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日蓮大聖人・池田大作

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第2回創価大学滝山祭 スコラ哲学と現代文明

1973.7.13 「池田大作講演集」第5巻

前後
1  このところ、大学が近くなったのか、私は先月の十三日にもおじゃまし、ヨーロッパの旅の報告などをいたしました。きょうの十三日は、第二回の滝山祭ということで、ご招待に喜んでまいったわけであります。ほんとうにおめでとうございます。(大拍手)
 皆さんの元気な顔を拝見するだけで、私は十分なわけですが、それでは、あまりに味も、そっけもないことになりますので、また、平素考えてきたことを、おしゃべりいたします。なお、本日は、諸君の学園の弟、妹たちがたくさんみえております。兄さんとしてよく交流し、あたたかく見守ってあげていただきたい。(拍手)
 四月九日の入学式のおり、少しばかり大学というものの発祥についてお話しいたしましたが、そのなかで、近代文明をもたらしたルネサンスの精神にふれました。そして、そのルネサンスの驚異的な開花も、突然変異によって生まれたものではなく、それ以前の長い期間、人々のめだたぬたえまない向上的努力と、時代の潮の必然性とのうえに生まれたものであること、また、その発芽をたどっていけば“暗黒時代”といわれている中世の冬の季節に、すでに始まっていたとこをお話しいたしました。
 いま、この大学の周辺の木々は青葉に輝いておりますが、青葉の発芽は春になって急に始まったのではない。すでに、厳寒の冬のさなかに、その準備を着々と整えていたのであります。真の発芽は冬であって、青葉の芽が煙るのが春であります。人生もまた同じであります。いま、この大学の草創期にあたって、現在、私たち一人ひとりが日々行っているところの、めにはたたないさまざまな努力も、あるいは多くの試行錯誤も、やがては華やかに大きく開花するであろう、未来の世界文明の発芽の準備をせっせとしているのだという確信を、私は疑いたくないのであります。
 きょうの話も、この発芽を確認する意味において、およそ現代には縁のないと思われているスコラ哲学にわざわざ光をあて、スコラ哲学のなかにすら、次代の文明をうながした強靱な発芽があったことを、明らかにしたいと思うのであります。
 まことに、歴史の生々流転してきたところの実相を、しかととらえることは、未来の歴史を開く鍵になるからであります。
2  スコラ哲学誕生の背景
 いうまでもなく、スコラ哲学とは、十二世紀から十三世紀を頂点として栄えた、中世ヨーロッパ哲学総称であります。スコラとは当時の教会、修道院に付嘱する学校をいい、今日、学校を意味する「スクール(school)」という語の淵源であることは、周知の事実であります。スコラ哲学は、一般に「神学の婢」といわれ、キリスト教神学を権威あらしめるために存在した、いわゆる“御用哲学”にすぎないと考えられてきた。確かに、スコラ学者の名で呼ばれる当時の哲学者、思想家のなそうとしたことは、聖書の教える信仰を、いかに正統化するかということであった。これは疑う余地はない。
 その意味において、このスコラ哲学を含めて、中世ヨーロッパ哲学は、輝かしい古代ギリシャ、ろーまの巨峰と、同じく栄光に満ちた近世ルネサンスの連峰とのあいだにはさまれた暗黒の谷間であるといった見方がされてきたのであります。近代の合理主義思想家たちによって強調されたこの評価は、はたして正しいといえるかどうか、近代合理主義の行き詰まりから、新しい時代に入ろうとしている現代からみたとき、スコラ哲学は、どのように評価されるべきか――これが、私の論じたい主題であります。
3  まず、それには、スコラ哲学といわれるものが、いかなる時代状況と、社会的状況のもとで生まれ、発展したかを考えなければならない。ヨーロッパの哲学史上、中世哲学は大きく二つの段階にわけることができる。一つは、キリスト教の発生した一世紀から八、九世紀にいたる時代であり、この時代の哲学を「教父哲学」と呼んでおります。
 教父とは、キリスト教の教会に属して、教会の公認した教義にもとづいて著作した人々のことであります。この時代は、キリスト教がローマ帝国の全体に広がり、更に、ローマ帝国の崩壊後、歴史の舞台に登場てきたゲルマン諸族の世界にも浸透していった、いわば布教時代にあたっております。この布教の中核であった教父たちが、まずしなければならなかった任務は、キリスト教の教義を体系化することであり、ローマ人、あるいはゲルマン人社会の伝統的思考法のなかに、いかに適合せしめるかであった。
