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日蓮大聖人・池田大作

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婦人部夏季講習会 信行学の持続で常に確信の息吹を

1972.8.24 「池田大作講演集」第4巻

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2  御書を学び視野を開こう
 次に「婦人と教学」ということについて少々話をしておきたい。
 この世の中でもっとも美しいのは女性である。また、もっとも醜くなりうるのも女性であると考える。美しさは、女性の特権であり、醜さは女性の敗北である。妙法比丘尼御返事には、女性の醜い側面が次のように述べられている。
 「たとえば女人物をねためば胸の内に大火もゆる故に、身変じて赤く身の毛さかさまにたち・五体ふるひ・面に炎あがりかほは朱をさしたるが如し眼まろになりてねこの眼のねづみをみるが如し、手わななきてかしわの葉を風の吹くに似たりかたはらの人是を見れば大鬼神に異ならず」云云と。
 では、なぜ美しかるべき女性が、このような姿になってしまうのか。それは、さきにも述べたように、女性がとかく現象面のみにとらわれて、物事の一切の本源をみようとしないために、周囲の物事に引きずられやすいからではないかと考える。
 この女性の性格について御書には「女人は水のごとし・うつは物にしたがう」と述べられ、また「女人の心を清風に譬えたり風はつなぐとも・とりがたきは女人の心なり」とある。私は、さまざまな例から考えて、結局、こうした性格、特質が女性のあらゆる不幸の根源になっていると考えざるをえない。
 したがって、皆さんが確固たる自己を築き、幸福の風をなびかせていくためには、どうしても信心、なかんずく教学が重要になることを強調しておきたい。なぜなら、表面的な物事に動かされやすい自分自身というものを、宿命的な自己というものをしっかり確立していくものこそ、教学であるからである。
 世間一般の例をとってみても、勉強している人は視野が広い。物事の本源をみていくこともできる。なかんずく、日蓮大聖人の御書は、人間の生命という根本問題を完璧に説き明かしたものであるがゆえに、一切の思想、哲学の鑑であり、あらゆる生活現象の原理といってよい。
 これを学んでいったときには、すべて物事の根源がしぜんに明らかになってくる。そこに大きな視野が開け、なにものにも妨げられない、広々とした、そして確固とした人間革命、すなわち自己というものの構築がなされていくのである。
 それはちょうど、真っ暗なほら穴のなかで、わずかな食べ物を取り合っていた人が、太陽の燦々と降りそそぐ木の実のたわわに実った野原に一歩足を踏み出していくようなものといえるだろう。
 また今日まで、じつにさまざまな婦人の集団があり、運動があった。しかし、創価学会の婦人部が行っているような宗教運動、哲学運動、そして人間復興の大運動は、その規模、その様相、その目的の崇高さにおいて古今東西に他に例をみないといってよい。
 皆さんが、着実に教学の研鑽を積み重ね、境涯を大きく開いていくならば、それこそ真実の女性開放の運動であり、やがては必ず後世の人々が、輝く二十一世紀への広大な新しい潮をつくった、と多大な評価を与えることであろう。
 更に、皆さんが、寸暇を惜しんで御書に取り組む姿勢が、ご主人、お子さん、お孫さん、友人等等に大きな波動を与えていくのである。また学会の基盤も更に不動になるといえよう。
 あるジャーナリストに会ったときに「一家の主婦が、あいた時間になにをしているか、その姿が子供に強い影響を与える、母親が暇なとき、ほおづえをついてテレビばかり見ているような家庭の子供と、わずかな時間をさいてでも本を開き、勉強しようとしている家庭の子供とでは、その子供の質的成長はまったく異なってくる。このことは統計的にいえる」という意味のことをいっていた。
 教育の根本の基盤が家庭にある以上、それは当然のことであろう。どうか皆さんは、お子さんに尊敬されるような母親になってもらいたい。そのためにも、教学にしっかり取り組んでいく姿勢をたもっていただきたい。
3  生活のなかで教学を体得
 大聖人ご在世当時の女性の弟子の方々をみても、真剣に大聖人の仏法を求めていた。妙法尼御前御返事にいわく「先法華経につけて御不審をたてて其趣を御尋ね候事ありがたき大善根にて候」、阿仏房尼御前御返事にいわく「御前の御身として謗法の罪の浅深軽重の義をとはせ給う事・まことに・ありがたき女人にておはすなり」、妙一女御返事にいわく「女人の身として度度此くの如く法門を尋ねさせ給う事はひとえに只事にあらず」と。
 これらの御文をみても、当時の婦人がどれだけ求道心にあふれていたか、深く思索していたか、ということがわかると思う。
 なかでも、ある婦人は、鎌倉から一人の幼子を連れて、遠く佐渡ご流罪の大聖人をたずねて仏法を求めている。鎌倉から佐渡へは当時、男性であっても大変な道のりであった。また当時は戦乱の時代であり、その険難さは想像に絶するものがあったことであろう。
