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日蓮大聖人・池田大作

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第1回東京幹部総会 生気はつらつと座談会を充実

1973.9.30 「池田大作講演集」第6巻

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1  きょうは、東京の幹部総会、おめでとうございます。(大拍手)そこかしこに、知ったお顔の方がたくさんいらっしゃって、ほんとうに心強く、またうれしく思います。
 最初に、これは大筋の提案になりますけれども、東京の幹部会は、できるならば来年の四月末の佳き日と、同じく九月末の日曜日――この年二回、これは幹部総会として、東京の伝統を築いていったほうがよろしいのではないかと考えますが、いかがでしょうか。(大拍手)そして、会場も、たまには東京から離れ、この空気のよい八王子あたりに来られてはどうかと思うのです。そうしたほうが、東京では味わえない地方の人たちの苦労が、多少なりともわかってよいかもしれない。(笑い)
 それと、近い将来、武蔵野の自然林を生かした見事な上地内一角に、東京の「広宣流布の碑」を建立しておきたい。(大拍手)そして、その「碑」の裏側には、これまで真剣に戦ってきてくださった、東京の代表の方々の名前を、銅板にみ込んで、後世にまで残してあげたいと提案申し上げたい。(大拍手)
 そこで、再来年の五月三日前後の佳き日を選んで、東京の人たちの″祭り”とあわせて、その「碑」の除幕式を行ってはどうでしようか。(大拍手)これらのは、委員会のほうで、更に検討し、煮詰めていっていただきたいと思います。
 さて、昨年は、皆さま方のお力によって、正本堂が完成いたしました。更に、広宣流布の第二章へ、創価学会は第一歩を踏み出しました。そして、早くも一年、まずは堅実に、予定どおりに、この一年を切り開いてきたと思うのであります。
 皆さま方それぞれの地域におきましても、この一年間で、立派に広宣流布への足並みは、そろえることができたようにうかがっております。私は感謝にたえません。どうかこれからも勇気をふるって、学会っ子らしく、新しき共戦の、偉大な歴史を築いていかれますよう、心からお願いいたします。(大拍手)
 十月は、記念座談会。そして十一月、十二月は、教学試験。それで今年を締めくくって、新年に備える――こういうスケジュールになっております。現実主義を避けたことろには、構築も進歩も勝利も,絶対にありません。どうか、この二大行事を立派に成功させて、東京が全国の模範、もっともよき手本になっていただきたい、ということを念願するものであります。(拍手)
2  座談会の推進
 座談会につきましては、綿密な準備と周到な計画、ならびに種々の根回しが行われているそうでありますから、どうか、その合意事項をよくふまえて、推進してください。単発の、一人勝手の行動では、決しておおいなる価値と効果をあげることはできません。皆さまがた自身の創意工夫で、伸びのびとやっていただきたいとぞんじます。
 私からは、基本的なことだけ申し上げさせていただきます。それはなにかと申しますと、座談会は、生気はつらつたる、建設の息吹満々たる会合であってほしいというこうとであります。仏法は、なによりも清らかな信心を結集し、生命と生命の「感応の妙」の力で、盛り上がっていく世界であります。したがって、座談会の主催者等々が元気がなく、生気がない場合には「感応妙の原理」からしても、失敗は目に見えています。
 二十年前の学会再建期にあっては、全東京には、そういうエネルギーが満ちており、それで折伏が進んだものでありました。現在は、当時とは客観状況が違ってはおりますが、心意気、学会精神は、なにも変わる必要はない。明るい仲の良い、生気に満ちた建設の気概にあふれた座談会が、この東京中で開かれるならば,さぞや、御本仏日蓮大聖人もお喜びくださることであろうと、信ずるのであります。
