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日蓮大聖人・池田大作

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第3回創価大学入学式 ”創造的人間”たれ

1973.4.9 「池田大作講演集」第5巻

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1  創価大学に入学した皆さん、本当におめでとうございます。ともに、この二年間、創価大学の草創に全魂を打ち込んでくださった大学当局の方々、教師の先生方、教職員の皆さま、そして学生の皆さん方、更には、それを温かく見守り、育んでくださった父兄ならびに関係者の方々、本当にご苦労さまでございました。私は、創立者として、皆さまに心より御礼申し上げるしだいであります。
 いうまでもなく、創価大学は、皆さんの大学であります。同時に、それは、社会から隔離された象の塔ではなく、新しい歴史を開く、限りない未来性をはらんだ、人類の希望の塔でなくてはならない。ここに立脚して、人類のために、社会の人々のために、無名の庶民の幸福のために、何をなすべきか、何をすることができるのかという、この一点に対する思索、努力だけは、永久に忘れてはならないということを、申し残させていただきます。
 そこで今日は、まず第一に、私は、大学というものが、社会にいかなる影響を与えるかを、しばらく歴史的に論じさせていただきます。といっても、ここで難解な、抽象的な大学論を展開しようというのではない。私にはその資格もないし、また、その必要もないと思う。歴史にみられる若干の事例をあげて、大学が、あるいは広く学問というものが、いかに歴史を動かし形成する潮流となってきたかを、探りたいのであります。
2  大学の発生とルネサンス
 ルネサンスといえば、十四、五世紀ごろ、ヨーロッパにおこった文芸の大復興運動であることは、皆さんもよくご存知のとおりであります。絵画、彫刻等々の芸術、あるいは文学の分野において、それまで眠っていた人間主義すなわちヒューマニズムという魂を吹き込み、人間謳歌の生き生きとした作品が、次々に世に出たわけであります。これをもって、ヨーロッパは、新しい時代の夜明けを迎えるにいたったといっても過言ではない。このルネサンス期の作品の数々をみるとき、人間の歓喜というべきものの結晶を感じるのは、決して私一人ではないと思う。
 このように、ルネサンスは、ヨーロッパ文明の大きなエポックであったことは確かであります。しかし、このルネサンスは、どうしておこったのか。たんに、文学・芸術の広場で、偶然におこった変革であったとは考えられないその前段階として、より深い地盤からの胎動が、それよりもいちはやくおこっていたことに気づくべきであります。
 それは、学問の大復興であります。この学問における大復興は、中世からはじまっておりまする通常用いられているルネサンスほどには知られてはおりませんけれども、重要さにおいては、それと匹敵するものをもっており、心ある歴史家達は、この学問におけるルネサンスを、「十二世紀のルネサンス」と呼んでおります。
 大学が発生したのは、実に、この十二世紀におけるルネサンスにおいてであります。中世初期においては、人間が習得すべき知識の内容は、ラテン語の文法、修辞学、論理学、および算術、天文、幾何、音楽の七自由学に限定されており、それは、聖書を読み、神の自然法を理解することと、王権維持のために、習慣法を運用するために必要とされたものであった。算術や天文は、教会暦を計算するためのものであり、音楽もまた、教会の祭礼に必要なものとして、学んだわけであります。その他は政治上、習慣法を実務上運営するために学ばれたものもあります。これが、当時の最高教育であった。
 そこへ、スペイン、イタリア等を舞台に、イスラム世界から、数学、哲学、地理、法学などの新しい知識がもたらされてきたのであります。これらには、古代ギリシャ、ローマにおいて解明されたのが、中世のヨーロッパでは隠されていたものもあり、あるいはイスラム人やイタリアの商人達が、インドなど東方世界から学んだものもあったようであります。ともかく、学問における古代の遺産を獲得してから、強い、いかなるものもせきとめることまできない勢いで、知識の吸収、蓄積、体系化が行われ始めたのであります。
