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日蓮大聖人・池田大作

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第35回本部総会 21世紀を開く精神の復興運動を

1972.11.2 「池田大作講演集」第4巻

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1  「教学の年」の意義について
 菊花爛漫の文化のかおり高き本日、もったいなくも総本山より日達上人猊下のご臨席をたまわり、更には総監をはじめ全国のご尊師方、また、ご多用のなか多数のご来賓のご出席をいただき、ここに全国の代表一万数千名の同志とともに、正本堂完成後の初の本部総会を挙行し、私どもの喜びを新たにすることができましたことを、心から感謝申し上げるものであります。ほんとうにありがとうございました。(大拍手)
 さる十月一日、白雪をいただく富士のふもと、御開山日興上人が広宣流布の原点の地と定めてより、春秋六百八十二年の星霜を刻む大石ヶ原の豊かな自然のなかに、私どもの待望久しかった正本堂がついに完成し、勇壮、荘厳な姿を現しました。
 また、さる十月七日には本門戒壇の大御本尊が正本堂にお出ましになり、十月十一日より十七日まで、総本山嗣法六十六世日達上人猊下の大導師のもと、一切の大法要を、いずれも上天気に恵まれ、無事とりおこなうことができました。この大事業はひとえに皆さま方の、強く、そして清らかな真心の祈りと、日夜の献身的な活動に支えられて達成されたものであり、私は皆さま方をとおして、全世界の同志の方々に衷心より敬意を表し、感謝申し上げるものであります。ほんとうにご苦労さまでした。また、心からありがとうございました。(大拍手)
 妙楽大師の釈に「供養すること有らん者は福十号に過ぐ」と。正本堂をここに築かれた皆さま方の福運、栄光の人間勝利の記録は、広布の第一章の記録とともに、未来永劫に、しかととどめられていくことでしょう。また、そこにこめられた人類平和への切実なる願いは、必ずや後世の人々の驚嘆と称賛の的となることを確信したい。まさに、これこそ妙法の地涌の勇士の輝かしい足跡であり、末法の御本仏日蓮大聖人も、いかほどか、この壮挙を嘉せられていることかと深く拝察申し上げるものであります。また、正本堂を遺言せられた恩師戸田前会長も、どれほど私ども弟子の実践をお喜びになっているかと思うものでございます。
 かかる一閻浮提総与の大御本尊まします総本山を、私どもは、いままでの幾十倍も外護し奉り、かつお守り申し上げねばならない、と決意するものであります。
2  広布の第二章へ出発
 とともに、ここでまことにもったいないかぎりでありますが、この一閻浮提総与の大御本尊の対告衆は弥四郎国重であるということについて一言ふれておきたい。すなわち、この大御本尊の対告衆は日蓮大聖人己心の弥四郎国重であり、甚深の奥義があることは当然でありますが、対告衆が僧侶でもない、当時の権力者でもない、貴族でもない、学者でもない、いわんや長者でもなく、有名人でもなかった、という事実であります。あくまで、つねに権力に圧迫されながらも、仏法を求め、弘教のために迫害をうけた、平凡な庶民の代表ともいうべき人であります。
 このことは重大な意味をもつものと、私は考えるのであります。皮相的かもしれませんが、ひたすらに平和な生活を願い、無名の人生を力強く生きていこうとする、一切の庶民の心を心とされた日蓮大聖人の鋭い英知であると、私はうかがわれてならないのであります。ここに日蓮大聖人の仏法の本義が、そして根本の姿勢があることを決して忘れてはならない。
 ゆえに大御本尊をお守り申し上げ、広宣流布に向かって永遠に、宗門、そして我々が栄えていくためには、ますます僧俗ともに団結で進む以外にないということを、申し上げておきたいのであります。
 ともあれ、いま私どもは今日までの個人の信心、実践の歴史、更には創価学会の伝統と歴史を一切この正本堂に納めて、新たなる夜明けの日の出を迎えたのであります。それはまさしく広宣流布の第二章、世界平和への日の出であります。第六の鐘から第七への鐘へ――。きょうよりは昭和五十四年、すなわち一九七九年をめざして創価学会五十年史の総仕上げに向かって、強き信頼のきずなに結ばれ、ともどもに、再び学会精神を呼び起こして、第二章の人間革命の歴史を築いてまいりいたと思いますけれども、よろしいでしょうか。(大拍手)
3  理念の重みを大切に
 はじめに、来年を「教学の年」と決定した意義を若干申し上げておきたい。それは、一つには創価学会の今後の路線にもかかわることであります。きわめて大胆な率直な、しかも大網的な表現を使えば、これまでの学会は、いわば行動の学会というイメージであったといえましょう。すなわち、広宣流布の土台と屋台骨をつくるために、不眠不休の突貫工事でありました。もちろん、その行動の背景には大聖人の御書があり、人間主義の偉大な理念があったことはいうまでもありません。と同時に、今日までは、この行動への、強い、ひたむきな情熱とエネルギーがなければ、これほどの民衆の盛り上がり、そして現在の創価学会の姿は絶対にありえなかったことでありましょう。
 しかし、いまここに安定期に入り、さまざまな階層の人々を包含し、また世界全体にその思潮を掲げてゆかんとする段階となり、次の総合的な力を発揮するためには、いかなる創価学会であることが必然の道なのか――。それには、行動より更に深い理念と実践の両道の積み重ねともいうべき、厳たる構築を、丹念に、また幅広く行っていく以外にないと思うのであります。
 かつての、民衆とは無縁の世界に閉じこもった宗教、逆に一時的に民衆の心をとらえ、爆発的な発展を示しながら衰亡していった宗教、その二つとも私はとりたくない。遠大な未来を眺望しながら、現実の激動の嵐のなかにあっても揺るがず、確かな哲理の道を民衆とともに進んでいくという、新しい試練を踏み越えていきたいのであります。理念を一段一段と深めながら、その理念にもとづく実践を模索しながら、社会と民衆の期待、また、二十一世紀の未来の友の期待に応えうる、盤石な創価学会をつくりあげたいというのが私の念願でありますが、皆さん、いかがでしょうか。(大拍手)