 その東京の座談会の波動は、やがて、一波が万波を呼び起こし、再び、日本全土を揺り動かしていくでありましょう。日寛上人は観心本尊抄文段のなかで、次のように述べられております。「若しその法を論ずれば、我が内証の寿量品には久遠元初の大久の仏道を明かす故に大乗教なり。久遠元初の種家の因果を明かす故に正見の教なり。久遠元初の無常種子を明かす故に得道の教なり。久遠元初の真秘を明かす故に顕露の教なり。若しその人を論ずれば、法華本門の直機にして文底下種の主師親久遠元初の自受用身の寵臣なり、愛子なり、入室の弟子なり」(聖教文庫22)179㌻)と。
 この三大秘法の大御本尊、すなわち日蓮大聖人の生命哲学が、あらゆる哲学、思想、宗教のなかで最高峰であるということを、一つの角度から論じているところであります。つまり、この大御本尊を受持し、広宣流布に向かう人は、成仏は間違いない。久遠元初の自受用身、すなわち日蓮大聖人と一体であると同時に、もっとも大切な、気に入った、離すことのできない弟子であり、子供である、ということであります。
 二十世紀の現代、科学は想像もできないほど進みました。哲学も驚くほど精緻を極め、人智はきわめて高いところまで進んでいる。また、実用の技術も、あらゆる方面できわめて有効なものになっております。だが、そのいずれをとってみても「人間解決」「人間革命」「人間の苦悩を解脱させる」という一点においては、無力であるといわざるをえない。これは、生命の本源まで説き明かした、日蓮大聖人の大白法による以外には、求められないのであります。
 日寛上人が、ご指摘のように、人間としての真の得道は、久遠元初の大法を信じ、行じていく以外には絶対にない。ありとあらゆる人間の無明の眼を開いて、生命にまつわる本然的な苦悩からの解脱をはかるには「信と行の兼備」の実践以外の生活からは、得られないのであります。
 皆さま方は、いかなる時代になろうとも、不変の原理であるこの一点については、断じて迷わずに進んでいってください。そして、座談会をば、こういう確信に満ちみちた活動の場にしていただきたいと申し上げるものであります。その場を、見事に創る上げ、推進した人は、いかなる役職、そして晴れやかな振る舞いの人よりも、尊く大切な人なのであります。
3  真実の仏の使いたれ
 また、日蓮大聖人はこう仰せであります。
 「御義口伝に云く法華の行者は如来の使に来れり、如来とは釈迦・如来事とは南無妙法蓮華経なり・如来とは十界三千の衆生の事なり今日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは真実の御使なり云云」と。
 私どもの人生とは、いかなるものであるか――。もちろん、人それぞれ、さまざまでありましょう。しかし、究極のところを探してみるならば、私どもは「如来の使」に、この世へ来たのでありまして、わが存在をつきつめれば、これ以外にないとの仰せなのであります。この一点に迷いなき人こそ「法華の行者」の名に値する人でありましょう。
 これこそ、真実に世のため、人のために通ずる最高の人生の価値、振る舞いをしている人といってよい。これは理論的にはよくわかるのでありますが、事実において、そうした生活に徹していくということは、至難のことであります。
 この御文には「真実の御使なり」といわれておりますが、この「真実」の二字を心に刻んで、それに恥じない幹部の方々が、東京中に満ちみちていくならば、広宣流布は磐石であり、そして学会は、更に永久に磐石となっていくと、申し上げざるをえない。
 東京は、学会の本拠であり、牙城であるがゆえに、私は、皆さま方に対して、特にこの点を強調しておきたいのであります。
 「南無妙法蓮華経と唱え奉るは真実の御使なり」――この一句は、学会幹部たるもの、永久の大指針でなければならない。学会は、御本仏との直結の行動、実践団体なのであります。ゆえに、大聖人と同じように、三類の強敵をこうむっていくのであります。これを、最極の誇りとし証明としていっていただきたい。
 現在、広宣流布の戦線は、線から面へ、面から立体へと展開いたしました。展開するということは、作業の現場が、ある意味では、中心から遠くなることでもあります。それは、こと細かに幹部から守ってもらう場所ではなくなる。自分の判断と力だけで、臨機応変に、独自の戦いを進めていかなければならない。そういう局面に立つということでもあります。
 自分の力と責任で事を処理しつつ、しかも、確たる成果を堂々と勝ち取っていかなければならない段階である。それだけに「真実の仏の使い」としての原点を、自覚していくことが大事なのであります。その原点を失って、わがまま放題、気ままな行動になれば、それ自体、堕地獄の因をつくってしまう。
