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日蓮大聖人・池田大作

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壮年部夏季講習会 健全な色心を確立しよう

1972.8.18 「池田大作講演集」第4巻

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1  生命に活力与える勤行、唱題
 壮年部の皆さんに最初に申し上げたいことは、広宣流布というただ一点を見つめきった信心第一の姿、使命感に燃えきった、ひたむきな人生の姿勢を、どうか生涯、貫いていただきたいということであります。そのうえに壮年の特色を生かし、冷静な判断力、豊かな包容力、そして不動の確信を身につけ、創価学会を支え、あくまでも民衆の味方となる名指導者になっていただきたい。(大拍手)
 次に、健康の問題について、日ごろ感じていることを述べておきたい。体が弱かったり、悪かったりすれば自分自身も苦しいし、不幸であるばかりか、家族の苦労も大変である。したがって、どうか、いつまでも健康であっていただきたい。
 仏法は生命の無上の尊極を説いたものである。ひとくちにいうならば、生命というものが宇宙のすべての財産以上に尊いと説くのが仏法である。つまり宇宙に遍満する一切の、あらゆる財産も一人の人間の生命の重さにはおよばないというのが、大聖人の仏法の根本哲理である。
 したがって、仏法を守る人は、まず生命を守りぬく人であってほしい。その生命とは決して観念的なものではない。色心不二の原理から、生命とは肉体と精神の両面をともに含むことは当然である。ゆえに、その生命の健全なリズム――健康とは、肉体の面だけに限定されるものではなく、当然“精神の健康”にもわたるものでなければならない。
 人間性が極度に荒廃した砂漠のような現代の人間社会は、まさしく人間破壊の時代、狂気の社会となってしまった。こうした状況にあっては、精神的に不健康な人は多い。また、今後もますます多くなっていくと思う。その解決策は、さまざまに考えられ、論議されているが、その本源的な解決のためには、どうしても生命という問題に帰着せざるをえない。その生命を解明しきったものが真実の宗教であり、そこに信仰が必要となってくる。すなわち真実の信仰によってわが生命の宮殿のを開き、妙法のきらめく生命を涌現させ、発散させていく以外に、色心ともに健康で、日々、生きがいにあふれた人生を送ることはできないのである。
 最近、特に壮年向けに、いろいろな健康法がいわれている。よく歩くこと、軽い体操、ゴルフなどの運動、食事の工夫、栄養剤やビタミン剤の服用等、さまざまな健康法が唱えられている。もちろん、そうしたこともそれなりに必要ではあろうが、肉体の活動も、精神の働きもつかさどり、動かしていく根源のエネルギーは、生命自体の力であることを知らなくてはならない。生命自体が、いつも斬新味にあふれ、はつらつと躍動していれば、色心連持で、精神、肉体ともに、大宇宙のリズムに合致した爽快な律動を続けていくことができる。逆に、いくら肉体の健康だけを心がけようとも、本源を忘れて、それのみにとらわれていれば、たとえ肉体的には一応健康になったとしても、精神の健全な成長は保証できない。
 その生命に活力を与え、生きいきと脈動させる電源こそ、いうまでもなく御本尊であり、勤行、唱題である。したがって、信心こそ、最大の健康管理の基であるともいえよう。この大前提に立てば、信心の厚薄、濃淡がそのまま、自己の生命の強弱のバロメーターであり、信仰をぬきにした健康法は、現象のみにとらわれた空虚なものであるとさえいわざるをえない。
 一個の人体は、殺菌作用、消毒作用、消化作用、エネルギー源としての燃焼作用等が見事に収まっている。それらの作用がダイナミックに機能している生命の様相、現象、働きは、あたかも大工業地帯の様相を呈しているといっても過言ではない。その生命の内なる製薬工場を完璧に機能させていく生命力の涌現が、まず健康の第一条件でなければならないのである。
2  信心即生活のリズムに立脚
 ところで、壮年ともなれば、まったく欠陥がないほうが不思議であろう。どんなに健康な人であっても、自分ではたとえ気がつかなくとも、どこかに大なり小なり欠陥があるものである。法華経にも「少病少悩」――つまり、仏といっても、少しぐらいの病気や悩みは当然あるものである、と説かれている。したがって私たちの体は、つねに健康と病気との均衡関係にあるというのが実相であり、そのバランスが崩れたときに病気と名づけるのではないかと考える。そうした微妙な均衡のうえに、健康が成り立っているとするならば、強い信仰の一念をもちつつ、日々の生活にあっては、当然、健康に対する十分な注意も必要となってくる。それがまた、信心ということでもあると思う。
