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日蓮大聖人・池田大作

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男子部夏季講習会 真実の人間学の実践を

1972.8.4 「池田大作講演集」第4巻

前後
1  あたりまえのことかもしれないが、はじめに強調しておきたいことは、私どもには大御本尊があるということであります。ときには、組織の問題等で悩むようなことがあるかもしれない。だが、根幹は御本尊であり、あとは諸君自身が人生に勝利し、立派な指導者に成長することがなによりも大切であるということを忘れないでほしい。諸君は無限の可能性と力を秘めた事の一念三千の当体であり、次の時代を確立しなければならない使命を担っているのであります。
 したがって、諸君はたとえ現在はどういう立場、境遇にあろうが、そのなかで悔いなく青年時代を生ききり、尊い人生の歴史を残していってほしいというのが、私の心からのお願いであります。(大拍手)
2  人間の踏むべき道とは
 次に、第一期の学生部講習会のときに、人間は生涯、人間らしくあろうと努力しなければならない存在である、ということを述べました。
 この“人間らしく生きる”ということ、つまり人間として踏むべき道を、ふつう人倫の道、または倫理ともいう。この人倫の道については、時代により、社会によって、さまざまな実践規範が説かれてきました。中国では儒教、ヨーロッパでは騎士道、日本では武士道や義理人情といったものが、それにあたるでありましょう。
 現代は、そうした旧来の倫理の実践項目が、社会の変動によって崩壊し、また無視されている時代といえる。人間の自由、平等ということが主潮となり、かつて権力者が人間を束縛するために利用してきた倫理が打ち破られたのは、当然といえば当然であります。
 しかし、そのために、逆に人間がいかに生きるべきかという焦点を見失い、アニマル化の一途をたどっていることは嘆かわしい問題であるといわざるをえない。欲望や本能的衝動に身をまかせていく生き方は、野獣となんら変わりありません。現代の欲望追究の社会的風潮も、衝動にまかせての理由なき殺人事件の数々も、この人間として踏むべき道を見失った現代の特徴にほかなりません。それは三悪道、四悪趣の生命に支配されているわけであります。
 仏法では、菩薩界、仏界の生命の顕現によって、三悪道、四悪趣の生命の支配を打ち破っていくことを説いております。そこにはじめて、人間の人間らしい生き方が、生命の内面から樹立されていくのであります。
 つまり、真実の仏法を実践していったとき、外側の体制によって押しつけられてではなく。生命の内側から、おのずと人間が時代、社会を超えて理想としてきた人倫の道を当然のこととして顕現していくわけであります。「仏法と申すは道理なり」という“道理”も、人間として当然踏むべき道ということであります。ここにはじめて、ほんとうの意味での倫理が確立されると思う。
 現代における仏法の意義は、この生命の内からの人倫の道の確立をいかに成し遂げていくか――にあるといっても過言ではない。創価学会が、人間革命ということを強調するのも、このゆえであります。
 では、時代、社会を超えて、人間として踏むべき道とは、具体的にはいかなるものか。基本的には、生命の尊厳を守ること、人の権利を尊重すること、邪悪なものに立ち向かう勇気、弱い人を包容する心の広さ、自分のために尽くしてくれた人に対する感謝等々があげられるでありましょう。こうしたことが、仏法の慈悲の精神を基調とした、人間の踏むべき道の条件となっていくと、私は考える。
 しかし、信心さえしていれば、努力なくしてそのような人間として踏むべき道がしぜんに確立されていく、あるいは、倫理、道徳などは必要ない、と考えることは大なる誤りであります。人間形成への積極的な努力があってこそ、人間革命の実証があるということであります。法華経すなわち御本尊は、真実の孝経――親孝行を教えた経――であると、大聖人は諸御書に述べられております。これを現代でいうならば、仏法は真実の生命哲学であるとともに、真実の人間学であるということであります。
 諸君は、その人間学の実践者であるがゆえに、決して生活のこと、社会のことに安易、安直であってはならない。信仰のうえでも、自らをみがき続けると同時に、社会、生活のうえにおいても、自己を錬磨していくことが真実の信仰者の態度である――との不動の確信に立って進んでいっていただきたい。(拍手)
3  妙法の力を発動させる源泉
 最後に、御書の一節を拝読しておきたい。
 四条金吾殿御返事にいわく「摩訶止観第八に云く弘決第八に云く「必ず心の固きに仮つて神の守り則ち強し」云云、神の護ると申すも人の心つよきによるとみえて候、法華経はよきつるぎなれども・つかう人によりて物をきり候か。」云云。
 このなかに「神の護ると申すも人の心つよきによるとみえて候」とありますが、大事な御文であります。
 大御本尊の加護、諸天善神の加護といっても、結局は自分自身の信心、観心の力、姿勢に応じて現れるということであります。御本尊や諸天善神が、なにかの作用によって現れて守ってくれるというのではなく、自分自身の信力、行力が、自身の生命、一念のなかの御本尊、諸天善神を湧現して自身が変化するがゆえに、すべてが変わってくる――この道理を忘れてはならないという御金言であります。
 したがって、一人ひとりの確固たる信念、そして勇気ある実践、これ以外に自分自身を動かし、妙法の力を発動させていく道はない。日眼女造立釈仏供養事にも「教主釈尊をうごかし奉れば・ゆるがぬ草木やあるべき・さわがぬ水やあるべき」とあるとおりであります。宇宙の根本原理である妙法を使いきり動かしていくならば一切が開けていく。それを動かしきるかどうか。所詮は、妙法をたもった一人ひとりの信力、行力以外にないことを銘記すべきであります。それゆえ「されば能く能く心をきたはせ給うにや」――この心、一念とは、色心を含めた一念であります。広宣流布のことで悩むことも、さまざまな厳しい現実の世界で悩み題目をあげることも、すべて心を鍛えていることになるわけであります。
4  自らの生命を鍛えよう
 ともあれ、妙法は最高の生命の利剣であるということであります。それゆえにこそ、それを使い、広める人は、自らの生命を最高に鍛え、仏法哲理に透徹した人でなければならない。棒切れや小さな刀を振り回すのは、子供でもできる。しかし、真の名刀を使いこなすのは、真の剣豪でなければできないのと同様であります。妙法流布の時に生まれ合わせた私どもは、本源的に地涌の菩薩として、だれよりも誇り高く、妙法の利剣を使いきっていける力を内に秘めているということを、強く確信しなければならない。そして、それを事実のうえに顕現していただきたいというのが、私の願いであります。最後に、昭和四十九年に人ももれなく。同じグループとして集まっていただきたい、ということを申し上げ、私の話を終わらせていただきます。(大拍手)

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