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日蓮大聖人・池田大作

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関東女子部総会 仲良く協調し求道の人生を

1973.9.24 「池田大作講演集」第6巻

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1  関東の女子部の皆さん、きょうは大変に晴れやかな総会おめでとうございます。(大拍手)総ブロックごとの活動目標を、全県そろって達成したということでもありますし、唱題に唱題を重ねて、この総会に集ったこともうかがいました。ほんとうにご苦労さまでした。(大拍手)
 さる三月十日の女子部総会において、広宣流布の第二章へ出発をしましてから、約七か月。関東全県がそろって目標を達成したことは、出発への序曲を見事に奏でたものであると思います。どうか、これからも油断なく、スクラムをがっちり組んで、堅実に前進していかれますよう、心からお願い申し上げます。
2  勉学の基本的あり方
 さわやかな秋は、自然界においては草木の実りの秋であり、社会においては詩情と文化行事のシーズンであり、個人においては、灯火親しむ勉学の候でもあります。学会においては、深く御書に親しむ教学の季節であり、やがて一連の教学試験を控えています。そこで、まず最初に「勉学」についての基本を申し上げておきたい。
 末法相応抄に「但楽受持大乗経典(但楽って大乗経典を受持して)とは是れ勧門なり……乃至不受余経一掲(乃至余経の一偈をも受けざる有らん)とは是れ誡門なり」とある。
 日寛上人の文段等を拝してみますと「是れ勧門なり」「是れ誡門なり」というふうに、よく「勧誡の二門」が出てくる。勧はすすめる、誡はいましめる、の意であります。なにか一つの問題を論ずるにあたって、こうすればよい、という勧めの側面と、こうするのは悪い、という誡めの側面と、両面から筋目をただして述べておられるわけであります。
 勉学に対する日蓮大聖人、また日興上人の教えを拝しますと、まったく同じく“勧め”と“誡め”の両面がございます。
 まず勧めのほうから拝してみますと、諸法実相抄の有名な一節「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ」は“勧め”のほうであります。
 また曾谷入道等許御書には「此の大法を弘通せしむるの法には必ず一代の聖教を安置し八宗の章疏しょうじょを習学すべし」とある。更に日興遺誡置文には「当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞く可き事」とある。
 このように、日蓮大聖人は“勧め”の側面から、勉学、実践のあり方を明瞭に教えておられます。
 次に“誡め”のほうを拝してみますと、十八円満抄に「予が弟子等は我が如く正理を修行し給え智者・学匠の身と為りても地獄に墜ちて何の詮か有るべき所詮しょせん時時念念に南無妙法蓮華経と唱うべし」とある。これはいかなる大学者になっても、大聖人の正理を実践しなさい、それなくして地獄に堕ちてしまっては、なにもならないという“誡め”であります。
 同じく新池御書には「有解うげ無信むしんとて法門をば解りて信心なき者は更に成仏すべからず」、日興遺誡置文には「学問未練にして名聞名利の大衆は予が末流に叶う可からざる事」とある。このように、勉学上の戒心すべき諸点を列挙しておられるのであります。
 “勧め”のほうにおいては、勉学、実践の目的、必要性、その具体的あり方、方針等を示しておられ“誡め”のほうにおいては、勉学する者か陥ってはならない邪道を防ぎ、危険を未然に防止しておられる。したがって、私たちはこれらの“勧め”と“誡め”を、ともにふまえて学んでいくべきなのであります。
 しかし、勉学のさいには、やはり、問題は誡門=誡めのほうにあると思う。とかく、凡夫の私どもは、御書が理論的にわかってくると、それだけで、ずいぶん信心が進んだように錯覚しがちなのである。それではせっかくの勉学をとおして、慢心がしのびこんできたことになってしまう。
 勉学によって道理を知るということは、たとえていうならば、教育の指標である知・情・意のうちの“知性の作業”であって、いくら知っても、それだけでは人間としての、徳性の涵養、すなわち人格の完成にも、罪障消滅にも、人間革命にも通じてきません。大事なことは、勉学という“知性の作業”を通じて、いかに心に感じ、実践活動に進みゆくかということなのであります。
 御書を知っても、なんの感激もなかったら、それは、なにも仏道実践をしなかったことに等しい。それだけで、慢じているならば、地獄へ通ずる「有解無信」のほうへかたむいていくわけであり、こんな危険なことはありません。
 有名な科学者アインシュタインは、第二次大戦後、原水爆の危険を痛感し、平和運動に情熱をかたむけていった。そして、原水爆解放という現実をふまえて、こういっています。
 「私たちは、知性を神格化しないように、十分注意しなければなりません。知性は、いうまでもなく強力な筋肉をもっていますが、人格を持っていません」(荒正人編著「思想家の名言」)と。つまり、知性は強力であるが、倫理的特性、すなわち人格とは別ものである。したがって、知性をかいかぶってはならないということを、アインシュタインは警告しているのであります。これは、一般学問にも、教学にも同じように通ずることであります。