 壮年は、青年とは体力的に違いがあるのはあたりまえのことである。若いときはともかく、壮年期に入ったならば、自分の健康を自分で客観視しなければならない。自分の体さえ調整できないようでは、まだ四悪道の生命に支配されている、とまでいってもいいだろう。
 御義口伝には、法華文句の文を引かれ「愚癡ぐち増劇ぞうぎゃくにして疾疫起り」と説かれている。愚かなところに、愚癡ばかりこぼしているところに、自己の生命をあまりにも軽視するところに病気が起こる。つまり、健康なときに病気に対して甘く考えている。ここに、体をこわす原因があるといえよう。
 ゆえに、節制を考えない人は、信心即生活のリズムに立脚している人ではなく、あえていえば、信心している姿とはいえない、ともいえるのである。どうも体がおかしい、と感じたら、それは赤信号である。そのときに無理をしてはいけない。たとえ、無理をしても信仰があるから治るかもしれないと、むちゃをするのは愚かである。もちろん、時と人によってはそれで解決する場合もあろう。
 しかし、そうした例を周囲の人が、パターン化してだれに対しても押しつけていくのは誤りである。あの人はそうだったからあなたも、というのは間違いである。
 ときには休養をとることが必要なこともあろうし、また少し体の具合が悪い場合には、更に悪くなってから苦しむのでなく、赤信号のときに早く治そうというのが道理である。自分の体は自分がいちばんよく知っているし、自分で責任をもって健康管理する以外にない。当然のことであるが、疲れたら休むことである。また周囲の人も、同志をいたわる気持ちから、特に年配者に対しては、あたたかく理解してあげてほしい。(拍手)
 なお、経文には「不自惜身命」「我不愛身命」と説かれているが、このことについて申し上げたい。このことは、たんに生命を惜しむということではないと思う。つまり「不自惜身命」「我不愛身命」の根本精神は、真実の仏法に生きる、そこに自己の生命を帰していくということである。すなわち、わが生命をどこまでも広宣流布という長期的な実践のために、最大限に生かしきっていくことであると考える。つまり、命を惜しむな、命を粗末にしてもよい、というのでは決してない。いかに広宣流布のためと自分では思っても、生命を一挙に燃焼させ、すりへらしてしまったなら、それはかえって広宣流布のためにも、自身のためにもならない。
 「不自惜身命」だから「我不愛身命」だからといって、大目的を忘れて、生命を粗末にするようなことがあっては、長い広布の弘教の道も閉ざされ、結局は家族を悲しませ、不幸に陥れてしまう。
 したがって、与えられた自己の宝器をできうるかぎり大切にし、長く妙法のために使いきっていくことこそ、最大の課題であると申し上げたい。尊い生命をどこまでも維持し、いつまでも長生きして、題目を唱え、唱え続けていく。そしてどれだけ広宣流布のために、社会に価値ある仕事をしていったかどうか、これがもっとも大事なことである。そのことが真実の「不自惜身命」「我不愛身命」の精神ではないかと思う。(拍手)
 ゆえに、どんなことがあっても生きて生きて生きぬき、それによって社会に、広布に最大に貢献していくことが、結論していうならば偉大な妙法の実証にも宣揚にも通ずる、と申し上げておきたい。(大拍手)
3  「健病不二」の原理を銘記
 なお、健康の問題に関連して「本有」の病気ということにふれておきたい。すなわち信心すれば病気は治るか、という問題である。仏法は道理であるから、治る場合もあるし、治らない場合もあるといわざるをえない。ただし、それは現象面についていった場合である。本源的にいえば、病気は揺るぎない信仰によってすべて打ち勝っていくことができると申し上げたい。
 あえていうならば、たとえ現在、なんらかの病気をもっていたとしても、勤行、唱題をしっかり実践し、精神的な健康をたもっていくならば、また規則正しい生活を送り、そのうえに医学の力を適用していけば、その人の生命の内奥からは、力強い新しい生命の本源の力が湧いてくるものである。心身ともに健全な“生”に向かうことは間違いない。その方向に向かっているとすれば、その人は、本源的にはすでに健康であるといってよい。
 また病気であっても「声仏事を為す」と御書にあるように、そのままの姿で妙法を説いていくことができる。その場合には、すでに病気に打ち勝っている姿でもある。健康であっても人間的に不健康の人もいる。病気であっても立派に「声仏事を為す」の実践を行っている人の姿は、人間として崇高な姿であり、いわゆる健康な人より、はるかに価値ある人生といえる場合もあるかもしれない。
 更にいえば、現在は病気であろうとも妙法をたもった場合、生命の本源に新たな生への胎動が始まるといえる。その胎動の完成は今世でなされる場合もあれば、来世の場合もるかもしれない。いずれにしても「健病不二」で新たな健康へと向かう生命が、病気のなかに働きはじめるのである。それを「本有」という。
