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日蓮大聖人・池田大作

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第6回創価中学・創価高等学校入学式 知を愛する精神強く

1973.4.7 「池田大作講演集」第5巻

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1  花の四月、希望にあふれてのご入学、まことにおめでとうございます。心からお喜びを申し上げます。
 入学試験を突破するということは、皆さん自身にとっても、お父さん、そしてお母さんにとっても、本当に大変なことであったと思います。困難であればあるほど、その勝利は貴重なものであります。この貴重な体験を土台にして、これから存分に、自分の才能を伸ばしていっていただきたい。
 いま皆さんは若駒のように勇んでおります。”さあ、やるぞ”と、気持ちが大きくふくらんでおり、お正月を迎えたような、新鮮な気持ちでいっぱいであるかもしれない。どうか、これから三年間、あるいは六年間、いつも今日の気持ちを振り返っていただきたい。特に、苦しさに直面したときほど、入学式の気持ちを思い出してください。「初心忘るべからず」といいまして、この気持ちを見失ったら、諸君の進歩は止まってしまうからであります。初心こそが求道、勉学の原動力であり、精神の栄養の補給源であり、諸君の将来を保証してくれるただひとつの力であります。
 また、張りきった新しい気分の奥のほうに、どこか、驚きや不安に似た気持ちも、いくらか混じっていることでしょう。親元から遠く離れて、同年配の人と共同で暮らす寮生活、この「未知の世界」への期待と不安、二年生、三年生という先輩達や同年の人達はどんな人達なんだろうという気持ち、どんな先生なのだろうという期待……とにかく、未知の世界へ飛び込めば、驚き、畏れ、不安といった気持ちも、当座は起こることでありましよう。しかし、諸君の精神はしなやかである。みずみずしく、非常に適応性に富んでいる。すぐに慣れてしまいますから、いっさい心配はいりません。元気いっぱい、この学園という未知の世界と取り組んでいっていただきたいのであります。
 ここで私は、五つの提案をいたしますので、これからの生活に役立てていただければ幸いであります。
2  健康こそ人生勝利の第一条件
 第一は「丈夫に育て」ということであります。
 いま皆さんは、丈夫でピチピチとしております。それを持続し、発展させていけばよいのでありますが、これは実は、大変な難事業であります。諸君をケガや病気にするために襲いかかろうとする悪魔が、毎日、二十四時間中、一瞬も休まずにねらっているのだということを、決して忘れないようにしてください。
 わきから見ておりますと、まず目をやられる。近眼です。猛烈に勉強する者の宿命みたいなものでありますが、つねに姿勢に気をつけ、極力、近眼にならないように気をつけていってください。目をやられると、気分が安定しにくくなってしまうといわれております。一生の大損である。
 次に歯をやられる。虫歯です。虫歯になったのを放つておけば、胃腸までやられてしまう。万一、虫歯の気配がしてきたら、すぐ治療してしまうことです。″なに、これぐらい”と、若さにまかせて放つておけば、三十歳を過ぎてから、苦しまなければなりません。
 次は背骨です。いわゆるねこ背であります。背丈の小さい人はなりにくいのですが、大きい人はなりがちである。最近の皆さんは、もうお父さんより大きくなっています。背の高い人は、十分気をつけてください。
 ねこ背になると、腹から力が抜けて、腰の”決まり”が悪くなり、内蔵まで弱くなってしまう。また、首の後ろのほうへ血がたまって抜けにくくなり、勉強の能率が下がってしまうからであります。ねこ背の予防にはスポーツがいちばんである。運動し、鍛練して頑丈な体をつくっていただきたい。
 日ごろの節制にも十分注意をはらい、育ち盛りのいま,万が一にもケガや大病などを決してしないで過ごしていただきたい。健康は一生のあいだ、なにものにも優先すべきものであります。いったん体力を失うと、その日から人生は灰色になり、どんなに才能が豊かであろうとも、なにもできなくなってしまう。今後、いずれ社会へ出たとき、家庭も維持できないし、社会を担って立つこともできません。”健康こそが人生勝利の第一条件だ”と心得てください。
3  精神を鍛えよう
 第二に「精神を鍛える」ということであります。
 元来、入学の目的はここにあります。学校というところは、知育と体育と徳育の三つを通じて「鍛えられた精神をつくる」道場なのであります。わかりにくいでしょうから、たとえを一つ出しましょう。