 御書を勉学して、実践のうえにおいて生命力を発現させ、また生命力を湧現させていくことができるかいなか、ということであります。生活の原動力にできるかできないかということであります。
 ともかく、わが身を振り返って、このままではならない、もっと前進しなければならない、成長しなければならないという、一念の姿勢のうえにおける発心、奮起をともなうか、ともなわないか――そこに正しい勉学と危険な理解との境界があることを知らなければなりません。御書を学ぶ者は、つねにこの一点を反省し、理解していくべきであろうと、後世のために申し残させていただくしだいであります。
 いずれそのうち、教学試験がやってまいります。皆さん方も試験と取り組んでいくわけで、大変であろうと思います。合格は、望ましい目標であります。だが、以上申し上げたように、答案を書きちらすための棒暗記のみのような仕方の勉学だけでは、真の学会教学ではありません。また、色読の実践の教学ではならないといってよい。
 教学だけがいくら進んだとしても、学会活動、折伏、家庭指導をしない人は信心のかたわであります。実践がともなって、いな、御書のうえから実践している人であれば、試験に受かろうが受かるまいが、その人には目に見えない福徳が積まれております。どうか、若き皆さん方は、自己建設のための求道の生き方を貫いていくよう、おすすめするしだいであります。決してあせる必要はありません。
3  試験について
 話は余談になりますが、一般に試験というものは、まことにおそるべき現象であります。高校とか大学入学試験でも、また官公庁、一流会社の就職試験でも、必ず合格者何名という厳重な枠があって、競争率何倍という争いになっている。採用するほうは、優秀な人がほしいがために、どうしてもそうせざるをえないのが実情でありましょう。
 だが、競争率何倍という条件下で、よかったと幸せを味わうのは、合格の定員数だけ、つまり少数者のみであります。多数者は落とされてしまって、不幸を感ずる以外にない。悲しみだけが残る。こういうタイプの試験は、自由競争という美名のもとで、人を落として、悲しい不幸な目にあわせる制度ともいえるわけであります。受験者同士は、あたたかきよき隣人、友人ではなくして、冷たくも恐ろしい不倶戴天の敵同士であるといってよい。
 こうしてみると定員制度下の試験ぐらい残酷で、非人間的な試験はない。しかし、現実は厳しく、いかんともしがたい。これが、現代メカニズムの人間疎外、人間性破壊、人間連帯断絶の真相であり、まことに恐るべき現象といわれるゆえんでもあります。現代社会は、すべての分野で、だいたいこのような構造になっている。
 だからこそ、こうして不幸になっていく多数者を救っていく教えと運動が、必要になってくるであります。多数者に対して、よい制度の社会へと変えていく必要がある。ゆえに、子孫末代のためにも、総体革命が希求されるものも必然であります。
 こうしてみるならば、広宣流布ということが、いかに大事な任務であるかが明瞭になると思うのであります。広宣流布の第二章に旅立ったいま、皆さん方が、地道であるかもしれないけれども、なしつつある女子部の活動が、じつは未来の人類にとって、いかに必要かつ尊いものであるかということについて、さらにさらに、思いを深くしていただきたいとお願いするものであります。
 さて、学校や会社の試験に対して、創価学会の教学試験は抜苦与楽の試験である。また、人間革命、人間連帯増進の試験なのであります。定員制で多数者を悲しませる試験ではなくて、一人でも多くの人が仏法の真髄を知り、日々月々に人間成長していくための試験であるということを知っていただきたい。それゆえ、皆さん方も勇んで、この教学試験に取り組んでほしい。
4  求道の“道”とは
 次に、本日のこの総会では“求道”ということがテーマに掲げられておりますが、この求道の“道”ということについて、若干、話をさせていただきたい。
 この“道”という考え方は、東洋独自のものであるように思われる。ヨーロッパのほうの考え方では「神と、神の子としての人民との間に交わされた契約を守る」という考え方から出発して、契約を成文化したものとしての合理的な法律に違反しないという考え方が、人間行為の基準、すなわち“道”になっております。
 ところが、東洋では、人間行為以前の、もともと自然界にそなわっている性質というものを認めて、それに逆らわず、はみださずにいくのが、人間としてのいちばんよいいき方であるとする。そして、そこに、人間行為の基準をおこうという思想のように考えられる。
 東洋と西洋とを比較してみますと、西洋は人間中心の努力主義であり、東洋は自然中心の協和主義であるという思想の基調に、その差がみられる。
 記録として残っている本からみますと、紀元前六世紀ごろの老子の言といわれるその本に「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」という言葉があります。こ“道”は“陰陽の調和のとれた自然の胎動”と説明されております。更にこれは、身をもって感ずることはできるが、知性をもって認識することも、解決することもできないというのであります。それゆえ、この老子の究極の
 思想、哲学というものは“無”と名づけておくというのが、老子の学説であります。