 仏法には「教・行・証」という三つの原理があります。いま私たちの立場でこの原理を考えるならば、教とは、いうまでもなく日蓮大聖人の仏法哲理であります。行とは、その仏法哲理を、誰人でもない、自分自身が実践の行とすることであります。証とは、自らの生命の当体のうえに、真実の仏法をたもったという厳然たる証拠を示していくことにほかなりません。この三つがそろって、はじめて“生きた宗教”といえると思います。
 また、一人ひとりの胸のなかに、生活のうえに、社会のうえに、教・行・証の三つが和合して、はじめて仏法の実践者と呼ぶべきでありましょう。その意味で、理念のもつ重みを大切にしていきたい。そこで、ポスト正本堂の第一年を「教学の年」と銘打ったしだいであります。
4  勇気ある庶民の哲人たれ
 第二には、一人ひとりに時代の先駆を行く自覚ある実践家になってほしいがゆえであります。その自覚は何によって生ずるか。また、その自覚を不動のものにするのは、いったい何か。学会総体として行動するときには、そのエネルギーの渦のなかで、各人の自覚も高まっていくでありましょう。しかし、それのみでは自覚の永続性、持続性はない。それとともに、たとえ一人になっても、なおかつ不動の信念で進む強力な発条が必要であります。
 それでは、その発条となるものは何か。これこそ私は、一人ひとりの内面に思想、哲学を確立することであり、そのための教学の鋭い研鑽にほかならないと思うのであります。
 これからは、学会総体も大切でありますが、それ以上に個人の比重が増していくようになるでありましょう。小さくとも偉大な光の連動が、より優れて大なる人類の光明になると信じてやまないからであります。
 そこで、いつもいうようでありますが、「創価学会のなかに皆さんがある」というより、むしろ「皆さんのなかに創価学会がある」というようであっていただきたいのであります。その意味で、これからは信心の本格派とそうでない人とは、明確に分かれていくといわざるをえない。最後の一人になっても、妙法、そして学会を背負って立つという人々のつどいで、学会を新たにつくろう、また、つくっていただきたいというのが、私の決意であり、念願なのであります。
 第三に、現代はあまりにも思想が貧困であり、哲学が欠如しております。西洋においても、哲学はヘーゲルで終わったとまでいわれている。十九世紀、二十世紀にわたり、世界的にあらゆる社会がことごとく合理主義、現実主義、政治主義に傾斜した感が深く、力関係が一切を支配する時代に進んできてしまっております。その結果、地球上に戦火は絶えず、公害は蔓延し、文明は死の行進を始めたことが、きわめて日常的に語られる昨今であります。
 人々の精神的荒廃は深刻の度を増し、精神公害という言葉が生まれるほど、人間性の危機が叫ばれております。まさに、かつての“考える葦”は“考えざる葦”へと変貌を遂げているといってもさしつかえい。
 しかし、一方では洪水のような情報と、波乱と激動の社会にあって、人々は「なにか動かぬ原点があるのではないか」と、模索しはじめたようであります。今日ほど人間性尊重や生命尊重が叫ばれるような時代はかつてなかったし、全人類的視点がこれほど力説される時はなかった。しかも、それを生死の問題であるとか、生命と自然のかかわりあいといった、根本問題にまで掘り下げるという傾向が顕著になってまいりました。最大の危機は、また、最大の変革の機会でもあるのでありましょう。
 いまこそ人類の運命を転換し、恒久的な平和への道を確立するかどうかの瀬戸際の時であるとまで、私には思えてならない。私は米中の会談、また、日中の国交回復をとおして、いよいよ次の課題は二十一世紀をどうするかということであり、また、それをめぐって哲学の問題、更に深くは生命の問題に入るであろうし、その方向をとらざるをえないであろう、と直覚的に実感するのであります。まさに広布の本番、正真正銘の宗教運動はこれからといってよい。
 同志の皆さん、この精神のいわば戦国時代に虚栄の門をいでて、ひたすら道を求めて人間の門に入った庶民の哲人が、再びその門をいでて、勇気をもって精神の復興運動を起こしていかねばならないと、私は思いますけれども、どうでしょうか。(大拍手)
5  生命哲学こそ学会の原点
 私は、その端緒を開くべく「大白華」誌上に、若き俊英二人の学究者と、てい談で生命論を開始いたしました。正直いって、生命の問題は難問中の難問であり、特に生命の哲学として人々に納得できるかたちで説明するには、ひじょうに困難を感じます。ほんとうは、もっと将来に、この問題と取り組みたいと考えていましたが、教学に真剣に取り組んでおられる学会員の皆さんのなかからも強い要望があり、また、いまがその時であると思い、どう展開できるかわかりませんけれども、思いきってこの末踏の世界に挑戦したしだいであります。私の気持ちとしては、この試みが後世において、新しい歴史を開くなんらかの手がかりになればと願っております。
 現代の社会はすさまじいほどの勢いで動いている。マスコミの情報量も膨大なものである。スポーツにせよ、レジャーにせよ、大衆化し、広範なものとなっている。交通量も激しい。科学技術の発達もますますテンポを速め、つぎつぎと新しい技術を開発しております。しかし、その忙しい回転のなかに、なにかしら空しさがある。それは“なんのため”という目的がないからではないでしょうか。人生の価値、人間の尊さがいくらいわれても、その価値によってきたる基盤がない。ゆえに、ただ言葉のみが空しい響きとなって人々の耳を通過するだけであります。
 その“なんのため”という一点を掘り下げていったときに、生命の問題が浮かび上がってまいります。生きるとはどういうことなのか、死ぬとはどういうことなのか、死ねばわが生命は終わりなのか、それとも、死後も連続して次の誕生があるのか。もし、再び生まれてくるとしたらどういう姿で生まれてくるのか――。こうしたもっとも基本的な問題が解明されないままに、社会はうなりをたてて、騒音をまきちらしながら進んでいる。人々はその渦に巻き込まれながら、ふと、われにかえっても、そこには空虚さしかない。
