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日蓮大聖人・池田大作

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女子部夏季講習会 悠久の幸福を構築

1972.8.10 「池田大作講演集」第4巻

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2  福運ある自己を確立
 次に、話は多少転じますが、ギリシャの哲学者ヘラクレイトスは「万物は流転する」との言葉を残している。確かに全宇宙のあらゆるものは、変化してやまないのが実相といえるわけであります。
 いま、この大石寺の上空にも、天空を二分するような壮大な光の滝がかかっております。この天の川をはさんで、有名な牽牛、織女の二星が東西に向き合い、ロマンチックな七夕の物語をつくりあげている。
 その南の端近くには夏の夜のシンボルであるサソリ座が、十数個の星を従えて光っている。サソリの心臓に輝く一等星――アンタレスの赤い光は、皆さん方もよく知っているとおりであります。このほか、夏の夜空には、琴、ヘルクレスなどの星座が華やかに輝いている。しかし、それらの星も、悠久のように、不変のように見えるが、刻々と変転の相を繰り広げているということなのであります。
 新しく輝き出す星もあれば、突如として消え去ってしまう星もある――これは天文学の常識であります。つまり、天空にちりばめられた星も、すべて「常住壞空」の法則からのがれることができないというのが、宇宙の実の相なのであります。
 私たちの人生も同じであります。十代、二十代の人生と、三十代、四十代の人生とはおのずから違う。いかに若いときには幸福そうに見えても、それが将来ともに続くとはかぎらない。また、どのように美しい容姿の持ち主であっても、しのびよる老いの影にさからうことはできない。必ず、成住壞空の流転の法則に従っていかなくてはならないのであります。
 したがって、たとえいまはどのような境遇の人であったとしても、失意の底に沈んではならない。また、他の人を見てうらやましがる必要もない。無常の虚像を追うのではなく、皆さん方は、その実相を賢明に見極めていってほしいのであります。
 とともに、仏法はその流転の相、人生の無常を直視しながら、そのなかに成住壞空に左右されない究極の存在があることを解き明かしている。
 すなわち、二十代、五十代、七十代というように変わっていっても、生命の内なる“我”――生命の本体といってよいが、それは一貫して変わらない。仏法はそこに着眼し、その“我”に光をあて、確固とした主体性の確立をめざしているのであります。
 ゆえに、妙法に生きる皆さん方は、流転してやまない六道の世界に身をおきながら、それに流されるのではなく、信仰によって偉大なる人間革命の土台を固め、能動的にたくましく人生をいきぬいていく強い自己、福運ある自己というものを築いておいていただきたい。
 それ以外に、人間としての究極の幸福、悠久の幸せの“我”というものの獲得はありえないからであります。
3  強き信仰で宿命転換
 次に、宿命ということについて、要点だけになるが申し上げておきたい。
 皆さん方もごぞんじのように、宿命というものは、自分の生命のうちにあるということができる。一般には、宿命は外にあるもの、あるいは外から与えられたもの、もしくは定められたもの、とされておりますが、それは、決して宿命を正しくとらえたものではありません。
 人々が、宿命という問題につきあたるのは、自分ではどうすることもできない、深刻な悩みに直面したときであると思う。しかも、それは社会的、経済的なもののみでは解決できない、人生そのものから発する悩みが、おおいかぶさっているときが多い。
 もちろん、それと社会的、経済的等々の問題がからんでいることは当然でありましょう。しかし、それらの複雑にからみあった糸の本源をたどっていくと、その糸は人間生命の内に入り込んでいる。逆のいい方をすれば、その糸は自分自身の生命の内から発していることに気づくものであります。
 仏法はその生命の内面に光をあて、その糸の本源をたずねていき、そこに、もっと複雑多岐なからみあいを見いだし、その糸が過去遠々劫より自分自身によって形成されてきたものであると、鋭く見ぬいているのであります。しかも、その糸を手繰り、その奥に鮮やかな人生模様を織りなしていく、一念の実在を発見しているのであります。大聖人の仏法においては、その一念に力を与えていくものとして、大御本尊を確立し、受持即観心の義を説かれている。
 聖愚問答抄には「此の妙法蓮華経を信仰し奉る一行に功徳として来らざる事なく善根として動かざる事なし、譬ば網の目・無量なれども一つの大綱を引くに動かざる目もなく衣の糸筋巨多あまたなれども一すみを取るに糸筋として来らざることなきが如し」との御文があります。
 さまざまに拝せるところでありますが、要約していえば、妙法の大綱を引くならば、一切を功徳とし、福運とし、引き寄せていくことができるという意味であります。
 詮ずるところ、私どもは本因妙の仏法をたもっている。本因とは、一切の変革の根源ということになります。したがって、多少飛躍しますが、皆さん方の胸中には、元初の太陽を輝かせていける力がある。宿命に泣き、宿命に左右される人生を変革していくことができる。新しい希望の人生に船出していくことができる。
 それが、本因妙の仏法の力用であります。
 これに関連し、仏法には有名な三変土田という原理があります。簡単にいえば、法華経において同居土、方便土、実報土の三土を寂光土の一土に変えていったというところであります。
 同居土とは、娑婆世界のことであり、娑婆世界とは苦悩に満ちたこの現実世界であります。方便土とは、そこからのがれて別世界にあこがれ、そこに自分をおいた人々の世界をいう。実報土とは方便土から発展して、一応そこに生きがいを見いだしながら、なお“なんのため”という目的がない。すなわち、実像をもたない世界に身をおいているという意味であります。
