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第36回本部総会 時流は「生命至上主義」の信仰へ

1973.12.16 「池田大作講演集」第6巻

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1  激動社会に“一念”の変革
 皆さん、おめとうごさいます。(大拍手)本日は、思い出深き中之島の中央公会堂におきまして、総本山より日達上人猊下のご来臨を賜り、また休日にもかかわらず多数のご来賓の方々のご出席をいただき、ここに全国の代表幹部とともに、第三十六回本部総会を開催できましたことを、心から感謝申し上げます。ほんとうにありがとうございます。(大拍手)
 私は、来年度のことを志向しながら、これまでの地方総会や本部幹部会などで、あらゆる角度からの指導をさせていただきました。なお、さきほどの活動方針などにも一切含まれておりますので、きょうは来年の社会的様相をふまえての所感を、展望させていただきたいと思うのであります。
2  経済至上主義の波綻
 私どもが来年を「社会の年」と決めたとき、現下の社会情勢はまことに激動の年となりました。それは「物資至上主義」「経済至上主義」の信仰にかわって、いやでも「人間至上主義」「生命至上主義」の信仰へと進まざるをえない状況となってきたということであります。すなわち、創価学会にとっての「社会の年」は、期せずして、社会にとっての「人間原点の年」ともいうべき方向性を示しはじめたと、確認できるのであります。
 一九七四年、すなわち明年の世界情勢というものは、アラブとイスラエルの対立に端を発した石油危機と、慢性的な悪性インフレによって、きわめて厳しいものとんになることが予想されております。事としだいによっては、第二次世界大戦の遠因となった一九二九年のあの大恐慌にも比すべき世界不況が、来年あたりから、突風のように襲ってくるかもしれないというのであります。
 そうしたきわめて厳しい経済不況の波で、もっとも深刻な打撃をこうむるのが、石油をはじめ資源の大部分を、諸外国からの輸入に依存している日本であることも、識者のほぼ一致した見解であります。
 このまま石油危機が進行していけば、来年春ごろには、日本経済は大混乱に陥る。ここ数年、年率一〇パーセント前後の高度成長をつづけてきた日本経済も、来年はゼロ成長か、悪くすれば、マイナス成長にまで落ち込んでしまうのではないか、といった見方まででている。
 つまり、日本は、戦後最大の不況を覚悟しなければならない、というのであります。そうなれば、まさに乱世であり、ひたすら前進することによって成り立ってきた、いわゆる“自転車操業”といわれる日本経済にとっては、一種の国難であります。しかも、そのしわよせを受けるのは庶民であり、中小企業である。
 すでにその兆候は随所に現れている。悪徳商社による買い占め、異常な物価上昇、戦時中を思わせるような買いだめの動き、中小企業の倒産、悲惨な一家心中といった最近の世相をみると、あの戦時中から終戦直後にかけての混乱期を、思い出させるものがあるといってよい。なにか、殺伐としたトゲトゲしい空気が、この日本列島をつつみ始めたような感じさえするのであります。
 古来、歴史は繰り返すといわれますが、私どもが恐れなければならないのは、このような世界的不況のときには、必ずどこかに熱い戦争の火の手があがるということであります。中東の火種は消えたわけではないし、中ソの国境紛争も解決したわけではない。ラテン・アメリカや日本を取り巻くアジアの各国でも、緊張が緩和したわけでは決してありません。きたるべき一九七四年の世界は、なかんずく日本は、政治も経済も、まことに前途多難なものがあります。
 心ある人々は、日本の進路は間違っていた。もう打つ手がない。どうしようもない。日本だけの安定と利益をむさぼっていたやり方に対し、手痛いシッペ返しを受けている。もはや八方ふさがりであり、その深刻な波を防ぐ防波堤はなにもない――とみているようであります。
 もう一つは、日本の指導者は、経済的繁栄ということにのみ心を向け、他の一切のことについて、あまりにも無関心であった、ということであります。私の尊敬している、ある世界的な知識人は「日本はまだ精神の鎖国状態である」と嘆いておりましたが、私も、まさしくそのとおりであると思う。日本がこれからの国際社会のなかで、どのように生きていくかを考えるにあたっては、この“精神的鎖国状態”を打ち破らなければなりません。
 だからといって、経済問題を無視せよというのではない。“人間とは何か”“人間いかに生きるべきか”“世界の人々に対して日本はなにをなしうるか”といった基本的問題から問い直し、そこから正しく位置づけていくことが大切であると思うのであります。これこそ、回り道のようであっても、日本人にとって、もっともさし迫った課題であると、私は訴えておきたいのであります。
