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日蓮大聖人・池田大作

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第二東京本部幹部会 広布は人類の要求

1973.3.31 「池田大作講演集」第5巻

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1  多摩地区の皆さん、こんにちは。どのお顔を拝見しましても、一人残らず明るくお元気そうで、私はひじょうにうれしく思います。これからも、なお一層唱題に唱題を重ねて、生命力を充実させて、立派な広宣流布の人材として活躍し、所願満足の人生を確立していかれますことを、心からお祈り申し上げます。そこで毎年、原則として、三月三十一日に、この第二東京本部の記念幹部会を開催していってはどうか、と最初に提案するものであります。(全員賛同)
 きょうは一人の仏法哲学者と、一人の仏法指導者と、私の三人で静かに話をさせていただくようなつもりで、話を進めさせてもらいます。
 多摩地区は大東京のベッドタウンであり、これからも、ますます地域開発が進むでありましょう。都心のほうから驚くべき勢いで人口が流入してきて、爆発的にその数が増えていることは事実であります。皆さん方も、おそらく大半の総ブロックが、年々月々に新しく移転してきた人を受け入れる苦労で大変でありましょう。しかし、すべての人たちを大御本尊にしっかり直結させていくことこそ、私たちの重要な報恩でありますので、なにぶんとも、この任務を公布弘通とともに、よろしくお願いしたします。
2  大事な報恩、孝養の実践
 ただいま、私は「報恩」という言葉を申し上げました。この点、日蓮大聖人の仰せを拝してみますと、四恩抄という御書に「仏法を習う身には必ず四恩を報ずべきに候か」と示され、一切衆生の恩、父母の恩、国王(社会)の恩、三宝の恩、この四つをあげておられます。現代のように激しい世の中になりますと、他人は皆、対立と生存競争の相手としか見えなくなってしまい、現実の社会では、人々のなかに内在している恩徳が、こちらの心眼に映ってこないようであります。
 しかし、私たちは心眼はおろか、眼、法眼をしっかりと見開いて、孤独と疎外の厚い壁に挑戦していかなければならない任務、使命があるのであります。
 また、大聖人は、この報恩は孝養であると教えておられます。とかく、こういう文字に接しますと、そのたびに私は、恩師戸田先生のことが思い出されてなりません。明後四月二日で、お別れしてから十五年になりますが、なんとかして、この偉大であられた恩師の鴻恩にお応えしたい、孝養の一分でも実現したいと、ただそう思う一念にかられておる昨今であります。
 さて、この孝養でありますが、法蓮抄に「夫れ教主釈尊をば大覚世尊と号したてまつる、世尊と申す尊の一字を高と申す高と申す一字は又孝と訓ずるなり、一切の孝養の人の中に第一の孝養の人なれば世尊と号し奉る……釈尊・塵点劫じんてんごうの間・修行して仏にならんとはげみしは何事ぞ孝養の事なり、しかるに六道四生の一切衆生は皆父母なり孝養おへざりしかば仏にならせ給はず、今法華経と申すは一切衆生を仏になす秘術まします御経なり、所謂地獄の一人・餓鬼の一人・乃至九界の一人を仏になせば一切衆生・皆仏になるべきことはり顕る、たとえば竹の節を一つ破ぬれば余の節亦破るるが如し……仏は法華経をさとらせ給いて六道・四生の父母・孝養の功徳を身に備へ給へり、此の仏の御功徳をば法華経を信ずる人にゆづり給う」と仰せであります。
 かくのごとき視点に立てば、対話といい、折伏といい、指導といい、すべては孝養の道をふむという動機から行うのでありますから、これは、いつかは必ず相手に通じるものであると確信していただきたいのであります。厳然たる折伏態度の奥に、この心があるならば、感情的トラブルも起こるはずはありません。地域友好の活動においても、父母への孝養に通じると思えば、多少なにかあったとして、先鋭化、問題化することはないと、私は申し上げておきたい。生涯、心を因位において修行に励むという、その因位の心地とは、具体的には、まさにこの御書にご教示された心構えであろうと、思うからであります。
