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日蓮大聖人・池田大作

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第4回壮年部総会 盤石な再構築へ教学を振興

1973.3.6 「池田大作講演集」第5巻

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1  本日は、第四回壮年部総会まことにおめでとうございます。(大拍手)
 ともかく、壮年部あっての創価学会であります。私も壮年であります。皆さん方こそ学会の骨格であります。どうか、婦人、青年をがっちりと支えて、大安心をさせてあげていただきたい。地域のことは全部、私は皆さん方に一任いたします。皆さん方の真心を、心から信頼申し上げております。唱題に唱題を重ねて、存分に力を発揮していってください。
2  行動と認識の原理示す「御書」
 ご承知のとおり、今年は「教学の年」としています。長いあいだの念願でありました正本堂はおかげさまで立派に完成し、予期したとおりに、その大きな機能を発揮しはじめました。これを転機として、広宣流布の第二章の幕が開かれました。そこで、昨年秋の本部総会でも、本年を出発点として教学の充実、新しい理論構築、高度な言論活動を展開すると申し上げたのであります。
 そのことにつきまして、本日、この席をお借りしまして、補足説明を申し上げたいのであります。ともかく経典も御書も、大御本尊の出現のためであり、その説明であり、その行躰即信心の実践の指南書であることには変わりないと、私は思います。
 選時抄に「第九等をみまいらすれば我が仏法は月支より他国へわたらん時、多くの謬誤あやまり出来して衆生の得道うすかるべしとかれて候、されば妙楽大師は「並びに進退は人にり何ぞ聖旨にかかわらん」とこそあそばされて候へ、今の人人いかに経のままに後世をねがうともあやま過誤れる経経のままにねがはば得道もあるべからず、しかればとて仏の御とがにはあらじとかれて候、仏教を習ふ法には大小・権実・顕密はさてをくこれこそ第一の大事にては候らめ」というご教示があります。
 要するに仏法が他国へ渡るにあたって、原典の翻訳と解釈にたくさん間違いを生じ、それが衆生の理解を妨げ、得道を薄めてしまうという指摘であります。そして、これこそ第一の大事なることであるというご注意であります。このご注意は、我々にとって、じつはひじょうに重要なことを教えているのであります。
 現在、私たちの信奉する仏法はどんどん外国へも広がっております。国内においては大変な世帯数にもなりました。いっさい皆さま方のおかげでございます。そのうえ、大聖人ご在世から七百年という時代差がでてきております。この十年間だけでも、大変な変転きわまりない時代になっております。そのため、国内においても、国外においても、どうしても翻訳と解釈を通じて、大聖人の仰せを拝する以外にない。
 御書は信心で拝するものでありますが、現実の思考作業としては、現代の進んだ一般諸学のレベル、ないしはその窓口、頭脳から御書を拝していかざるをえない。自分の哲学的経験をふまえて、その力に頼って御書を拝するのでありますから、これは解釈作業であります。いわんや、世間や他国へ伝えるということになれば、更に解釈性が高まってしまう。
 この解釈について、大聖人が時抄に仰せのように「多くの誤出来して、衆生の得道うすかるべし」となっては、大聖人に申しわけない。万事休することになります。教学確立の必要性はここから出てきます。学会がいまおかれている現況からして、教学の振興はやむにやまれぬ養請なのであります。一人ひとりが健全な教学力を養わないと、今後の広宣流布は進まないということになってしまうのであります。この点は、どうか皆さん方一人ひとりがしっかりと担っていってください。よろしくお願い申し上げます。
 これについて申し上げたい点は、教学力の平均的な現状についてであります。話すにしても、論文を書くにしても、まだまだ、これでよいというわけには、いかないようにみえるのであります。
 というのは、日蓮大聖人がお示しの御書の理論は、大別すれば二つに分かれるのであります。もちろん大聖人の仏法は、ことごとく“事”の仏法であり、御書はすべて実践の哲理でありますが、そのうえに立って申し上げれば、一つは、人の生き方の問題に関する理論であり、もう一つは、物事の識り方の問題に関する理論であります。
 第一の生き方の問題は、価値についての判断を教え、行動の原理を示しておられるのであります。これは、事理相対すれば事の面であります。実践面の教理であります。「開目抄」をはじめ大半の御書は、主としてこの一のほうの御書であります。
