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日蓮大聖人・池田大作

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第22回青年部総会 警世のかがり火を諸君の手で

1974.1.20 「池田大作講演集」第6巻

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1  晴れの総会、ほんとうにおめでとうございました。(大拍手)はるばる北海道や沖縄等、遠くから参加した諸君に対しては、心からご苦労さまと申し上げます。また、きょうは九州各地よりご僧侶、それに各界のご来賓のご臨席をいただきまして、まことにありがとうございます。一同を代表しまして、厚く御礼申し上げます。(大拍手)
 本日は、このようにわが愛する男子部諸君のたくましい姿や、明るく清らかな女子部の皆さんと、一堂にし会して、話し合いをしておりますと、しぜんに私の苦しくもあり、輝かしくもあった青年部当時の一コマ一コマが思い出されますし、それとともに、自分がいっぺんに十も十五も若返ったような気分になるのであります。
 どうか、今年もアッというまに過ぎ去ってしまうであろう大切な青春時代を、私といっしょにがっちりとスクラムを組んで、この広宣流布という原野に踊り出て活躍してくださるよう、心からお願い申し上げます。(大拍手)
2  「閻浮提広宣流布」の実証
 昨年十二月十六日、大阪・中之島の中央公会堂での本部総会におきまして、私は「社会の年」とは、世界に仏法がいよいよ本格的に流布されていくべき開幕の年でもある、と申し上げました。そこで、本日ははじめに海外のことを、少しく申し上げてみたいと思います。
 いまや日蓮大聖人の仏法は、共産圏の一部を除き、世界八十数か国にわたって、同志が活躍するまでになっております。しかし、そのなかでも、なんといっても、もっともメンバーの数の多い、そしてまた歓喜し発展しているのは、昨年十月十一日、静岡の総本山大石寺でメンバー三千余人をもって、コンベンションを開いたアメリカの友であります。この点について、私は深い意義を感ずるのであります。
 と申しますのは、日蓮大聖人は弘安二年(一二七九年)に、一閻浮提総与、すなわち全世界人類の根本的信仰の対象として、大御本尊を建立されました。しかして、コンベンションに集った人々は、いまでこそアメリカという一つの国に属しておりますが、もし七百年前にさかのぼって、この人々の祖先をたどってみるならば、おそらくヨーロッパ、アジア、アフリカ等、全世界にわたるにちがいないということであります。
 そう考えればコンベンションの意味するものは、たんにアメリカという国の日蓮正宗メンバーの総会ではなく、世界人類の代表による壮大な人間讃歌の儀式であり、それはまさしく「閻浮提に広宣流布するであろう」との仏法の予言を、縮図的に実証したものといって過言ではありません。
 また、もう一つ考えられることは、日蓮大聖人の示された世界広布の基本図式というものは、「諫暁八幡抄」や「顕仏未来記」にあるように、日本より中国、インド、そして世界という順序であります。しかしながら、現在、世界に先駆けて広宣流布の進展のいちじるしいのはアメリカである。大聖人は「東から西へ伝わる」といわれている。にもかかわらず、現実は日本からみて、更に東方のアメリカへ流布しているというわけであります。
 だが、ここにも仏法の深い意味があると、私は考える。すなわち、アメリカは日蓮大聖人の時代にあっては、未知の世界であります。もちろん、当時のアメリカも人間の住まない世界ではなく、数万年前にモンゴル系の人々がベーリング海峡を渡って南北アメリカに住みつき、高度の文化を出現させていたといわれる。また、西暦一〇〇〇年ごろには、ノルマン人が北米の一帯に到達したということも、確かな事実であります。
 しかし、それらはアジア、ヨーロッパの文化圏全体にとっては、知られざることでありました。ところが、一四九二年すなわち大聖人滅後二百年余りたて、コロンブスが“新世界”の存在を紹介して以来、ヨーロッパ各国民をはじめ、アジア、アフリカのあらゆる民族が移り住み、共同生活を営むにいたった。そうした移住の動機や経過は、じつにさまざまであったと考えられます。
