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日蓮大聖人・池田大作

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第1回愛媛県幹部総会 人間生死の究極は仏法に帰着

1973.11.11 「池田大作講演集」第6巻

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1  皆さん、大変にしばらくでございました。(大拍手)お元気そうなお姿を拝見して、これ以上の喜びはございません。
 きょうは、全国で教学の試験が開始されていますが、日程の都合上、この愛媛県だけは幹部総会にさせていただきました。よろしくご了承ください。
 なお、教学試験のことにつきましては、すでに関東の女子部総会、そしてまた、栃木県の幹部総会等でも申し上げておりますので、それらを参考にして、力いっぱい臨んでいただければ幸いであります。ともかく、皆さん方の一歩成長のために、この試験を成功に導いていただきたいことも念願いたします。
2  大厄のりこえる信心
 さて太田左衛門尉御返事のなかに、次のような仰せがございます。
 「結句は身命よりも此の経を大事と思食す事・不思議が中の不思議なり、是れはひとえに今の事に非ず過去の宿縁開発かいほつせるにこそ・かくは思食すらめ有り難し有り難し……我等衆生の無始已来・六道生死の浪に沈没せしが今教主釈尊の所説の法華経に値い奉る事は乃往過去に此の寿量品の久遠実成の一念三千を聴聞せし故なり、有り難き法門なり」と。
 私は、この御文を拝しまして、思うこと多いのでありますが、きょうはその一端を申し上げてみたいと思います。と申しましても、厳しい、やかましい講義を申し上げようというのではありませんから、どうか気軽に、ゆったりした気分で、リラックスして聞いてください。(笑い)
 この御書をいただいた太田乗明という方は現在の千葉県に在住した武士であり、ずいぶん若い時から入信していた、いわば日蓮大聖人門下のなかでも、幹部級の人であったといえます。この人は、日蓮大聖人と同じ年齢であります。
 その太田殿が、弘安元年(一二七八年)の四月、身延におられた日蓮大聖人のもとへ御供養をささげ、そのときに、手紙でこのようにいってきたのであります。つまり「今年は五十七歳になりましたので、大厄の年かと思います。どういうわけか、正月末から四月のいままで、身心ともに苦労ばかり続いております。もとより、生身の人間でありますから、必ず身にも心にも諸病が連続して、苦労があることは承知しておりますが、今回は、特にきついようです」というのであります。
 その訴えに対して賜ったのが、この御書であります。
 大聖人は「それは気の毒なことである。しかし、十二因縁という法門であって、その意は我らの身はもろもろの苦を集めて、成り立っているものである。つまり、先世に業をつくったがゆえに、もろもろの苦を受け、先世に集めた煩悩が、いまの苦を招き集めているのである。ともあれ、厄の年の災難を払う秘法というものは、法華経に勝るものはないと確信して、がんばっていくように。『当年の大厄をば、日蓮にまかせたまえ』御本尊に任せていきなさい」と励ましておられます。
 この愛知県下におかれても、多くの会員の方々のなかには、あるいは病気、経済問題、家庭問題、その他さまざまの苦労をなされている方も、なかにはおられると思います。それらの方々には、どうか、皆さん方からこの御書の趣旨をお話ししていただいて、励ましていただきたいことを、お願いしたいのであります。
 さて、最初に拝読した御文は、この手紙のなかでの仰せでありまして、もっとも肝心な部分なのであります。皆さんすでにお気づきのことと思いますが、このなかで大事なことを二つ述べておられます。
 その一つは、太田殿は、大御本尊を自分の生命よりも大切にしたということであります。厄を払うのも、艱難を突破するのも、この条件が満たされてこそ可能なのでありまして、であればこそ、私どもも「なにかあったら題目」というように、朗々たる唱題中心の人生でいけばよいという結論なのであります。
 つねに申し上げておりますように、いかなる難局に直面しても「題目の力は絶対である」という確信をもって、強く、強く生きぬいていってください。
3  “なぜ”を解答する仏法
 御文の大事な第二点は“三世の生命の実在”ということを前提として「過去世にこの法門をうかがったからこそ、またこの世で大御本尊を受持することができたのです」と述べられておられるところであります。
 私も、皆さん方も、縁があっていっしょに大御本尊を持っております。いうならば“御本仏の一族”といえましょうか。現代的には“創価家族”とも申しましょうか。思えば、まったく不思議な縁という以外にはない。