3  発想の転換
 よく発想の転換ということがいわれる。人類の進歩は、たえず発想の転換、もしくは、新しい着眼点を発見しつつ、それを起点としてなされてきたといってよいと思う。
 科学の世界においても、近世において天動説から地動説へと変転したのも、また二十世紀においてアインシュタインの相対性理論が生まれたのも、そこには大きな発想の転換がありました。
 人間というものは、とかく、既存の枠のなかに生きようとする習性のようなものがあります。そして、その習性は頑として心の奥に根をおろしていて、いったんそこから脱皮しようとすると、ものすごい勢いで引き止めようとする。これは個人においても、また社会のメカニズムにおいても、同じようなことがいえそうであります。
 日本という社会は、とかくこれまで、日本から世界をみてまいりました。個人においても自分を中心に据えて他人をみようとするものですが、他人の目をもって自分をみるということも、大切なことであります。これは、地球を中心として考えた天動説から、太陽という他の天体を中心として地球を見直した発想の転換に通ずるものがあります。日本を中心にして世界をみるのではなく、世界の客観的な目で日本をみつめ治すという発想の転換が、いまほど必要なときはないと、私は考える。
 発想の転換とは、的確にいうならば「人間の一念の転換」であります。この生命の一念の狂いが、じつは日本をこれほどまでにだめにしてしまった。いったい、だれの一念であったのか――ある人は派閥と私利私欲の藤に明け暮れ、ある人は学問の権威の座に坐して民衆を笑し、ある人は経済的利益のみを追い求めて諸外国の顰蹙をかい、ある人は評論家と称して、もっともらしい言葉で自分を粉飾し、ある人はエリートという気位に立って弱き人々をいじめぬいてきたのであります。この一切のエゴの激突のルツボと化した日本の姿を、再び鏡に照らして見直すべきではないかと思うのであります。
 “昭和元禄”と呑気に構えていた脆弱な一念が、昨今にいたって、脆弱な精神構造として、白日のもとにさらけだされてしまたといってよい。
 ともあれ、あらゆる指導者たちが、正しい一念に転換することが、いまほど緊急な時代はありません。しかし、それは単なる反省とか意識変革などで変わりうるものではない。思想を支配するものが生命の働きである以上、もっと根源的ななにものかを必要とするのであります。それを、私どもは知っている。現代の人間のもっとも正鵠な一念は、仏法の神髄による生命哲学に帰着しなければならないと思うのであります。
4  生命の尊厳と精神の自由を堅持
 更に、深刻さを増していく不況の時代にあって、もっとも憂慮すべきことは、単なる経済的苦境のみではない。私どもがなによりも恐れなければならのは、現在の様相が、あのナチスの台頭をもたらしたワイマール体制末期の状況に、あまりにも酷似しているという点であります。
 ナチズムの排撃される所以は種々あげられますが、それは、反対意見や異なった考えをもつ人を認めず“人間の尊厳”“精神的自由”を踏みにじったことが、その最大の理由であります。私は、これまでも生命の尊厳と人間精神の自由を守りぬくのが仏法であり、私どもの使命であることを、機会あるごとに訴えてまいりました。だが、再び高まりゆくこのような危機の時代に立ち向かうにあたって、私は、もう一歩視点をすすめて「生命の尊厳」と「人間の精神的自由」「真実の民主主義」をどこまでも堅持していくべきことを、私どもの信念として確認しておきたい。
 それは、第一に、断じて平和憲法を死守していくことであります。したがって「平和憲法擁護運動」を一段と強めていきたいということであります。特にこのことは、青年部ならびに学生部に託したい。(大拍手)
 次に、私どもの信教の自由を守りぬくことは当然として、更にたとえ私どもと異なった思想、意見をもった人々であったとしても、もしそのひとたちが暴虐なる権力によってその権利を奪われ、抑圧されそうな時代に立ちいったときには「人間の尊厳の危機」を憂えて、断固、それらの人人を擁護しゆくことを決意しなければならないということであります。
 たとえば、他宗教の人であれ、また宗教否定の思想をもつ人であったとしても、これらの人を守りたい。これこそが人間の不変的本質観の仏法というものがもっている理念の帰着あるからであります。これが「社会の年」に踏み堕した私どもの使命と銘記しおきたいと思いますが、皆さん、いかがでありましょうか。(大拍手)
 原典的になりますが、かの立正安国論の一節に「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」との御文があります。短い御文でありますが、現代社会の実相をズバリついております。やはり、激動の混乱期にこそ、千古の歴史をもつ聖哲の言に静に耳をかたむける必要がある。