 旧世界での抑圧に耐えきれず、精神的、経済的自由を求めて、新大陸に移った人々もある。邪悪な奴隷商人の手によって、自らの意思に反して連れこまれた人々もあった。
 しかし、その動機や経過はどうであれ、一つの国に、さまざまな文化をもったさまざまな民族の人人が集まり、一つの社会を構成するにいたった、それがアメリカという国である――という点に、私は大きな意味があると考えるのであります。
 したがって、この“世界の縮図”ともいえるアメリカに、もっとも早く仏法流布が進んでいることは、日蓮大聖人の“太陽の仏法”が、全世界に流布し、全世界のあらゆる人々の信仰を集める、真の世界宗教であるといっても過言ではない、と申し上げておきたい。この点いかがでしょうか。(大拍手)
 本部総会でも申し上げましたように、本年は、私は海外の同志の激励のため、また民間の文化交流のため、そして広宣流布の布石を打っておくため、思うぞんぶんに世界を駆けめぐりたいと考えております。そして、本年の最初の計画として、この月末にかけ、香港を中心に行ってまいります。どうか国内のことは、皆さん方にくれぐれもよろしくお願いしたい。
 一閻浮提総与の仏法でありますから、大聖人の慈悲は、全世界のいずれの国、いずれの民族の人々に対しても、平等であることはいうまでもありません。ともかく、いま世界にクサビを打っておかなければ、時を失ってしまう。また、全世界の日蓮正宗メンバーの総講頭としても責任があります。どうか、留守中はよろしくお願い申し上げます。(大拍手)
3  「立正安国論」の世相と現在
 次に、今日の社会情勢ならびに、それに対する私の所感を皆さんの参考までに二、三申し上げたいと思う。
 いうまでもなく、日蓮大聖人のご化導は「立正安国論に始まって立正安国論に終わる」といわれております。すなわち、大聖人のご念願とするところは、一切衆生の成仏得道、平和社会、幸福生活というものを内容とする“立正安国”の四字に尽きているのであります。
 立正安国論の冒頭を拝しますと「旅客りょきゃく来りてなげいて曰く近年より近日に至るまで天変地夭てんぺんちよう飢饉疫癘ききんえきれいあまねく天下に満ち広く地上にはびこる牛馬ちまたたお骸骨がいこつみちてり死を招くのともがら既に大半にかなしまざるのやからあえて一人も無し」という問題提起から始まっているのであります。
 「昭和元禄」などという繁栄ムードにつつまれているあいだは、この一句は、遠い歴史のかなたの、単なる一記録としか、人々の心には映らなかったのでありましょう。だが、昨今はどうか。あの鎌倉時代当時の社会の激動ぶりそのものをうつしとったニュースという実感が、ひしひしと迫ってくる思いがするのであります。
 特に、インフレの異常事態について、十四日付の朝日新聞の社説は次のような提言をしていました。すなわち「物価の暴騰は……日本株式会社の自爆的暴走である。……特定のだれかれを非難してみても問題の解決にはならない。悪玉はおそらく、利潤追求を唯一至上の目標とするメカニズムそのものだ。その申し子が買い占め売り惜しみ企業なのである……」と述べ、“消費者よ団結せよ!”と呼びかけていた。
 どの角度からの統計によっても、物価の上昇率は、物の不足の度合いをはるかに越えていると認めている。このことは、欲に欲がからんで、いまの状態になっているのであり、企業担当者の精神が、いかに劣悪化したかを教えているわけであります。したがって、この“悪性インフレ”というものの実態は、まさに、人間の精神問題が関与していることは、真に明らかなのであります。
 更に、国内でこの調子だから、海外でも、同じような調子でやっているにちがいない。あのアジア諸国で、きらわれていくのも当然であります。次は南米あたりに問題が起きそうだというのも,ある識者の声であります。
 されば、わが社会における精神変革、精神改良の問題は、急務といわなければならない。
 「社会の年」の人間広場運動は、この課題と四つに組んで進められるべきであります。その現実の“土俵”こそ、座談会あります。
