Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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学生部結成16周年に寄せ 民衆凱歌へ不惜の転教

1973.6.30 「池田大作講演集」第5巻

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1  結成満十六年、この新たなる前進の日を機として、更に進みゆくことを心に期し、この一文を送りたい。
2  妙法広布の革命の河は、奔流となって、険しき幾山河を駆けぬけ、いまや、第二章という広宣流布の、革命の大河となった。この河は、世界の人々の心を貫く未来永劫に向かって、限りなく流れてゆくことであろう。
 共戦の、若き俊英の友どもよ、この生命の大河の運航を担うのは、君たちだ。人々の苦悩を洗い、文明の新しき潮騒の動因となって、君たちは、更に舵を握りしめて、こぎ進んでもらいたい。
 J・B・S・ホールデンは「現代は世界的変革の途上にあるとも、或いは核戦争によって、突然終る一つの歴史時代の終末期にあるとも、どちらにも規定することができる。そのどちらかであるか、私は知らない」と憂い、叫んでいる。
 ともかく璞は、君たちのために生きる。ただ、君たちの、道を開くために総力を込めて生きる。
 僕の遠征の暦は、二十七星霜。激流のなかで戦う同志を見るとき、一日一刻たりとも逡巡は許されなかったのだ。
 二十七年は、束の間のようにも思える。広布の激烈な劇には、安逸の幕間はない。ただあるのは、のない舞台で、次のドラマを演ずる孤独な不惜の精進だけであった。
  僕も起つ 君も立て
  僕も学ぶ 君も学べ
  ともに鍛練し合って 師子となって 奮い起とう
3  学生部が呱々の声をあげたのは、十六年前のこの日。一九五七年六月三十日――以来、平坦な直線道路は、なかったかもしれない。しかし、いまは、幾多の英才が雄々しく巣立っていった。生命哲理運動の潮流のなかに、多くの先輩たちは飛び込み、自らをみがき、信心の年齢を幾重にも刻んだのだ。
4  十六年前のあの日、僕は、北海の地にいた。吹き上げる人間讃歌の声を阻む、かたくなな勢力は、あの時も怒濤となって荒れ狂っていた。
 僕は、青年として戦った。青年らしく、貧しき人々の家々を訪ね、窓辺に勇気の花を咲かせ、心の暖炉に希望の火を赤々と灯した。この人々のために、僕は邪な行為を憎んだ。分厚い壁を前に、一は歩も退くことはできなかった。
 北海の原野には、遅い春が束の間に過ぎ、初夏の足音が、街々に響き始めていた。太陽の輝きを仰ぎ、北斗の星を仰いで、僕は駆けずり回った。友の額に流れる汗に励まされ、その汗を、断じて勝利の栄光の汗にするために、僕は祈った。
 東京に、恩師のもとへ、英知の集いがあったのは、まさしくその渦中である。この法戦の最中で、学生部は出発したといってよい。
 君たちよ! この歴史の鋭い刻印を永久に忘れないでほしいのだ。
5  学生部誕生の様相は、その前途を十分に物語っていた。ひたすら民衆による、民衆のための、民衆の凱歌の先駆に、身をゆだねることこそ、君たちの誕生の意義であるといってよい。そこにこそ、やがて、民衆と歴史の感謝と賞讃の声が残りゆくことであろう。
 万感の思いやみがたく、僕は、そのとき集った五百人に、長文の祝電を送ったことを覚えている。
 そして、三日後。僕は、邪悪な権力の魔手に牢獄の捕らわれの身となった。しかし、師とともに戦いぬいた真実の声は、無実の罪の証となって現れた。
 僕は、忘れない。あの日のことを。
 僕は、詠んだ。
  出獄と 入獄の日に 師弟あり
  七月の 三日忘れじ 富士仰ぐ
 東へ西へ、邪悪なる行動の蹂躪が始まった。僕は、一歩も退かない。なぜならば、君たちの征く新天地を切り開き、ひのき舞台を、線から面へ広げることのみが、僕のすべてであったからだ。
6  人材。破壊の曲を、創造の調べに変える作業。前進に加速度を増す人材。いっさいが人間で決まる。僕は、その育成に全魂をそそぐ。その成長にすべてをかけた。
 人を育て、時を待ち、時をつくる。
