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日蓮大聖人・池田大作

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第1回徳島県幹部総会 広布に生き抜く人こそ”時代の宝”

1973.11.13 「池田大作講演集」第6巻

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1  徳島の幹部の皆さん、ほんとうにしばらくでございました。(大拍手)十年近くもおじゃますることができませんでした。私は徳島の皆さん方がかわいそうでならなかった。また申しわけない気持ちでいっぱいであります。
 しかし、そういうなかにおいても、こうしてお会いし、元気なお姿を拝見して、なによりもうれしく思っております。(大拍手)
 一昨日よりいよいよ教学試験が始まりました。上級試験に取り組まれた方々は、大変であったでしょう。ご苦労さまと申し上げます。
 私もその日は、同志の皆さんと受験の苦楽をともにしようという気持ちで、愛媛の県幹部総会において、教学を中心として、お話をさせていただきました。皆さん方も、これからの試験についても、自分自身の人間革命への節として、思うぞんぶんに取り組んでいってください。
2  教学の採点について
 私は試験のたびごとに、いつもこういうことを思うのであります。それは、試験のあとの採点についての感想であります。試験のあとの採点作業というものは、多くの幹部の方々は、毎回担当してご承知のことと存じますが、実に大変なことなのであります。一人で膨大な量を、誇りなく消化していかなければならない。採点して、その集計を終えるまでには、夜中になる場合もふつうであります。採点者も疲れてへとへとになっている。私は、かわいそうだな、とよく心配しておりました。ですから、受験者だけが、つらい思いをしているのではないということも、知っていただきたいのであります。
 また、今度は採点者に対して、ひとこと申し上げておきたいのでありますが、採点しながら「うーん、これはよくできている」とか「これはてんでだめだ」などとつぶやきながら、赤ペンや赤エンピツを走らせている人が、たまに見かけられます。そういう人は、たいてい若い人のようです。そうした光景を見ると、私はちょっと悲しくなる。「まだまだ思慮が足りないな」と感じるのであります。“解答”というものは、内容ができていようとだめであろうと、受験した当人が苦労して勉強会にも参加し、受験会場ではいうにいわれぬ複雑な気持ちで、必死に二時間を過ごしたところの尊い結晶であります。信心の努力の結晶といってよい。
 一般のご婦人、一般の壮年の方々であれば、寒い時節でもあり、家で寝ておれば、それですむ。そのなかを、真剣に教学に取り組んだ方々であります。これほど尊いことはない。それを、当人が目の前にいないからといって、“できている”とか“だめだ”とかいうように、簡単に、気軽にきめつけられては、かわいそうと思うのであります。
 もしも、解答したご本人が目の前にいて、採点の様子をハラハラしながら、じっと見ているとしたならば、どうでしょうか。見られている採点者は、今度はおそらく、できていても、できていなくても、なんにもいわないで、気を引き締めて採点するにちがいない。こういうところを“人生の機微”というのであります。こういうところに、人間性の問題があるわけであります。
 ことは、教学試験だけではない。日常の私どもの身の回りを振り返ってみると、こうした微妙な綾というものが、たくさんあります。家庭でも、会社でも、学会活動でも、いろいろな場面にあるであろうと思います。
 なにも、私は神経質になりなさいということは申しません。そういう必要はありませんが、どうか徳島の皆さん方は、いまの話を一つの参考としていただいて、大きく人生というものをみてください。人間味豊かにみていってください。
3  「昭和の上野殿に」
 話は少々変わりますが、教学の試験、教学の採点は簡単にできますけれども、信心というものは、そう簡単に採点はできません。ですから、試験の結果で一喜一憂しなくて結構なのです。