 なお、折伏弘教の姿勢として、このようにも考えられるということを、一つ申し上げておきたい。法華経の結経である普賢経においては、自身の六根の悪をあげて、生善滅悪をしていく方法を説いておりますが、そこではこう述べておられる。「心根は猿猴の如くにして、暫くも停まる時あることなし。若し折伏せんと欲せば、当に勤めて大乗を読経誦し、仏の大覚身、力無畏の所成を念じたてまつるべし」(妙法蓮華経並開結710㌻)と。すなわち「自分の心を折伏せよ、そのためには題目を唱えよ」という意味になるのであります。
 なるほど、唱題に励んで、まず、わが凡夫の迷心を折伏しなかったならば、先の御書で説かれている“一切衆生は皆、孝養を尽くすべき、我らの先生の父母である”という心境、境涯にもなれますまい。まず自分の心を折伏してかからなければ、とても善へ導く化他の折伏へは行動を起こせない。自分のほんとうの真心というのは湧現できない。これで「折伏は信仰の押し売りでは絶対にない」ということがおわかりと思う。
3  自我について
 次に私は以上にあげた御書や経文をよりどころとしまして、古今、哲学界の最大のアポリア(難問)とされている「自我」というものについて、その断面にふれてみたいと思います。
 自我――つまり自身の内奥的、根源的存在は、法華の法門においては常楽我浄の我、あるいは地涌の上行菩薩として、あるいは一念三千の一念心として、というように、さまざまな角度から説き示されているのでありますが、そこへいきつくまえに、まず当然の常識として、だれでも自分を内省してみれば、自分が存在していることはすぐわかります。それによって類推してみると、どの他人にも、それぞれ自我があることは認めざるをえないところでありましょう。これは、日常的な自我であります。仏法で説く「真我」としての自我は、その日常的な自我の奥に存在しているのであります。
 こういう日常的な自我というものは、他人から無視され、黙殺されると、疎外感に満たされ孤独を味わい、戦場へ駆り立てられたりするような異常事態が突発しますと、ハッとわれにかえって、自我は、存在するものはわれ一人のみという、絶対的孤立感に支配されてしまうものであります。
 また、こうした日常的な自我は、対人関係、社会関係のなかでは、つねに縮小と拡大とを繰り返していきます。利用されたり、しかられたり、いやしめられたり、けなされたり、きらわれたり、罰せられたりしたときは、それらの強度に比例して、自我は縮小するものであります。反対に、ほめられたり、尊重されたり、優遇されたり、賞を与えられたり、愛されたりしたときには、自我は拡大していきます。ただし、四悪趣的自我を拡大してしまっては、無慈悲であり「慈無くして詐り親しむは即ち是れ彼が怨なり」となります。こういう事実があるからこそ、正しい論理では「他人を自分のオルガノン(道具)として利用してはならない」と戒めるのであります。儒教で「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」というのも、まったく同じ見地からの発言であると、私は思う。
 世の中には、イキが合ったとか、ウマが合うとか、相性がいいなどという表現がありますが、これは、互いの自我が結び合った状態を示しているのでありまして、英語ではこの結び合いを「ラポート」といっております。このラポートは友好のうえではきわめて大切なことと思うのであります。
 これについてある本では、「積極的に、心のベルトをかけようとするには、どんな手を打ったらよいか。その第一歩は、相手への関心を示すことである。その示し方は二通りあって、①わたしはあなたを認めている、無視していない、②あなたについて知っている、この二つである」という意味のことをいっております。
 人間の自我は、このときはじめて独我的自己より救い出されて生きいきと拡大し、使命を自覚するにいたるのであります。この局面においては「沈黙は金である」とうい格言は、むしろ誤りであり、有害であり、理解と親切な会話こそが金となる、と私は申し上げたいのであります。我々は互いに尊重しあい、互いによく知り合い、対話に対話を重ねて異体同心の輪を広げつつ、互いに相手の自我を拡大してあげることに勤めていこうではありませんか。これが人間連帯の広布の波となっていくのであります。
 ただし、自分で自我を拡大していこうと働くのは、勤行、唱題のとき以外は、エゴイズムに陥る危険性があるということも忘れてはならない。相手の自我拡大に努力した人だけが、その果報として、自分の自我が拡大するといえるのであります。
 対話といい、指導といい、折伏といい、すべてはこの方程式でなければ、功徳を生まないと思います。折伏は折り伏せることではないかと批判される場合がありますけれども、その真義は悪心を折ることによって、その奥に隠れていた、その人の自我を引き出し、拡大することなのであります。どうか、よくよくこの方程式に徹して、立派な仏道修行者として、また人間として、大成されますことを、私は心からお願い申し上げるものであります。