 ところが「一念三千理事」「十法界事」「三世諸仏総勘文抄」といった御書は、主として第二のほうの御書、つまり識り方の問題についての御書であります。この識り方の問題のほうは、事実についての判断を教え、認識の原理を示しておられるのであります。事理相対すれば理の面であります。
 また、一のほうは哲学的であり、二のほうは科学的であります。ところで、哲学の主方法は直観と論理であり、分析は補助として特別なときに少々用います。科学の主方法は分析と論理であり、直観は特別なときに少々用います。
 さて、私たちはともすると、哲学面を堂々と分析で押しきったり、科学面をこれまた堂々と直観で押しきってしまっている例が、少なくないように、私は思うのであります。
 哲学面にも科学面にも、必ず論理が用いられますが、ここにも問題があらわれております。論理は、ご承知のとおり、形式論理と非形式論理の二種類がありますが、基本として演繹法、帰納法、類推法、弁証法という四つの違った方法があるわけであります。
 現在、学会では座談会でも出版物でも、豊富に現代諸学を用いて仏法を説いておりますが、学問はどの学でも論理の進め方には中軸とする一つの方法があり、それを取り替えてはならないのでありまして、その骨格の補助として他の三方法が用いられます。
 具体的には、数学や論理学という形式科学は、一応演繹法が手段であります。対象認識と物理のような自然科学は帰納法が中心であります。他我認識と社会科学、また歴史学は類推法あるいは弁証法であります。自己反省、自己認識は、自分の誤りを否定して正しい自覚の肯定へと、弁証法的に進む傾向性が強い。
 ところが、座談会などの話す場面に出てくることでありますが、公害を論じ、政治を論じ、いろいろな科学や哲学を話題にして論じていますとき、演繹、帰納、類推、弁証の手法がすっかりすり替えられて使われていることが、たまたまあるように感じられます。
 外部の人が、座談会に出席してドグマ(独善)だと批判し、わからないというのは、一つにはこの混乱が原因になっていると思いますし、外部の知識人がいやがるのも、この局面があるように考えられるのであります。
 少なくとも、壮年部の指導の任にあたる幹部は、ここの防ぎを担っていかなければならない立場にあるのではないか、と申し上げておきたいわけであります。これから十年がかりで、こういう方面もしっかり再構築してまいりたいと、私も思っております。そして、日蓮大聖哲の偉大なる仏法哲学を、堂々と世界中に宣揚していかねばならない。また、そうしていく決心であります。
3  連帯と理解と実践
 次に、連帯と理解と実践について申し上げたい。わが創価学会は、精神的には全員が学会家族であり、またそれが当然なくてはならない。それにともない、各地におけるブロックというものは、それぞれ地域家族とでもいう精神的連帯があるべきものと考えます。
 その手本は、大聖人ご在世において数々拝見することができます。たとえば、四条金吾殿が竜の口にお供申し上げたのもそうであります。日妙という女性が佐渡へはるばるお訪ね申し上げたのもそうであると思います。阿仏房が八十過ぎの老齢を押して身延へもうでたのも、じつにこの精神のゆえでありました。熱原法難のときには弾圧でいられなくなった神主の人を上野殿が引き取って守り、大聖人は、あなたがかくまいきれないときは、身延へよこすようにと申しておられます。佐渡の国府入道殿に対しては、もし蒙古が攻め入ったときは、身延へおいでなさいとも、大聖人は申しておられます。
 所詮、この精神的連帯は、久遠以来の法華の血脈を通していく血管を構成するものであります。かくのごとき連帯がある地域は盤石であります。この連帯の核は、皆さん方壮年でなくてはできない。どうか、毅然として一人立って、地域においてなにものにも揺るがない不動の原点として、機能していただきたいことをお願い申し上げます。
 人は十人十色、百人百色、それぞれみな違っております。この世に対する現れ方からして違い、占めている地位も働きもぜんぶ違う。そして、この無際限な構造世界の歴史を推進しているわけであります。この大局からみたときには、一人として無用な人間や邪魔な人間というものは、絶対にあるはずがないのであります。
 提婆達多でさえ釈尊の善知識であり、平左衛門でさえ大聖人の善知識だったということは、この構造世界内の機能を担っていたからであると、私は考える。いわんや学会のなかにムダな人がいるわけがない。しかし、そうわかってはいても、桜梅桃李――個々の当体そのままに生かしていけるか、いけないかは、おのずと“事”の問題になってくる。