 おそらく、この生命の問題に対して、もう一歩突っ込んで思索しようという動きが、二十世紀の終わりから二十一世紀にかけて、世界的に沸き起こってくることでありましょう。あるいは、その時期は、もっと早いかもしれい。そのときのために、どうしてもいま、生命論を始めておく必要があると、私は考えたのであります。
 戸田前会長は、戦後の学会の再建にあたって、生命論から始められた。私も戸田前会長の弟子として、いつか恩師の生命論を更に展開し、体系づけて世に問いたい。むしろ、これこそが私の最大の使命であり仕事である、ということが念頭より離れませんでした。正本堂が完成したいま、ついにその課題に取り組むときに入ったのであります。
 創価学会は生命論に始まり、生命論に終わるといってよい。すなわち、戸田前会長のあの獄中での悟達に、創価学会の原点があったのであります。しかし、生命論は創価学会が始めたものではなく、日蓮大聖人のは仏法それ自体が、生命哲学そのものなのであります。創価学会はこれを継承したというべきでありましょう。日蓮大聖人の御書、そして、それを生命哲学として読んだ戸田前会長の悟達、これこそが創価学会の骨髄であります。
 遠く三千年前、釈迦は人生の苦、すなわち生老病死と対決して自己の内奥の広大な世界を開いていった。そして、その胸中の悟りを知らしめるために、当時のさまざまな学説や譬喩や儀式を用いた。像法の中末に中国に出現した天台もまた、法華経を根本として生命を内観し、そこに覚知したものを一念三千として体系づけて説明したのであります。
 七百年前、東土の日本に出現した末法の御本仏日蓮大聖人は、生命の本源の当体を南無妙法蓮華経であると悟られ、それを説かんがために経を引き、天台、妙楽の学説を自在に駆使し、御義口伝をはじめ、諸御書に生命哲学を展開されたのであります。
 ゆえに、生命論こそ仏法の本体であり、その本体をいかに時代の人々に知らしめるか、という点に先哲の幾多の苦闘があったにちがいありません。
 しかも、その生命論は単なる論ではない。究極するところ、倦怠と苦悶の人生を、内なる運命の転換により、はつらつたる希望の人生へと向けていく人間変革の事実にもとづいているのであります。その一個の小宇宙と大宇宙との間に交流する生命の作用の開悟、すなわち信仰という生命の座に立って、一人ひとりを蘇生させる生きた実践のなかから、くみあげられたものであります。
 それは、決して生命を己と対峙させてみる哲学ではなく、自己の内より発現してやまない一念の生命の展開であり、同時に、現実に煩悶する一個の人間のなかに入り、内より生きる力をわきたたす実践の哲学といってよい。
6  民衆自身による学習と実践の運動を
 私どもの生命哲学運動も、そこから出発いたします。一人ひとりに御本尊という大宇宙と冥合しゆく根本法を知らしめる運動、すなわち本尊流布こそ、永久に止めてはならぬ学会の使命であります。ともに、自らの生き方のうえに、生命哲学に生きる者の人間革命の厳然たる実証がなされていくこと、更に大聖人の生命哲理を学習する運動を高めていくこと、すなわち、教学への真剣な取り組みこそが最重要の戦いとなるわけであります。
 誰人といえども、妙法という大宇宙の法の外には逃げられない。誰人といえども、峻厳なる因果の理法の外にはいない。また、その厳粛なる生命の哲理を軽んずる人は、自らの内なる生命を軽することになるでありましょう。
 ゆえに、私どもの生命の哲学の運動は、人間の深層部を揺り動かし、やがては意識の変革を起こし、生命の世紀の招来は必然であると確信していきたいと思います。(大拍手)
 思想は人々の胸の内にあるものと結びついたとき、強力な伝播の力をもつものであります。かつて、フランスのルソーの自由思想が、当時の市民階層の共感を呼び、フランス革命の淵源をなしたことは、皆さんごぞんじのとおりであります。また、マルクスの共産党宣言が、虐げられた労働者の胸を打ち、急速に全欧州に伝播したことをみるべきでありましょう。
 私どもの運動は、特定の階層のものではない。人間としてどう生きるべきか――に迫った運動であります。しかも、二十世紀の今日、もっとも深刻となった精神の空洞化に充実の方向を与えるものであるがゆえに、どれほど偉大な人類の運動にまで高められていくことでありましょうか。
 創価学会は、その総体としては、幾多の複雑な糸のからみあった現代にあって、その広漠たる生命の原野に踏み込み、そこから一切の解決の糸口を、社会に、人類に提供することに、誠心誠意、全魂を打ち込んでいく決心を新たにすべきでありましょう。また、その生命哲学によって、正視の眼を養った有為の人々が、それぞれの分野で、それぞれの信念に燃えて、人々の幸福と世界の平和に寄与していくことを期待しつつ、まず民衆自身による生命哲学の広大なる学習と実践の運動を、勇気をもって繰り広げていっていただきたいのであります。(大拍手)
 それは、人類末踏の世界への挑戦であるだけに、決して安隠な道ではないと思う。また、はなはだ迂遠な道のようにみえるかもしれません。
 しかし、これこそ大聖人の仏法の王道を行くものであり、創価学会の随自意の活動であることを知って、だれに恥ずることなく、朗らかに、勇気凛々と、意気揚々と断行していくべきであると思いますけれども、よろしくお願いします。(大拍手)
7  未来への展望
 次に、正本堂建立という一つの大きなヤマを踏破し、新しい段階に臨む私どもの未来を、概括的に展望してみたい。今年一九七二年から次の七年間、すなわち大御本尊建立七百年の一九七九年までの目標として「五百万教学部員」の問題があります。
 この目標を掲げた元意は、全学会員が日蓮大聖人の仏法哲学を、自己の不動の信念とし、精神的支柱とした真の学会っ子となっていくこと、いま一つは仏法哲理を現代の言葉で語り、広く社会に仏法思想の潮流を展開していくことにあります。