 新しい知識を求めようとする若者が、当時あった修道院学校等の束縛を越えて、新たな学問の集積所を求め、それに応ずる学問的職業が生まれたわけであります。すなわち、それが教師であり、教師と学生の共同体が、パリとボローニアに最初に形成された。それが本格的な大学の出現であります。
 大学を意味するユニバーシティーの語源は、ウニベルシタスで、元来、ギルド(組合)と同義で、多数の人々、または多数の人々の結合を意味するものであります。学生と教師の結びつきが、大学をつくりだしたものといえる。したがって、大学とは本来、建物、制度から出発したのではなく、人間的結びつきから発生したものである、と私は考えるのであります。
 パリ大学においては、神学の研究、再編成から始まり、ボローニア大学は、法律学を中心としていた。従来の教会主義に対する反省の芽生えであり、当時発達した商取り引き用の法規運用の実務の学問として、近代的で、合理的な学問の知識が続々と蓄えられていったのであります。
3  学問探究の精神的機軸
 特に、こうした学問探究の精神的機軸となったのが、人文主義、すなわちヒュマニズムであります。市民層の増加、商取り引きの活発化に導かれながら、大学を頂点とする知識層に、このようにして人文主義が定着するにおよんで、貴族支配の枠外の流れとして、ルネサンスの機は熟していった、と私は見たい。人間を見つめ、真理を追求する旺盛な知識欲が、やがては人間謳歌の文芸復興を盛り立てていったのであります。もしも、ルネサンスが、底の浅い、単なる思いつきの文学であり、芸術であるならば、歴史の流れを変えるほどの重みのある変革とはならなかったにちがいありません。
 その基盤に、旧社会の束縛から脱却した人間の自我の目覚めがあり、深い学問的確信の裏づけがあったがゆえに、あれだけのエポック・メーキング(新時代を開くこと)となったのであります。
 ルネサンスの巨匠の一人であるレオナルド・ダ・ビンチは、絵画の才能だけではなく、数学や医学等あらゆる分野に優れた業績を残した天才として知られておりますが、ダ・ビンチが、絵画のなかで用いた遠近法にしても、幾何学的な裏づけを用いている。また、人体や動物の精緻なスケッチは、彼が、自ら解剖したりして得られた医学的知識を裏づけとして、描かれたものであるといわれております。
 これらを通してみると、ルネサンスの輝ける作品の数々といっても、その以前から、永い年月をかけて地道に積み上げられていた学問的知識の基盤があって、はじめて生まれ出たものであったことに気づくのであります。
 私がここで皆さんに申し上げたいのは、歴史を動かす要因は、自由なる人間の思索であり、生命力の潮流であるということであります。一つの文明が興隆していくには、そして更に、それが永続し、広い範囲にわたって影響を与えていくには、深い思想的遺産を、その基底部にもっていなければならない。天才といえども、この時代的・思想的基盤なくしては生まれえないし、仮に生まれたとしても、なんらその能力を発揮することはできない。更にまた、力の論理のみで築き上げられた社会、機構は、真実に人々の生活に影響を与え、歴史に光を残す存在とはなりえないと思うからであります。
 人々は、ともすれば、表面にあらわれ、残された歴史の精華だけを把握しようとする。そして、その形式だけをまね、伝統だけを重んじて、自らの行動原理としてしまう傾向が多すぎるのであります。それらの業績を推し進め、達成させた、より深層部の原因に目を向けようとしない。そこに、過去のさまざまな変革の失敗があったとも、私はみたいのであります。目前の精華に目を奪われ、その達成のみに明け暮れる行動は、所、無為徒労に終わらざるをえないでありましょう。
4  大学は文明の源流
 大学は、知的財産の集積所であります。そこにおいて、いかに意義ある研究・教育が行われているかによって、国家あるいは社会の、ひいては文明そのものの消長が決まるのではないでしょうか。学問の勃興するところ、必ず民族の勃興ありといわれるゆえんであります。
 古代文明の数々も、つねにその背後に、学問の繁栄をもっておりました。イスラム世界においても、学問の集会場のような存在をもっていたこととは明らかでありますし、インドにおいては、仏教の興隆とともに、学問は強い支持のもとに発展したのであります。