 このように現象的にはどうあろうが、本源的には病気に打ち勝つことができるといえる。御書に「病によりて道心はをこり候なり」とあるように、凡夫の常として健康なときよりも病気を機に発心して、より信心が強盛になり、もっと本源的な宿命を転換していく場合が多い。そうであれば、病気になったとしても、いたずらに悲観することもなければ、まして御本尊を疑うことなど、考え違いといわざるをえない。病気が縁となって、信心が強盛になり、やがて健康になっていくならば、その病気は「一生成仏」「人間革命」につながるエンジンにたとえることもできよう。
 ともあれ、色心両面にわたる健康の源泉は、所詮は「南無妙法蓮華経」である。御書にも「真実一切衆生・色心の留難を止むる秘術は唯南無妙法蓮華経なり」とある。
 この御文を胸中深く銘記し、信心強くお互いに“健康で進んでいこう”を合言葉にして、今後も有意義に、尊い人生を送っていただきたい。(大拍手)
4  自分らしく人生の仕上げを
 次に、仏法は決して犠牲者をつくるものではない。熱原三烈士のような殉教は、その正法守護の精神は、当然いつの世にあっても、根本精神としていかなけらばならない。個人の人間革命も、そうした精神が根底にあってこそ、なされていく。
 だが、もう一面では時代背景を考えなければならない。つまり、熱原三烈士の行動は、大聖人ご在世当時の時代背景、生き方における仏法守護のための行動であった、と考えなければならない。
 当時にあっては、特に殉教は美しく、尊いものとされていた。また強力な幕府権力の弾圧から仏法を守るには、身に寸鉄帯びぬ、なんの力もない庶民としては、殉教以外に方法がなかったとも考えられる。
 しかし、今日においては、信教、言論の自由の時代であるがゆえに、なにがなんでもそうした行動をとらなければ強信ではないとするのは行き過ぎである。
 宗教の目的は何か。それはあくまで人間の幸福のためにある。もし宗教のために、自らの生命を犠牲にするのであれば、またしなければならないのであれば、大胆ないい方になるが、主客転倒といわざるをえない。
 もっとも尊極な生命を自ら断ってしまうようなことは、大聖人の仏法の精神に反するといっても過言ではない。それのみか、殉教してしまったならばだれが仏法を守っていくのか、という令法久住の問題にまで関連してこよう。
 すでに、日蓮大聖人の仏法は、社会に浸透し、その威光を全世界に輝かしている。時代も封建時代や専制時代でなく、民主主義の時代になっている。憲法にも信教の自由は明確にうたわれている。その精神は世界的にも普遍的原理となっている。したがって、皆さんに悠々と日々の生活を楽しみながら、しかし、信心という絆においては団結強く、この美しい和合僧を守り、育てていただきたい。(大拍手)
 ともに、仏法守護、死身弘法は学会精神であることは、当然のことである。ただ、もっとも大事なものは、一人ひとりの生命であるということを第二次的に考えていくならば、それは悪であると強調しておきたい。
 次に信仰したからといって、特別な人間をめざす必要はない。もっとも平凡な人であってよいのである。信仰が進めば、特別な通力があらわれるとか、ずばぬけた力が発揮されるとか、人の何倍も生命力が湧き、なにをやっても平気である、というようなことは決してない。
 同じ平凡な人間でありながら、足りないところを補い合い、助け合いつつ、広布という同じ目的に向かって団結していく。仏法はあくまでも道理である。ゆえに人間らしく、人間の幸福の道を皆で歩んでいく。この美しい、人間的な和合僧団――これが日蓮正宗創価学会の世界である。だからこそ過去の歴史にはなかった新たな歴史が構築れていくのである。ここに大聖人の仏法の真実の姿があるといえよう。一生成仏、所願満足というのは、平凡な人が、常識人が「自分としてはやるべきことはすべてやった」「自分の力はすべて出しきった」――家族のためにも、広宣流布のためにも、自分のなすべき仏道修行においても、こういえる境涯になれば、それは一生成仏であり、所願満足の人生である。
 人生の充実感は、決して物質的な満足感だけで決まるものではない。むしろ、大事なのは、人生の最終地点で、過ぎ去った一生を振り返ったとき、自分はなにも悔いるところはない、ほんとうに自分は自分らしく力を出しきった、といえるかどうかである。
 平凡でありながら、自分らしく、自己の力を最大限に発揮していく。そこに信仰の意義があるし、妙法をたもった人は最高に自身の力を発揮していけることを確信していこう。したがって、自身のためにも、子孫のためにも、生涯不退転を貫き通してほしい。退転した場合は、たとえば電源のスイッチを切ってしまうようなものである。
 生涯不退転を貫き通すことができれば、その人は最高の人生の総仕上げをしたことになり、これ以上の本源的な人間完成の道はない。
 最後に、皆さんがいつまでもお元気で、自らも栄え、ご一家も、子孫末代までも繁栄する信心、希望ある信心、人生であっていただきたいことを、心よりお祈り申し上げ、私の話を終わります。(大拍手)

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