 したがって、この段階でなによりも協調されたことは、一貫して“信仰”の確立であったということができましょう。いわゆる教父哲学の代表者として、ユスティヌス、テルトゥリアヌス、オリゲネス、そして、その総合的な思想家として有名なアウグスティヌスの名があげられます。テルトゥリアヌスの思想を要約した言葉として有名な「不合理なるが故にわれ信ず」は、信仰を絶対化したものとして、この教父哲学の一つの結晶といえると考えます。
 更に、アウグスティヌスは「神の国」という本を著して“地の国”の代表というべきローマの崩壊後も、“神の国”のこの世における顕現である協会は、永久につづいていくと教え、カトリシズムの教会支配体制に理念的基盤を打ち立てたのであります。
4  この教父哲学の時代が終わり――ということは、ヨーロッパ全土のキリスト教化が安定して――次の九世紀から、十四世紀ルネサンスにいたるまでの時代が、スコラ哲学の時代であります。その発祥の契機は、さまざまな角度から分析しなければなりませんが、カール大帝、つまり、シャルマーニュ帝王によるゲルマン社会の統一と、イスラム勢力の撤退、そしてカロリング朝ルネサンスと今日よばれる学芸興隆が、大きい要素として考えられる。さきに述べたスコラ、すなわち教会や修道院に設けられた学校の起源は、このカール大帝の奨励によるものであります。
 さて、一応布教、発展の時期を過ぎて、安定の段階に入ると、学芸興隆の機運とあいまって、教義の深化と形式的整備が要請されるようになった。基本的な教義についてはアウグスティヌスなどによって、すでに完成されているので、問題は、その教義をいかに証明し、相互に秩序づけ、体系化するかであったわけである。
 中世ヨーロッパが、ギリシャ、ローマから引き継いだ学問的遺産として、文法、修辞法、弁証法、算術、幾何、天文学、音楽の七学課があったが、これらは、自由学課と呼ばれ、これと神学とを、どのように関連づけるかが問題となってきたわけであります。
 特に、イスラム社会との接触を通じて、アリストテレス哲学が大きい影響をおよぼすようになり、たんに個別科学のみならず、人間と理性と聖書の啓示の関係、知識と信仰、哲学と神学という、根本問題にふれざるをえなくなってきたわけであります。
5  知識、理性と信仰の分離
 スコラ哲学を代表する人々としては、九世紀のスコトゥス・エリウゲナ、十一世紀のアンセルムス、アベラルドゥス、十二世紀末から十三世紀に入ってアルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィス、ドゥンス・スコトゥスとつづき、末期においては、近世自然哲学の先駆者ともいれわるロジャー・ベーコンが出ている。
 いま私は、時間がありませんし、この四世紀の間にわたる思想の歴史を一つひとつたどるつもりはありません。ただ、そこに含まれる基本的な問題のいくつかを抽出し、現代の視点から、そこに考察を加え、概略の流れのみをみていきたいと思うのであります。
 最初のエリウゲナは、アイルランドで生まれ、パリで活躍し、「スコラ哲学第一の父」とも「スコラ哲学のカール大帝」とも称された人であります。スコラ哲学のカール大帝といわれたゆえんは、政治の面では、カール大帝によってヨーロッパ中世世界の基礎が樹立されたように、哲学のうえでは、このエリウゲナによってヨーロッパ中世哲学、すなわちスコラ哲学の基盤が打ち立てられたからであります。
 その基盤とは「真の宗教とは真の哲学であり、同時に真の哲学は真の宗教である。したがって、宗教に対するあらゆる懐疑は哲学によって反駁されうる」という命題であります。仏法では、この理念が一応通ずるが、キリスト教では無理である。それはともかく宗教と哲学、信仰と理性の一致を確信し、それを証明しようという、スコラ哲学の基本的課題が、彼の志向に明確にあらわれているのであります。
 したがって、はじめにも述べたように、スコラ哲学はその出発点からして、キリスト教信仰を知識、理性ちよって裏づけるという、いわゆる神学の婢としての制約を強く負っていたことは、認めざるをえません。そして、それは「知らんがためにわれ信ず」といった、次のアンセルムスにおいても、また、トマス・アクィナスにおいても、ドーゥンス・スコトゥスにおいても、およそスコラ哲学者といわれる人々においては、信仰の絶対生は共通の大前提だったのであります。