 この婦人に対して大聖人は「いまだきかず女人の仏法をもとめて千里の路をわけし事を」と賞嘆され、日妙聖人という名を贈られたことは有名である。
 また兄弟抄で名高い池上兄弟の弟・兵衛志の妻は、夫が世間的なことにことよせて、信仰を捨てるかどうかという切迫した事態に陥ったとき、大聖人のもとをたずねて指導をうけ、激励されて、信仰を根幹に夫をしっかりと支えていった。
 もちろん、ご在世当時の女性の信徒がすべてそうであったとはいいきれない。信心弱くして退転したり、動揺した人がいたことも事実である。それらの人々の多くは教学がなかったがゆえに、まわりの出来事に動かされ、自身の進むべき方向を見誤ってしまった。
 どうか皆さん方は現代における“日妙聖人”“妙一尼”等として御本仏日蓮大聖人からたたえられるような一人ひとりになっていただきたい。
 もちろん今日ではなにも千里の道を歩く必要はまったくない。「御書全集」があり、また「大白華」も「聖教新聞」もある。また、なにも御書を最初の一行から完璧に読破しなければならないという、窮屈な考え方も必要ない。一日中机に向かって、ご主人のこと、お子さんのことをないがしろにするようでは、ほんとうの教学を学ぶ精神から、かけ離れた行き方であることもつけ加えておきたい。
 御書の一編を読む。聖教新聞に連載されている「きょうの発心」を毎日勉強していく。大白華に掲載された教学座談会等の教材を学ぶ。そのような毎日の積み重ねがもっとも大切である。毎日はできない場合もあるが、積み重ねを持続していくことである。勉強したことを忘れてもいい。それは少しでもおぼえてくれればいちばんいいけれども、無理だもの。(笑い)
 そうであっても、いったん広宣流布のために、仏法流布のために、自分自身のために学んだことは必ずいつのまにか血肉になっていく。そして、それはやがて皆さんにとっていろいろな意味で、かけがえのない宝となっていくことだけは間違いない。
 むしろ、よし、あしたから御書一ページなどと、身構えるということではなく、教学に取り組んでいくことが、あたかも空気を吸うがごとく、それがごくしぜんの欠くことのできないふんいきになっていけばいいのである。空気を吸い、御飯を食べるような気持ちで、ちょっと時間があったら御書をひらこう、三行でも五行でも読もう、これでいいと思うのである。
 このように家庭のなかに、生活のなかに教学があることは、信心を斬新にし、自己の成長への発条になっていくことを知ってほしい。そして、「婦人と教学」という他の世界には類例のない学会伝統の本筋に生きていただきたい。
4  働く婦人をあたたかく応援
 次にこのなかには、職業をもちながら主婦として、家事をきりもりし、学会活動に励んでいる人がいると思う。また皆さんの周囲にも、そういう人がいよう。
 それらの人は多忙な毎日だけに時間的に余裕のある人を見ると、うらやましく感ずるときもあるかもしれない。また、自分たちよりも学会活動にいそしんでいるブロックの人たちの姿を見ると、自分だけがなんとなく取り残されているような気持ちになって、あせることもあるかもしれない。
 しかし、そのように思う必要は絶対にない。なぜならば、同じ二十四時間の一日でも、職業をもっている婦人の一日は、内容においては、他の人の二倍にも三倍にも有効に使っていると思ってさしつかえない。
 “生きている”という充実感においても、他の人に比べて、より重厚な手応えを感じているのではないだろうか。それ自体が尊いことである。夫が病気だ、子供が病気である等々の経済的な理由をはじめ、いろいろな都合で働く人、あるいは社会的に大きい分野で活躍する人、さまざまであると思うが、ともかく、自分は人より二倍、三倍と有効に働いているのだ――と誇りに思っていいと思う。私はそういう人々こそ激励してあげたい。やがて家庭にもどる人もいようし、社会のために生涯仕事を続ける人もいよう。ともかく、それぞれの立場でしっかりがんばりぬいてほしい。
 またどんな職業であっても、絶対に卑屈になる必要はない。堂々と胸を張って、自らの職業に励んでいただきたい。そして、いまは確かに苦しいかもしれないが「冬は必ず春となる」との御金言をいつも胸のなかに描いて、さっそうと題目をあげて、一日一日を送っていただきたい。嵐の後には、一点の雲もない青空に太陽が明るく輝くものである。陰徳あれば必ず陽報があることを確信してほしい。
 更には職業をもった方々のひたむきな姿が、そのままブロックの人たちに対する大きな激励になることもあるだろうし、お子さん方の心のなかに、生涯忘れることのできない感動となって焼きつき、偉大な人間教育となることもあるだろう。これらのことは本人の姿勢いかんで決まるものである。そういう人こそ、まさに“お母さん”と呼ばれるにふさわしい人であると思う。
 職業をもつ婦人といっても、その背景はさまざまであり、いちがいに論ずることはできないが、私は、特にやむをえぬ家庭の事情で職業をもっている方々にこのことをいっておきたかったのである。