 目標としては、具体性をもたせるために数によって示しましたが、じつは質の充実、向上にこそ最大の眼目があることを忘れないでいただきたい。その数は、五百万といわず、たとえ五十万でも、百万でも、二百万でもさしつかえない。数にとらわれ、数に追われたときには、もはや真実の哲学運動は薄らいでいってしまうことは明瞭であるからであります。
 したがって、数学に臨む姿勢も、たんに言葉として、観念として学ぶのであってはならない。自己の生命に生きた哲学として学び、身につけ、現代社会のなかに反映し、現代人の言葉で語れるものでなくてはなりません。
 とりあえず、昭和四十八年が「教学の年」でありますが、これは明年一年で終わるものではなく、一九七九年までの七年間は、その全体が「教学の年」であるという決意で臨んでまいりたい。
8  「仏教セミナー」等の教学運動を展開
 そこで、これは提案になりますが、来年には「仏教大学講座」を創設したいのであります。その意図は、教学を学問的に勉強すること、および、そこで語学ぐらいは学んで、世界に雄飛する人材をつくるということであります。当初は全国に公募して五十人ぐらいに人数をしぼって発足させたい。具体的な方法等については、教学部のなかに委員会をつくりまして、そこに一切を依頼いたします。
 教学は、根本的には信・行のバックボーンであり、また、学会教学の従来の伝統はそこにあったし、今後も少しも変わりありません。同時に、その母体のうえに、そろそろ教学を学問として大成させる時期にもきているように私は思う。信・行のバックボーンとしての教学、そして教学の学問化、この二つを並行させながら冥合させていくことを、創価教学の今後の方針と考えたい。
 やがて、この「仏教大学講座」から幾多の優秀な人材が輩出し、世界平和のために戦っていくことでありましょう。私たちは、これをあたたかく見守り、全員の力ではぐくんでいきたいと思いますけれども、この提案はよろしいでしょうか。(大拍手)
 これとともに、過去に戸田前会長以来「一般講義」が続けられてまいりました。すでに、教学部の方針として、この「一般講義」を、一般の人々にも、徐々に開放していくことを決め手おりますが、これを「仏教セミナー」として、生命哲学運動の一つの重要な核としていきたい。
 すなわち「仏教大学講座」「仏教セミナー」そして、活動方針のなかでも示された「総Bセミナー」「教学座談会」「青年部会」が、それぞれ特色をもちながら、明年より、日本にいまだかつてない教学運動を巻き起こし、長く持続させていきたいと思いますけれども、この点ご賛同いただけるでしょうか。(大拍手)
9  人類生存の権利に目覚める時
 次に、今年の学生部の夏季講習会の席上、私は、世界のあらゆる国家は、日本国憲法の戦争放棄条項にならって、武器ならびに交戦権を放棄する決意をすべきである、と訴えました。これは、世界の民衆は、いまこそ生存の権利にめざめるべきである、と宗教者の社会的良心のうえから申し上げたものであります。
 これについては、あまりに理想的であり、実現不可能と非難する人がいるかもしれない。しかし、私はこれを単なる政治上の問題ではなく、人間の生存の権利から発した叫びとして、世界的に高めていく必要があると痛感するものであります。
 憲法を守るという次元より、更に本源的な人間の生存の権利の運動として、世界への訴えを起こしていきたい。すなわち、世界のあらゆる国の民衆が、生きる権利をもっている。それは、人間として、だれにも侵されてはならない権利である。生存の権利にめざめた民衆の運動が、いまほど必要なときはないのであります。
 私は、その運動を青年部に期待したい。このことを含めて、来年は生命哲学運動の起こる「教学の年」であるとともに、もう一面「青年の年」と決めるべきであると申し上げたいのですけれども、青年部の諸君、いかがでしょうか。(大拍手)
 次に、人材育成こそ次の七年の最大の課題であります。七年間、静ではあるが、人材の宝城を完璧につくりあげていきたい。また、それに全幹部が心をくだいていただきたい。これ以外に令法久住も未来の広宣流布もありえない。
 そこで、いまから二年後の昭和四十九年、すなわち一九七四年の夏季講習会が重要なヤマとなります。このときには、三十万人による講習会を開いていきたいのであります。三十万の人が、富士の裾野の大御本尊のもとにつどい、仏法哲理の研鑽に励んでいく。まさしく真の学会っ子のつどいであり、人間の宝塔の林立をもって、再びこの三十万人をもって、広宣流布に一歩前進していきたいと思うのでありますが、よろしいでしょうか。(大拍手)
10  目を世界に向けよう
 それと同時に、全人類総与の大御本尊の名にふさわしく、世界に妙法の光明を伝えるべく、いよいよ力をそそいでいきたい。
 正本堂落慶式典には海外から代表役三千人が参加しましたが、海外各地の同志は、大変な苦労をしながら今日を築いてきたのであります。世界各国の友を守り、援助するためにできるだけのことをして差し上げたい。
 いうまでもなく、仏法の精神は、いかなる国に広まっていった場合も、その国の民衆の幸福と繁栄に寄与することにあります。仏教がインドに発生し、中国、朝鮮、日本へ、またビルマなど東南アジアの各地に伝播していった歴史をみても、それらの国々がインドの属国となった例はない。
 末法の日蓮大聖人の仏法においても、また同じであります。あくまでもその国土、民衆のなかから偉大な実践者が出現し、その国土、民衆のために尽くす。そこに地涌の菩薩の一つの意義があるといっておきたいのであります。
 この点は、キリスト教の場合、とかくキリスト教の布教が、国家の植民地支配に結びつけられた前例があることから、仏法の世界広布ということが、誤解される傾向がありますので、この席を借りて明確にしておきたいと思います。
 国内における信教の自由、政教分離の原則と同じく、国際的な次元においても、信仰はあくまで信仰の場で行われるものであり、政治には関与しないし、逆に政治から関与されるべきものでもない、ということであります。
 そこで、その世界への妙法流布の方向線上の目標として――というより、むしろ道程として――昭和五十四年、すなわち一九七九年は大御本尊建立七百年にあたり(総本山では数えで計算するので、その前年に「大御本尊建立七百年祭」が行われます)、同時に、この五十四年は戸田前会長の二十一周忌法要の行われる年でもあります。この年に、ロスアンゼルスで「世界平和大文化祭」を行ってはどうか、と提案するものであります。(大拍手)
