Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

岐阜県幹部会 行学兼備の模範の人に

1973.6.7 「池田大作講演集」第5巻

前後
1  昨年お約束したとおり、私は喜んで岐阜へやってまいりました。(大拍手)岐阜の皆さんの晴れがましいお姿を拝見し、お喜びを申し上げますとともに、晴れの幹部会の開催を心からお祝い申し上げるものであります。
 私はこの会場へまいりまして、皆さん方がこの日をめざして一生懸命、唱題に励んでこられたことを感じとることができました。(拍手)ほんとうにありがたいことであり、うれしいことであります。これからも、その真剣な気持ちを維持して、世のため、人のため、そして広宣流布のために、地域の活動に打ち込んでくださるよう心からお願い申し上げます。
 私からお話し申し上げるまでもなく、この岐阜県は第三祖日目上人有縁の地であり、山紫水明の内陸県であります。北には深山幽谷が大きく連なり、南の平野部には数本の大河が伊勢湾にそそいでいるところから、古くより「飛山濃水」といわれてきた風土であります。
 約百八十万の人口を有し、きわめて多彩な産業構造をもち、昔から畿内と東国の接点として歴史上、重要な役割を果してきた土地柄でありました。この岐阜市にしましても、古代中国の周王朝が渭水の上流の岐山より興って天下を平定した故事にならい、斉藤氏の後へ入った織田信長が、従来「井ノ口」といわれた地名を「岐阜」と改め「天下布武」の朱印を愛用して戦国の統一をはかったといわれております。
2  続けよう抜苦与楽の慈悲行
 当時の岐阜の国人の気概、勇気――いまでいえば革命精神は、じつに雄大であったと思われるのであります。私は、この先人の気概はいまあらためて広宣流布への情熱によって現代へ再現されるべきではないか、と皆さま方に対して申し上げておきたいのであります。
 しかし、昔の天下取りの布武は、与えていえば憂国の熱情であり、奪っていえば野心、名聞名利であったといわざるをえない。それに対して、私どもの広宣流布は、与えていおうと奪っていおうと、永遠に求道であるし、抜苦与楽の慈悲行以外のなにものでもありません。行動上の価値観、目的観がまったく違うということも知っていただきたいのであります。
 前者は、いうならば修羅の剣をふるい、人を殺して野心を遂行する権威者のあり方であります。我々の場合は、末法万年尽未来際の第一歩でもあり、現代ではなかなか理解されにくいという点はあるにせよ、あくまで御本仏である日蓮大聖人から出発した仏の軍勢の動きである。ただ、いまは長い展望に立って基礎をつくる時代でもあるわけで、残念なことに誤解されたり、批判、中傷をうけたり、また三障四摩が起こってくることが必定であるともいえるわけであります。
 日蓮大聖人は主師親御書に次のようにお示しであります。
 「我等衆生・無始曠劫むしこうごうより已来このかた・妙法蓮華経の如意宝珠を片時も相離れざれども・無明の酒にたぼらかされて衣の裏にかけたりと・しらずして少きを得て足りぬと思ひぬ、南無妙法蓮華経とだに唱え奉りたらましかば速に仏に成るべかりし衆生どもの五戒・十善等のわずかなる戒を以て或は天に生れて大梵天・帝釈の身と成つていみじき事と思ひ或時は人に生れて諸の国王・大臣・公卿・殿上人等の身と成つて是れ程のたのしみなしと思ひ少きを得て足りぬと思ひ悦びあへり、是を仏は夢の中のさかへ・まぼろしの・たのしみなり唯法華経を持ち奉り速に仏になるべしと説き給へり
 この御金言は仏法の根本義であり、人生の本源を衝いて人のあるべき姿を説き示されております。私どもはいま、二十世紀の物質文明に巨大な矛盾をみてとり、現代の社会機構が、いかに個人の主体性を犠牲にするものであるかを知りました。そして、私どもは、人間謳歌の新文明をめざして、総体革命へと立ち上がったわけであります。
 すなわち、私どもの革命は、いっさいの人々に対して“皆さん、いっしょに永遠の幸福というべき成仏を願おうではありませんか”“皆さん、いっしょに汝自身のルネサンスをしていこうではありませんか”と叫んでいく運動であり、もっとも大事な運動であるといえるのであります。
 どんな人でもこの世を重苦しく感じ、苦しくなればなるほど幸せを願う。幸せとはどのような状態であるのか、また、どのような生活をしていくことをいうのかについて、よくわからないままに、それでも苦しみの反対の状態というものを予想して幸せを願うものです。
 そこへ“成仏を願いましょう”と呼びかけても、一般の人々の思索のなかでは、成仏と幸せとがなかなか結びつきがたいのが現状であるといえるかもしれません。まことに恐るべきことでありますが、現代は享楽の対象があまりにも多くありすぎて、人々は“快楽すなわち幸福”という常識からぬけ出ることができない気持ちになってしまった。したがって、快楽ということと、一見反対に思える成仏ということは、なおさら幸福と結びつきがたいとみても間違いないでありましょう。