 信心は、だれがほんとうに純真なのか、だれがほんとうに強信なのか――わかりにくい。あえて採点するとしたならば、二十年後、三十年後、または五十年後となる。総合的な実証でみるしかない。そういうつもりで、忍耐強く、長く長く信心して、人生の最高の合格者になっていただきたいというのが、私の願望なのであります。(大拍手)
 なにとぞ、こうした人生、信心の基本路線のうえに立って、きょうお集まりの皆さん方は、一人残らず、お幸せになりますよう、私は心の底から祈ってやまないものでございます。
 弘安二年(一二七九年)の正月に、身延における日蓮大聖人ところへ、上野殿が御供養をお届け申し上げたときの御返事の御書があります。
 「夫れ海辺には木をたからとし山中には塩を財とす、旱颰かんばつには水を財とし闇中には灯を財とし・女人は夫を財とし夫は女人を命とし・王は民を親とし民は食を天とす……友にあらずばたれか問うべきと心ぼそくて過し候処に・元三の内に十字むしもち九十枚・満月の如し、心中もあきらかに生死のやみもはれぬべし、あはれなり・あはれなり」という内容であります。
 大聖人はなにも、九十枚、山芋五十本という御供養の品物を喜んでくださっているわけではないでしょう。いろいろと出費過剰で、自分自身も耐乏生活をしている上野殿が、いつも変わらず、季節の変わりめごとに御供養をささげてくる、その志を喜んでくださっているのであります。この“いつも変わらぬ”というところが、信心の表れといってよい。
 これを現代におきかえてみれば、私どもは折伏弘教という根源の法供養をしていますから、それ自体、日蓮大聖人への最高の御供養をしているわけであります。
 さて、だいたい人の心というものは、変わりやすいものであります。「女心と秋の空」とか、また最近では「男心と秋の空」などともいわれるように、これは昔から世間でも認めているとおりであります。したがって、信心というものも、ややもすれば変わりやすいともいえる。だが、受難の連続のなかにありながら、上野殿はそ志がいつも変わらない。不変である。だからこそ、大聖人から「上野賢人殿」とまでおほめいただいているのであります。
 徳島の方々からも、まだ四国全体の方々からも、この第二章の新時代にあたっては、立派な「昭和の上野殿」として、大聖人よりおほめいただく方々が、たくさん出ていただきたいと思うのであります。いわゆる“揺るぎなき”“たゆまざる”“水のごとき”信心を、堂々と貫いていっていただきたい。(大拍手)
4  “時代の宝”とは
 この御書では“財(宝)”の例を引いておられます。「王は民を親とし」ともあります。七百年前に、はっきりと、民主主義の原理を示されておられる。ともかく、人にとっての“宝”とは、状況に応じて相対的に決まるものだ、ということが示されています。
 なんだか最近は、石油やチリ紙までが宝へ昇格してきたようでありますが、(笑い)それはさておきまして、広く見渡した場合、いまはいったい何がもっとも大切な宝なのであろうか――。現代は、世界的に「人間性喪失の時」であり「生きがいを失っている時」であり「哲学・思想の混迷をきたしている時」でありますゆえに、その第一の宝は「人間性」であり「希望」であり「生命力」であり「人間が信頼するに足りる仏法哲学」である。これら以外にないのであります。
 第二、第三というランクを設けていったならば、それはいろいろと数えあげることができましょうが、宝の第一にあげるべきものは、いま申し上げた以外にはない。どうか、皆さん方はこのことを強く確信して「希望」と「生命力」と、そしてまた「人間性」とを発現できるこの「仏法哲学」を、しっかり受持しきっていっていただきたいのであります。(大拍手)
 更に、この“宝”の原理をもう一歩立ち入って考えてみるならば、この世において、また世界、日本、徳島において、何が宝であるかと申せば、それは、所詮皆さん方一人ひとりが、このうえない宝であり、最高の宝であるというのであります。万人が信じ難い妙法を世に先んじてたもち、万人が行じ難い広宣流布の大業に率先して身を挺し、苦難に耐えて戦っておられる皆さん方こそ“この世の宝”であり、“時代の宝”であります。