 それも、世界の各地の人々が世界平和を祈り、自発的につくりあげたものを展覧していくという、自由な伸のびとしたものとしていきたい。そして、七つの鐘の掉尾を飾らしていただきたい。
 更にその延長として、アメリカのどこか景勝の地に、一九九〇年をメドとして立派な寺域を完成したい。
 一九九〇年とは大石寺創立七百年にあたるのであります。大御本尊まします大石寺が、世界の日蓮正宗信徒の信仰の本源地であることは永久に変わりありませんが、アメリカに信徒が多数生まれた場合、そこにアメリカの信徒のためにアメリカ信徒の信心の結晶によって、アメリカの本山ができるのは当然なことであります。
 アメリカ日蓮正宗の代表として、ウイリアムス理事長も、この件については「ぜひとも、我々の力で本山を建立させてもらいたい」と要望しております。また、猊下も非常に喜ばれて、ぜひとも世界の平和のためにお願いしたいと申されております。ゆえに、一切のことはアメリカ日蓮正宗の委員会にお任せいたします。まだ、十八年先のことですから、悠々と準備ができるというのであります。皆さん方には一切負担はおかけいたしません。
 日本にこなければ本山がないというのでは、日蓮大聖人の仏法がいつまでも日本だけのもののような形になってしまう。信仰した人々がアメリカ人でありながら、日本を向いていたのでは、アメリカ社会のなかで異質な存在になってしまう恐れがある。それでは可哀想であるし、全世界総与という大聖人の広大な慈悲と理想を狭いものにしてしまう結果となります。
 それと同時に、一応、ロサンゼルスと考えておりますけれども、仮称「世界日蓮正宗協会」または「世界日蓮正宗センター」ともいうべき、日蓮正宗の全世界の信徒のためのセンターを設置したい。
 ご承知のように、創価学会という団体は日本国内のみであります。アメリカではアメリカ日蓮正宗、フランスではフランス日蓮正宗というように、海外では日蓮正宗傘下の組織として、それぞれの国の法にしたがって設立されております。こうした全世界の日蓮正宗の信徒および組織を総括し、支援するセンターをロサンゼルスに設けたいというのがこの趣旨であります。
11  生命哲学を世界・時代精神に
 このように巨視的にみれば、今後の大きなヤマは、昭和五十四年(一九七九年)そしてその次が昭和六十五年すなわち一九九〇年であります。
 この一九九〇年は、恩師戸田前会長の三十三回忌にもあたります。昭和四十一年の本部総会の席上、一九九〇年から十年たって西暦二〇〇一年、すなわち二十一世紀の初頭から再び新しい七つの鍵を合言葉に鳴らしていこう、これを後世の人たちに託す、と申し上げたことがありますが、若干その後の大きな流れも、この席上を借りて申し上げておきたい。
 戸田前会長は、世界的につながる広宣流布というものは、少なくとも二百年先になるであろうと、つねづね述懐しておられた。そこで本年より西暦二〇〇〇年までを、広布の第二章の第一期とするならば、二〇〇一年より二〇五〇年までを第二期としたい。
 第一期においては、ぜひとも人類の滅亡を食い止めるだけの平和勢力を築き上げておきたい。第二期においては、戸田前会長の「雲の井に月こそ見んと願いてしアジアの民に日をぞ送らん」との有名な歌がありますが、できれば、東洋の幸福と平和をなんとか実現したい。
 二十世紀はまさしくアジアの不幸と悲惨の連続でありました。虐げられた民衆が、二十一世紀にまず幸福になってほしいというのが、私の偽らざる気持ちであります。そして二〇五一年から二一〇〇年までを第三期とするならば、この間、二〇七二年に正本堂建立百年の時を迎える。
 この時が一つの頂点になると思いますが、この間の特質は、大聖人の生命哲学を時代精神、世界精神にまで高めていきたい。私は、すでに二十一世紀を「生命の世紀」と名づけました。
 さきにも述べましたとおり、必ずや二十世紀終わりから、生命哲学を模索する広大な動きが世界的に起こると信じております。その生命の世紀を総仕上げして、輝かしい生命尊重の時代をつくりあげていってほしいという念願を、私は後世の人に託したい。
12  子孫まで平和精神伝えよう
 次に、二一〇一年から、二一五〇年までを第四期とするならば、この時ぐらいまでに、世界の恒久平和の崩れざる基盤がつくられ、二一五一年から二二〇〇年の第五期で、できれば広布の第二章の総仕上げをしてほしいのであります。
 そして西暦二二五三年、すなわち立宗一千年、もしくは西暦二二七九年、すなわち大御本尊建立千年ぐらいから、次の章が始まるのではないかと考えるのであります。
 ずいぶん先の話になりまして、私も皆さん方も、その時までは絶対に生きてはいられません。(笑い)ただ、私は皆さん方のお孫さん、更にそのお孫さん方にいたるまで、日蓮正宗創価学会の平和の精神を伝えていっていただきたいという願いから、お話をいたしました。(拍手)
 また、もう一面では、なにも二、三百年ぐらい先のことで驚くことはない。私は先ごろヨーロッパを歴訪しましたが、大きな教会など、着工から完成まに三百年、もしくは四百年とかけている。町のなかにある住まいも、また使われている机やイスでも、二、三百年ぐらいの伝統をもっているものは、ざらにあります。
 いわんや、私どものめざす広宣流布という事業は、末法万年の基礎を築こうとするものであります。急いで薄っぺらなものをつくるより、じっくり時間をかけて、堅固なものをつくりあげていくことが大切なのであります。何世代にもわたる大事業であることは必定であります。
 ともあれ、未来の人々が方向を誤ることのないよう、未来に責任をもつ一人として、このように申し上げるのも当然の責務と考えたからであります。
 しかし、以上のことは、こうなるとの予言でもなければ、こうしなければならないという絶対の路線でもありません。絶対などということは、御本尊以外にはないのです。そんなことは、誰人もいえるものではない。戸田前会長も、亡くなる寸前、そうおっしゃっていた。「私の亡きあと、私のいったことは、一切白紙にしてもよい」とまでいわれた。私もまったく同じ気持ちであります。