 鉄というものは、素材のままで放っておけば、必ずびてボロボロと崩れ落ちて、ただの土みたいになってしまうものであります。だが、熱しては打ち、折り返しては打って鍛え抜けば、立派な名刀に仕上がります。また、鉄は必ず水には沈むものであります。素材のままなら、必ず沈んでしまう。しかし、鍛えて鉄鋼板にして組み立てて溶接すれば、いかなる嵐の大海へ乗り出しても、決して沈まぬ安全な船になるのであります。また、鉄は素材を鍛えて形をつくって塗料を塗れば、どんな大火にもびくともしない金庫にもなるのであります。
 人間もまた、これに似ております。教育を受けずに放っておけば、鉄の素材がび崩れて土になってしまうように、ただ悪知恵ばかりのキツネのような存在になってしまうのであります。学問を通じて、知育をうければ、いっさいの困難を乗りきっていく名刀のような人物になるのであります。
 また、人生は荒波の一生だから、鉄が水に沈むように、人はややもすると批判ばかりして社会のなかへ沈み落ちて、敗残の身になってしまうのであります。しかし、体育、団体訓練などを通じて、身体と精神を鍛え抜けば、安全な大船のような自分になれるわけであります。また、同じように、徳育を通じて精神を鍛えれば、頑丈な金庫のように、内に宝を秘めて納めて、大火にあっても、その宝を安全に守りとおすのです。人間として、いかなる逆境に出会おうとも、己の宝、つまりあらゆる徳性、人間性を安全に守りとおせる賢人になるのであります。人からも親しまれ、信頼されるリーダーともなるのであります。
 でありますから、学校というところは、ただ知識・学識を増やすためのところではなくて、先生や学友との出会いを通じて、精神を鍛え、人間をつくるところであるということを忘れないでください。だから、もしも、この学園での三年間、あるいは六年間を、大学進学のためだけの段階であると考え、予備校みたいに見立ててしまったら、大変な間違いだし、貴重な青春をまったく見失い、一生涯、思い出しては後悔して暮らすことになるでありましょう。したがって、これからは”さあ、自分自身の人間つくりだぞ””精神の鍛練だぞ””両親にも喜んでもらえる自分になるぞ”と堅く決心していっていただきたいのであります。
 親や先生の恩というものは「空気や水や太陽の恩恵」みたいなもので、ありすぎて、慣れすぎて気づかぬものなのでありますけれども振り返ってみれば、これくらいありがたいものはまたとないと私は信じます。それに報いる唯一の方法は、迷わず自分の精神を鍛え抜くことであります。がんばることであります。
 一分の大学生のように、空虚な自由を大事にして、遊んでばかりいるような風潮に染まるべきではありません。髪ばかりカッコよく伸ばしてきどってみても、肝心の自分自身の精神が鍛えられていないということは、その心の中は悲哀に満ちみち、悶々と悩んでいるにちがいない。鍛えた精神は青空のようになります。逞しくて明るくなります。そして、その「青空」のなかで太陽のように智恵が輝いていくのであります。どうか、皆さんは一人残らず、逞しい学園生に育っていだたきたい。
4  温かく賢明な友情連帯を
 第三に、少々難しい言葉でありますが「人間連帯」ということであります。
 人間というものは一生のあいだ、必ずなんらかの形で集団生活を続けていくものであります。ふつうの中学や高校でありますと、だいたいは近い地域の人達ばかりが集まっております。ところが、本校においては、北は北海道から南ははるか沖縄まで、全国各地の人が入学してきていますから、まるで日本の縮図のようなものであります。北の人は粘り強いし、大都会の人は切れるし、田舎の人は人柄がいいし、南の人は明るいガンバリやであります。すべての日本人の長所も欠点も、自分さえその気になれば、皆みることができ、参考になる。また、学び取ることができるのであります。得がたい友情を得られることが、大きな特徴の一つであることも、見逃してはならない。
 真の友は、求めたからといって得られるものでは決してありません。なにか知らない宿命のバックがあって、そのなかで友情の連帯ができてくるようなものであります。しかし、相手に友情を要求するよりも、自分のほうが、どの人に対しても温かい賢い友情を示すことだ――ということであります。
 友情は温かいのはあたりまえでありますが、同時に賢いものでなければならない、と私は思う。でないと、悪友になって、脱線仲間になってしまうからであります・ただ寄りかかりあう関係だけになってしまう場合が多い。本当の人間の連帯というものは、竹林の竹みたいなものだ、と私は考えるのであります。竹は一本一本が毅然として立っている。独立して風格を示し合っております。しかし、土を掘って根を見ると、ちゃんとつながっております。だから、どんな大地震でも、竹林は決て崩れないといわれている。