 どうか、この事実に思いを深くし、自覚を新たにして、自分の生涯を、なによりも大切にしていっていただきたいのであります。
 「持妙法華問答抄」にいわく「つらつら世間を見るに法をば貴しと申せども其の人をば万人是をにくむ汝能く能く法の源に迷へりいかにと云うに一切の草木は地より出生せり、是を以て思うに一切の仏法も又人によりて弘まるべし之に依つて天台は仏世すら猶人を以て法を顕はす」と。
 さまざまに拝せましょうが、ともかく“法”が大切だというけれども、その“法”というものを宣揚顕現していくのは“人”である。人間しかないというのです。
 次下には「末代いづくんぞ法は貴けれども人は賤しと云はんや、とこそ釈して御坐候へ。されば持たるる法だに第一ならば、持つ人随って第一なるべし」とあります。
 しかし、ここでもう一歩、角度を変えて申し上げておきたい。御金言にもありますように“総・別”をたがえて混同してはなりません。この意義からして“別”しては、当然、日蓮大聖人御一人の尊貴を記しておられる御書とも拝せますが、いま私どものこの世界――すなわち化儀の流通の範囲にかぎって“総”の立場でみるならば“第一の法”たる大御本尊の流布に励む皆さん方もまた、世間における“第一の人”である、という御聖訓なのであります。つまり、私どもこそ“時代の宝”であるとの大聖人のご指南であります。
 しかし、そう申しましても、早合点して、深い自覚もないまま、今晩家に帰って、いまの話を聞いたからといって、すぐに「おーい“時代の宝”が帰ってきたぞ」といっていくようであるならば、(笑い)これは落語になってしまうわけであります。いわゆる、“慢心”は禁物である。胸中の使命と自覚の問題である、と私は申し上げておきたいのであります。
 すなわち、仏法の“法”の原理のうえからしても、もったいなくも、大聖人より“時代の宝”として認めていただいた以上、宝の宝たる値打ちを出さなければならぬ、ということであります。幹部になって事故を起こしたり、会員に迷惑をかけたり、世間に迷惑をかけたりするようでは、もはや宝ではありません。それは学会利用であり、信心利用であり、役職利用であります。
 宝は光るものであり、貴重なものであります。人間味が光り、もって生まれた長所が輝き、職場でも地域社会でも、貴重な人材となり、世のため人のため法のために、一生のうちには、なにがしかみるべき成果を、この世に残していただきたいということであります。“本有無作の生命のしるし”を、この世にしるしていただき
 たい、ということであります。
5  創造は個人が原点
 所詮、新しきものの建設や開拓というものは、小さくとも大きくとも、全面的に個人の力に負うものであります。あくまでも、個人が原点である。集団というものは、それを応用し、実用化していくことしかできません。
 昔から、新しい真理や法則というものの発見は、すべて、ただ一人の個人に負うております。当然それは、数多くの人々の努力の結晶とか、伝統とか、構築というものの歴史的背景はあると思いますが、背景は背景としましても、たとえば、万有引力の法則は、ニュートン一人の発見であった。相対性原理は、かのアインシュタイン一人の発見であります。皆が寄ってたかって、つくりあげたものではない。
 仏法もまた、同じであります。三世の諸仏の共同研究で、釈迦仏法ができたのではない。諸仏という内証、妙法蓮華経という内証の一致というものは、知っていたとはいえ、三千年の昔においては、釈尊一人の仕事であった。大聖人もまた同じである。また、有名な「六巻抄」にしても、宗務院の共同研究の成果ではない。日寛上人ただ一人のご著作であります。
 このように、新しきなんらかの創造というものは、つねに個人の手によっている。皆さん方も「これだけ大勢いるからだれかがなんとかやる」というのでは、自分自身の“本有無作の当体の生命の輝き”にはならない。自分というものをどうするかが問題です。組織は手段といってよい。あくまでも自分が原点である。そこに仏道修行の、また人間の最高の生きがいの本質というものがあると、ご了承願いたいのです。