 今年こそ、座談会をより有効に充実させ、みがきあげていく年としていかねばならない。その意味において、青年部諸君に、どうか価値ある戦いを、と心から期待し、かつお願い申し上げます。(大拍手)
4  災難の根源的起因
 とにかく物価、火事、交通事故、野菜の不足、水飢饉、その他これに類するもろもろのものは、一括してみな災難でありますが、これらの災難について、日寛上人は立正安国論文段において、次のように教えておられるのであります。
 「一、災難興起の事(災難が起こる原因という事)
 今、仏家によりしばらく三義を明かさん(仏法の原理によってしばらく三義を明かそう)。一には万民の業感(業を感ずる)によるゆえに。謂く、悪業の衆生ともに同時に生ず、業感によるがゆえに災難を招くなり……二には国王(政治家等の指導者)の理に背くによるゆえに。謂く、国王不明にして教令の理に背くゆえに天これを罰す。ゆえに災あるも、これ万民に関するに非ず。国王自ら招くのみ。……三には誹謗正法によるゆえに。謂く、当論所引の四経の文のごときこれなり。これすなわち国王万民天下一堂に招く所の災難なり。まさに知るべし、初めの義のごとく遠くその本を論ずれば、すなわちいずくんぞこれ無視の誹謗正法の業感にあらざることを知らんや。第二の義も世法の理に背くは即ち仏法に背くなり、仏法の理に背くは即ちこれ謗法なり。深く世法を識るは即ちこれ仏法のごときはこれなり。もしこの三義を暁せば往いて通ぜざるところなからんや」云云と。
 右の仰せを要約していいますと、災難が起こってくる誘因は三つに分かれる。その第一は、万人の先世以来の諸業による、というのであります。そのため、時代とともに一人ひとりの人間革命、宿命転換が必要であるということにもなります。第二は、政治が道理に背いて悪政になっていることにより、民衆本位の慈悲の政治ではない。第三は立正安国論にお示しのように、仏法を破ることにより、つまりその時代にあって、いかなる仏法をその時代の最高理念とし、また精神的種子支柱にするかということを、一切否定することに因があるということです。
 第一のは万民の罪であり、第二のは為政者の罪であり、第三のは為政者と万民、すなわち、その国の社会全体で招く災難である。そして第一も第二も、結局は第三に帰着する。社会全体の災難の真の原因はここにある、と示しておられるところであります。
 過日の婦人部総会においても、災いを千里の外より招きよせないようにすべきであると、提案しておきましたが、実際に医学でも対症療法だけでは病気を治すことはできない。同じく災難は「現象」と「起因」の二面があるわけでありまして、政治が現象だけをいくら抑えかかっても、根絶することは絶対にできない。災難も同じ原理であります。
 真の起因を省みず現象へだけ対象を施しても、同じことを繰り返すことになる。そこで“根源的起因を断て”と教えられた警世の書「立正安国論」の実践が、まことに重要になってくるのであります。
 私はこの会合を通じて、たんに諸君および会員諸氏だけではなく、日本全体の人々にも、世界の人人にも、このことを、少しでも語りかけたい気持ちでいっぱいであります。青年部の諸君も、いっしょに応援してくださることを、お願いいたします。(大拍手)
5  物財より人間の志を
 同じく立正安国論文段に、次のような御文があります。
 「一、但し人の心は時に随って移り文。
 千字文にいわく『真を守れば志満ちて、物を遂えば意移る』と云云。註にいわく『中人の性は習いに随って則ち改まる。善に逢えば善となり、悪に逢えば悪となる。心定かならざるを以てなり。物を遂えば意移るは荘子いわく凡夫の心は限りあるの身をもって限りなきの物を求め、意常に定まらざるなり』」と。
 このなかの「中人の性は習いに随って……」の一句は、平均的な一般の人々の性質というものは、週間とか、風俗とかいった環境の社会関係しだいで「善」にも「悪」にも変わっていくものだ、と教えているところであります。
 半面、人というものは「善法」によって、生涯、教育を受けていく必要があるということを暗示しているところでもあります。この点、いわばヒューマン・ユニバーシティー(人間大学、人生大学)と呼ぶべきわが学会に、生涯、籍をおく皆さんは、じつに恵まれた幸せ者と、私は申し上げたいと思いますけれども、いかがでしょうか。(大拍手)
