Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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年頭のことば 新しき開拓への道

1973.1.1 「池田大作講演集」第5巻

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1  一九七三年の清々たる新春。
 いま、静かに、厳かに明けゆく広宣流布の新しき章節――。
 おそらくは、微笑をふくんで、あたらしき開拓の道に意気揚々と第二章へ新なる活動を開始しようとしているであろう全国、全世界の同志の皆さま、心からおめでとうございます。
 この門出に立って、源遠長流の原理うえから、私たちは、もう一度、創価学会の底流にあるものを確認したい。それは、異体同心の四文字であります。
 この世界で、もっとも強く、偉大なものは、苦楽をともにして築き上げられた人間の絆であり、なかんずく、信仰という生命的な連帯こそ、なにものにも破壊されぬ、創造の力であります。
 崇峻天皇御書にいわく「返す返す今に忘れぬ事は頸切れんとせし時殿はともして馬の口に付きて・かなしみ給いしをば・いかなる世にか忘れなん、設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮を・いかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも用ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし、日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏・法華経も地獄にこそ・をはしまさずらめ」云云と。
 これは、文永八年九月十二日に起きた、有名な竜の口の法難のさいに、四条金吾が大聖人のもとに駆けつけ、馬の口にとりすがり、殉死の覚悟でお供をしたことに対し、それからちょうど六年たった建治三年九月十一日のお手紙にしたためられたものであります。
 この御文には、大聖人の弟子を思われる大慈悲がうかがわれるとともに、信仰という生命の奔流が、にじみでているのではないでしょうか。四条金吾が地獄に堕ちるならば、大聖人も地獄に行く、たとえ釈仏が、どんなに仏ななれといっても、四条金吾と運命をともにするのだ――この強い人間的連帯の叫びこそ、今日にいたる日蓮正宗創価学会の伝統を築いてきたものであります。
 法といっても、人のなかに息づくものであります。大聖人の仏法が、人間のための仏法であるゆえんも、人間のなかに、その法の真実の姿があるからにほかなりません。人法勝劣という釈尊の仏法に対し、根本的転換をなさしめた人法一箇の哲理の意義もここにあります。
 再び日蓮大聖人の仏法の根本精神となっている生死一大事血脈抄の御文を引用したい。
 「総じて日蓮が弟子檀等・自他彼此の心なく水魚の思いを成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か」またいわく「金は大火にも焼けず大水にも漂わず朽ちず・鉄は水火共に堪えず・賢人は金の如く愚人は鉄の如し」云云。
 この御文のなかにある「今日蓮が弘通する処の所是なり」に刮目していただきたい。大聖人の仏法は究極は、異体同心の信仰に尽きるのであり、広宣流布の大願も、ここにしか実現の道はないことは明確であります。
 広宣流布の前途には、更に幾多の試練があることでありましょう。大切なことは、一人ひとりがその試練の大火にも焼けず、大水にも漂わず、朽ちぬ「真金の人」となることであります。私は、これらの人々を、信心の本格派と呼びたい。このほんものの人々の異体を同心とする輪を、幾重にも、幾次元にも広げていくことが、私たちの今後の戦いなのであります。
 それは、決して阿練若(無事、閑静処と訳す)の世界に住む聖者ぶった人々の仮面の遊戯とは根本的に異なり、民衆自身の不抜の忍耐と勇気の結晶作業であることを知っていただきたいのであります。
 大聖人の仏法は、人間主義、生命主義であります。御義口伝に「一切衆生の異の苦を受くるはことごとく是れ日蓮一人の苦」と仰せられ、また諫暁八幡抄にも「一切衆生の同一苦はことごとく是日蓮一人の苦」とあり、全民衆の苦悩をわが苦悩とする御本仏の大慈悲が、御文に脈打っております。
 「異の苦」とは、人それぞれの千差万別の悩みであり、「同一苦」とは、いっさいの人々に共通する苦悩であります。人それぞれの個別の悩みも、全人類的な苦悩も、ともにわが生命の痛みとして感じ、そこにいっさいの行動の起点をおいていくというのが、大聖人の仏法の根本であり、そこに真実の生命的ヒューマニズムがあるといえましょう。私たちは、大聖人の弟子であります。ゆえに、この一点を失ったならば、創価学会の存在の意義もありません。異体同心の同心とは、まさしく、この精神に等しく立つことなのであります。
 この根本支柱のもとに、過去十数年、更にさかのぼれば、戦後より今日にいたるまで、批判の嵐のなかに、こけだけの多くの人々が大聖人の仏法を求め、これほどまでに重要な社会的存在になったことは、厳然たる歴史的事実でりあります。しかも日本の、いな、世界の心ある人々は、創価学会に、次代の希望の光を見いだそうとしていることもまちがいありません。
 昨年の正本堂落慶の大事業は、一往は、その総決算であり、再往は、今後、広範に展開されるであろう世界平和への揺るぎなき道標でありました。いま私たちは、これまでの歴史と伝統をふまえつつ、第二章を力強く進み始めたのであります。
 二十一世紀まであと二十八年、昨年の総会で申し上げたように、なんとしてもこの間に、全人類の絶滅の運命だけは転換させておきたい。また、それだけの平和勢力を築き、人類の良心を呼び起こしていきたい。
 しかしそれは、あせってできる事業ではない。地道に、着実に、あるときは「長征」のごとく、時をつくりつつ待つこともありましょう。人類の運命を担った使命の徒は、決して正を失ってはなりません。あまりにも殺伐として人間関係のなかにあって、失われた人間性の大地を回復していこうとする私たちの姿勢も、なかなか理解されがたいことでありましょう。いつの時代においても先駆的な仕事をする人は、奇異の目で見られたものでありました。歯がゆいかもしれない。つらいかもしれない。しかし、いま一人、二人と生命の歓喜の舞いを舞いゆく人々の涌出することを確実な手応えとして、進んでいくことであります。必ずや、後代の人々が、この誠実の行動と成果の積み重ねに対し、期待を寄せる日がくることでありましょう。また、私たちがどういう生き方をするかで、後世の歴史家の審判を問おうではありませんか。
 本年は「教学の年」と銘打ちました。それは本年一年間だけの目標ではなく、昭和五十四年、すなわち一九七九年ぐらいまでの、一貫した姿勢としていくものであります。
 一人ひとりが、教学を肉化し、朗らかに実践していただきたい。なかんずく御書を根本として研鑽してほしいのであります。日興上人の御遺誡にも「当門流に於ては御書を心肝に染め」とあるとおりであります。
 この教学運動の高まりのなかに、人材を伸ばし、組織を強化していきたい。強固な組織よりも、強靱な組織にしていくことが、これからの課題であります。たとえ、どんな少数の規模の組織であっても、そこに満々たる広布への息吹がたたえられていくなかに、学会全体の基盤の生命力がつちかわれていくのであります。その意味で、この一年間は、ほんとうに大事な一年間となるでありましょう。
 どうか、本年も大聖人の哲理に棹さして、仲良く、人々に尽くし、社会に尽くし、ともに自身のいちだんの成長をはかっていただきたいと願うものであります。

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