 仏法上「鬼神」とは「鬼とは命を奪う者にして奪功徳者と云うなり」と御書にもあるごとく、生命自体を破壊し、福運を奪う“人間の内なる作用”であります。現代的に表現すれば“生命の魔性が跳梁することが「鬼神乱る」ということになると思います。
 仏法上の「国土」とは、もちろん自然的な国土も含まれますが、より現代的には“社会”という言葉に近いものであります。
 人間と自然とを含めた総体としての「国土」が乱れるときには、それ以前に、必ず人間のエゴ、いな、エゴよりもっと本源的な生命のもつ魔性が、底流として激しく揺れ動くのである。その結果「万民」――すなわち、あらゆる人々が狂乱のへと進み、やがてその国土は破滅の方向へと走っていくのである。ということであります。
 ゆえに、この「鬼神乱る」という生命の性向を解決する法をもたない以上、国土の乱れは直らない、という結論になります。この御文を亀鑑として現代社会をみるとき、鬼神乱るる様相が、いよいよ深刻の度を増しつつあることを、鮮やかに映し出しているのであります。
5  民衆のなかに“精神的広場”を
 ここで、話は変わりますが、本日発表された明年度の基本方針の一つに掲げられた“ヒューマン・プラザ”すなわち“人間広場”ということに関連して申し上げたい。
 もとより、人間広場といっても現実に“空間的な広場”をつくるという意味ではない。人口稠密の現在の日本の年に、市民が憩い、心の融和をはかれるような広場をつくるなどということは、よほど思い切った都市改造でもしないかぎり、不可能であるといってよい。私どもも、それを望みはするが、実際になしうるかどうかは、政治の分野の問題である。仏法者としての私どものなしうること、なすべきことは、そうした“空間的広場”の建設というよりも、人々の心のなかに“精神的広場”を設けることであります。
 だが、それはともかくとして、“広場”という概念のもつ本来的意味には、空間的広場たると精神的広場たるとを問わず、共通の理念がある。
6  “広場”の概念
 本来“広場”という概念は、日本人にとってはあまりなじみのない考え方であります。人間が高い密度をもって集まり住んでいる都市のなかに、住むためでもなく、かといって交通のためでもなく、建物を取り払った広がりを設けることは、現実主義的な観点からすると、いかにもムダなように思われるものであります。
 このように、一見ムダにみえる広場を、西洋の都市は古代ギリシャの昔から中世の都市を経て、現代の都市にいたるまでひじょうに大事にしてきたと思われる。ギリシャ都市国家においては、有名な“アゴラ”と呼ばれる広場が、常時、市民が集まり、取引をし、憩い、議論する市民生活の要の役を果たしていました。中世の都市においては、広場を中心に教会や市役所などの公共の建物が集まっており、やはり市民生活の必須の場を形成していたようであります。
 このように、広場というものの意義は、種々の物質的な効用以上に、市民の心のつながりをつちかう共同体精神の土壌であったわけであります。そこに集うのは“自主の精神”をもち“平等の自覚”に立った“自由人”であった。
 古代ギリシャ人がアジアのペルシャ帝国に対抗して、自らをヘラス、ヨーロッパ人と呼称したのは、なによりもアジア人、ペルシャ人が、一人の絶対的帝王に仕える奴隷的存在であり、自主の心をもたぬ“部品的人間”であるのに対して、自分たちは“主体性”と“自由”と“尊厳性”をもった“自立の人間”であるとの誇りを、そこに込めていたといわれる。
 中世ヨーロッパの都市の場合も同じであります。中世というと、封建社会という観念が先行しがちでありますが、そもそもヨーロッパの封建性そのものが“自由個人と個人とのあいだの契約”という原理にのっとっておりました。いわんや都市にあっては「都市の空気は人間を自由にする」とにもあるように、封建的なきずなから解放された“自由人の社会”であった。
 そうした“自主”“自由”“平等”の精神と自覚を持った人々によって、都市は営まれ、そのような個人が集まって秩序ある共同体を形成するための、心の連携の場として広場が生み出され、維持されてきたのであります。
 広場がそうした人間精神をつちかったことも事実のようでありますが、それ以上に大切なことは、そうした人間精神が起点となって“広場”を生み出したという点であります。
 一歩ひるがえって、日本を顧みるとき、では日本には、広場に該当するものはなかったかというと、そうではない。門前町が形成されるほど人々が集まった宗教的聖地にも、必ず本殿にいたるまでのあいだには、森厳な木立につつまれた境内などがある。皇居前の広場などもその一つであり、明治神宮には広大な内苑、外苑が設けられております。