 ただし、時代の変化とともに、そこには微妙なニュアンスの移り変わりが認められる。たとえば、トマス・アクィナスは「理性によって把握される範囲では、神学と一致するはずである。しかし、信仰の内容がすべて理性によって認識できるとはいえない。ゆえに、理性の及ばぬところでは、ただ信仰によって真理を把握する以外にない」といっている。ここに、信仰と理性の一致を信じ、それを立証しようとして出発したスコラ哲学が、その当初の目標から微妙に揺らいでいることを知るのであります。つまり、キリスト教へのかすかな懐疑の一歩と、一面ではいえないことはありません。
 更に、ドゥンス・スコトゥスにいたると「神の意志は何ものにも拘束されず、自由である。それは理性以上のものであるから、理性によって認識し、基礎づけることはできない。神学は合理的なものであるのでなく、もっぱら実践的なものである」といい、ついに知識、理性と信仰との分離となっていくのである。
 この過程は、スコラ哲学者たちにとっては、なんら信仰の動揺をもたらすものではなかったが、理性に対して、信仰や神学の教義に縛られない独自の立場を与えることにはなった。この独立の一を与えられた理性によって、やがて近世の哲学が発展し、学問の花が咲き、その学問の成果によって教会の教義は、次々とその矛盾を暴露し揺らいでいくのであります。その意味で近世、近代の萌芽はじつにスコラ哲学のなかに、徐々にその姿をあらわしはじめていたということができるでありましょう。
6  独自の文化築いた中世期
 このように、スコラ哲学は、単なる神学の婢、中世暗黒時代の象徴などではなく、近世、近代の出発点としてとらえなおすことができるわけでありますが、更に深く考えると、それ自体においても、一つの文化の大きく輝いた栄光の時代であったと、みなければならない。
 はじめにも述べたように、ヨーロッパの中世を、古代と近代との中間にはさまれた“暗黒”の時代とする考え課は、近代合理主義思想家のいったことである。だが、ほんとうはそうではなく、中世文化は中世文化として、古代や近代のそれに劣らない、独自の文化を現出したのであり、むしろ近世、近代に通ずる発芽を、私は、ここにみるのであります。そして、もし、この考え方に力点をおくならば、現代文明は、中世キリスト教文明が落して果てようとする、末期的な混乱と、人間性喪失の時代であるということにもなるのではないかとも思うのです。
 本来の意味から、暗黒時代をいうならば、ヨーロッパにおいては、ローマ帝国の没落期から九世紀あるいは十世紀にいたる時代が、まさに暗黒時代であります。ゲルマン諸族の大移動が行われ、社会の法と秩序は崩壊し、交易は絶えた。そして、たえず掠奪や殺戮におびえなければならなかった時代――それは、暗黒時代としかいいようのない時代だったでありましょう。しかし、九世紀から十世紀にいたって、ようやく社会も安定し、人々は生産にいそしみ、そのなかから新しい文化創造の機運が高まり始めてきた。こうして迎えたのが、スコラ哲学の時代なのであります。
 今日もなお、ヨーロッパの諸都市の象徴としてそびえている由緒ある教会、寺院のほとんどは、このスコラ哲学の時代に建設、あるいは着工されている。パリのノートル・ダム寺院、シャルトルの寺院、更にドイツではケルンの大寺院等々のゴシック建築は、権力によるのでなく、いわゆるその時代の信仰の結集によって中世社会のもっていた技術と富をもって建てられた、中世ヨーロッパ文明の一大記念碑ということができるのであります。
 しかも、これらが今日もなお、ヨーロッパの都市を象徴し、国民の歴史を象徴し、ヨーロッパ文明を象徴しつづけている。たとえば、パリを例にとってみた場合、ノートル・ダム寺院に負けない建造物は、ルーブル宮(現在は美術館)にせよ、凱旋門にせよ、エッフェル塔にせよ、いくらでもあげられる。しかし、それらは王候や特権者の栄華の残滓でしかなく、民衆全体の心にささえられた文化的結晶とい観点からすると、ノートル・ダムに、はるかにおよばないといわざるをえません。
 このように、空高くそびえ立つゴシック建築が物質的に中世ヨーロッパ文化の興隆を象徴しているのにならんで、精神の世界で中世の高まりをあらわしているのが、まさにスコラ哲学なのであります。学問の興隆は、パリをはじめ、ボローニャ、オックスフォード、ケンブリッジと、多くの学問の中心地を生み、そこに集う学生と教師によって、大学が形成されていった。現代の大学は、いわばスコラ哲学の時代