 しかし、その三つの土も、ひとたび妙法の輝きに照らされれば、寂光土になると説かれております。すなわち、あるときは苦渋に満ちた世界にもがき、あるときははかない希望を描いて苦労し、あるときは一分の報いを感じて喜びながら、再び苦悩に没していくという人生の流転――その虚像につつまれた世界を、実像の幸福の世界に変えていく。これが妙法の力であり、寂光土ということなのであります。御本尊に唱題し、信行学に励むという本因があれば、すでに皆さん方は、三変土田の原理にのっとっているということを確信してほしい。「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」(六巻抄22㌻)と同じ原理なのであります。
 したがって、どのような境遇にあっても、恥じることも、嘆く必要もない。過去の人生よ、さようなら、新しい人生よ、こんにちは!といえるぐらいの自身と勇気をもって、大聖人の娘らしく、王女らしく、青春時代を乱舞していっていただきたいというのが、私のお願いであります。(大拍手)
4  歴史を変えた一女性の力
 次に、アメリカの奴隷解放を訴えた有名な「アンクルトムの小屋」の著者ストウ夫人の例をとおして、女性の力の偉大さについて一緒に考えてみたい。
 彼女はごぞんじのようにオハイオ州に住む貧しい牧師の妻であった。また、四人の子供がおり、家事に追われる忙しい日々を送っていた。しかし、そのなかでストウ夫人は、奴隷制度の残酷さをつぶさに観察していたということであります。オハイオ州はいわゆる自由州で、奴隷制度はとられていなかったが、川ひとつ隔てたケンタッキー州には、非道にあえぐ多数の奴隷がいたからであります。
 彼女の家は結婚当時は、南部から北部の自由な諸州へ逃亡する奴隷たちの、一つの拠点になっていたといわれる。一度などは、かくまっていた奴隷を元の所有者が捜しにきたため、武装した夫と弟がホロをかけた馬車にその奴隷を乗せ、安全なところまで運んだということも知られております。
 こうした奴隷制度の悲惨な実態に、彼女の胸には正義の怒りがわき起こった。やがてそれは、奴隷制度の実態を書いて必ず世間に訴えるという、誓いにまで深化していった。「私は書く、必ず書いて世間に訴える」と彼女は叫んだ。
 そうして彼女は、生まれてまだまもない子供の死という悲しい事態をも乗り越えて、ついにペンをとった。黒人の不幸、悲憤と、奴隷制の非人間性を劇的に描いたこの小説は、アメリカはもちろんのことイギリス、フランス等々においても人々の心に激しい衝動を与えずにはおかなかった。正しい、先駆のものに対してはつねに非難、中傷があるように、この作品に対しても文学的に劣っているとか、事実関係に誤りがあるとか、さまざまな非難が浴びせられたわけであります。
 しかし、平凡な家庭の一主婦が家事の合間に書いたこの小説が、現実にアメリカ全土を揺り動かし、南北戦争、そして奴隷解放の大きな要因の一つとなったことは事実であります。かのリンカーンが初めてストウ夫人に会ったとき「なるほど、あなたがこの大戦争を起こした可愛い女性でしたか」と、声をかけたというエピソードが残っているほどであります。
 結局、ストウ夫人にこの偉大な小説を書かせたものは、彼女の心より出た正義感、使命感ということができる。とともに、彼女の父が神学校の校長であり、夫も弟も牧師であった。したがって、思想的、精神的に強固な支柱があったことも見逃すことができない。
 そして彼女自身、黒人問題に関する本をふだんから読んでいた。そのうえで逃亡する奴隷を助けるなど、この問題に真っ向から取り組む実践を積み重ねていた。ゆえにあれだけの本ができた、と推察されるのであります。
 こうしてみると、皆さん方の生き方とひじょうに共通する面が、少ないように思える。すなわち、無名であり、平凡であり、無力である。しかし、無力のように思えても、妙法をたもった皆さん方のたゆまざる地道な実践の持続こそが、いまは目に見えなくとも、底流においては社会を動かし、新しい歴史をつくり、偉大な業績を残しているということを、どうか確信していただきたい。(大拍手)
5  唱題に励み生命を浄化
 最後に御義口伝の「又浄明鏡の如しの事」の一節を拝したい。
 「六根清浄の人は瑠璃明鏡るりみょうきょうの如く三千世界を見ると云う経文なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は明鏡に万像を浮ぶるが如く知見するなり、此の明鏡とは法華経なり別しては宝塔品なり、又は我が一心の明鏡なり」云云。
 六根清浄とは、眼、耳、鼻、舌、身、意の六根が清浄であるということで、一言でいうならば、生命の浄化ということであります。今日、生命の浄化は題目を唱えていく以外にありません。その清らかな生命の人は、瑠璃明鏡のごとくこの現実世界を正しく知見していけるという御文であります。
 この御文のなかの「別しては宝塔品なり」――宝塔品とは大御本尊のことであります。「我が一心の明鏡なり」とは生命じたいのなかに鏡があるという意味であります。したがって御本尊が明鏡であるとともに、わが生命のなかにも明鏡がある。そして御本尊と境智冥合することによって、生命の鏡がみがかれ、光り輝いていくことができる、との御金言であります。
 また「所詮しょせん浄明鏡とは色心の二法、妙法蓮華経の体なり浄明鏡とは信心なり」とある。結局、浄明鏡とは色心の二法、妙法華経の体、すなわち生命そのものの本体である。更に色心ともに輝かしていく、その根源は信心しかない、との意味であります。
 信心を根幹とした色心の二法の活動が反復、持続し、高められ、そこに胸中の鏡があらわれ、人生、家庭、社会のことまでも正視眼で見ぬいていくことができる、そしてもっとも確かな人生道を進んでいくことができる、という原理を教えられているのであります。
 どうか皆さん方は、生涯、麗しい人間の絆で結ばれて、激励しあい、価値ある充実の日々を歩んでいただきたい、ということを申し上げて、私の話とさせていただきます。(大拍手)

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