 しかし、我々は法華弘通という大願を起こしたのであります。成仏と幸福が結びつきがたい風潮が強ければ強いほど、それを結びつける努力のなかにこそ、爽快なる楽しみを見いだしていただきたいのであります。少ない苦労には快楽はない。おおいなる労苦には、だれも味わうことができない快楽がある、と私は確信したいのですが、皆さん、いかがでしょうか。(大拍手)
 今後、時代もますます悪くなるかもしれませんし、したがって私どもの活動が、広く多様化していくことも必然でありましょうが、物事の表面や現象面だけに流されることなく、根底においては、あくまでも大聖人の御金言を根本として、これからの世の中を、また人生を、悠々と獅子のことく、私といっしょに再び闊歩していっていただきたいのであります。
3  信仰人として社会に貢献
 さきほどの御書には「大梵天・帝釈・大臣の身と成って」も、それはただ「夢の中のさかへまぼろしのたのしみ」とあり、仏道修行を志す者はそうしたいっさいの名聞名利に絶対に近づこうとすべきではないと考える人もいるかもしれませんが、それはまた、極端な偏向ともいうべきで、大きな誤解であります。もしもそういう考えでいくならば、全員が出家でもして、世法と絶縁しなければならぬことになってしまいます。すでに申しましたとおり、この御金言は、人生と信仰に関する心構えの根本を明示された教えなのであります。
 私ども在家の一般人は、社会人としての立場から仏法を広めていくべき使命をもって、この世に出現したわけであります。厳密にいうならば、私どもは「垂迹化他の外用の辺」として、示同凡夫の相をとって生まれてきたと、仏法では説かれております。
 したがって、名聞名利は精神の問題、心構えの問題として戒められているのであり、名をあげ、利を手にしたからといって、ただその結果的な事実や形だけで悪いときめつけるべきではない、ということも知っていただきたいのであります。名をあげては慢じ、利を手にしては私欲のとりこになるだけであるならば、まさしく名聞名利の徒でありますが、名をあげることによって法華経に名をあげ、利を得て仏法に供養し、広く法華弘通に生かして社会へ有益に還元するならば、それはむしろおおいなる功徳となるわけであります。
 社会へ貢献しようと志し、複雑な人間関係のなかでリーダーに推され、積極的に活動しようとするならば、それ相応の知力、体力、学力、社会的地位、経済力、教養、魅力、技能等々が必要とされるわけで、そのうちのどれを欠いても十分な役目を果たすことはできないことは、むしろ当然でありましょう。それらを総合した活動能力をもたないことには、社会活動がどうしても不十分になります。この点からして、第二章ということを考え合わせてみましても、皆さん方が、おおいに私生活の内的充実をはかっていただきたいとお願いするものであります。(拍手)
 そして、あらゆる人々から“確かに、信仰をもったあの人の生活の実証を、私は認めざるをえない”といわれるようになっていただきたい。ともかく、皆さんがた一人ひとりが福徳豊かなる人材になっていかれますよう心から希望してやみません。
4  大生命哲学を掲げ実践
 さきほどの御書には「私どもは無始以来、妙法の如意宝珠を持ってはいるが、気がつかないで……」という意味の御文がありました。この「如意宝珠」の宝につきましては、天台大師も摩訶止観において種々に説き明かしておりますが、結論するに、宝とは本有の妙法であり、人間生命のことなのであります。
 現在、生命の尊厳が強く叫ばれてはおりますけれども、現実にはますます生命軽視の風潮のほうが幅をきかせており、どうしようもないほどになってしまっています。交通事故、捨て子、自殺……等等、悲惨なニュースのタネは尽きないほどですし、公害や産業被害に泣く人も多い。生命は外から軽視されるばかりか、人間、社会が自分自身の手によっても生命を粗末に扱う昨今であり、じつに、末法極まれりの感を深くいたします。
 所詮、生命の法理に暗いと、いくら学校教育が普及しようと、また諸学の理論水準が高まろうとも、決して生命軽視の風潮は根絶されるものではありません。このように考えると現代にあっては生命の法理を深く知っていくということが不可欠になります。
 信心とは、結局のところ、生命の内なる法則の確認をすることにほかなりません。どうか皆さん、私どもは色心不二の大生命哲学を掲げて、これからも勇気凛々と、この恐るべき現代の風潮に真っ向から戦いを挑んでいこうではありませんか。
 今年から開始された教学運動には、このような観点からの大きな意義が含まれている。したがって、また私たちには偉大な使命があるということも、深く自覚していただきたいと思います。ところで、私どもの教学運動について注意すべき一つとして、学理の追究のみにおぼれた智者、学匠になるべきではない、ということであります。これは、現在、未来にわたっての学会の重要な問題であります。アメリカの知日学者であるライシャワー氏は、日本人は知識人になればなるほど、住んでいる社会から隔絶していく傾向があると指摘しており、なかなか鋭く日本人の欠点をついております。