 だが、これはある評論家も指摘しているところでありますが、これらの広場はヨーロッパの伝統的な広場と、根本的にそのもつ意味が異なる。つまり、いまあげたような日本の広場は、“聖なる地”と“俗界”とを分かつための距離をおくことに元意があり、更にいえば“俗界”から“聖なる地”に詣でる人々に峻厳な思いをいだかせ、俗塵を払い落とさせることが目的であったのであります。
7  自主平等の場を復活
 私どもが築こうとする広場とは、このような民衆を退けるための広場ではない。あらゆる人々が“自主”“自由”“平等”の自覚において集い、討論し、楽しみあう“民衆の広場”“憩いと潤いと復活の人間広場”のことであります。
 権力がますます強大化し、人々が巨大な管理社会の中で部品化しつつある今日、人間共和の場としての広場を生み出してきたヨーロッパにおいても、その本来の意味の広場は、形骸化しているといっても過言ではありません。
 これはある書物で読んだものでありますが、ポーランドでは十世紀から数世紀にわたって、ラテン語がかきものに用いられた唯一の語であったそうでありますが、十三世紀にポーランド語で書かれた最初の文が、ある修道院の財産目録中に発見された。その文というのは、一人の百姓が臼をひいている妻をみて「貸しなさい。私が挽こう。あなたは休むがよい」という内容であったのであります。この「貸しなさい。私が挽こう。あなたは休むがよい」とのひとことに、時代を超越した人間のあたたかさが、私には感じられてならない。
 このあたたかい素朴な心の共感が、現代に再発掘されるべき人間のふるさとではないかと、私は思うのであります。このあたたかい心が、仏法という真実の人間聖、人間愛の強靱な核をもったときに、人間広場は、あらゆる国々に広がっていくことでありましょう。
 私どももまた、かつて古代ギリシャ人が自負したごとく、真の“自由人の集い”としての共同体を形成しゆく前駆は、生命の信仰から蘇生の水脈を得た私どもであると確信して、生命の縁したたる共同の広場を、朗らかに、和気に満ちて、人々の心のなかに開拓し、構築してまいりたいと思いますけれども、皆さん、よろしくお願いします。(大拍手)
8  仏法は現実の大地に開花
 次に「社会と仏法」という問題について考えてみたい。これについては「大白蓮華」の新年号でも、てい談を行い、そこに種々論じておきましたので、ここでは、一点についてのみ申し上げたい。
9  法華経こそ現実変革の哲学
 「白米一俵御書」に次のような一節があります。「妙楽大師は法華経の第六の巻の「一切世間の治生産業は皆実相と相い違背いはいせず」との経文に引き合せて心をあらわされて候には・彼れ彼れの二経は深心の経経なれども彼の経経は・いまだ心あさくして法華経に及ばざれば・世間の法を仏法に依せてしらせて候、法華経はしからず・やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候」との御文であります。
 法華経以外の経というものは、「世間の法」すなわち「社会」というものと「仏法」を別々に考える。または「世間の法」の奥深くに仏法がある。あるいは「世間の法」は、仏法に依存していると説いている。ところが、法華経においては「世間の法」と仏法がそのまま一体である。「世間の法」が仏法の全体である――と明示されている御文であります。
 このように、法華経という仏法の最高峰にあっては“仏法と社会”という両者の関係を、もっとも緊密なものとして、というより更に一体なものと示しているわけであります。
 そのことに関して、仏法が取り組んできた“生老病死”の“四苦”という観点から、少々論じてみたい。
 ご承知のように、仏法においては「生まれ出る苦しみ」「老いる悲しみ」「病む悩み」「死の恐怖」という“四苦”に代表される人生の苦というものをみつめ、それをどう解決し、乗り越えるか、というところに主眼点をおいている。
 釈迦の出家の動機が、この生老病死の四苦との対決というところにあったのであります。いうまでもなく、生老病死は、生命の本然のものであり、いかなる人といえども、これをまぬかれることはできない。しかしながら、人々はこの生命の現実から目をそらして、ただ目先の栄誉や富、権力を追い求めております。
 所詮、自己の生命の無上流転を解決せずして、いかなる権勢、栄栄華を誇ろうと、それらは、砂の上に築いた楼閣であり、幻影であり、必ずや、はかなく消え去っていくものであります。
 この生老病死の四苦の解決のために、仏法はいかなる法を説いたか。自己の生命を“空”に帰することによって、生老病死の無常の輪廻を脱却し、いわゆる涅槃の境地に入るのであると教えたのが、小乗仏教であります。
 これに対して“生死の輪廻”という無常の現象に即して、常住の実在を見いだし、そこに立脚することによって、生死に支配されない不動、不壞の境地を生命に確立しようとしたのが、大乗仏教でありました。