4  信心の人のみ“真我”を体得
 さて、以上のような日常的自我は、これは所詮、有漏の煩悩を主体とした、表面的な自我といわざるをえない。その奥に、非常事態に直面して、ハッとわれにかえったときに現れるような内奥の自我かあります。仏法的にいえば、無漏の自我であります。六道に対する四聖の自我であります。そして、更にその奥に根本的な自我の体があります。
 それは、こうした人間の内奥における自我、四聖の基盤であり「真我」といってもよい。有漏、無漏に対する、非有漏、非無漏の自我、あらゆる大哲学者、大思想家たちが心魂こめて求め続けたところの自我、これこそ妙法仏界の自我であり、南無妙法蓮華経の大生命なのであります。
 この尊い真我、つまり真の自我は、九界本因において求めれば、信心以外のなにものでもない。信心の唱題の人のみが、この自我を味わうこうとができ、信心を貫いた人のみが、これを体得することができるのであります。仏界本果において求めれば、御本仏日蓮大聖人のご境地そのものであります。我々が折伏を行じ、広宣流布をめざすのはなんのためであるか。それは、あらゆる人が、生まれつき本然に自己の究極的自我の発揚、拡大を求めるからであります。それが人間の生存本能だからであります。
 広宣流布は仏意仏勅であると、ひとくちにいってしまえばそれまででありますが、以上のように自我の観察から問題をリサーチ(探究)してみれば、人類全体の生存本能上の先天的な要求であることが明らかである。ただ、それが的確に人類に自覚されていないだけなのであります。
 広宣流布は、明らかに人類の要求であります。「広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」との仰せは、以上のような関係性を奥底まで見通しておられたゆえの大聖人のお言葉ではないかと、私は確信しているのであります。
 人々は皆、真実の永遠的真如の自我の発揚を求めながら、それぞれに九界の自我のなかに閉じこもっております。その解放は大御本尊による以外にない。妙法による以外に絶対にありえない。
 大聖人は大御本尊を「此の経の文字は皆ことごとく生身妙覚の御仏なり然れども我等は肉眼なれば文字と見るなり、例せば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随つて別別なり、此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る二乗は虚空と見る菩薩は無量の法門と見る、仏は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり即持仏身とは是なり、されども僻見の行者は加様に目出度く渡らせ給うを破し奉るなり、唯相構えて相構えて異念無く一心に霊山浄土を期せらるべし、心の師とはなるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文ぞかし」と仰せであります。
 九界の自我はそれぞれ異なっているため、御本尊をその境地でみてしまう。しかし、真如の自我は、この御本尊による以外、絶対に顕現しないのであります。絶対的な幸福は、ここにしかないのであります。ゆえに、なにがあっても決して退転はしてはならない。退転は自我の破壊であり、そしてまた、自我の死に通じるからであります。
 佐渡御書には「これはさてをきぬ日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮がくなれば疑ををこして法華経をすつるのみならずかへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人びゃくにん等が念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん事不便とも申す計りなし」と申されております。
 広宣流布は第二章に入りました。我々は大御本尊を無二と信じ奉り、人にも勧めて、大御本尊を心の師として、真実の幸福境涯を獲得し、貫き通してまいろうではありませんか。
 最後に親愛なる皆さまのご健康、ご活躍を心からお祈りして、話を終わります。(大拍手)

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