 の遺産にほかならないともいえる。
 スコラ哲学が探究したもの――それは、とりもなおさず、これら発生期の大学が教えたものということになるが、もちろん、そこには、今日の学問的見地からすれば、幾多の稚拙さや誤りもあった。たとえば、彼らにとっけ知識とは、事実の観察によって得られたものではなく、プラトンやアリストテレスあるいはユークリッド等の古代の哲学者によって書かれたものであったこと等である。
 そして、この知識を体系化し、神学の教えを証明し、組織化するために、煩瑣な論証を行い、そのゆえに、スコラ哲学は煩瑣哲学とアダ名されたことは、よく知られているとおりであります。しかし、そうした欠陥は欠陥として認めたうえで、なおかつ、より基本的な次元で、スコラてつかくの果たした重要な役割に、我々は気づかなければならない。
7  スコラ哲学の果たした役割
 その一つは――それは、なによりも人間としての生き方に明確な指針を示したことである。一つの完結した世界観のもとに、人間いかに生くべきかを、それなりに認識せしめたからである。スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットの著である「大学の使命」という本で、この点についてのひじょうに興味深い論及をしている。
 「今日『一般教養』と呼んでいるものは、中世におけるそれとは異なっている。中世のそれは、決して精神の装飾品でも、品性の訓練でもなかった。そうではなくて、当時の人間が所有していたところの、世界と人類に関する諸理念の体系であった。従ってそれは、彼らの生存を実際に導くところの確信のレパートリーであった」――そして「今日なお現存している残留物は、当時の高等教育を、全面的かつ本来的に構成していたものの、あわれな生き残りなのだ」と。
 これは、大学教育における一般教養過程というものについて述べた一節ですが、たんに大学での教課というのみにとどまらず、人間一般としてもつべき教養の根本問題にふれた、刮目すべき発言であると、私は思うのであります。今日いわれる教養は、きわめてその内容が漠然としており、オルテガのいうごとく「精神の装飾品」となり、あるいは、せいぜい「品性の訓練」ぐらいにしか考えられていない現状であります。だが、真の意味の教養とは、そのような、とらえるために苦労しなければならないようなものではない。現実の人生を生きるため、内面から、自らを導く「世界と人類(あるいは人間存在)に関する諸理念の体系」なのであります。
 更に、オルテガの言葉を引いてみたい。
 「生は混沌であり、密林であり、紛糾である。人間はその中で迷う。しかし人間の精神は、この難破、喪失の思いに対抗して、密林の中に『通路』を、『道』を見出そうと努力する。すなわち、宇宙に関する明瞭にして確固たる理念、事物と世界の本質に関する積極的な確信を見出そうと努力する。その諸理念の総体、ないし体系
 こそが、言葉の真の意味における教養〔文化〕la culturaである。だからそれは装飾品とは全く反対のものである。教養とは、生の難破を防ぐもの、無意味な悲劇に陥ることなく、過度に品格を落とすことなく、生きて行くようにさせるところのものである」
 こうした教養、文化源泉となったのが、中世においては、スコラ哲学であったといえましょう。私は、さきに、スコラ哲学意義を、一つは近世、近代の学問的発展のための準備をととのえる役目をしたと申し上げた。しかし、それだけではなく、スコラ哲学自体が、中世という一つの文明の頂を示すものであったと述べたのは、このためにほかならない。なぜなら、一つの文化の役目は、それが次の時代の文明のために、どのように貢献したかということだけでなく――もちろん、それも大事な役目の一つではありますが、それ以上に大事なことは、その時代の人間のため、人間的向上のために、いかに役立ったかということにあると信ずるからであります。
 もとより、スコラ哲学が、意図的にこうした人間性の確立とか、向上という問題をめざしたわけではありません。最初に述べたように、本来は、信仰を理性によって裏うちすること、神学のもとに諸学問を統合すること、それによって、キリスト教信仰と教会の教義を権威あらしめようとしたものであった。だが、それが結果的に、ヘブライズムとヘレニズムとの融合という、ヨーロッパが古代世界から別々に受け継いだ遺産を統合し、自らの内に肉化して、真実のヨーロッパ、またヨーロッパ的人間像の形成をもたらすにいたったのであります。