 したがって、小乗仏教がその教えをつきつめて実践していくならば、現実を否定してしまうこととなるのに対し、大乗仏教なかんずく法華経は、現実を現実として認めつつ、それを生命本源の真実相と覚知、顕現することにより、生死流転に支配されない人間の不動の本性を確立し、人間のあらゆる営為に常住性を与えていこうとするものであります。
 すなわち、法華経こそ、現実に真っ向から取り組むことにより、現実を変革しようとする革命の哲学であるということができる、と申し上げたい。
 ここに、法華経のみが、“現実変革の哲学”であるという所以は、法華経以外の大乗仏教も、現実変革への志向性はもちながら、いまだその根本の鍵である人間生命の変革の哲理が明らかにされていないからであります。究極的な生命変革の哲理は、生死流転の変化相を起こしている根源の実在――すなわち南無妙法蓮華経という一法の覚知に尽きるのであります。これを教相――教文のうえからいうならば“二乗作仏”“十界互具”が明かされて、はじめてこれまで生老病死に支配されていた生命存在である九界が、そのまま、内なる妙法を覚知することによって、生老病死を超えた常住の当体となることができるのであります。
 ここに、無常の波の水平線上に“元初の太陽”が昇り、暗き不気味な世界は、一転して、近波、銀波の躍る世界を現出したのであります。
10  仏法で現代社会を蘇生
 少々むずかしい話になりましたが、要するに、私どもの信奉する妙法の大仏法は、社会と人生の現実から離れたところに、なにか超越的な悟りの境地を求めていくものでは絶対ない、ということであります。また、そうであってもならない。泥まみれになって生きていく、庶民の生活と社会の現実のなかにこそ、開花されていくものであることを明確に自覚せよ――という哲学なのであります。
 社会、文化、経済、政治、教育などのすべての生命活動の所産が、とりもなおさず、人間生命の尊い発露であるならば、人々の生命の奥底を説き明かした法華経の哲理が、現実生活のすべての側面に力を発揮するのは、むしろ当然のことといわなければなりません。
 ともかく、“法の華”は別天地に咲くのではない。この現実社会という大地に、強く強く根を張り、咲き薫るのでありすま。真実の仏法というものは、人生の生老病死という四苦から離脱するのではなく、これに真っ向から取り組むことによって「社会的生命」「文化的生命」の“師”たる地位を獲得したのであります。
 したがって、もし社会、文化などが所期の目的と責務に反し、人間の生命を守るのではなく、かえって、個の四苦を増し、形式化し、または権威化に変貌した場合にはまったく本末転倒であります。このときは、仏法のもつ英知と慈悲が、社会を蘇生させ、改革の推進力となっていく使命があるのも、この両者の関係からすれば当然であります。そして、現代はまさにその時代であると、私は申し上げたい。
 「仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり」との御文を、仏法をたもつ私どもの現代社会の蘇生に取り組むべき主体的な決意をうながされたものと受け止めつつ、来る年も来る年も、日々の実践行動を、聡明に、しかも地道に、粘り強くつづけていっていただきたいと、こころからお願い申し上げるしだいでございます。(大拍手)
 轟音を立て、うねりゆく現代社会のあらなみのなかにあって、根無し草のごとき波のまにまに漂う人は、信用されない時代となった。いまこそ、地についた新年と責任と至誠の人々が、正当に評価されるときとなったことを、皆さんは確信しぬいていっていただきたい。
11  「家庭」を盤石な城と築け
 次に、社会といえども、個々の人格の有機的集合体であり、人間を離れては社会はありえない。その社会の最小単位の一つとして家庭があるのであります。
 家庭は、一個の小社会であり、教育、経済、政治など、文化のあらゆる機能を、小さいながらも具えている。その家庭を守り育て、そこに「常楽我浄」の薫風を吹かせていくことが、そのまま仏法の社会における実証となっていくことを知っていただきたいのであります。
 家庭における堅実な勝利の集積が、大きくは社会の変革を築くものであり、家庭という城を堅固にせずして、仏法即社会の原理もあらわれないのは当然なことであります。
 私が家庭を強調するのは、決して社会と没交渉のマイホーム主義を説いているのではない。個人と社会の接点となる存在として、社会へ積極的に働きかける「開かれた家庭」をめざすゆえであります。一家和楽の団らんの園を築きながら、かつ社会への光景をめざして創造的な前進をつづけるとき、はじめて家庭には、脈々たる生命がみなぎり、同時に社会もまた、不動の基盤のうえに、着実な発展をなすことができると思うからであります。
12  職業的革命家方式の限界
