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日蓮大聖人・池田大作

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第1回品川区幹部総会 人間信頼の復興へ前駆

1973.11.23 「池田大作講演集」第6巻

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1  品川区の同志の皆さん方には、大変ごぶさたをしてしまいしまた。きょうは元気いっぱんの第一回幹部総会、ほんとうにおめでとうございます。(大拍手)
 もうすぐ、せわしい年の暮れがやってきますが、ひじょうにお元気にお過ごしのお姿を拝見しまして、これ以上の喜びはありません。なにしろ今年は、経済的にあきれるほど激動が続いておりますので、どうか万事注意深く、堅実をむねとして、しっかり御本尊に祈りきって、この悪い時勢を乗り越えていただきたいというのが、まず私のお願いであります。
 この品川区や隣の大田区などは、商店や工場を自営しておられる同志の方々がずいぶんと多い。いまのような時代には、経営の苦労はまことに大変なものであろう――このようにいつも心配しております。どうか、インフレの激動に足元をすくわれないように、むしろ、こういうときこそ信心の功徳というものを、見事に、堂々と示しきっていただきたい。このことが私の祈りであります。
 いままでのインフレーションというものは、世界金融からの関係で、つまり世界の先進諸国のインフレがわが国へ影響してくるところの、いわゆる“輸入インフレ”という性格が強かった。ところが、最近ではそれに加えて、物の不足という、需要に対する供給の絶対量が不足して、それが原因で起きる悪性のインフレになってきているわけであります。
 石油、砂糖、木材、紙、非鉄金属等、原料不足というものが、インフレーションに加速度をつけている。まことにやっかいなことであります。こうした、いわゆる仏法に説く“三災”や“総罰”的な時代には、正法の信徒といえども、それにまきこまれることはやむをえない。したがって、腰を据えて、肚を決めて、対処していかなければなりません。どうか、そういう意味からも、いよいよ強盛な唱題に励んで、立派に“難”に打ち勝っていってください。(拍手)それが、来年を「社会の年」とした意義でもあるわけであります。
2  八幡大菩薩の働き
 原材料や生活資糧が足りないというこれらの現象を、政治や経済の次元から離れて、仏法のうえから奥深くみた場合にどうなのであろうかということを、きょうはともどもに考えてみたい。
 それは諫暁八幡抄(御書全集576㌻)に明確に説かれているのであります。その諫暁八幡抄のことについて「富士宗学要集」の第一巻に「本尊三度相伝」という個所がありまして、そのなかに「八幡大菩薩」のことについて説かれている。
 それによると「八幡大菩薩の躰即法華経なり、其の故は八とは法華八軸なり……」と。「八幡大菩薩」というと、神社のなかに祭られているように思う人がいるかもしれませんが、本来、仏法からみた「八幡大菩薩」の定義は、それとはぜんぜん違う。というのは「八幡大菩薩」の「八」というは、法華経八巻を意味する。すなわち「八幡大菩薩」は、法華経の法理につながるというのであります。
 それから「八幡」の「幡」については「幡とはは巾是れ則衣裳の類なり」とあります。つまり、は巾といって衣裳をあらわしています。「衣裳の類」とあるのは、衣裳というもののなかには、普遍的にさまざまなものが含まれるからであります。
 また「作りは米と云ふ字を上に書き下に田と云ふ字を書く是れ則米穀の類なり、左れば衣食二つ併ら八幡の恩徳なり……」と。ごぞんじのように“作り”というのは、字を形作っている右側のほうですが、これは「ノ(の)」を書いて「米」と書くというのであります。そして、その下に「田」と書く。したがって「番」というのは米穀をあらわすというのであります。つまり、私どもの生活のいちばん大切な需要物、生産物という意味になるでありましょう。
 それゆえ「左れば衣食二つ併ら八幡の恩徳なり」となるわけであります。「衣食」というのは、人間の生活を支える最重要のものであります。したがって「八幡」とは、生活の資糧を提供する“天界の働き”をさし、その法界の“機能”――それが「八幡大菩薩」と命名され、私どもが拝している御本尊のなかにも、厳然としたためられております。
3  正直と不正直
 そこで諫暁八幡抄には「八幡の御誓願に云く「正直の人の頂を以て栖と為し、諂曲てんごくの人の心を以てやどらず」等云云……正直に二あり一には世間の正直……二には出世の正直……本地は不妄語の経の釈迦仏・迹には不妄語の八幡大菩薩なり……今日本国の一切衆生は八幡をたのみ奉るやうにもてなし釈迦仏をすて奉るは影をうやまつて体をあなづり子に向いて親をるがごとし」とあります。
 日蓮大聖人は、七百年前の世相をふまえて、当時のありさまを、御書のなかで以上のように指摘しておられるわけでありますが、世相の底を流れている精神のあり方、状態というものは、七百年前の昔も、いまも同じなのであります。「世間の正直」という点についてみましても、いまの政治が、ほんとうに国民の大多数へ奉仕していく「正直さ」をもっているか――どうもそのようにはみえない。いな、少数支配者側の要求にだけは正直に応えるが、庶民一般へは政治的ポーズだけを示して、真剣に正直に対処してくれてはいないようであります。