 有名なインドのナーランダには、その起源を千数百年前にさかのぼることができる、きわめて古い歴史をもつ大学がありました。紀元五世紀から七世紀にごろにかけてもっとも隆盛を極め、数十平方キロもの広さをもっていたといわれる。規模の大きさでは、現在の大学をさえしのぐほどのものであり、ヨーロッパの大学に比べて、はるかに以前から、整備された大学として、インド、更には東洋全域にわたる精神的淵源地となっていたのであります。中国などからも留学生がたくさんきていたことが知られております。
 近年の発掘によって、研究室や寄宿舎、教室の跡が発見され、学僧数千から一万もが、大乗仏教の研究にいそしんでいたことが明らかにされております。玄奘が「大唐西城記」において、自らこれを訪れた印象等を述べておりますが、はからずも、それが事実であったことが立証されたといえます。後年、イスラム教徒によって破壊されるまでの数百年、このナーランダ大学は、営々と大乗仏教の理念を築き上げ、流布していったのであります。
 この大学を源流として、東洋の精神文化、特に、インドから中国、日本へと渡った仏教文化の偉大な潮流をたどることができるのであります。万にも及ぶ学僧が、真摯に仏教と取り組み、論議を交わし、やがては自らの持ち場で、その実戦へとおもむいたであろうその壮挙を想像するならば、世界に誇る東洋の精神文化の淵源がここにあるのである、と私は確信せざるをえないのであります。
 皆さんは、学問がその根底的な部分で深められ、展開されていくならば、それはやがては偉大な文化の源流となるであろうことを信じていただきたい。表面的な華やかな波浪よりも、海底を流れる潮流のほうが、いかに尊く、力強いかを、確信していただきたいのであります。
5  古代の最高学府も人間を基調
 更にいうならば、その学問も、あくまでも人間を基調にしていかなければならないということであります。ヨーロッパにおいて中世以来、大学でつちかわれてきた人文主義が、ルネサンスの根源力になったことは、すでに申し述べましたが、これは、古代の、まだ大学と呼ぶに値しないような学校においてもいえることであります。
 古代における最高学府の代表的なものとして、プラトンが創立したアカデメイアが有名であります。フラトンの時代においては、アテネでは、修師学をもって立つフィストが少なからぬ影響を与えていた。彼らは、現実の社会に名をなすための必要な種々の学問を教える職業的教師であったわけであります。それに対して、真理探究の理想を掲げて立ち上がったのが、ソクラテスなのであります。
 ソクラテスは、斜陽のギリシャ世界を直視しながら、現実主義的な、また体制依存的な哲学者達と対立し、人間性の本質のうえに立って、アテネの変革を目指すとともに、永遠に残るべきものとしての学問に身をかけておりました。ソクラテスは、自らの信条を青年達に伝えるため、あらゆる場を利用したのであります。市場で、あるときは街頭で、宴会場で、およそ人間の集まるところならば、どこでも、彼は教育していったのであります。堕落せる学問と戦ったのであります。そこには、徹底的な対話と訓練があり、まさに校舎なき人間大学の観を呈していたといえましょう。
 ソクラテスのその本質を受け継ぎながら、プラトンはアカデメイアを創立するわけでありますが、校舎をもち、固定した教育の場を設定しながら、そこで行われた教育は、きわめて人間的なものであった。ギリシャにおいて、食事をともにしながら会話をするのは、市民の生活様式としては普遍的なものでありましたが、プラトンの学校においても、この方式を最大限に活用したといわれる。食事のさいでも、また散歩のさいでも、プラトンは学生と活気にあふれた会話を交わし、そこで哲学的な、あるいは人間的な課題を取り上げ、シンポジウムしたことが想像されるのであります。
 こうした師弟間の対話は、そのまま真理追求の態度にもあらわれてきている。師弟が相たずさえて共同研究し、一つの真理をつかもうと努力する姿が、アカデメイアの誇りでもあった。入学の資格は厳しく、一種の貴族主義的なところもあったようですが、その底に流れるのは、自由の息吹であり、哲学による社会の改善であった。したがって、当然のこととして男女共学であり、また、世俗的な権力から学問の自由を守ることに関しても、きわめて真剣であったようであります。
 このプラトンのアカデメイアは紀元前四百年ごろ創設され、以後、ローマ帝国によって閉鎖させられるまで約九百年間、ヨーロッパの精神的源流になっております。徹底した対話、師弟の共同研究という人間的な原点が、これほどの長きにわたって永続させる原動力となり、また、歴史に多大な影響を与えていったのであろう、と私は解釈したいのであります。