 したがって、賢明な後世の方々に一切を任せたいのが私の本意であります。ただし、私自身、現在、平和の社会を熱願してやまぬ信仰人の一人であり、その真心からの叫びであるということを知っていただきたいだけなのであります。
13  恒久平和実現への宗教者の使命
 次に、私たちが宗教的信念のうえから、当然現代社会において、めざすべき世界平和の問題について考えてみたい。人類がかかえている最大の課題が、世界の恒久平和をいかに実現するかであることは、周知の問題であります。いかなる民族も戦争の惨禍と無関係でありえた例はないし、この地球上に戦火の途絶えた時代はなかったといっても過言ではない。しかも、戦争は人間にとって、外から襲いかかってくる災いではなく、人間の心のなかより起こり、人間自身が演ずる悲劇なのであります。いわば、戦争は人間生命の醜い一面が噴出し、露呈して繰り広げられる、もっとも悲しむべき人間性の汚点といってもさしつかえない。
 戦争の問題が、もっとも容易に解決できるようにみえて、しかも、もっとも解決困難であるゆえんがここにあるといえるのであります。この解決を至難にしてきた原因は、いったい、どこにあったのか。それは、人間が自己の生命の内なる世界に、目を開かなかった――そのところにあったといわなければならない。この人間の生命の問題を解決したのが仏法であり、その究極の当体が、一閻浮提総与の大御本尊であります。
 大御本尊を荘厳するため、世界中の全信徒の真心によって建立した正本堂を、世界平和祈願の殿堂と名づける理由は、ここにあったことを知っていただきたい。
 そして、正本堂完成後の我々にとって、最大の課題は、迷い悩む人類に、生命の問題を解決する方途をさし示し、仏法の光を伝えるとともに、我々自身が、いかに世界平和実現のために貢献しうるか、の実証を示すことにあるというべきでありましょう。
14  平和実現への大聖人の戦い
 振り返ってみれば、御本仏日蓮大聖人の社会的実践の第一歩も、平和への探求から始まったのであります。大聖人が、仏道をこころざされた動機の一つは、闘靜堅固・白法隠没の末法の衆生を、いかにして救うべきかの問題があったことは、想像にかたくありません。闘靜言訟の泥沼から救うということは、すなわち、この世にいかに平和を具現するか、という意味であります。
 また、立宗後、当時の権力者に訴えられた第一声は、立正安国論の上呈でありました。安国すなわち、国を安んずるとは、平和の実現のことであります。そして、その内容にある自界叛逆、他国侵逼の両難に関する警告は、いいかえると、戦争の危機を予告せられたものであります。この戦乱の危機から国土と民衆を守るには、正法を立てる以外にない、というのが立正安国論の結論である。
 つまり、国内社会にあっても、国際的、世界的次元においても、平和を具現する道は、立正以外にないと訴えられているのであります。大聖人が、立正安国論をもって、当時の社会への本格的な働きかけの第一歩をしるされ、そして、一閻浮提総与と名づけられた、すなわち全人類の平和の根本当体ともいうべき、大御本尊建立をもって、ご自身の出世の本懐とされたことには、きわめて深い心がある。すなわち、世界人類の恒久平和実現にこそ、大聖人の志向された現実社会での仏法実践の大理想、そして大精神があるということなのであります。
 戦争は、その及ぼす結果が残酷であり、醜悪であるばかりではなく、人間生命のもっとも醜い残忍なものが、その主役でもあります。すなわち、戦争は、人間から人間としての崇高さ、人間の尊厳をはぎとり、泥まみれにしてしまう魔の働きであるということであります。
 生命の尊厳を守り、仏界というもっとも崇高な境涯に、万人を導こうとする仏法が、こうした戦争の問題に、真っ向から取り組んでいくのは当然のことであります。したがって、また、およそ、仏法の正しい実践者であるならば、なによりも、この人間社会に平和を建設すべく、全魂を傾注するのも、当然の使命であると思いますけれども、いかがでしょうか。(大拍手)
15  恒久平和へ英知を結集
 そこで、では恒久平和を築くには、いかにすべきかを考えてみたい。恒久平和とは、文字どおりにいえば、永久の平和であります。おそらく、皮肉な人々は、世代が変われば人の心もみな変わるから、恒久平和などということは、口にすること自体、ナンセンスだというかもしれない。確かに、字義どおりにいえば、そのとおりであります。いま、どんなに堅く平和の取り決めをしたところで、次の世代、そしてその次の世代の心まで、決定できる保証などはありえないでありましょう。
 ただ、民衆の意識も、生活も、一国の枠内を出なかった往時と異なり、現代では意識の広がりにおいても、実際生活の営みのうえにおいても、すでに一国の枠を越えて、直接、世界のあらゆる国々と結びついている。かつては、このような生活感情をもつことができたのは、シルクロードなどの東西交流の動脈にある地域の人々であるとか、または古代ローマや大英帝国当時のイギリス人といった特殊な人々に限られていた。
 しかし、現代では交通、通信技術の発達によって、情報、知識および物資、更に人間自身の交流が繁かつ円滑になり、あらゆる人々が、国際的、世界的広がりのなかに生きる時代となってきております。この事実は、人間の歴史において、ひじょうに大きい意味をもっていると、私は考えます。
 すなわち、現代は、一面において科学技術の発達による軍事力の強大化で、なんとしても、恒久平和を築かねばならない要請がある。もし、そうでなければ、人類は滅亡の恐怖にさらされるのみでありましょう。と同時に、もう一面において、民衆の生活感情の世界的拡大という条件に支えられて、恒久平和を実現することが、可能となっている事態がある。
 このことから、現代に生きる人類の決意すべきところは、あまりにも明らかであります。世界の恒久平和を打ち立てること、二度と戦乱が、この地上を覆うことがないよう万全の対策をほどこすこと、これを人類の至上の課題として、その解決にあらゆる英知を結集すべきであると、私は訴えたいのであります。