 海外での経済援助や活動までが、だんだんと反日感情の悪化を招き「結局、利益優先主義で相手国を利用している日本の経済侵略である」と、各国の国民からいわれていることなどは、相手国への「不正直さ」が露呈したものであるとみられるのであります。
 では「出世の正直」のほうはどうか――。この点については、過日の愛県幹部総会でも少しばからり触れておきましたまが、現代は現世主義に陥り、正しい生命観、すなわち“三世の生命”“永遠の生命”を説く仏法を、まったく無視しようとする風潮が強い。
 それにともない、いくら仏教書ブームといわれても、せんずるところは根本の“主師親”である久遠元初の五本仏を無視していることになるわけで、残念ながら「出世間」についても「不正直」になっているわけであります。結局、私どものこの社会は、さまざまな努力が積み重ねられているにもかかわらず、その努力の根底をなす精神面においては、すでに「不正直」というきわめて不幸な実情になってしまっているのであります。
 よくいわれることでありますが、“この世の中で自分以外に信用できるものは何もない”という疎外感や虚無的な不信感が生まれるのも、元はいえば、いま述べましたように「不正直さ」が反映した一つであろうと、私は思うのであります。
 人間社会においては「正直さ」と「信頼関係」とは、表裏をなしている。したがって「不正直」と「不信関係」も、また同じことがいえるわけであります。そういう世相になれば「八幡大菩薩は宝殿を焼いて天に昇ってしまい、社会を恵み守護してくれることがなくなる」と、日蓮大聖人は申されております。昨今の物の不足、悪性インフレ等は、仏法の眼からみれば、その一つの現証のように思われます。
4  丈夫の心で困難に挑戦
 ところで諌暁八幡抄においては「若ししからば此の大菩薩は宝殿をやきて天にのぼり給うとも法華経の行者・日本国に有るならば其の所に栖み給うべし」とも述べておられるのであります。してみれば、私ども正法流布に進みゆく学会員が真剣に活動するところには「八幡大菩薩」はその働き、利生を示してくれるというのであります。
 いま、わが国全体としては経済活動の曲がり角に立っており、相対的な反省と構造改善の設計のし直しを迫られているわけでありますが、「社会の年」と銘打った来年の活動が成功するならば“八幡の利生”が大きく再びわが社会にとり戻せるのではないかと、私はひそかに念じているわけであります。
 御義口伝(普賢経五箇の大事)には次のように述べられております。第五「正法治国不邪枉人民の事」に「御義口伝に云く末法の正法とは南無妙法蓮華経なり、此の五字は一切衆生をたぼらかさぬ秘法なり、正法を天下一同に信仰せば此の国安穏ならむ、されば玄義に云く「若し此の法に依れば即ち天下泰平」と、此の法とは法華経なり法華経を信仰せば天下安全たらむ事疑有る可からざるなり」とございます。
 ともかく、依正不二の事の一念三千の妙法だけが、一切衆生をたぼらかさぬ「正直の秘法」であるとの断言であります。物質的な生産第一主義が陥った「不正直さ」を是正して、社会が健全な進み方を取り戻し、天下安全という世相になるには、結局、大法を流布するしかない。しかも、このことは、一般に理解されてない。となれば、その法理を知る私どもが、忍耐強く、きょうも、あすも、来年も、また生涯にわたって啓蒙にあたる以外になくなってくるのであります。
 ゆえに、どうか来年も勇気をもって、大変ご苦労ばかりおかけしますけれども、私とともに、大きく前進していっていただきたいことを、心からお希い申し上げます。(大拍手)
 こういう荒々しい世相のときには、人間の弱点が表面に出てきて、どうしても利己主義に走ったり、虚栄がむき出しになりがちになるものであります。
 ある心理学の本にも、こう出ておりました。それは「胃が痛いときには、この痛みに注意を奪われて、他人のことを考える余裕がない。一種の利己主義に陥る。同時に、精神的原因によって、他人のことを考えられなくなっている者がある。それは、社会的な不適応者である。社会に適応している者は、自然に他人の幸福を考える」というのであります。また、同じ本に「美を好むことが虚栄心なのではない。華やかな服を着たいと思うのが、虚栄心ではない。他人の目をごまかそうとするところに虚栄心がある」ともあります。
 ともあれ、現在の過密型の大都会、急進的な工業化社会の大都市というものは、人間にとってもことに息苦しい環境である。都会と田舎と比較してみると、長所や短所はそれぞれありますが、息苦しさや人間性の足りなさという点からいえば、大都会はまったく条件が悪い。人間精神を傷つける条件がまったく多過ぎる。
 その傷ついた精神からは、心理学が指摘しているように、利己主義や虚栄が発生しやすいのであります。したがって、そういう客観状況のなかで広宣流布を推進し、内外に対話を進めていくのは、じつは容易でない。その点、東京の皆さん方は日本中でいちばん困難な地域を担当して、戦っているともいえるかもしれません。
 つまり、いちばん便利な地域である半面、いちばん困難な地域――それが、皆さん方の法戦の庭である。しかも、東京は全国の活動をつねにリードしていくべき立場にある。また、責任もある。これに思いをいたすとき、私は“東京の幹部はほんとうに大変だな”と思っております。