 ともあれ、私どもの遂行している運動は、末踏の宗教革命運動であります。この改革運動のあり方もまた、いまだかつてないものであるといってよい。歴史上、数しれない革命運動が行われてまいりました。そこには、つねに職業的革命家に属する人々がいて、革命のリーダーシップをとり、大衆は、それを側面から支持し、あるいは経済的に応援して、革命を遂行してきたのであります。
 大衆から援助を受けている職業的革命家集団は、自らの生活というものを抹殺して、それこそ一日二十四時間、革命運動に没頭することになる。この職業的革命家と大衆二重構造をもちながら、運動を継続してきたのが、従来の革命の代表的な図式であります。
 労働者を糾合して、勤労大衆による変革を標榜してきた共産主義革命においても、やはり職業的革命家が組織活動に専従し、イニシアチブをとってきたことは疑いないところであります。そこには、明らかに二重構造がみられる。
 この方式は宗教運動においても同様であった。キリスト教においても、宣教師がいて伝道をもっぱらにし、一般信者は自らの信仰と宣教師への財産的援助を受け持つという、大まかな色分けがなされている。また、仏教においても、布教は出家の信徒であることをあらわす檀那という言葉は、布施をする人という意味であることは、皆さんもご存知のとおりであります。
 このような従来の職業的革命家に依存した革命というものは、彼らが二十四時間、自らの生活とは離れた次元で活動しているゆえに、その理論は、庶民の生活感情と密着したものとはなりがたい恐れがある。したがって、机上の空論に陥ったり、いたずらに理想主義に暴走したりする。そして、それが行動に現れるとき、どうしても急進的とならざるをえないというのが傾向のようであります。
 過去の幾多の革命が血を呼び、あるいは玉砕主義に陥ってきた例を、私どもは知悉しておりますが、その遠因の一つには、このような革命方式の傾向性にもよるのではないかと思うのであります。
13  「一家和楽」の平和革命方式
 これに対し、いま私どもがとっている平和革命の方式は、このような二重構造を否定し、止場(アウフヘーベン)したものであります。すなわち、庶民大衆が自らの生活時間の余暇を有意義に活用して、改革運動を粘り強く継続していくことによって、生活と密着した現実的な改革を可能にしようとするものであります。
 しかも、生活を犠牲にするのでないゆえに、永続性もあるわけであります。仕事や家庭から離れたところに革命運動があるのではなく、仕事や家庭そのものが、そのまま活動の場であり、対象となっている。
 いま、私どもが家庭を大事にし、職場を大切にすることを強調するのもこのゆえであり、しかも、民衆のために説かれ、樹立された日蓮大聖人の仏法の本義からいっても、当然の帰結でもあるわけであります。
 したがって、私どもは長い転教の旅路にあたって、職業的革命家を気どる必要もないし、また、そうあってはならない。家庭を大切にし、粗末にしたり、職場を放擲するようなことは、むしろ「悪」であり、持続的な開拓運動の妨げとなるものとして、強く戒めなければならないところでありすます。
 むしろ「仕事」「家庭」を盤石にしつつ、余裕をもって活動を展開していく生き方こそが、人類史上、いまだかつてない完璧な運動方式であると、私は確信するものですが、皆さん、いかがでありましょうか。(大拍手)
 ともかく、私の心からの願いは、皆さんが毎日、さわやかな笑顔で、家庭を遊楽の田園としつつ、悠然と同心の共戦を繰り広げていくということ以外にありません。
 「一家和楽の信心」ということは、創価学会の永久の指針の一つであり、全会員一人ひとりがどうか明年は、特に「家庭」という場で、不動の実証を示していくことに、全力を傾注していただきたいのであります。
14  二十一世紀へ平和の大潮
 更に、私どもは、一個の人間にはじまり、家庭とそれをとりまく小社会、あるいは地域社会へと向かい、日本という地理的、歴史的、文化的な一つの社会、より広範な人類全体を包含した地球社会的な社会、そうした総体的な社会というものを考える必要があります。
 人類は一つである――いや一つのものの多様性でありるとするならば、人間という共通のベースに立脚して、多様性を生かしつつ、より大きな視野を広げていくことが可能であります。すなわち、言語、膚の色、習慣、文化的伝統がいかに異なっていっても、人間として共通であるという、世界市民的自覚に立った「社会の年」でなければならない。
 その意味で「社会の年」とは、異なる生活形態をもつ人々および社会との「相互理解と積極的交流の年」と開かれていかねばならぬということを、私は痛感するのであります。
15  「日蓮正宗国際センター」を設置