 私どもの場合、仏法上の学識が進んだあげくに、不幸な人、悩める人のなかにも入らず、組織活動も逃げて、実践の場から隔絶していったならば、身にそなわった教学も知識も、なにもならないということを知っていただきたいのであります。
 そうした意味で、ライシャワー氏の次の言葉には、味わうべきものがあると思います。
 「実践的かつ現実的でない学者、つまり、現実にあてはまらないような理論を信じる学者は、夢の世界をつくる人間にすぎず、したがって劣悪な学者であります。反面、理想主義者でない政治家や官僚、つまり普遍的な理論や理想でなはなく、日和見主義に基づく政策しか持たない人たちは、経国の士ではありえず、政治の雑役夫にすぎないのです。学者の世界と政治家の世界とのあいだに境界線があってはならないのです」(「日本近代の新しい見方」=講談社刊)
 このなかの「学者」を教学部員に、「政治家」を組織担当の幹部にと、それぞれおきかえてみれば、じつに学ぶべきところの多い主張ではないかと私は思うのであります。教学部員が「夢の世界」をつくる劣悪な学者であった場合には、その人は破和合僧の人になってしまうし、修行、実践なき教学は観念論にすぎず、しかもなんら功徳はないのであります。
 一方、組織担当の幹部も、ろくに仏法哲理をわきまえない、組織活動のただの作業員であってはなりません。そうなってしまったら、目標も失うであろうし、目標を設定したり、見極めることもできなくなってしまうでしょう。
 もしも、教学部員と組織担当の幹部の両者のあいだに境界線があったならば、仏法が宙に浮いてすべての活動が空転してしまいます。その意味において、皆さん方が一人残らず、実践と学問、教学と活動を、ともに立派に推し進めて身につけていく、いわゆる“行学兼備”の模範の幹部に成長していかれますように心から祈ってやみません。(大拍手)
5  自分自身を建設
 このように行・学というものを一体にしていく道は、決してなまやさしいものではありませんが、あえていえば、学会教学は剣豪の修行を思わせるほど厳格に鍛練を重ね、一貫して行・学を一体化させてきたという歴史をもっております。この過程をふみしめて自己を純化し、また純化によって個性を磨き顕して、他のだれびとをもってしても代えがたい自分自身を建設していただきたいのであります。すなわち、そうした自体顕照のなかにこそ真の人間革命が達成されていくのであります。
 妙法に巡り会わずしても、本人が一念発起すれば、驚くべき革命ができるという実例が多々あります。たとえば、ギリシャの哲人ソクラテスはひじょうに容貌が醜かったといわれ、そのうえ夫人も気性の激しい悪妻であったといいますが、学を磨き、心を発達させて、己の悪条件を見事に埋め合わせたのであります。ベートーベンが、耳が悪いという、音楽家として致命的な欠陥にもめげずに、心の耳を研ぎすまして超一流の音楽をこの世に残していることも有名であります。エジソンは、成績が悪くて小学校も中途退学しております。なぜ中途退学したかというと、健忘症だったため、いつも成績がビリであったからです。だが、彼は成長するや世界的な発明王となっているのであります。
 人は成功すれば、必ずもって生まれた才能のせいだと思われがちですが、決してそのようなものではなく、問題は、もって生まれた才能を“磨いた”かどうかの一点に帰着するのであります。まして妙法の世界において大御本尊の功徳をうけ“汝自身”が妙法の当体であるばかりでなく、同志のあたたかい指導、激励に守られながら、なおかつ、それ相応の人間革命ができないわけは断じてないと、私は主張したい。(大拍手)
 惑わずに広宣流布に身を挺して、人間革命が成就しないわけがないと固く信じて、唱題に唱題を重ねていってください。日蓮大聖人は「人身は受けがたし爪の上の土・人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ、中務三郎左衛門尉は主の御ためにも仏法の御ためにも世間の心かりけり・よかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ」と仰せであります。
 私は“学会っ子”である皆さん方が、仏法のためにも世法のためにも、岐阜中の人々から“心根の良い人であった”“親切の人であった”“誠実の人であった”とうたわれるような一人ひとりになっていただきたいとも、心からお願いするしだいであります。
 きょうは、遠路はるばる来られた方が、たくさんいらっしゃると思いますし、会場設営等でご苦労をおかけした方々も大勢おられると思います。そうした方々には、特に厚く感謝申し上げて、私のせめてもの真心とさせていただきます。
 最後に、皆さん方のご健勝とご多幸とをお祈り申し上げ、また、きょう参加されなかった県下の会員の方々へもよろしくご伝言のほどをお願い申し上げまして、私の話を終わります。(大拍手)

1
1