 “なぜ”こうなったのであろう。これはいくら考えても、合理主義の路線からは答えは出てきそうもない。といっても、なにも合理主義を軽していっているのではありませんから、誤解しないでください。(笑い)では、別な角度から、その答えはないだろうか。少し学問的になりますが、かの反省の方法である弁証法や、主観中心の哲学といわれる実存主義の路線からはどうでしょうか。やはり、これからも先の答えは出てこないでしょう。では、科学的に観察して、把握した現象をとらえる帰納法を用いたらできるか。やはり、これもできそうもない。してみれば、学問上の一切の手段を尽くしても、いまだ答えは出せないのであります。それにもかかわらず、なぜ、この不思議な縁ができてしまったのであろうか――という問いだけは厳然として残るのであります。
 このことばかりではありません。じつは人生万般について、同じようなことがいえるのであります。どうしてこの夫と、また、この妻といっしょになったのであろうか。どうして自分はこのような宿命をもって、このような家に生まれたのであろうか。自分はどうしてアメリカ人として、あるいはまた、フランス人として生まれたのか。アフリカ人として生まれたのか。なぜ、公害のひどい日本に、昭和の現代に生まれたのであろうか――等々。これら実社会の現実については“なぜ”という“問い”だけが厳然と存在して、それに対する“答え”は、現在も将来も、どのように、もろもろの学問が発達しようとも、簡単に答えの出せる次元のものではないのであります。
 では“なぜ”と、問うこと自体が無意味なのか。あるいは、問うてはならないことを問うているのか――。決してそうではありません。それどころか、もっとも切実で、もっとも必要で、もっとも有意義な問いなのであります。
 しかし、答えはだれも出してくれない。それにもかかわらず、その解答が、あらゆる人があらゆる手段を講じて問いただしてみても不可能となったら、もはや日蓮大聖人の仏法に解答を求める以外にはないではありませんか。
 今世紀の天才とまでいわれた、オーストリア生まれで、ケンブリッジ大学の教授であった哲学者ヴィットゲンシュタインという人はこういっております。「世界がいかにあるか、存在するかが、神秘なのではない。世界があるという、その事実が神秘なのだ」と訴えていた。同様に“仏法家族”“創価家族”が、このように厳然としてあることが最大の神秘であり、皆さんがた一人ひとりがいま生きていること、そして毎日、当面するありとあらゆる問題の一つひとつが、神秘であり、不思議なのであります。
 そして“なぜ、そうなのであろう”という問いに対する解答は、もはや、日蓮大聖人の仏法に求めるしかなくなっている。日蓮大聖人の仏法が絶対であるというのは、この点においてなのであります。ですから、どんなに世間的に偉い大権力者等々が仏法と学会を批判し、非難しようとも、論をもってするかぎりは、ことごとく的外れであり、なんの効力ももちえないのであります。これから、広宣流布の第二章の序幕にあたって、どうか愛媛の皆さん方は、この一点を確信して、いかなる批判が出てこようとも、決して紛動されることなく、恐れずに、堂々と“師子の信心”を貫いて、一生成仏の大道を進んでいっていただきたいことを、お願いするものであります。(大拍手)
 ただし、原理である仏法という“法”への批判ではなく、私どもの“行動”に対する意見であった場合には、それを無視してはなりません。私どもは凡夫でありますから、間違う場合も多々あるでありましょう。もとより広宣流布という目的、動機に誤りがあるはずはございませんが、行動、推進の手続きのなかでは、誤る場合がなきにしもあらずであります。
 それらについては批判は、聞くべきは聞き、直すべきは直していくのが「正義の賢者」のとるべき態度であります。“世間を尊重する”“社会を大切にする”というのも、こういうところに、その理由があるのであります。
 広宣流布という社会改良の積極面だけが、仏道修行ではありません。忍辱の力をもって、世間の声を聞き、善処していくことも、決して忘れてはならないと思うのであります。
4  三世の生命の実在
 さて、この太田左衛門尉御返事に関連して、更にもう一点申し上げておきたいことがあります。それは大聖人が“三世の生命の実在”を大前提として、ご指導されているということであります。ですから、もしも三世の生命というものは、ほんとうは実在しないんだ、ということが立証されたならば、すべてはご破算になってしまうのです。では、三世の生命なるものは、実在するのか、しないのか、どちらがほんとうか、ということになってまいります。戸田先生が、よくおっしゃっておられました。「三世の生命、永遠の生命といっても、だれも見たものはいないのだ」と。