 この点につきましては、すでに本然、いくつかの重要を布石もし、かつ世界各地の日蓮正宗会員の機運のめざましい盛り上がりをみております。すなわち、本年五月にはヨーロッパに「ヨーロッパ日蓮正宗会議」の設置をみ、八月にはアメリカに「パン・アメリカ日蓮正宗連盟」が、またこの十三日、東南アジアに「東南アジア仏教者文化会議」が自主的に結成されました。そして、そうした具体的な日蓮正宗信徒の交流に応えるべく、日本においても、これまでの「海外本部」を「国際本部」としましたが、将来は更に、仮称「日蓮正宗国際センター」を設置して、名実ともに世界平和推進にあたる機構とするようにしたい。
 この「国際センター」は、独自の法人として、海外各日蓮正宗との連絡、指導員の派遣、出版活動、その他各種活動の援助にあたろうというものであります。建物も東京・千駄ヶ谷に現在建設中で、明年春に完成し、そこを中枢拠点として、いよいよ本格的に、海外発展のために取り組んでいきたいと思っているしだいであります。
 いうまでもなく、世界覚知の日蓮正宗の状況は、国により、地域によって、その進展の段階は千差万別であります。また、仏法を受け入れる機根も、国柄により、民族的性格によって、更に多様であります。したがって、海外の仏法流布ということは、一つの中枢から強力な指示によって行われ、推進されるというものではなく、あくまでも、その国の人々の自主性と情熱、責任感によって進められるべきであります。いな、これは海外の問題のみならすず、日本国内においても、まったく同じであり、仏法流布というものは、かくあらねばならないと思うのであります。
 ゆえに「日蓮正宗国際センター」の基本的性格も、各国の現地の主体性を尊重し、これを根本としつつ、これを支援し、守るということに重点をおくことになります。
 海外各国の日蓮正宗組織は、まだその一つ一つをとってみると、会員数も少なく、出版活動などにしても、十分な仕事ができる規模にまでなっておりません。
 しかしながら、今後の息の長い仏法流布のためには、出版物が強く要請される。そうした点について“兄弟組織”として私ども創価学会の支援が、強く求められるわけであります。「国際センター」が、その推進の任にあたるわけであります。
 私もまた、そのような意義からも、明年は世界各地に出かけていって、同志を激励し、応援してあげたいと考えておりますければも、よろしいでしょうか。(大拍手)留守中は日本の国をよろしくお願いします。(笑い)
 海外同志の求道心、またその国々の広宣流布をめざす使命感と責任感の強さは、ごぞんじのように、目を見張るものがあります。一般に、日本人はこの小さな島国のなかで、自分たちだけをよしとする独りよがりの気分に陥る傾向がありますが、日蓮大聖人の仏法は、世界の仏法であります。少なくとも、この仏法をたもった私どもは、世界的視野に立ち、世界の人々と同じ家庭であるという“開かれた心をもつ国際人”として、世界の人々の幸せと、真実の人間共和の世界をめざしていきたいと念願するものであります。(拍手)
16  胸中に太陽輝く人間王者に
 ここで、私どもが朝な夕な読誦している寿量品第十六の「自我偈」およびそれに関連して少々申し上げておきたい。
17  大宇宙と等しい壮大な人間生命
 自我偈とは、御義口伝によれば、自身およびその展開であるということであります。
 すなわち「自我偈始終の事」には「自とは始なり速成就仏身の身は終りなり始終自身なり中の文字は受用なり」と説かれております。自我偈は「自我得仏来」に始まり「速成就仏身」の「身」とを取りいだされて大聖人は、自我偈とは始終一貫して“自身”つまりわが生命のことを説いたものであると申しておられるのであります。その「中の文字は受用なり」の「受用」とは「受け用いる」と読みます。
 つまり自我偈の文々句々は、一切が自身の生命の内にある自在なる力の発現を説いたものであるということであります。更に御義口伝の次下には「法界を自身と開き、法界自受用身なれば自我偈に非ずと云う事なし」と述べておられます。
 法界とは宇宙ということであります。したがって、この御文は全宇宙そのものが「自我得仏来」なし「速成就仏身」と説きあらわされた生命の当体であり、全宇宙の働きはその生命の脈動にほかならない、という意味になります。
 わが生命を貫く法も、全宇宙を貫く法も寸分も違うものではない、との仰せであります。ほが生命の内に全宇宙の生命と等しい壮大な力がそなわっているという意味なのであります。
 十九世紀のフランスの文豪、ビクトル・ユゴーは「大洋よりも一層壮大なものは大空である。大空よりも一層壮大なものは人間の心である」と述べました。しかし仏法においては、らさに一歩進めて、わが心、すなわちわが生命は大宇宙と等しく、壮大であることを説きあかしているのであります。