 婦人部前期のときに話したキュリー婦人も、職業をもった主婦であった。それでも、ノーベル賞を受賞するほどの研究を成し遂げ、主婦としても、立派に責任を果たしている。子供もまた、ノーベル賞の受賞者に育てあげている。仕事をもっているために子供と接する時間が少ないといっても、教育は時間で決まるものでは決してない。
 まして妙法をたもった皆さんである。忙しいかもしれないが、仕事も家事も育児も、見事にやりきってほしいし、できる範囲内で学会活動も行っていけばいいと思う。周囲の人々もあたたかく理解し、真心からの応援をしてあげていただきたい。
5  信頼しあい人格を尊重
 ここで御書の一節を拝読したい。
 松野殿御返事に「此の経の四の巻には「若しは在家にてもあれ出家にてもあれ、法華経を持ち説く者を一言にても毀る事あらば其の罪多き事、釈迦仏を一劫の間直ちに毀り奉る罪には勝れたり」と見へたり、或は「若実若不実」とも説かれたり、之れを以つて之れを思ふに忘れても法華経を持つ者をば互に毀るべからざるか、其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり。
 加様に心得て唱うる題目の功徳は釈尊の御功徳と等しかるべし」とある。
 またいわく「何なる鬼畜なりとも法華経の一偈一句をも説かん者をば「当に起ちて遠く迎えて当に仏を敬うが如くすべし」の道理なれば仏の如く互に敬うべし、例せば宝塔品の時の釈迦多宝の如くなるべし」と。
 皆さんごぞんじの有名な御書であるが、御本尊をたもつ友たちを、同志を、決してそしってはならない、悪口をいってはならない、という厳しい戒めの御文である。
 「若実若不実」――若しは実にあれ、若しは不実にもあれ、それがほんとうであったとしても、根も葉もないうわさであったとしても、どんな理由であれ同志を陰でそしることは絶対に悪である。それがたった一言であっても、仏を一劫のあいだ面と向かってそしるよりも、その罪は重い、と法華経に説かれている。
 特に婦人部の皆さんは、このことを銘記していただきたい。また「法華経を持つ者は必ず皆仏なり」とは、日寛聖人が観心本尊抄文段に「この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」と述べられている一節と同じである。
 すなわち、御本尊を持つ人は、だれもが尊極の生命の当体であり、総じていえばその生命は日蓮大聖人のご生命に等しい。
 もしそうした妙法をたもった同志を自分だけが賢いように錯覚して、ばかにしたり、自分より低くみたり、意地悪するようなことがあれば、それはすでに謗法である。それでは、どんなに長く信心していようとも、信心強盛そうにみえようとも、成長は遅い。皆さんはどこまでも尊敬しあい信頼しあって、仲良く団結して進んでいただきたい。
 しかし、だからといって、学会利用とか、組織を利用しようという人間にだまされていいというのではない。またお人好しになれというのでも決してない。そういう人の、真実の姿を見ぬいていく、冷静な目をもつことは、当然大事である。私のいいたいことは、信心の世界は信心に生きるべきであるということである。
6  常識豊かな信仰人に
 「仏の如く互に敬うべし」――というのは、なにも相手の言動に、なんでもかでも同調しなさいというのではなく、一個の人間としての人格を、互いに尊重しあっていきなさいというのである。この仏法の精神が真の民主主義精神であり、学会も時代もこうあらねばならない。
 半面、信心の方向性が間違った場合には「彼が為に悪を除く」とあるように、厳しく戒め合い、指摘しあうことも必要である。しかし、根底においてはあくまでも同志として、よき友としての信頼の絆をしっかり結び、互いに励まし、助け合って進んでいかなければならない。ともあれ、皆さんは先輩から信頼され、後輩からも慕われる存在であってほしいし、そういう一人ひとりになれば、ブロックはいままで以上に明るくなごやかになり、麗しい人間関係で前進していくことができるであろう。
 とともに、真実の信仰人は真実の常識人でなくてはならない。特に、ご婦人の立場は、一家の“表情”である。そのまま家庭の姿を昇華して表現している場合が多い。常識豊かに、だれとも仲良くあたたかく接することである。とにかく心の幅の広い一人ひとりになってほしい。
 最後にこのことは私事にわたりますが、きょう二十四日は私の満二十五年の入信記念日です。大変な二十五年間であったといえる。苦難の連続であった。戸田先生に十九歳で師事してから無我夢中で今日を迎えました。しかし、大変なことが多かったけれども、またこれからも多いかもしれないが、私は“御本尊を持ち、戸田先生のもとで信心できたことはほんとうに幸せである”としみじみ思っております。今後とも私は皆さんを守り、幸せになっていただくために全力を尽くしてがんばっていきます。
 どうか皆さんも信心だけは強盛に貫き、幸福を満喫して「ほんとうに信心してよかった」と心の底からいえるご自身になっていただきたい。
 ますますの皆さん方のご健康とご一家のご繁栄をお祈りして、講習会最後の私の話といたします。(大拍手)

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