Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第6回高等部総会 すすんで信行学を

1973.8.6 「池田大作講演集」第5巻

前後
1  念願の高等部員一万人による第六回総会、心から祝福申し上げます。おめでとうございます。(大拍手)きょうはいくつかの所感を申し述べて、私の話を進めさせていただきます。
2  大願を起こそう
 第一に「大願を起こそう」と申し上げたい。願いと目標をもてなければ、人間らしいとはいえないし、青年とはいえない。更に我々は自分から願って信心をした。したがって大願を起こし、大目標をもって当然である。一生はアッというまに終わってしまう。この尊い一生を、何を願い、何を目標に進むか――これがもっとも大切である。
 日蓮大聖人は「大願とは法華弘通なり」と仰せられている。すなわち大目標とは広宣流布である。と結論されておられる。信心する一人ひとりの心のおきどころが、そこに決まれば、身の振り方は、しぜんに決まっていくもである。原点が決まった人生は、根強い。その人生は、最後は必ず勝つのでありましょう。その人格は、燦然として輝くでありましょう。
 私は、私自身の二十数年の体験のうえから、所持の妙法蓮華経を、たとえようもなく誇りと思っております。障害にあえばあうほど、また、困ったときほど、御本尊を持てたことをすばらしいと思う。これは実感としてそうなのである。
 諸君も成長すれば、やがてそうした実感をもつにちがいない。私は、そのときがくるのを待っております。なぜならば、そのときこそ私と諸君の連帯が、完成されるときだと思うからであります。
 大願に立ち、妙法を誇りに感ずるならば、当然広宣流布を祈り、創価学会の発展を願う気持ちが強まるであろう。ともかく、大願の達成は、そこから、はじめて可能になってくる。
 そして、この大願を起こした信心の人材になることが、世法、社会における人材に育つ直道である。世間一般の人材のなかには、根無し草である場合が多い。それだけでは、生命の奥底からの歓喜というものは、一生、味わうことはできない。「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」とあるが、この大聖人のご断定は絶対に間違いありません。
 六十歳、七十歳になってからでさえ、大願にめざめた人は幸せである。佐渡の阿仏房が、そのよい例である。まして、青年期から大願に立った人は、最高に幸せという以外にない。ことえ現時点で、まだ幸せの実感がつかめないとしても、必ずそれを実感するときがくることを確信していただきたい。
3  人間建設、人間革命に励もう
 第二に「人間建設、人間革命に励もう」と申し上げたい。人生は生涯、建設である。建設が失われた人生は敗北である。とりわけ、諸君はいま、心身ともに建設期にある。頑健な体をつくらなければならないし、正義と不正義を立て分けている健全な精神を養う必要がある。更に高度な文明社会のなかで、見事に生きぬける英知も身につけなければならない。カサカサした社会の風のなかにあって、心の冷え込んだ人にはならずに、あたたかい気持ちの社会人になれるように、忍耐力や情操も養わなければならない。なにからなにまで、いまはすべてが、建設、また建設という時期である。このことを忘れてはならない。
 ところで、諸君のまわりには、わざと“くずす”という流行がある。これも、もとをただせば一つの価値観の転換の表れであり、人間性を疎外する物質文明へのレジスタンスであることは、私もよくわかる。
 ただし“くずし”を、美の表現や現代精神の表現とする流行が、どこまで続くものであるか、このことを深く考えなければならない。“くずし”の風潮にそまっている人たちも、四十歳、五十歳まで、そのままの状態でいくとは思えないし、更に十五年も二十年も一つの流行がつづいたというためしもない。“くずし”の流行のなかに、完全につかってしまっては、本来あるべき人間建設に、取り返しのつかない手抜かりを生じて、重大な人生の損失が生じてしまわないかと、私は心配するのであります。
 流行を否定する必要はないが、流行に流されてしまっては、敗北である。諸君は“建設”の二字だけは、決して忘れないでいただきたい。高校、大学は勉強が本業である。勉強とは“強いて勉める”作業である。適当に勉めておけば……などという勉学はないし、要領よく、ほどほどにしておく建設などというものも決してありえない。
 信心根本に立つ若人は、困難への挑戦の気概だけは忘れてはならない、と思うがどうだろう。(拍手)どうか総体的な人間建設に、真っ向うから取り組んでいただきたいことを、お願い申し上げます。(大拍手)
4  信頼関係を広げよう
 第三に「信頼関係を広げよう」ということであります。単純明快にいえば、もしも、世界中の人々がみな、信頼しあえる関係になったならば、そのときから、戦争は決して起こらなくなるでありましょう。このこと一つをもってしても、信頼しあえる関係のもつ力の偉大さがわかる。友人も、家庭も、企業も、そして組織も、みなこの信頼関係を土台として成立している。ようするに、信頼こそが平和の基であると、私は訴えたい。
 我々は、決して血を流すことのない平和革命をめざしている。そのためにも、すべての対人関係を、信頼関係に高めていかなければならない。
 諸君も信頼関係を広げていくことは、いまでもできる。むしろ、いまのほうがやりやすいともいえるだろう。大人になっしまうと、交際は広くなったとしても、そこに利害が大きくからんで、真の友だちはなかなかできにくい。諸君なら、まず学校のなかで、信頼関係をつくっていこうと思えばいくらでもできる。
 更に、そこでできた友人関係は、高校時代の三年限りにしないで、いつまでも維持していく努力をなすべきであると思う。また、高等部、青年部のなかでも、互いに信頼関係を深め、広げていくようにも努めていただきたい。