 しかしまた、宗祖、御開山、日目上人のご苦労、そして牧口、戸田両恩師のご苦労を拝するならば、私ども東京の幹部の苦労も、まだものの数ではありません。「浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり」との原理を体するならば、困難を担って立つということは、仏道修行者の最大の名誉なのであります。
 皆さん方は、どうかこのような高い見地に立ち、悠々たる心境で、この現実の大東京の地域のなかで、再びおおいなる人間革命の道を、そして福運豊かな生活の設計を、更にはその見事なる開花、勝利をばみせていただきたいというのが、私の最大の願望であります。
5  学会は“生命対生命”の世界
 さきほど「八幡大菩薩」の話のなかて、正直さと信頼関係のことを申し上げましたが、所詮、人生はずる賢く立ちまわったり、小利口に泳ぎまわった人が幸せになるのではありません。
 よしんば、そういうようにこの世を生きて、名聞名利の拡大に成功したとしても、それは決して幸せとはいえない。むしろ、貴重な人生というものを、台無しにしているのであります。人間革命を土台とした成功でなれば、その人生というものは、泡沫のようなものであるからであります。
 イギリス文壇の元老といわれたフォースターという人が、こういっている。「この人生を台無しにすまいと思えば、我々は人々を愛し、彼等を信頼するほかはない。だからして、人が人を失望させないこと、これが何よりも大切なことである。だが、事実は、しばしば失望が与えられる。私の自戒はせめて私一人だけでも、出来る限り信頼にあたいしようということだ」と。
 与えていった場合には、二乗界の人でも正直を心がけた人は、こういう心境に達すると申し上げたい。また、学会の組織活動の立場から、これを考えてみた場合、学会の組織というものは、政治組織では絶対にない。また、企業、会社の組織体のような「事務的関係の世界」でもありません。いうなれば「生命対生命の関係の世界」「人格的関係の世界」であります。ゆえに、お互いに役職で対話をせずに、人間同士の信頼関係にもとづいて対話をし、仲良く助けあっていただきたいというのが、私のお願いであります。
 指導とか対話においても、とにかく相手の立場を尊重し、相手の考えを理解できないと、心の交流は成立しません。人というものは、それぞれ経てきた経験が違うと、発想の仕方、推理の仕方が違ってまいります。
 たとえば、私どもでありますと「氷は水からできるものだ」と思っております。これは、私どもの経験が、そうであったために、そう思うわけであります。ところが、北極に近いところで生活しているエスキモーは「水は氷からできるものだ」と思っているそうであります。彼らの日常経験は、そうなっているからでありましょう。
 してみれば、人の意見というものは、自分とまったく逆であっても、一概に否定はできないものだということがわかるのであります。
 東京の人の指導のむずかしさが、ここにある。地方の田舎ですと、どちらかというと、同じ経験の人ばかりが集まっており、概して地方人同士はお互いの気持ちがよくわかる。ところが東京は、北海道から沖縄までの幅広い地域の人たちが、大勢集まっているところであり、そのうえ職業までがじつに多種多様であります。
 したがって、自分とまったく正反対な考え方をもつ人さえもいて、しかも、それが決して誤りではない場合が、十分あるということであります。ゆえに、相手をよく理解することと、信頼関係によって対話をすることが、東京ほど必要な地域はないのであります。どうか、品川の同志の皆さん、広く、あたたかい人間関係によって、皆さん方のこの愛する地域を、賢明にリードしてくださるようお願いします。(大拍手)
 きょうは話の最初に、最近のインフレがくる“人生苦”を申し上げましたが、よく考えてみると、この世は娑婆世界、なすわち“堪忍の世界”であり、人生はもともと苦労の連続といえるかもしれません。よって苦労に即して楽しみを開拓していく以外にないのであります。“苦しく”と“喜び”との総トータルが人生である。そして“苦しみ”のほうが多かったか、“喜び”のほうが多かったか――ということで、最後の人生が決まるような気がしてならない。「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」と仰せの、この信心を貫き通す以外に、喜びをもっての総トータルの人生の決着はないのではないか――こう私は申し上げておきたい。
 ともかく、大御本尊には“苦しみ”というものを切り開いて“喜び”すなわた菩提、涅槃を体得できる絶対的な力用があるわけであります。あとは皆さんがた一人ひとりが、しかと、それを体得していっていただきたいのであります。
 何度も申し上げますけれども、この荒れ狂うインフレの波濤を、どうか皆さん方は乗りきっていってほしい。また、長い将来においても、なにが出てこようとも、題目で悠々と一切の難を乗りきって、喜びの最後の花を飾ってください。更に全国会員の手本となっていただきたい。そして、その功徳を子孫末代まで、栄えさせていけるよう、心からお祈りいたしまして、私の話を終わります。(大拍手)

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