 プラトンより更に歴史をさかのぼり、古代インドに現れた釈尊の教育法も、徹底した対話であったことが、明らかであります。宇宙・人生の根本法則を悟達した釈尊にとって、その悟りの内容を伝えるのは、問答をとおしてであった。経典のほとんどが問答形式になっているのは、それを裏づけております。人間の具体的、現実的な悩みにぶつかり、そこでの対話をとおして、自らの悟りを伝えようとしたわけであります。後年、膨大な教義が体系づけられておりますけれども、あくまでもその源流となるものは、人間的な触れ合いであり、そこから徳性の錬磨と、真理探究の歩みが開始されているということを、忘れてはならないと思うのであります。
 プラトンの学校が、ヨーロッパの歴史のいたるところに影響を与えたことは、後年、ルネサンスがおこったときも、その目指したものが”ギリシャに還る”ことであったことからもわかりますし、釈尊の人間教育も、東洋の歴史すべてにとっていいほど、大きな影をのこしている。その原因ともいうべきものは、真理の探究にあたって、人間を基調にし、その本質を解明し、徳性を啓発することに最大の目標をおいたからである、と私は考えるのであります。人間的なものに根をもたないところの学問は、また真理の探究というものは、抽象的で空虚なものとなるか、軽薄で底の浅いものになるか、いずれかにならざるをえない、と思うのであります。
 現代はまた、人間の本質を見失う危機にさらされております。どうか皆さんは、こうした前提をふまえ、歴史に進路を示し、かつ、切り開いていくものとして学問の果たす役割に誇りをもち、人間らしく、真実の人間の復興を勝ち取るべく、学問の道を、真理探究の大道を歩んでいっていただきたいのであります。
6  精神の自由度を高く
 そこで、更に私は、こうした大学の使命を認識したうえで、皆さん方に次のことを要望したいのであります。
 それは「創造的人間であれ」ということであります。わが創価大学の「創価」とは、価値創造ということであります。すなわち、社会に必要な価値を創造し、健全な価値を提供し、あるいは還元していくというのが、創価大学の本来目指すものでなければならない。したがって、創価大学に学ぶ皆さん方は、創造的な能力をつちかい、社会になんらかの意味で、未来性豊かに貢献していく人になっていただきたいのであります。
 「創造」ということは、単なるアイデアとは違うものであります。しかし、一つのアイデアを生むことさえも、それには基礎からの十分な積み重ねが要求される。学問における創造は、それとは比較にならないほとせ基礎的実力を要求するのはいうまでもない。創造の仕事は高い山のようなものであり、それだけの高さに達するには、広い広い裾野と堅固な地盤を必要とする。幅広い学問的知識と深みのある思索の基盤のうえに、はじめて実りある創造の仕事ができるわけであります。
 その意味からすれば、大学こそ、その基盤を築くにもっともふさわしい場であります。ところが、現在の大学の一般的傾向は、こうした条件に恵まれているにもかかわらず、創造性への意欲は皆無に等しいともいえるのではないでしょうか。特に、創造的人格を形成していく場とはなっていない。わが創価大学は、他の大学にはない創造性あふれる、みずみずしい大学として、社会に新風を送っていただきたい。これが私の念願であります。
 創造性を養うには、精神的な土壌が方豊潤であることが必要であります。そして、それは精神の自由度という言葉で表されるのではないかと思う。精神が抑圧され、あるいは歪曲されているところに、自由な発想も、独創的な仕事も達成される道理がない。精神が解放され、広い視野をもっているとき、そこには汲めども尽きない豊かな発想が出てくるものであります。すでに述べた過去のいくつかの学校の例は、そういった意味で、精神の解放をはかった大学であったといえましょう。
 といっても、この精神の自由度という言葉は、精神の放縦ということとは違うのであります。一方に、自由な、伸びのびとした精神活動を要求しているのも事実ではありますが、更に、それにとどまるのではなく、高い自由規律にもとづいた精神の開発をも意味していると考えるべきであります。
 勝手に考え、自由に振る舞うのが精神の自由ということではない。発想し、対話し、研磨しあうことによって、自らの視野を拡大し、より広い、より高い視点に立って物事を洞察していくことこそ、精神の自由を真に拡大する道ではなかろうか、と私は思うのであります。プラトンの学校においても、またナーランダの仏教大学においても、自由の気風のみにとどまらず、そこには、峻厳な真理との対話があった。創造的発想があった。