 ともかく、異体同心の団結といっても、要は、同志がしっかり互いに信頼しあえるか、いなかにかかっているのである。信頼しあえば偉大な力が発揮される。妙法を発展させ、社会を繁栄させていく力が、そこから悠然とわきあがってくるのである。
 「異体同心なれば万事を成し……」という御金言を、広宣流布のもっとも大切な総仕上げの指導者に育つ諸君は、永遠に肝に銘じていただいたい。
 誠実でなければ、だれも信頼を寄せてはくれない。心と頭脳を鍛えぬいた人だけが、信頼を勝ちえ、信頼関係を広げていけるのである。
 信心が強ければ強いほど自己をみがくことができ、その実証として信頼関係を広げていく力がついてくるはずである。諸君はまだ未成年であるが、信心には成年とか未成年という境界はない。どうか胸を張って、信頼関係を広げていくという課題に取り組んでいっていただきたいことを、心からお願い申し上げたい。(大拍手)
5  すすんで訓練をうけよう
 第四に「すすんで訓練をうけよう」と申し上げたいのであります。現在、諸君は両親の保護のもとで生活している。だが、ちょうどいまから“自我”といって、独立した自分自身の精神がめざめ、働きだしてくる。いわば、いままでうけてきた保護の力から抜け出して、精神が独り歩きを始めようとするのが、青春時代であり、なかんずく高校時代である。反抗期といわれる現象も、その一つのあらわれにすぎない。
 未知の世界へ飛びこんで、なんでもかんでも自分で味わってみようとする。そこに頼もしさもあれば、あぶなさもある。また、感情も大きく揺れて動いていく。そして、夢も期待も不安も大きくわきでてくる時代である。その時期を通って、大人になっていくのであり、そうした現象は、必然的な現象であってやむをえないと思う。
 しかし、家庭では両親の、学校では教師の、学会では先輩のいうことをかみしめ、聞き分ける能力、注意力、吸収力を失ったら失敗すると申し上げておきたい。それが、どんな形で出てくるかは、一概にはいえないが、総じていえば、“人格の曲がり”という形をとって表れてしまう場合が多い。
 平均して十九歳で身体的に完成するから、この年代で“人格の曲がり”が身についてしまうと、その後は人間革命といっても、なかなか容易ではない。
 諸君の先輩である人たちのなかにも、“あの人が信仰者なのだろうか”と思われる人が、たまにいると思うが、それは二十代までの大きな習性的になっている“人格の曲がり”が、なかなか直らないためであろう。
 諸君の時代に人格をみがきぬいた場合、それは生涯の財産となる。両者の差は、四十代を超えてから、決定的なものとして表れるはずであろう。いまこそ自己の一生を大きく左右する“人格の骨組み”をつくる時代なのである。
 しかも“人格の骨組み”をつくるのは、両親や教師の責任というより、自分自身の責任に属する部分が、大半を占める。したがって、どうか諸君は、賢明な高校生になって、信心の分野ですすんで訓練をうけ、この高等部時代の訓練をとおして、精神の独立、自立へと進んでいくよう、お勧め申し上げるものであります。
 すなわち、すすんで信・行・学の訓練をうけることは、とりもなおさず“未来の宝”を手に入れるようなものであると申し上げたい。
 どうか、その意味においてぞんぶんに、高等部時代の訓練をとおして、精神の滋養を、未来の自分自身のために吸収していただきたい。
6  万事、若人らしくいこう
 最後に「万事、若人らしくいこう」と申し上げておきたい。皆さん方高等部員は、世界の高校生のなかでもっとも若人らしい存在であり、また、最高に模範的な先駆をきっていることを確信してほしい。
 最近は、部屋に閉じこもって、なかなか外に出ない男子高校生が増えているようである。また、女子高校生のなかには、駅のロッカーへ着替えを入れておいて、学校がおわると制服を着替え、遊び歩く生徒が増えているようである。いつの時代にも、はみ出す生徒や、社会からはみ出す人間が何パーセントかいるようでありますが、私はいま、そのこと自体を論じようとするのではありません。
 わたしが述べたい点は、閉じこもる男子、着替えして遊び歩く女子は、どちらも若人らしくない、ということである。
 男子の場合、高校二年のころから、大学入試の準備に入るから、どうしても机の前に座る時間が多くなる。それがこうじて“閉じこもり”が週間になってしまったのでは、なんとも若人らしくない、と思う。また着替えて遊び歩く女子高校生は、こざかしい女性であって、行動が卑屈で、若人らしくない。
 いまあげた二つは、ほんの一例であるが、高等部諸君は、万事について、若人らしく行動していっていただきたい。はつらつと、闊達に、生きいきとした態度で、高等部の三年間を過ごしきっていただきたいのであります。(大拍手)
 御書には「此の法華経には我等が身をば法身如来・我等が心をば報身如来・我等がふるまひをば応身如来と説かれて候へば、此の経の一句一偈を持ち信ずる人は皆此の功徳をそなへ候」とある。
 振る舞い、行動が、応身如来という妙法の原理に照らしてみれば、閉じこもりや着替えの例は、どうみても如来の所作とはいえず、如来を顕現していく仏法から、いかにほど遠い振る舞いであるかが、すぐわかると思う。
 諸君は、もう自分で分別をつけようと思えばできる年代であり、まして諸君は妙法の健児であり、仏の子である。人間建設の信仰を知らない高校生たちが陥っている弱点を、克服できる使命の人であると信頼しております。
 どうか、万事、学会っ子らしく、高等部員らしく、若人らしく振る舞いを、これからもつらぬくよう、お願い申し上げるしだいであります。(拍手)
 一万人の諸君の幸せと未来の栄光を、心から祈って、私の話を終わります。(大拍手)

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