 まず、理解にもとづく誠実な協調が成立していかなければならない。なれあいではなく、協調が必要である。理解とは何か。当然のことではありますが、自分をわかってくれと相手に要求することではありません。それは子供が大人に対してすることであります。
 真の理解とは、自分が相手のなかに入っていって内観視し、他人のもっているいっさいを自分の体験として、同情的に味わってみる作業であると、私は申し上げたい。批判的にながめて、分析してかかる作業ではないということであります。分析批判は客観上の理解であります。それであれば、なるほど相手の姿はよく見える。長所も欠点もよく見える。しかしそれは、相手の人の過去の姿にすぎません。そこには、未来へのよき可能性は開かれてこないのであります。人間は善にも悪にも向かっていく不確定な姿しかないと申し上げたい。
 人と人との接触での対人理解は、客観理解とは違って哲学的実践であり、人生修行であるということであります。それは、相手の不確実、非決定な将来を、内観によって自分と相手を一つの体系として結び、善なる実りとして互いに開示していく作業であります。これは経験豊で、倫理性豊かな壮年部でなければとうていできないことであります。
 人は多様であります。複雑で多様な人々が集まって、学会という集団をつくっておりますから、コミュニケーションというものはなかなか容易ではない。調和をとるのも大変でありましょう。自分の考えを一律に人に押しつけても通らないことがあります。
 そこで、対話がぜひ必要となってくるわけであります。対話を通じて互いに理解しあったときに、はじめて意思が疎通し、共感が生まれ、すべての活動に異体同心の和と力かできてくると思う。各部のあいだにあって、どうか壮年部の方に、これからも大変ご苦労であるとは思いますが、この面にご留意のほどをお願い申し上げます。
 さて、ともかく人間は根源的に実践的な存在であります。生きていくためには働かなければならない。働くとは、知恵の力によって対象と自分とを具体的にしっかりと結びつけ、そのことによって、いまだなかった新しいものをつくりだすということであります。ですから、実践とはいまだ実現されていない成果に向かって、現実を乗り越えていく作業といってもよい。
 この平凡な原理は、我々の組織についてもあてはまると思います。知恵の力でブロック組織と自分をしっかり結びつけて、組織内の対人関係においてつねに新しいもの、建設的な関係をつくりだしていかなかったらば、組織は創造性を失って有害無益な命令機構に変わってしまう。
 世間それ自体が人手不足で忙しいため、みんなこのことはわかってはおりながら、とかく投げやりになりがちな問題であります。そこに一つの危機があります。我々の地域組織も創造機構にするか、命令機構にしてしまうか、その責任を担うのは各部の要である壮年の皆さま方に、どうかお願い申し上げたいのであります。
 公私ともに男の責任というものはずっしりとして重い。女性や若い人かちからは、なかなかわかってもらえないのであります。それも、よく私にはわかります。私もそういう立場でございますが、ひとつ広宣流布のために勇気をもってがんばってください。
 人の経験というものは、万事深刻でありますから、お互いに過去、特に入信以前を振り返ってみれば、人によってはさまざまのことがあったと思う。しかし、大聖人は「末代の悪人等の成仏・不成仏は罪の軽重に依らず但此経の信不信に任す可きのみ」と仰せであります。この仰せに力を得て生命力を燃やしていけば、重い責任も立派に果たしていけると、私は考えるのであります。
 また、大聖人は「其れに付いても法華経の行者は信心に退転無く身に詐親無く・一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥に後生は申すに及ばず今生も息災延命にして勝妙の大果報を得・広宣流布大願をも成就す可きなり」とも仰せでございます。
 人生は所詮、七十年。我々壮年はその半分以上を過ぎた身であります。あとの人生を空しく過ごして通るにはあまりにももったいない、基調な総仕上げの段階である。御金言のごとくに、だれがなんといおうが仏道修行をつらぬき、勝妙の大果報を、全員がわが身に享受していっていただきたいのであります。がっちりとスクラムを組んで大願成就へ男らしく進んでまいろうではありませんか。皆さん方のご健康とご一家の繁栄を心からお祈り申し上げます。なお、最後に、壮年部全員に代わりまして、わざわざご出席くださいましたご来賓の皆さま方に厚く御礼申し上げ、私の話を終わります。(大拍手)

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