 ともかく、その局面の場においては、一人ひとりが別々な現実に直面していくことになります。しかも、その処理は、その時、その場で、自分が判断し、裁いていかなくてはならない。そのときの心構えは、どうでなければならないか――。
 御義口伝の「法師品」のところに「森羅三千の諸法が直ちに師と成り弟子となるべきなり」という御文がありますが、まさしく、この境地に徹する以外にはないと、私は思う。すなわち「これを円満に解決して、そこに自他共に喜びを味わう」という行き方以外にはないのであります。
 自分の喜びは「自行化他」の「自行の喜び」といってよい。関係した他の人々の喜びは「化他の成果」というこうとができましょう。自分の生活の場において、そこへ出てきた問題と取り組み、自分も喜び、人も喜ぶように、的確に物事を推し進めていく――そのためには、当面の現実を師として学んでいくという、本因の姿勢が必要なのであります。
 すべてのいかなる経験も、みな自分の仏道修行に結びつくのであって“この体験を通じて、また一つの人間革命を進めていくのだ”という求道精神のあるところ、そこに、人間としての進歩もあらわれてくるのであります。これが仏道修行である。まだ、人々をして、仏法のすばらしさに開眼させていく契機があるように、思われるのであります。
 どうか、皆さま方も、このような信心に立脚して、たくましく生活され、ひいては、座談会において、その体験を生かし、瞬間に過ぎ去ってしまう、この大切な一日一日を、自他ともに最高に意義のあらしめていただきたいというこうとを、お願いするのであります。(拍手)
4  合理・実存の哲学から生命の哲学へ
 次に、もう一点、所感を申し述べさせていただきます。
 とかく、人間の世界においては、もしも、各人が欲望という意志の面を貫き通しあう関係だけでいこうとするならば、人の欲望は千差万別であり、しかも、限りないものであるために、これは、混乱の世界になってしまう。過去の歴史が、そのことを雄弁に物語っている。
 人類史上、洋の東西を問わず、修羅のが現出したのも、救いがたい戦乱、戦国の時代が生じたのも、皆、そのような理由によると考えられる。無数の人たちが、自分の欲望を満たそうとして、意志を張りあえば、争いだけの世になってしまうのは、当然でありましょう。
 そうした経験に懲りて、もっと人間らしい世の中をつくるべきだという考え方から、「合理」を求め「理」というものを中心にして、人間が道理を重んじ、それを守っていくことにより、争わずにすむ世の中にしようではないか、というところから、合理主義という考え方が発生してきたのであります。
 中世の終わりから近世にかけての人類は、そこに希望をつないで、知性を中心として、この世を切り開いてきたわけであります。
 事実、その成果というものは、偉大であったし、現今の恵まれた物質生活は、すべてこれ知性の開発のおかげであるといっても、よいかもしれない。
 十七世紀フランスのデカルト以来の知性中心主義というものには、このようなエゴと欲望の暴走に対する歯止めの願いが込められていたと、私はは思うのであります。
 それでありながら、合理主義は一つの行き詰まりをみせております。かつて、その根底にあったところのヒューマニズムを失って、理論中心の冷たい風潮に押し流されてしまいました。
 いま、この社会において、合理に徹して、合理で押し切っていったらどうなるか――。おそらく、人々は合理の「理」というものに押しつぶされて、動きがとれなくなってしまうでありましょう。ここに客観的合理とういものの限界が現れております。もはや、二十世紀後半においては、完全な行き詰まりであります。
 であればこそ、第二次大戦の前後から、新たに人間の実存を問うという、人間心情を中心課題とする哲学が発生し、発展してきているのであります。
 人類が歩んできた史実の反省としては、まことに結構なことであり、おおいにその自覚は高めていくべきであると考える。だが、心情におぼれてしまっては、また一つの欠陥を生じてしまう。
 人間の心情というものを重んじていく、その行く手には、個人の心に関心を向けるあまりに、全体的な連帯を見失い、なにかしら個人の感情だけが優先して、現に苦悩している多くの生命の救済までは、どうしても手が届かなくなってしまわざるをえない。