 もとより人類は、また現代文明は、これ以外にも解決しなければならない、幾多の問題をかかえております。公害の問題、人口問題、食糧問題、更には管理化社会における人間性の問題、余暇の問題等々、これらが重要でないというつもりは毛頭ありません。ただ、人類を一瞬にして絶滅させてしまう脅威をもった、戦争と平和の問題の解決なくしては、他のいかなる努力も、砂上の楼閣になってしまうことを、決して忘れてはならないといいたいのであります。
16  ムード的平和観に落とし穴
 中国をめぐるアジアの情勢が平和の方向へ大きく転回し、日本人の多くが平和への希望のムードに浸っているときに、なぜこのような問題を提起するのであろう、と思われる方もあるかもしれません。私はこうしたムード的平和観のなかに、大きな落とし穴があると思う。現に日中復交ムードに国民が酔いしれているときに、国会では四次防の予算が可決されようとしている。
 国際政治を動かしているものが、力の論理であり、つねに戦争の牙がとぎすまされている事実には少しも変わりがない。私は世界の真の平和を実現するには、こうした国際政治の現実から絶えず目をそらしてはならないといっておきたいのであります。(大拍手)
 一般に、平和とは戦争が終結した状態をさしていわれているようであります。確かに、人々が平和のありがたさを身にしみて感ずるのはそういう場合が多い。
 人間の健康にたとえれば、戦争とは病気のようなもので、病気になってみて健康のありがたさがわかるようなものです。そこで、平和を取り戻すための技術として、政治の活躍に過大な拍手が寄せられてきたといえる。これまた、難病を治療した医者が賛嘆されると同じことであります。
 だが、ほんとうに大事なのは病気にならないようにすることであるのと同様、戦争を起こさせないようにすること、戦争をしないですむ条件を社会的につくりあげることではないかと思いますけれども、どうでしょうか。(大拍手)
 つまり、端的に表現すれば、平和が戦争の幕間にある休息時間などではなく、平和であることが平常であるといえる社会、世界にしていくことが、我々の最大の願望ではないでしょうか。(大拍手)
17  仏法で人間の根源悪を超克
 このことはさして大きな問題ではなさそうに思えるかもしれませんが、じつは根本的な違いがあります。そのために、なすべき努力もまったく新しい次元に開いていかなければなりません。
 すなわち、今日までの平和のための努力といえば、いかに戦争状態を収拾するか、互いの軍備を縮小するか、という外交交渉の次元で考えられてきた。これに対し、恒久平和実現の道は、たんにそのようなものではありえない。戦争を引き起こす根源である人間の貪・瞋・癡の三毒を超克する高度な精神的基盤を築くことに、もっとも大きな努力が傾注されていかねばならないと、私は申し上げたいのであります。
 貪・瞋・癡の三毒――現代語でいうならば、物質的、社会的欲望、感情的衝動、おろかさ――といったものは、生命に本源的にそなわった特質であり、なくそうとしても、なくせるものではない。永久になくせない。また一面では、生命維持のために、欠かすことのできない働きを担っているものでもあります。
 ただ、これらに支配されたとき、その駆使できる力が大きければ大きいほど、それによって生ずる結果は悲惨なものとなる。そこで、大事なことは、貪・瞋・癡の三毒に支配されるのではなく、これらを支配し克服していける強い理念、精神的な支えを確立していくことであると、私は思う。
 このことは、私たちの日常生活を振り返ってみたとき、ごく当然のこととして実践していることであります。たとえば、人間だれしも欲望をもっている。しかし、もしおのおのが自分の欲望のままに振る舞ったとしたならば、社会はメチャメチャになってしまう。そこで、社会には、さまざまなルールがあり、そのルールに従うことが要求される。人々は、ルールに従うことによって、自分の欲望や衝動を規制しているわけであります。
 このルールの支配力を支えているのは、同じ共同体、社会に属しているという意識である。また、同じ人間としての平等観、相互の人格に対する尊厳視であります。世界の恒久平和を築くためには、まずこうした精神的な共通の基盤が確立されなければならない。それによって、はじめて行動の規範となるルールも定めうるし、また定められたルールが持続的な規制力をもちうるようになるのであります。
 これまで、国際政治の舞台で、ルールの設定のために、さまざまな努力が積み重ねられてきました。しかし、依って立つ基盤がバラバラに分裂している状態で、話し合いが成立するわけもないし、定められたことが、守られるわけもないと、私はいいたいのであります。
18  人間的使命の遂行が宗教的使命を実現
 この共通の精神的基盤の構築を成し遂げるものが、私は宗教であると思うのであります。当然この場合、宗教は各国民、各民族の分裂主義を助長するよう、いわゆる民族宗教であってはならない。世界のあらゆる人々を統合しうる、哲学的普遍性をもった世界宗教でなくてはなりません。
 また、現実の貪欲や瞋恚、愚痴を追うような低俗な信仰であってもならないし、それらを排斥する観念的信仰であってもならない。人間生命のありのままを認めつつ、そこに崇高な理念と使命感とを打ち立てて、昇華していく高等宗教でなくてはなりません。
 これらの条件にかなった真実の世界宗教、未来の高等宗教こそ偉大な生命哲学に裏づけられた日蓮大聖人の三大秘法の仏法であると、私は確信するのであります。(大拍手)
 ただし、私がここで申し上げたいことは、究極的には日蓮大聖人の仏法による以外に、真の意味で確固たる人類共通の精神的基盤は現出しないでありましょうが、それはあくまでも、私どもの宗教的使命であるということを忘れてはならない。私どもは現に社会人とし、現代社会に生きる人間として、この世界のなかにある。
 したがって、宗教的使命さえ果たせばよい、社会人としてのいわば人間的使命は、他のだれかにまかせておけばよい、というわけにはいきません。むしろ、宗教的使命といっても、人間的使命を遂行していくことによって顕現され、実現されていくことを考えていかねばなりません。