 それゆえにこそ、多くの精神的遺産を構築することができたのではないかとおもうのであります。
 したがって、精神の自由度を増すということは、ある意味においては、厳格な訓練を必要とする場合もあるということであります。イギリスにおけるオックスフォード大学やケンブリッジ大学は、私立大学であり、その名門校は、数多くの学問的成果を生み、また学者、偉人を輩出しておりますが、そこでは厳格な教育法が、中世さながらにたもたれております。しかし、学生のもつ精神の自由度は高く、自己の精神を拡大して、社会へ貢献する跳躍台となっているのであります。
 では、精神の自由度を増し、自己を拡大させていくエネルギーをどこに見いだすか。この点にくると、どうしてもまた「人間とは何か」という問題になり、人間学に戻ってこなければならない。人間のもつ潜在的な可能性を引き出し、開発し、アウフヘーベン(止揚)させる哲学の問題となってきてしまうのであります。
 私がすでにあげた大学の例においては、そこにこの哲学・思想のバックボーンがあったことを想起していただきたいのであります。生命・人間を直視し、その開発を目指したところに、学問の自由な発達があり、ひいては、文明の絢爛たる開花があった。創造性の鍵は、まさにこの一点にあると私は思う。創価大学は、この人間学の完成を目指し、その厳然たる基盤のうえに、学問の精華をちりばめていただきたい。そして、この地道な人間構築をふまえた学問の推進、真理探究の歩みが、大きくは社会変革の原動力になっていくことを確信していただきたいのであります。
 こうした視点から、また、創価大学という名にふさわしく「創造的人間であれ」ということを、皆さんはもとより、創価大学の永遠のモットー、特色、学風にしてはどうかというのが、私の提案なのであります。この気風が、創価大学の輝ける伝統に高められていくならば、現代日本の模索しつつある大学界に新風を送るものとして、貴重な存在になることは疑いない、と私は確信するのであります。
7  母校に誇りと愛着を
 話は変わりますが、昨年、私がヨーロッパほ訪れましたときに、イギリスの有名な歴史学者であるトインビー博士と種々懇談いたしました。歴史にかぎらず、哲学、芸術、科学、教育等、あらゆる分野にわたって熱心に議論を交わし、有意義な訪問でありましたが、最初に博士夫妻に会ってあいさつを交わしたとき、そのあいさつに驚かされたのであります。
 博士は開口一番「わが母校・オックスフォードにきてくださったことを感謝する」と述べたのであります。そしてトインビー博士の夫人は、次いで「私の母校・ケンブリッジにきてくださったことを感謝する」と述べておりました。
 私はイギリスへは、この両大学の招へいに応じてまいったわけでありますが、博士夫妻から、そのようなあいさつをうけるとは思っておりませんでした。そのあいさつを聞いて、私は、博士がいかに母校に深い誇りと愛情をもっているかを、知った思いがしたのであります。
 オックスフォードもケンブリッジも、そしてアメリカのハーバード大学も、みな私立大学であります。日本と違い、外国においては、私立大学のほうが、かえって有名校である場合が多い。そして、それらの大学の出身者は、自分の母校に対し、強い誇りと愛着心をもっている。その大学の出身者が、社会的に成功したりすると、進んで寄付をして大学を盛り立てている。大学の経営は、それによって成り立っているといわれるほどであります。といっても、いまから皆さんに、早く偉くなって寄付をしてほしいと強制しているわけではありませんから、心配することはありません。(笑い)
 私立大学というのは、国家権力とはまったく無関係のところにある。もちろん大学である以上、公的性格をもちますが、根本的には、自主的に自らの信条の実現のために、社会に有為な人材、学問的成果を送り出すために創設されたものなのであります。いいかえれば、私立大学とは、自主的な大学のことであり、いわば、皆でつくる大学なのであります。そこが、国立、公立の大学と違うところであります。大学の淵源はいずこをみても、この私立大学から始まっている。大学は、お仕着せによって発足したのではなく自然発生的におこったものだといってよい。