 確かに外観からすれば、私どもの生命は一メートル数十センチの、この肉体の内に閉じ込められたものであります。だが一歩、探索の光を生命の内側に向けるならば、個の生命は、意識の領域を超えて、無意識の世界へと広がっていることが看取されるのであります。こうして個としての人間生命の内面は、他の人々や動物、植物とさえ相通じ融合している事実は、精神分析学などによっても明らかにされている、もはや動かしがたい真理となっております。
 これこそ仏方が三千年の昔に洞察し、説き示してきた根本義であり、本来、仏法はわが生命の内なる法も、大宇宙に遍満する法も等しいものであることを達見しているのであります。そうして、仏法のめざすところは、畢竟、自己の生命の内に脈打つ大宇宙と連動した大生命を顕現することに尽きるのであります。
 この人間生命の内なる無限の力に光をあてた仏法思想の興隆こそが、現代文明を止揚しうる唯一の道であると、私は深く考えるのでありますが、いかがでありましょうか。(拍手)
18  人間原点から再出発
 先日、フランス生まれのアメリカ人で当代一流の科学者ルネ・デュボス博士と会見いたしました。この方については、トインビー博士からも一度会ってみてはと勧められていた方であります。
 生死の問題、人生のこと、これからの世界のこと等々、種々、有意義な会話ができました。そのなかで私は「共産主義、資本主義、民族主義などのイデオロギーは、二十一世紀にはどうなっていくであろうか。また、どれがいちばん理想的な人類救済の道であるか」という意味の質問をいたしました。博士は「大変むずかしい質問ですね」としばらく考えて、次のようなことを申されておりました。
 「これからのすべての主義というものは、もはや創造的な力にはなりえない。それは、これらの主義にみられる人間のとらえ方が、根本的に経済的、政治的であり、より基本的、普遍的な“人間の欲求”には、目を向けてないからだ。つまり、すべてが他を攻撃することだけに終始して、あまりにも独善的になりさがっている。二十一世紀に我々がしなければならないことは、この基本的、普遍的欲求の原点たる人間というものを再発見し、それを満足させるかたちで、社会の制度を、その人間の欲するもっともふさわしいように組織しなおす必要がある」という意味のことを述べておられました。
 私はこの答えを聞いて「私も前から、二十一世紀は“生命の世紀”としなければならない、と主張してきました」と述べましたところ、博士は深くうなずいておられました。
 一対一の責任ある発言をとおして、博士と私とは「人類はもう一度、人間と言う原点に帰らなければならない」という一点について、深い確信をもって意見が一致したのであります。
 どうか私どもの人間開発の真摯な戦いこそが、二十一世紀を開く大運動であり、後世の人々が必ずや絶賛を惜しまないであろうことを強く確信して、誇り高く来年もがんばっていただきたい。
 なお、きょう、あすの現実の社会には不況のあらしが吹き荒れております。その渦中にあればあるほど、唱題によって内なる宝を顕現しつつ、生活設計を磐石にして、強靱な生命力でこの現実を生きぬいていっていただきたいのであります。
19  人間党の旗を掲げて
 佐渡御書の一節に「おごれる者は必ず強敵に値ておそるる心出来するなり例せば修羅しゅらのおごり帝釈たいしゃくめられて無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し」とあります。この一節に私は、万感の思いを込めて皆さんへの願望を申し上げておきたい。
 おごり高ぶる心は、いざというときには必ず挫折して、小さな垣根に自己を囲ってしまう。自らを守るかにみえたその垣根も、ひとたび苦難の波浪が押し寄せれば、もろくも崩れ去り、無熱地のの中に小見となって隠れた修羅のおごりのごとく、安逸の人生の夢敗れて、悲哀の人生へと転落するにちがいない。不屈の忍耐と勇気に満ちて不動の新年の正道を往くものこそ、揺るぎなき人間の王者といってよいのであります。
 その人間には虚飾の冠は毛頭必要ない。見栄や形式、権威もいらぬ。更に机上の空論も必要ない。それらには胸中に輝くであろう人間究極の魂の太陽の光線は、もはやないことを、私はよく知っているからであります。
 私はあらゆる生き物を巻き込んで荒れ狂う醜い社会の濁流は、もとより覚悟のうえであります。正しき者をねたみ、陥れ、苦悩を浴びせかける陰険な罵声も、決して新しいことではない。一点の光も灯さぬ邪見の暗闇がいかに暗く、深くとも、その本源を私どもは仏方の鏡に照らして知悉しております。
 わが広宣流布に生きぬく丈夫は、再びスクラムとスクラムを組み直して「人間党」の旗を高らかに掲げながら、新たなる人間世紀の開拓の労作業を、朗らかにまた来年も私といっしょに開始してください。(大拍手)
 最後に、皆さま方に、どうかよいお正月をお迎えくださいと申し上げ、私の話を終わります。(大拍手)

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