 次に「物をえば意移る……」とありますが、この「物財」は個人が生活をする維持するうえにおいても、社会や世界が文化を高めていくうえにおいても、当然必要なものであります。その生産と配分と蓄積は欠かすことはできません。しかし、本然の「人間としての志」をめざすことを忘れて「物財」を追うようになってしまう凡夫の心は、明らかに偏向であることを教えているのであります。
 このことは産業革命以来、ひたすらに“物財主義”へ傾斜して、その面だけが肥大化してしまった、西欧流の文明の最大弱点を、ピタリといいあてている感が深いのであります。
 「忘れる」という字をよくみると、“心を亡ぼす”または“心が亡びる”と書いてあります。すなわち“精神の滅亡”の恐ろしさを教えている字だとも、考えられるのであります。人間らしい志を失った社会ならば、あのアメリカの映画「猿の惑星」にみられる猿の社会と同じでありまして、無慈悲と教条主義と無知と保守性がまかり通って、ついには災難の不可能なこととなるのであります。
 それにひきかえ「真を守れば志満ち」とあるとおり、我々人類は、やりかたしだいでは、悠々と志を満たして、繁栄と平和を謳歌していくことも、可能なのであります。
 「真を守る」ということは、客観的には、真理を守る――それも低い、小さな真理を守るよりも、高い、大きな真理を守っていく、ということでありましょう。実践的には、倫理性を守り、人間性を最優先に守る、ということでもありましょう。
 そして、もっとも本源的には生命の真実を守る、「宇宙即我」「事の一念三千」の妙法の大法則を守る、ということにもなりましょう。そうなれば「志」が満ち、生きがいのある人生、生きがいのある社会を現出することは、もはや間違いないということであります。
 開目抄にも「当世・日本国に第一に富める者は日蓮なるべし命は法華経にたてまつり名をば後代に留べし」とお述べになっております。
 諸君はまだ若いし「財」のうえでは富んでいるとはいえないかもしれませんが、本因のうえで将来を約束されている点では富んでいることを、固く確信していただきたい。また、それ以上に志が満ちているという点においては、大聖人の眷属として、“富める者”であることは間違いありません。
 どうか、このことを無上の誇りとしながら、本然を確かな人間建設の年として、ともどもにしっかり信心の歩を進めてまいろうではありませんか。(大拍手)
6  宿命からの解放
 特に、女子部の皆さんに、ひとこと述べておきたいことがあります。それは“宿命に翻弄されてはならない”という点であります。過去の世間では、宿命に泣く女性がじつに多かった。よくみれば、いまでもそうかもしれない。しかし、妙法の乙女は、宿命のきずなから確実に解放される機縁をもっているのであります。あとは、自分の賢明さと、がんばりかたしだいであります。
 たとえをある地質学者の話から引用してみたい。――北国の原野は、冬になると、あちこちへ突然、小高い丘が出現する。これへの対策が建設の最大の課題である。なぜこんな奇妙なことが起こるかというと、冬に入れば、地表から凍り始めるのですが、すると地下水の出口がふさがれてしまい、結局、地下水は地下をあちこち移動したあげくに、地質のもっとも弱い部分へ集中してきて、水圧でその部分を上へ押し上げてしまう。それで、真冬には、突然に小高い丘があちこちへできる。そして、春の雪どけとともに、この丘はもとどおり平地に戻る――というのであります。
 このたとえを借りていえば、人の宿命というものは、水がその人の“生命の地下”にたまってしまったようなものである。この点は、もうどうしようもない。だが心が冷たく冷えて“精神の地表”を凍らせて、この“宿命の地下水”を命の奥底へ閉じこめ、出口をふさいでしまうと、なかで行き場に困ってあちこちへ“小高い丘”をつくってしまう。すると、人生コースのレールが壊れて、もはや幸福という終着点に到達することができない。不幸という悲惨に入ってしまう。