 したがって皆さん方は、この創価大学を自分達でつくり、自分達で完成していく大学であるという認識をもっていただきたい。在学中においては、もちろんのことであります。単なる知識習得のためであると思ってほしくない。会社へ就職するためのパスポートであると思ってほしくないということも、もとよりであります。教授の方々とつねに対話し、人間らしい活気のある大学をつくりあげていってほしいのであります。
 創価大学は、発足後まもない新大学であります。学風も伝統もまだ定かにはつくられてはいない。皆さんがつくりあげ、皆さんが積み上げていくべきなのであります。私は、その皆さんの努力を、最大限の応援の心を込めて、見守っていくつもりであります。
 更に在学中だけでなく、大学を巣立ってからも、母校を誇りにし、温かく応援し、見守っていっていただきたい。新しい皆さんに対して、卒業してからのことを述べるのは、少々早すぎるかもしれませんが、いかなる地、いかなる場にあっても、母校を思い、母校を誇りとし、母校を盛り立てていく皆さん方であってほしいというのが、私のお願いであります。トインビー博士のごとく、だれに対しても、母校をほめてもらうのがいちばんうれしいというように、皆さん自身がつくったこの大学を、自分達がいちばん誇りとし、またその母校を喜んでくれる人に対して感謝できる、そのような皆さん方になってほしい。そうなっていただければ、創立者として最大の喜びなのであります。
8  再び新たな人間復興を
 ともあれ、現代文明はある意味において、まさに転換点に立っていると言っても過言ではありません。それは、人類が果たして生き延びることができるがどうかという、重大な問題提起もはらんでおります。戦争兵器がもつ平和への驚異はもちろん、進歩に対する誤った進行が、人類の死への行進を後押ししている現代であります。人類が生き延びるために、我々はいったい何をすればよいのか。いったい何ができるのか。先見の明をもつ学者のあいだでは、それが真剣な討議のテーマになっている。
 こうした現代にあってこそ、再び新たな人間復興が必要である、と私は叫びたい。それは、人間中心主義、人間万能主義のそれではなく、人間が他のあらゆる生物の仲間として、いかにすれば調和ある生をたもつことができるかという意味での人間復興であり、人間が機械の手足となるのではなく、機械を再び人間の手足とするには、どうすればいいかという意味での人間復興であります。
 ここで私は、このネオ・ルネサンスともいうべき人間復興への要請に対して、いまこそ、その重要な分野として、哲学・思想・学問におけるネオ・ルネサンスを必要とするのではないか、と考えるのであります。学問への新たな意欲を人類が注ぐならば、そして先見の眼を開くならば、人類が生き延びるための新たな哲学・思想が確立されるにちがいない。そしてそれは、たんに人類が生き延びるためという消極的な目標を越えて、新たな人間讃歌の文明が築かれていくことと信じるのであります。
 この、これからなさねばならない壮大な人類の戦いの一翼を、創価大学が担うならば、そして、少なからぬ貢献をなしうるならば、創価大学の開学の趣旨も結実した、と私は思うのであります。
 大学におけるこの仕事は、決して容易ではないと思われる。また短時日のうちに結論の出るものでもない。地道な研究の積み重ね、厳密な討論、旺盛な意欲を幾年にもわたって継続することを要するのは明らかであります。なによりも、それは創価大学に属する人々、また将来、志を同じくして加わってくるであろう人々の全員が、一つの生命体となってこそ、その開花をもたらすことが可能となるのであります。どうか、一人ひとりが創価大学の代表者であるばかりでなく、創立者であるという誉れと自覚をもって、充実した学園生活を送り、更に豊かな人生への跳躍台としていっていただきたいことをお願いするものであります。
 最後に、私のこれからの最大の仕事も教育であり、私の死後三十年間をどう盤石なものにしていくかに専念していく決心であります。それは、二十一世紀の人類を、いかにしたら幸福と平和の方向へリードしていけるか、この一点しか、私の心にはないからであります。
 その心から、私は皆さんに、人類の未来を頼むと申し上げておきたい。また、教授の先生方にも、学生を立派に育てて戴きたい、衷心よりよろしくお願いいたしますと懇願し、全人類に創価大学ここにありとの誇りと期待を込めつつ、私のあいさつとさせていただきます。(大拍手)

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