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日蓮大聖人・池田大作

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年頭所感 行学の二道

1973.1.1 「池田大作講演集」第5巻

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1  希望あふるる立宗七百二十一年、昭和四十八年の新春のお慶びを、全学会員の皆さまに心から申し上げます。
 いまこうして迎えた新しき年「教学の年」が、私どもにとって、いかなる意義をもつかについては、昨秋の第三十五回本部総会で、縷々申し上げたとおりであります。したがって、再び、それをここに繰り返すことはいたしません。ただ、正本堂完成をもって、見事にその掉尾を飾った広布の第一章の事業において、皆さまよりお寄せいただいた不惜身命の信心の真心に、私は衷心より御礼申し上げるものでございます。正本堂に象徴される、この第一章の偉業の成果は、ことごとく皆さまのものであります。そして、私どもの誠意によって完成をみた正本堂の須弥壇に厳然と大御本尊が常住せられるように、私どもの献げた浄信の誠は、いっさい大御本尊に通じていることを確信してください。
 更に、正本堂の落慶をもって始まった第二章の戦いも、すべて大御本尊の冥の照覧あることは、もとよりのことであります。どうか、これまでにいやます深い信心に立ち、力強く行学に励みゆかれんことを期待してやみません。
 創価学会は、日蓮大聖人の仏法の研鑚と、この大仏法の信仰を人類社会に流布することを目的として生まれた団体であります。創価学会の使命、そして生命は、この目的への実践なくしてはありえないといっても過言ではないでありましょう。
 諸法実相抄に「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ」との有名な御文があります。この御文を、創価学会総体として拝するならば、仏法の研鑚、すなわち教学と、広宣流布への実践、すなわち行とが絶えてしまったならば、創価学会の生命はありえないと読むことができます。また、個人の生き方のうえで拝すれば、教学の研鑚と自行化他にわたる実践を忘れたときには、その生命に内在する仏法、すなわち仏界の顕現はありえない一生成仏はありえないとのご教示であります。
 したがって、個人においても、創価学会の組織にあっても、この行と学は、車の両輪のごとく欠かせぬものであり、ともになめらかに回転していなければなりません。もし、これらの一方でも欠けたり、回転が止まったならば、個人にあっては一生成仏へ、組織にあっては広宣流布への前進は不可能となるのです。逆にいえば、この行学に地道に、真剣に励んでいる人の生命の庭には、妙法の華は爛漫と咲き乱れ、その五体のなかに創価学会が厳と存在しているということができるのです。総会の講演で「皆さんのなかに創価学会があるというふうになってほしい」と申し上げたのも、せんずるところ、一人ひとりが、いかなる境涯にあっても、この行学の二道を持続する大信者であっていただきたいということにほかなりません。
 新池御書にいわく「有解うげ無信むしんとて法門をば解りて信心なき者は更に成仏すべからず、有信無解とて解はなくとも信心あるものは成仏すべし」と。
 いうまでもなくこの御文は、解すなわち教学と、信心とを対比して仰せられたものであります。同じく行つまり実践と、信心との関係でいえば、実践があっても信心がなければ、その実践は空転となりましょう。成仏の鍵は、御本尊への強い信心であって、行学ともに、その根底に信心を欠くならば、成仏はかなわないとのご教示であります。諸法実相抄に「行学は信心よりをこるべく候」といわれているように、ほんものの行学を起こすみなもとは信心です。そして、その信心より起こった行学の実践は、ひるがえって信心をより強固にし、深めることになります。
 それでは「解はなくとも信心あるものは成仏すべし」だから、教学をしなくとも、信心さえあれば成仏できるのか、といえば、それは誤りです。この場合の“解”とは「法門をば解りて」とあるように、勉強した結果としての理解や知識を意味します。勉強しようとする情熱、真剣な求道心は、それ自体が信心なのです。したがって、この御文から、解はなくてもよいのだなどと考え、教学の求道心を忘れたならば、信心を捨てるのと同じになってしまうことを知らなければなりません。
 理解力や記憶力は、人によって、それぞれ個人差があります。それは信心とは無関係の、個人の能力の問題といってよいでしょう。平等大の仏法は、そうした能力の差異によって、成仏の可否が決まるものではないのです。だが、解を求めようとする情熱、つまり求道心は、理解力や記憶力といった能力的条件や、その人のおかれている環境的条件にかかわりなく、ただその人の信心によって、いくらでも強く燃やすことができます。ゆえに成仏への客観的条件は、どこまでも万人平等であり、ここに仏法の偉大さと、あらゆる人を包含する広さ、そしてかぎりない深さがあることを知っていただきたいのであります。どこまでいっても、ここですべて解ったなどという限界はないのです。むしろ、進めば進むほど、その深さ、大きさが実感され、いよいよ求道の心が高まっていくのが仏法なのです。
 ここで、更に、なぜ教学が大事なのかについて考えておきたい。
 まず、自己の信心に約した場合、もし教学を学ばなければ、御本尊の偉大さもほんとうの意味ではわかりませんし、毎日の勤行も、歓喜も確信もない、形式だけのものとなってしまいます。自己と対決する厳しさのない信心は惰性の信心であり、自身の人間革命などはありえないでありましょう。
 大乗仏教は、法を流布し、人々を救うという、外に向かった姿勢を特徴としますが、その外へ向かうエネルギーは、自己の内における対決と自身の人間革命という、凝集した力の核が淵源となることを知らなくてはなりません。
 仏法は、そのすべてを理性でとらえることはできませんが、理性のおよぶかぎりにおいては、理性に合致したものでなければなりません。懐疑は避けるべきものではなく、対決し、乗り越えるべきものです。この試練と超克の年輪を重ねてこそ、大樹のごとく、厳として信仰を貫く、大信者の自己を確立できるのです。まして、この妙法をもって不幸の民衆を救い、仏法哲理を時代精神、世界精神たらしめようとする私たちにとっては、現代人にいかにして仏法を理解せしめるかが、もっとも重大な課題であります。人に理解されるためには、まず自分が心の底から理解していなければならないことは当然でありましょう。人間相互の理解のために、万人が共有する普遍的かつ恒常的な場は理性であり、理性のなかに消化され吸収されたときに、あらゆる立場の違いを超えて、共通に分かちあえるものとなるのです。
 その意味で、私は、広宣流布という、地涌の菩薩として私たちが担っている使命と責任を果たしていくためには、強盛な信仰と旺盛な求道心がなくてはならない、と訴えたいのであります。「此の法華経を閻浮提に行ずることは普賢菩薩の威神の力に依るなり、此の経の広宣流布することは普賢菩薩の守護なるべきなり」との御義口伝を深く肝に銘ずべきでありましょう。
 ともあれ、この「教学の年」が、全学会員の皆さま一人ひとりにとって、希望に満ちた新しい門出でありますよう祈ってやみません。

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