 まことの時とは、自らの意志と努力で勝ち取るものであるにちがいない。まことの時とは、自らが決めて戦うことに帰着する。だれびとが決めるものでもない。座して瞑想にふけるよりも、祈って、動いて、書いて、話して、生涯、人々の心のを開き、心に崩れぬ平和と幸せの砦を、構築しゆくのである。この現実のなかにのみ、正義があろう。
 学生部結成から十六年を振り返るとき、僕は、若き友の紅潮したあの顔を、この顔を思い出す。諸君の先輩は、僕とともに、令法久住の軌跡を、完全なる行動で、鮮烈なまでに描いてくれた。君たちも、この伝統を受け継ぐ、そうした一人であってほしい。
 若々しい敏感な、英知の魂は、広布の回転軸だ。六代にわたった学生部長、この歴代の知性と信仰の闘将は、若き学徒とともに、青春の建設の譜としるしつつ、世界に仏法のキャンバスを広げた。白い布地に、新しい躍動の、生命の筆を走らせる者――それは、もはや君たちしかないからだ。
 パリ大学に、ロンドン大学に、ハーバード大学、カリフォルニアのバークレー校、そしてアジアの諸大学に、筆もつ若鮎が、民衆の群舞を描いている。僕は、彼らと会い、心を結んだ。この時に想起するのは、そう、妙法哲理の大学・学生部の存在は、世界へと回天している、ということであった。
7  巷間、世の人々はいう。価値観の崩壊をまえに、生きる意志に迷う学生は「もはや無頼の徒である」と。この笑と侮の声を浴びて、自らも無頼の徒と冷笑する学生たち。
 彼らをして、確信する――なにものもなく、生きる証を失わせたものは、いったいだれなのか。社会はあくまでも非情であろう。人類の醜悪な歩みを、いまに凝縮して噴出させている現代。汚れない。青年の心情を、暗くしていることはいなめない。世直しの運動は、強力に持続しなければならない。
 しかし……。僕は、あえていいたいのだ。「決して無頼の徒であってはならない」と。自らをそう決めるのは、だれでもない。自分自身である。君たちは、その桎梏を取り払おうと立ち上がった使命の人である。
  君たちよ わが道を惑わずに
  欣然として進んでくれたまえ
  僕は清純な鼓動を信ずる
 君たちは、限りない可能性を背光に、模索の果てに、久遠の生命を探りあてた、開道の人なのだ。いかなる時代、いかなる体制になろうと、一個の人間の生命に光をあてた仏法――ここに、いっさいは帰し、いっさいは始まる。もはや逡巡も惑いもない。
8  「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をせよ、父母の頸を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし
 転教の遠征に、我らがたずさえるものは、この死身弘法の誓いをおいてないだろう。大難と戦い、諸難を乗り越えて進む、我らの前途を照らすものは、殉教の誉れである。
 はるか広宣流布の第二章の遠路を歩むいま、君たちは、十六年の節を刻んだ。寿量十六は、迹門がら光輝満つ本門の展開を約束する。信仰の徒として、生命の世紀へ、限りなく、ひたすらに、ともに進もう。
 先駆者の歴史を拓く偉大な作業には、批判、中傷は、むしろ快い。それは、前進の帆にはらむ風であり、大樹となる肥沃な土壌を、提供してくれる。
 長期的展望に立つ明晰な諸君に、一時の嵐がなんであろう。井中より星を視るような狭量な生き方は、青春乱舞には、微塵もあってはならない。
 「君もひとたび決めた信仰の旗を生涯、振り続けたな!」――と、最後の最後の人間勝利の日を、ともどもに語り尽くそう。座して敗れる人となるより、撃って出て、誉れ高き人間行動のドラマを、見事に繰り広げよう。
  究極の英知をたもった色心の力を
  この世で徹底して試してくれたまえ
 僕は、この意味で、創価学会学生部史の編纂を提案する。必ず、この偉大な学徒の陳列より、世に逸材が出ることを信じている。新しい歴史は、再び綴られていくことであろう。まさに、本格派が躍り出る時である。
 ともかく学生部結成十六年、おめでとう。ほんとうにおめでとう。
 一九七三年六月二十九日午後四時四十五分 聖教本社にて

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