 今日、入学した皆さん全員が、こういう友情の連帯で次々としっかりつながれれば、そして社会へでていけば、大地震みたいに激動してやまない社会環境のなかでも、すばらしい強靱な人間連帯、友情連帯ができて、驚くべきいろいろな成果が現れるにちがいない。と私は信じるのであります。
5  素質を伸ばそう。
 第四は「素質を伸ばそう」ということであります。
 人にはそれぞれ「向き」というものがある。”何々に向いている”という、その「向き」であります。それが素質というもので、この素質をつかみ出して伸ばしていくところに、無限の可能性があると思います。おそらく皆さんは、どの人にも”この科目は得意だ””この科目は不得意だ”というのがありましょう。また、科目ごとに、どうしても好ききらいの差という形で、意識していることもあるでしょう。そこに素質という者ものが、一つの形をとって芽生えております。
 しかし、ただ自分がそう思っているだけではたりません。岡目八目といって、他人が見たほうがよく見える場合があるわけであります。そして、それはなによりも諸君の先生がいちばんよく見て、親身になってくださるのであります。ですから、先生を心から信頼して、先生の意見には心から耳をかたむけたほうが賢明である、と私は思うのであります。
 また、それに加えて、友達が忠告してくれることがあつたならば、口先で反撃してしまわないで、あるいは、すぐに感情的にならないで、よくよくかみしめてみる必要もあるということも忘れないでください。そういう気持ちの、心の広い人、幅の広い人は、いつか大成する人でありましょう。気持ちが狭くて受け入れの少ない人は、小才子で終わってしまう場合が多い。精神を鍛えるということは、こういうところにもあるということを、しっかり覚えておいてください。
 福沢諭吉は有名な「学問のすすめ」のなかで「実語教に、人学ばざれば、智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとにより出来るものなり」といっております。古い明治の言葉でありますが、これは、私も真理であると思います。心構えを学び、学問を学び、すくすくと若竹のように、真っすぐに素質を伸ばしていってください。
6  愛知の精神でいこう
 最後に、第五は「愛知の精神でいこう」すなわち「知を愛する精神でいこう」ということであります。
 ある学者はこういっております。
 「学問は社会のためにするものとも、自由に考えることができました。大哲学者スピノザなどは、その実例に当たります。彼は職業としてはレンズの球磨きを選び、自分の知的満足を求めるために哲学を勉強し、非常に大きな財産を人類のために残しています。(中略)自分の楽しみを持たない学問は、どこかで行き止まりになってしまいます」(戒能通孝著「いかに生き、いかに学か」)と。
 学問における自分の楽しみというものは、忍耐強い努力のなかから味わうわけで、なかなか大変なことでもありますが「知ることを愛する」、その気持ちさえあれば、必ず楽しみはわくものであると申し上げておきたい。成績のよしあしを越えて、まず、この楽しみをつかみ取ろう、こう決意していただきたいのであります。
 小学校で習った勉強は、これは本当をいえば、基礎知識にすぎないのであります。山登りに備えて、トレーニングに励んだ段階である。そして、中学・高校から、はじめて、いよいよ学問らしい学問が始まるのであります。つまり、自然科学、人文科学、哲学という巨峰に対して、いよいよ”山登り”が始まったわけなのであります。
 これは、生涯かけての「大登山」でありまして、男子の本懐であります。一通りの線までは、自然科学の分野では三十台で到達し、人文科学の分野では五十台で達する、などといわれておりますが。要は、四十台を超えてから役に立つように、学問を身につけた人が成功なのであります。どうか、そういうつもりで勉強にいそしんでください。
 学問というものは、なかなか峻厳なものであり、文字と道理をとおして、全人類、全自然、全宇宙と対話をしていく仕事でもあります。短期を起こしてしまえば、学問にならなくなってしまう。根気が学問をもたらすのであります。こういう「知を愛する」の精神を基とし、この学園の生活を通じて、諸君の人間としての「ひとり立ちへの鍛練」が始まるということであります。皆さん、どうか本日より、自分の立派な栄光の歴史を書きつづっていってください。
 以上、五項目を申し上げまして、栄えある入学への祝辞とさせていただきます。本当におめでとうございました。(拍手)

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