 そして今度は、個人を原点にしたものの実用、拡大の仕事は、社会という集団が行うのであります。こういうわけでありますから、どのようなささやかなことでもいい、なにかしら社会に新創造といえるものを、皆さんが残してくだされば、やがて、それがこの世を潤し、利益し、したがって、皆さん方が、“この世の宝”であった証拠になるわけであります。こうした意味で、以上の話を申し上げましたので、よろしくご理解くだされば幸いであります。
6  阿波の国土
 次に皆さん方の故郷であるこの阿波の国は、古くから、京阪神の地に密接に結びついていたといわれます。というのは、四国は山脈で四つに分断されている地形なので、隣の香川や高知との交流は少なく、海を通じて近畿に結びついてしまい、現在もまったくそのとおりだとのことでした。これから、本土と鳴門の間に橋が架かれば、この特徴は一層深まるかもしれません。
 ある本によりますと、このように書いてあります。
 「日本の中央幹線交通路から遠く離れていることが、人ずれのしないのんびりした人情味豊かな阿波人をはぐくんだともいえる。四国では『讃岐男に阿波女』のことばがある。いずれも、働き者の象徴としていわれたものである。阿波人は質素であり、倹約だともいわれる。その一つが、貯金額の高さであり、貯金王国ともいわれている」(要旨=日本の文化地理)と。
 これは、私がいうのではありません。本に、このように書いてあるのです。(笑い)
 これからは、日本、世界という広い分野へ眼が開け、交流も激しくなってまいりますので、県民性も、どうしても工業化とともにしだいしだいに変わっていくことでありましょう。しかし、そのなかにあっても、底流として“阿波人”のよき伝統、徳島の方々の特質は、どうか子孫末代にまで、伝えていっていただきたいと思います。
 鳴門から阿南にかけての工業地帯の発展の陰には、山村地帯での過疎化問題が深刻化しているともうかがいました。特にこの二、三年、国全体が激動期へ入って、今年の悪性インフレは、驚くばかりであります。こういう時代になればなるほど、皆さん方は、互いに仲良くしてほしい。文句などいい合っても、だれもなんの得もしません。自分の福運を消すだけです。悪い人、皆に迷惑をかける人がいれば、その人は放っておけばいいのです。
 ともかく仲良く、そして励まし合い、信心という尊い人間性の連帯をしっかり固めて、題目の力で、いかなる問題も堂々と乗りきっていく――こういう決心で進んでいただきたいのであります。(拍手)
7  出藍の誉れ高く
 明治まで、この徳島では、藍と塩とタバコが三大産物といわれていたようでありますが、そうでしょうか(そうです)。藍といえば「出藍の誉れ」という有名な言葉があります。これは、荀子の勧額にある「君子曰く、学は以て已むべからず。青はこれを藍に取りて、藍よりも青し。氷は水これを為して、水よりも寒し」との古代中国の教えが出典であり、大聖人は「上野殿後家尼御返事」に、これを引用して信心を教えられております。
 すなわち「法華経の法門をきくにつけて・なをなを信心をはげむを・まことの道心者とは申すなり、天台云く「従藍而青」云云、此の釈の心はあいは葉のときよりも・なをむれば・いよいよあをし、法華経はあいのごとし修行のふかきは・いよいよあをきがごとし」と仰せであります。
 私どもは“大事の法門”をうかがうことによって、智者、学匠になろうというのではありません。仏法哲学を勉強する目的は、なお一層信心を増して人間革命をなし、人にも勧め、広宣流布を通じて、地球全体へ日蓮大聖人のこの功徳を、及ぼそうということだけであります。
 徳島の皆さん方も、いまの御書のとおりに「末法地涌の勇者」として、今後ますます出藍の誉れ高からんことを、心から祈ってやみません。本日は、夜の会合でありましたので、遠くからおいでの方々は、帰りが大変であろうと思います。どうか十分に注意してお帰りください。
 そして、全県下の皆さん方に対しましては、私が「くれぐれもご健康とご多幸を祈っております」と申していたということを、お伝えいただければ幸甚であります。
 最後に会合運営の任にあった方々に、厚く厚く御礼を申し上げまして、私の話とさせていただきます。ご苦労さまでございました。(大拍手)

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