 しかし、大聖人が「転重軽受法門」でお示しのごとく、仏道修行――すなわち信心、唱題によって、わが宿命を転重軽受すれば、いかなる宿命にも翻弄されることはなくなる、というのであります。
 したがって、若いこの時期の一時の苦労や誘惑などには、決して負けないで、信仰の道を、堂々と自分自身のために、押しきっていっていただきたいのであります。そして、大切な尊いこの世の一生を、福運豊かな人生に、開拓していってくださることを、心からお願い申し上げます。(大拍手)
7  人間革命と“鍛え”の原理
 さて、今年は行事の企画と実行について、大幅に地方へ重点を移行しております。もはや、なんでも東京へ人を集めて行こうという時代ではなくなったことを、知ってください。東京も各地方も平等であります。むしろ地方こそ、より多く文化の恩恵を受けるべきであると、私は思います。したがって、これからは、地方地方で、しっかりと、もっとも身近な地域の実情を正しくつかんで、有効な活動を展開していっていただきたいのであります。友好の輪を広げ、相互理解のきずなを強め、英知の輝きを増し、社会のだれからも親しまれ、信頼される社会人に成長していっていただきたいのであります。それが私の願いであり、将来における楽しみなのであります。
 ともあれ、諸君は二十世紀の人間というよりも、二十一世紀の人々であります。あと二十七年で二十一世紀――その時には、諸君は、平均したところ五十代であります。人間、五十代といえば、家庭でも職場でも、おしもおされもせぬ第一人者の立場であり、人間として円熟して、すべてのことを自身をもって運営していける齢でもあります。
 必ずそうなっていくわけでありますから、いまの境遇においては、いろいろな難問題をもっている人もいるではありましょうが、先行きをしっかり見つめ、展望して、ひたすら人間革命に励んでいっていただきたい。そして、ただ「忍耐」の二字を胸に刻み、それを忘れないで、強く生きぬいていただきたいことを、お願い申し上げるものであります。(大拍手)
 信心の道を進む者は「正義感」を決して失ってはなりません。世法のうえでは、よく「清濁併せ呑む」という度量が必要なこともありましょうが、そうしたことに慣れてしまって、自分自身までが濁ってしまっては、本末転倒というものであります。とりわけ、信仰の分野のことについては“濁”のほうを呑んではならない。
 そうなっては、必ず「正義感」を失ってしまって、無気力な日陰の人物になてしまうからであります。
 また、信心している以上は、必ず良き人物になるべきでありますが、ただのお人好しになっては困る。そのためには、いまのうちに、この青年期のうちに、会社でも、または諸君のあらゆる境遇においても、学会においても、まわりからうんと鍛えられておくべきであります。自分から求めて、そういう機会をもつべきであると、私は思う。「鍛えられる」ということは、なにか封建的だ、などと考えるのは、私は間違いであると思う。世間の一部のヤングのなかには、そういう思想をもっていて、とにかく、生活の自由、行動の自由ということを口にして、結局は遊ぶことに没頭している人たちもおりますが、それでは、その生き方で、一年間にどれほど人生のうえにおいても、人間的にも成長したか、人としての幅が広がったか――とみれば、結局は成長していないのであります。だから、結果をみれば、鍛えられない人は、人生に大きな損をしているのであります。
 この原理は、いかなる世界においても同じであると私は思う。もし諸君が「鍛え」の過程において、つらいことがあったならば、唱題に励んで、自らがんばればよい。私もそうしてきましたし、男子部の名誉ある伝統として、いままでの先輩たちが、皆そうして、力ある人物になってきたのであります。「生死即涅槃」の法理が、これなのでありますから、勇気をもって、青年らしく、自分自身のためにも、仏道修行に励んでいってください。私は、諸君に対して、ただ諸君の成長を願って、題目を送っております。
 どうか、一人ももれなく、健康で、希望にあふれた力強い青春を送ってくださるよう、心からお祈り申し上げまして、私の話とさせていただきます。(大拍手)

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