 また、儒教では「天の命ずる、之を性と謂い、性に率う、之を道と謂い、道を修むる、之を教と謂う」と解説している。したがって、大自然の性分に合致していける知的ルール(規則)を“道”という。そして、その“道”の修め方を教えるのが学問なのであるという説明をしているのであります。儒教も、そしてまた“無”の哲学である老子の学説も、いずれも一面的には通ずる考え方といえましょう。
 現在、一般に“求道”という場合は、剣道なら剣道、音楽なら音楽、文学なら文学というように、なにごとかの極意を求めて、おおいに努力するという意味で用いられております。
 それでは、妙法をたもった私どもの場合、この“求道”――あるいは、その“道”とは何か。不変真如のうえにおいては、三諦円融の中道という一極の道である。随縁の真如のうえにおいては、事行の妙法を体得し、広宣流布へと修行し、邁進していくことであります。
 この“道”は、すでに七百年前、日蓮大聖人が立派に建設してくださっている。あとは、どこまでも、私どもが求め究めて行くことが、私どもに残された課題であるということであります。
 すなわち「実践」「実証」ということが、皆さん方を含めて、私どもの課題であるということを忘れてはならない。ゆえに私は、ここに掲げられた“求道”の二字はつねに「実践」そして「実証」という、現実問題に即して求めていくところの、信心の道であっていただきたいと思う。個人としては、悩み多き凡夫の自分が、人間革命をしながら、香り高き女性、そして幸せなる女性へと実証していく“求道”であってほしいと、お願いしたい。(拍手)
 長い人生の途中には、いろいろなことがあります。どうも、功徳が止まって、いくら祈っても出てこない、と思うような場合だってあるでしょう。だが、信心さえあれば、その底流のなかで、功徳は伏流として立派に流れていくのであります。たとえば、自分の時計が止まったからといって、時間までも止まってしまったわけではないのであります。それと同じく、表面現象が膠着したときでも、見えない功徳は、流れつづけているのであります。
 そして、そういう見えない功徳は、いずれ表面へわきでてきます。いま幸せそうに見えても、二十年後に不幸では、にもならない。それとは反対に、いま苦境にあったとしても、三十年後に幸せならば、人生の勝利のといえましょう。したがって、川の表面の流れがどうであろうとも、底流の流れがどのようになっているか――それが大切なのであります。それゆえ、信心の世界にあっては“必ずや実証してみせる”という信念だけは、決して失ってはならないのであります。
 女子部全体として、仏道修行、広宣流布という目標にあたっても、月々の目標、年々の目標、そして長期である第二章の目標等々でありましょうが、いずれも“実践そして実証”ということを、第一の優先課題として、団結の力で昇華していけばよいのであります。そこに、しぜんと功徳の底流が流れていく。目標なき空転では、なにもしないことに通ずるといえましょう。
 ともあれ、仲良く、協力していくこと――これがもっとも必要かつ立派な求道のあり方であります。それはまた、もっとも無理のない、人としてのしぜんのあり方でもあります。
 人はつねに、対人関係のなかでだけ生きているものであります。対人関係ぬきの人生とか生活というものは、決してありえない。その人と人との関係は、ケンカするか、仲が悪いか、仲良くするか、更には、互いに離れてしまって眺めあっているか――この三つに大別できましょう。
 このうち、自分自身の内に閉じこもって、眺めあっているだけの三番目は、対人関係としては希薄なために除くとすれば、結局、残されたのは、仲が悪いか、仲良くするか、その二つしかありません。
 悪人や正義の敵とは、戦わざるをえない関係になってしまうのは、これはやむをえない。しかし、私どもは久遠元初以来の同志であり、兄弟であり、姉妹である。ゆえに、学会の人たちは、仲の良い団結が、ふつうの、しぜんの姿であることを忘れてはならない。この仲の良い団結という基調に乱れがないかぎり、実証への求道にも、また狂いを生じることはありません。
 ともかく、人というものは、特に女性においては、自分の生まれつきの弱点は、誇大に気にして、クヨクヨしがちなものである。反対に恵まれた点は、実際よりも大きく恵まれているように錯覚しがちなものであります。学校、家柄、容貎等にこだわるのも、その一つの例で、そうしたことのみを気にしてうんぬんするのは、まことに愚かといわざるをえない。
 仏法の「未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」との原理に照らして、弱点について「未来の果」をよくしたいならば「現在の因」をよくつくるべく、雄々しく朗らかに、人間革命に励んでいくことが、幸福、勝利へのもっとも近道であるということを忘れてはなならない。
 いろいろ恵まれて生まれた人についても同様であります。恵まれて生まれたのは「過去世の因」がよかったのだと、後ろ向きの気持ちが誇っているうちに、その慢心と油断が、今度は「現在の因」となっては「未来の果」が思いやられるようになります。
 最後に自ら所願満足した人が、立派な人生の勝利者なのであります。どうか皆さん方は、そういう気持ちで、唱題の声高らかに、生涯、進んでいってください。関東の女子部の皆さん方が、ますますご多幸でありますように祈り、ともに各方面の発展を心から念じて、私の話を終わらせていただきます。いついつまでもお元気で。(大拍手)

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