 つまり、「利他」の辺には、思いも、働きかけもおよばない、というようになってしまっている。これでは、人類はまた、行き詰まってしまう以外にない。
 以上、申し上げたところを総括しますと、社会全体としてみても、個人としてみても、生命を分断して知・情・意に分けて、どれか一つを中心にして行っては、行き詰まりを生ずるという結論なのであります。
 してみるならば、人間のあらゆる活動というものは、知・情・意をまとめて一本化していく働き――すなわち生命の発露を、そのまま展開していくところに、その成果があるのではないかと、私は思うのであります。
 知・情・意の三つに分けるもよし、分けざるもよし、要は「生命」という活動のなんたるかをわきまえて、自在に活動していけばよいのではないかと思うのであります。
 その「自在の活動」とは、日蓮大聖人の仏法にしたがった、つまり哲理と慈悲の道にたがわない行き方の活動であります。時々念々に、自己の生命活動を他におよぼしぬいていく精神の人間が、世界を改造していくのであり、また、そういう人たちが人間革命の道を開いていくのであります。
 大聖人の仰せを拝しますと、このように述べられている。
 「如来世に出で給いては生をあわれむを本とす、生をあわれむしるしには命を奪はず施食を修するが第一の戒にて候なり、人に食を施すに三の功徳あり・一には命をつぎ・二には色をまし・三には力を授く、命をつぐは人中・天上に生れては長命の果報を得・仏に成りては法身如来と顕れ其の身虚空と等し、力を授くる故に人中・天上に生れては威徳の人と成りて眷属けんぞく多し、仏に成りては報身如来と顕れて蓮華の台に居し八月十五夜の月の晴天に出でたるが如し」と。
 かくのごとくに、人々に生きがいを復活させることができたならば、こんなにすばらしい活動は、どこにもない。これが布教であり、仏法指導であます。その結論の功徳が、いま申し上げたところであります。
 人々に対して、色法を増進させてあげる。そして、力を授け、生命力を授けることができたならば、それを受ける人たちも、どんなにかうれしいことでありましょう。
 座談会というところは、こういう喜びの世界であっていただきたい。また、そうした人間の喜びの発現する場所であってほしい、と申し上げておきたいのであります。
 そこを出発点として、さまざまなよき影響が広がっていくことを確信していただきたい。座談会の運営が生気はつらつとしていれば、あとはどのような行事、活動をしても、よい影響につながるのであります。その反対に座談会がうまくいかなければ、どのような会合を開き、どのような行事を組み、どのような企画の方式をとろうと思っても、うまくいかないということであります。
5  広布原点の使命
 ともあれ、東京は日本の中心であり、首都圏の中軸である。世界的な大都会であり、地理的にいっても広宣流布の原点であります。更に、東京は学会の発祥の地であり、再建の地であり、今後も変わらぬもっとも重要な中心の地域であります。
 世界的な存在となった東京の皆さま方が、健在であり、本然の力を出してくだされば、広宣流布は永遠に安泰であり、私も安心して、思うぞんぶん活躍ができます。東京の幹部の指導者の皆さま方が、確固たる不動の原点をつくり出して、一人ひとりが日本中の方々に、はたまた世界の友たちに、安心し、共感していけるような心の広々とした環境を提供していけるように、お願いするしだいであります。(拍手)
 御書にいわく「南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天・帝釈・日月・四天等・昼夜に守護すべし」と。ゆえに、きょうも唱題・あすも唱題、そして明るい健康と英知と福運と正義の東京を、ともどもに構築してまいりたいと思いますけれども、いかがでしょうか。(大拍手)
 ともかく、東京は、世界と日本の原点としての役割を果していくべき使命がある、と申し上げたい。そこで、私は、
  原点の 東京乱舞の 第二章
 との一句を残しておきたい。(拍手)
 最後に、この激動の乱世のなかにあって、今日まで風雪に耐えぬいて、ここまで雄々しく戦い進んでくださった誉れ高き東京の幹部の皆さま方に、感謝申し上げるとともに、皆さま方のご多幸を衷心より祈念いたしまして、私の話を終わります。(大拍手)

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