日蓮大聖人は「聖愚問答抄」において、次のように述べられております。
 「世は百年の内外うちとの程を思へば夢の中の夢なり、非想の八万歳未だ無常を免れず忉利とうりの一千年も猶退没たいもつの風に破らる、いわんや人間・閻浮の習は露よりも・あやうく芭蕉ばしょうよりも・もろく泡沫ほうまつよりもあだなり、水中に宿る月のあるか・なきかの如く草葉にをく露のをくれ・さきだつ身なり、若し此の道理を得ば後世を一大事とせよ」と破されているのであります。
 すなわち、人生の最大課題は、この「生死の問題」である。そして、それを「この仏法の実践によって確固と見通しなさい」「生死の問題については絶対に迷わないという確信をもった人生でありなさい」というご指南であります。
 まことに、この「生死の問題」に確固とした信念をもつならば、これはすばらしいものになるにちがいない。逆に、根無し草のように、名聞名利におぼれてしまって、いつまでも人生の「一大事」に目が開けなかったならば、百年たらずの今世は、アッというまに過ぎ去って、暗い後悔につつまれた老後しか残らなくなってしまうでしょう。
 どうか、人生の根本問題は、この自己の生命問題の解決にあるのだという一点の会得のために、今年も自ら勇んで、仏道修行にしっかりと励んでいっていただきたいのであります。(大拍手)
 そのためには“如説修行”ということが肝心であります。「如説修行抄」は有名な御書でありますから、何度も拝読していることと思いますが、日蓮大聖人が佐渡ご流罪三年目の五月に、弟子檀那全体へ教訓なされた御書であり、その末文にわざわざ別書として「 此の書御身を離さず常に御覧有る可く」と仰せられているのであります。
 この別書に対して日寛上人は「如説修行抄筆記」でこう述べておられる。
 「一 此の書御身を離さず常に御覧有る可く候。啓蒙、健抄の意は縦ひ常に此の書を頸にかけ懐中したりとも、此の書の意を忘れて折伏修行せざれば、離さずに非ず云云。私に云く、常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わずんば、心が謗法に同ずる也。口に折伏を言わずんば、口が謗法に同ずる也。手に数珠を持ちて本尊に向かわざれば、身が謗法に同ずる也。故に法華本門の本尊を念じ、本門寿量の本尊に向ひ、口に法華本門寿量文底下種事の一念三千南無妙法蓮華経と唱る時は、身口意三業に折伏を行ずる者也。是れ則身口意三業に法華を信ずる人也云云」
 これは、私ども信仰者にとって、夢にも忘れてはならない根本の精神なのであります。そして、これは今日の創価学会の学会精神なのであります。わが学会が、その創立以来、日蓮大聖人のご聖訓をば、勇猛にして純粋に、今日にいたるまで実践してきたという事実は、まさしく如説修行であると、私は確信するのであります。
 学会活動に挺身している姿は、即真実の如説修行なのであります。ゆえに、私どもこそ、真に正信の勇者であり、諸天善神の冥々の加護を頂戴し、一人ひとりが現に人生のうえに、そして生活のうえに、その証拠を示しているわけであります。
 現在、創価学会は広く文化活動、社会活動の面へ進展して“世間法”とのかかわりあいを深く密にしていっておりますから、入信まもない人、または幹部として惰性に陥っている人は、ややもすれば、根本のこの精神が薄らいでいる例もありますが、根底における学会精神は、過去も現在も未来も少しも変わってはならないのであります。また、変わっていないのであります。
 私は、広宣流布の第二章を本格的に担って立つべき“本格派”たるべき皆さまには、この「如説修行」という一点をあえて強調しておくしだいであります。
 新年早々より、難しい話になりましたが、皆さま方の「常楽我浄」のご多幸を心よりお祈り申し上げまして、本日のあいさつにかえさせていただきます。(大拍手)

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