 現代は唯物論等の影響で現世主義がはやり、生命の三世連続を信じようとしない精神風土になってきております。また、科学主義の影響で、客観的に、かつ感覚的に確認できるもの以外は信じられない、という心理傾向が強くなっております。感覚で、または客観的に確認できるものを信ずるのは大変結構なのでありますが、その奥深くにまで突き進んでいかず、それだけにとどまり、それ以外のものは信じられないという態度は、はたして正しいかどうか――私は、断じて“いな”と申し上げざるをえない。
 きょうは、試験範囲に生命論が一部入っている関係上、皆さん方の勉強の参考までにひとこと申し上げておきますが、いったい、人間は、自分の“誕生と死”とを、自覚的に経験できるものでありましょうか。「何時何分何秒、ただいま、自分は死んだ」と、死を自分の人生経験として味わった人は、皆無であろうと思う。誕生についても同じであります。それは、私どもが眠りそのものを自覚できないのと同じことなのであります。
 では、他人の生死を外から観察してみた場合はどうでしょうか。だれかが亡くなったとする。それを見てわかることは、肉体が活動能力をまったく失っているということ、およびその精神も外部へ働きかけてくる能力を失っているということだけであります。そして、これが大事な点でありますが、死の刹において、その人個人の内的感覚というものが、外界の宇宙に対して、なんらかの関係性と働きかけをもっているのか、いないのか――。また受胎の瞬間に、すでに精神能力を備えているのか、いないのか――。これらの問題は、いかなる手段をもってしても、判定できることではありません。
 以上を総括していうならば“創価家族”の例と同様に“生およびその前”“死およびその後”に対しては、観察も思考も、科学も論理も、一切明快なる解答をもっていないということであります。したがって、現在流行の現世主義というものは、なんの発言権ももたずして“主張”のみしているということが、わかるのであります。もちろん、だからといって、私は、科学、論理、その他の分野を、いささかたりとも軽しているわけではありません。むしろ、尊重すればするほど、どうしてもその究極は、仏法に帰着せざるをえなくなってしまうのであります。
 要するに、一切の学問、および人間の感覚的自覚能力というものは、もっとも重要な“生死”という問題に関しては、その中間の現世の人生しか対象化する能力がないということであります。生死という両極点およびその前後のことについては、まったく無能力といってよい。そうである以上、日蓮大聖人の「三世常住説」に、虚心坦壊に耳をかたむけなければならなくなってくるのであります。
 そして、その結果が正しいか、間違っているかは“信じ、行じ”て、判断する以外にないのであります。つまり、教行証が合致するか、矛盾するかで、決まるのであります。私どもの世界における幾多の実例では、合致しているため「大聖人の三世の生命論は正しい」「生命は三世常恒だ」と判断していく以外にはないのであります。
 もはや、人類救済、人類未来のあらゆる文明転換の原理は、大聖人の仏法に求める以外になくなっております。その探求者、実践者として、時代の先駆を切って道を開いているのが、私ども創価学会なのであります。したがって、この愛媛の郷土も、お互いに大聖人の仏法を大切にし、自分自身の生命を最大限に顕現させながら、喜々として、誉れ高い先駆の実証を、この地で示していっていただきたいことを、お願いしたい。(大拍手)
5  所願満足の人生を
 ともあれ、この愛媛の郷土は「古事記」の「国の生み」のくだりに「伊予の国は愛比売と謂ひ」と記されているごとく、まことにうるわしい平和なところであります。特に、この松山市のあたりは、額田王が「万葉集」において「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出な」と詠んだ、昔から詩情豊かなところであります。近くは正岡子規、夏目漱石が起こした新派俳句の都であり、また学問の盛んなところでもあります。
 現在では、いささか自主性が乏しいともいわれておりますが、その半面、よい意味の従順で、勤勉で、勇敢で、そのうえ情がこまやかであるとされているようであります。どうかそれらの特性をより以上信心でみがいて、また崩さないようにして、立派な所願満足の人生を完成していってほしい。“愛媛の同志をごらんなさい”といわれるようになっていただきたいのであります。
 そして、ますますこのうるわしいよい郷土を、皆さん方の力で守り築いてください。きょうは、先刻も申し上げましたように、全国で教学試験が行われておりますので、私もともどもに、試験に参加したつもりで、教学の一端を申し述べさせていただきました。なにとぞ、代表の幹部の皆さん方から、全県下の同志の方々へ、くれぐれもよろしく申し上げてください。
 最後に“日本一うるわしい仲の良い愛媛家族”でありますようにお祈りし、また会場運営の方々へ厚く御礼を申し上げまして、私の話を終わらせていただきます。(大拍手)

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