8  ヨーロッパ文明の基本的原型
 次にもう一面、文明史的にこれをみると、スコラ哲学の果たしたもう一つの役割は“地中海文明”の時代から“ヨーロッパ文明”の時代への移行に、決定的なエポックを画したということである。もちろん、そのための政治的、経済的、産業的な条件は、それ以前から、着々とととのえられてはいた。しかるに、文明のもっとも核心というべき精神的、知的側面で、ヨーロッパが、地中海文明への依存から脱却したのは、まさに、このスコラ哲学においてであったといえるのであります。
 キリスト教は、その発祥以来、八世紀あるいは九世紀にいたるまで、古代世界の地中海周辺を、その主たる舞台としていた。いわゆる原始キリスト教、初期キリスト教時代の中心地は、あるいはいまのエジプトのアレクサンドリアであり、トルコのカパドシア、イタリアのローマ等であった。この時代の最大の教父といわれる、前にも述べたアウグスティヌスは、アフリカのヌミディアで生まれ、現在のアルジ
 ェリアにあたるヒッポという地で活動したのであります。
 この地中海文明に終止符を打ったのが、七世紀から八世紀にかけてのイスラム圏の拡大でありました。これによって、地中海の制海権はイスラム教徒に奪われ、キリスト教はヨーロッパ内陸部に閉じこもることになる。そして、やがて、カール大帝の出現によってゲルマン世界の統一が行われていったわけであります。その後、この統一は政治的には分裂したものの、文化的には、一つのヨーロッパを志向して統合化が進んでいったのであります。
 このヨーロッパ文明が、ルネサンス、宗教改革、ナショナリズムの勃興等々、幾多の変遷を重ねつつも、発展と世界的伝播を成し遂げて、いわゆる現代文明となってきたといってよい。その実質的完成が、十二、三世紀のスコラ哲学の時代にあたるのであり、スコラ哲学は精神的内容において、現代にいたるヨーロッパ文明の基本的原型であったとみることができる。そして、このスコラ哲学の中心であったパリやオックスフォード、ケンブリッジ等の諸大学が、現在もなお、世界の学問の源泉地として存在しつづけていることは、このスコラ哲学に始まる精神の潮流が、いまもなお流れていることの象徴といえましょう。
 今日、このスコラ哲学の時代に始まった一連の文化発展の長い歴史は、肥大化し奇形化した醜い姿のなかに、悲劇的な終末を迎えようとしております。人間性の喪失、公害に象徴される文明のゆがみは、もはやだれびとの目にも明らかであり、文化的創造の活力源であった大学もまた、深刻な崩壊の危機に直面している。学問の場としても、人間育成の場としても、伝統的な大学は、その指導的地位を失おうとしているといっても過言ではない。
 この終わろうとしている一つの時代から、次の新しい時代の開幕のためには、新しい大学が必要でありましょう。いな、大学という“形”は副次的なものかもしれない。大事なのは、新しい哲学であり、現代の、いい意味でのスコラ哲学の興隆であります。真実の宗教を基盤とし、真実の信仰を核として、そこにあらゆる学問も、理性、感情、欲望、衝動等も統合し、正しく位置づけた、新しい人間復興の哲学が要請される。宇宙生命のなかに人間の位置を明確にし、生の混沌の密林のなかに生きるべき道を切り拓く、真実の“教養”が打ち立てられねばならない。
 この哲学を探究し教養を実践する人間と人間の集いが、真の意味の大学を形成するのであります。大学をつくるものは、建物や施設ではなく、人間であり、理念なのであります。混沌の人生に対処する、力ある真の哲学をもった人々の集うところ――それこそ、時代を動かし、文明を創造する源泉地としての、真の意味の大学であると思いますが、諸君はどうでしょうか。(大拍手)
 今日、スコラ哲学のまったくの風化は、その基盤とする宗教のまったくの無力化によるものといえましょう。してみれば、現代ほど宗教を喪失してしまった時代もなく、それゆえに救済もない時代もない。――この現実のうえに私たちは生きつづけているのであります。このように認識するとき、最大の緊急事というべきものは、現代に耐え、現代を導くにたるだけの哲学の樹立であり、その基盤をなす真の宗教の確立であります。
 未来を担う大学の誇りにかけても、その使命とする道はなんであるか――その答えは、皆さんの胸のなかにすでになることを私は固く信じて、きょうの話を終わりたいと思います。(大拍手)

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