 また、宗教、信仰の相違はあっても、人間としての良心のうえから、平和のため、人間の尊厳を守るため、互いに手をたずさえていくことは可能であり、もし可能であるならば、力を合わせて、目的のために進むことが正しい生き方であると、私は思いますけれども、どうでしょうか。(大拍手)
 もし、そうでなければ、すなわち、宗教、信仰の違いにとらわれて、おのおのの宗教的使命に固執するあまり、人間的使命の遂行をないがしろにして、世界の破滅を手をこまぬいて見ているとしたならば、それは中世末ヨーロッパの宗教戦争の愚を繰り返すことになってしまうでありましょう。
 その意味で、私はもしそうした機会があるならば、恒久平和の実現のために、現にこの地球上で行われている戦争の終焉のために、キリスト教やイスラム教や仏教等の世界の宗教界の人々と心から話し合う用意があることを、この席で強く申し上げておきたいのであります。(大拍手)
19  “国家の尊厳”思想を打破
 宗教の果たすべき主たる役割は、すでに述べたように、詮ずるところは、人々の心のなかに共通の精神的基盤を築くこと、互いを結ぶ心のきずなをつくりあげることにあることは当然であります。だが、宗教的理念というより、生命の尊厳観から出てくる自明の理として、国家のありかたについて次のことをいっておきたい。
 ご承知のように、戦争を行う主体はほとんど国家であります。この例外は未開社会における部族間の争い、占領下における抵抗運動などがありますが、それはごくまれな例といえる。一般的にいって、戦争とは、国家が犯すもっとも非道な犯罪行為であるといってよい。しかるに、こうした犯罪行為がなぜ許され、むしろその多くは、人々の熱狂的な支持すら得てきたか。それは“もっとも尊厳なるものは、国家である”との、誤れる神話が人々の思考を支配してきたからであります。そして、一切の物質的富も、人間の生命も、文明の所産も、この“国家の尊厳”の横暴のまえには、犠牲になってあたりまえである、と考えられてきたのであります。
 “生命の尊厳”という理念は、人間の本然のものであり、古来幾多の心ある人々によって、訴えられてきたにもかかわらず、現実は国家の尊厳によって、全部、踏みにじられてきてしまいました。
 現代にいたって、ようやく真に尊厳なるものは、生命であって、国家の尊厳は、権力者のつくりあげた勝手な神話にすぎないということが、広く認識されるようになったのであります。仏法は、この生命尊厳の思想をもっとも明確に裏づけ、それを現実化せんとした偉大な宗教であります。
 仏法のこの信念に立つならば、国家の尊厳という誤れる神話を打ち破り、生命尊厳の理念が現実に支配する世界を実現することこそ、仏法者のなさねばならない使命であると同時に、私どもがその先駆を切らねばならないと訴えておきたいのであります。(大拍手)
 すなわち、国家はいかなる理由によっても、他の人の生命の尊厳をおかさない無実の人間に、その生命を犠牲に供するよう要求することはできない。いわんや犠牲を強制することは、絶対してはならない、ということであります。
 端的にいうならば、さきほど申し上げたように、国家は一切の軍備を解き、微兵権を放棄し、戦争を行うことを絶対にやめるべきである、といいたい。これをまず、具体的な目標として、恒久平和実現をめざしていくことが、私は宗教者としての使命であり、人間としての責務であると思いますけれども、皆さん、いかがでしょうか。(大拍手)
 今日のような、絶望的ともいえる恐るべき世界をつくったのは、もちろん過去からの累積があるとはいえ、現在この地上に生きている世代であります。これをこのままにして、次の世代に引き渡すというのでは、あまりにも私たちは無責任である。あらゆる指導者たちも無責任である。
 まして、我々の時代で人類の歴史を終わらせるようなことがあっては断じてならない。我々の手によって、見事に解決していくのが、私どもの子供の世代、そして、更にその子の世代に対する人間としての責任である、と訴えておきたいのであります。
 たい
20  大海を含む一渧たれ
 ここで御書の一節を拝読させていただきます。
 選時抄にいわく「衆流あつまりて大海となる微塵つもりて須弥山となれり、日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一たい・一微塵のごとし、法華経を二人・三人・十人・百千万億人・唱え伝うるほどならば妙覚の須弥山ともなり大涅槃の大海ともなるべし仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ」云云と。
 有名な一節でありますが、広宣流布の原理をこの御文によって再確認しておきたい。すなわち、今日のこの広宣流布の姿は、もったいなくも日蓮大聖人の一渧、一微塵から始まったのであります。その一渧は単なる一渧ではない。大海をもはらんでいる。その一微塵は単なる一微塵ではない。大山をもはらんでいるのであります。
 新たなる広布の段階を迎えて、今度は私たち末弟一人ひとりが一渧となり、一微塵となっていくべきでありましょう。
 すべての人間には人間としての共通の基盤があります。その共通の基盤に根ざす私どもの運動がやがて妙覚の須弥山にならないわけがない。御聖訓のままに大涅槃の大海にならないはずがないのであります。
 真実の生命の自覚ある一人が次の自覚ある一人を生み、それが二人、三人、十人と続いていくのであります。また、仏になる道はこれ以外ないとの御金言であります。私どもはこの方程式を心深く銘記して、いかなる障魔重畳の波動も、苦難のいばらの道も宿命転換の喜びの年輪に変えて、あすの世代の成長を楽しみながら、清き福運の風を呼びつつ、地涌の勇者としての勝利の凱旋門を堂々とくぐりたいと思いますけれども、親愛なる同志の皆さん、いかがでしょうか。(大拍手)
 最後に、皆さま方のご一家のご繁栄とご健康を心よりお祈り申し上げ、私の話とさせていただきます。(大拍手)

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