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日蓮大聖人・池田大作

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第34回本部総会 宗教を交流し人間文化を再建

1971.11.2 「池田大作講演集」第4巻

前後
1  地涌の菩薩の使命
 さわやかな秋晴れの佳き日、もったいなくも総本山より御法主上人猊下のご臨席を仰ぎ、更に総監をはじめ、全国のご尊師方、またご多用にもかかわらず多数のご来賓をお招き申し上げ、全国の代表一万数千の同志とともに第三十四回創価学会本部をここに開催することができましたことに対し、私は、衷心より感謝申し上げるもであります。ほんとうにありがとうございました。
 同志の皆さま方の忍耐と苦難の道の開拓によって、広宣流布のいくつかの険しき山は、見事に登攀することができました。今後も広宣流布の大願成就のために、いよいよ力を合わせ、事故なく、朗らかにがんばっていただきたいことを、せつにお願い申し上げるしだいであります。
 経にいわく「当に知るべし。是の人は即ち如来なり。如来の所遺として如来の事を行ずるなり」(妙法蓮華経並開結386㌻)。この尊い仏の偉業は、必ずや御本仏日蓮大聖人のおほめにあずかることでありましょう。
 はじめに御義口伝の一節を申し上げたい。
 「今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱え奉る者は皆地涌の流類なり、又云く火は物を焼くを以て行とし水は物を浄むるを以て行とし風は塵垢を払うを以て行とし大地は草木を長ずるを以て行とするなり四菩薩の利益是なり、四菩薩の行は不同なりと雖も、倶に妙法蓮華経の修行なり、此の四菩薩は下方に住する故に釈に「法性之淵底玄宗之極地」と云えり、下方を以て住処とす下方とは真理なり
 「今日蓮等の類」すなわち、日蓮大聖人の弟子は、皆地涌の菩薩である。それでは、この地涌の菩薩とは何か。火は物を焼くことが、その目的である。水は物を浄めることが、使命である。風は塵や埃を払い落とすのが、その働きである。大地は草木を長生させることが、その目的であり、作用である。ともに、地涌の菩薩は、南無妙法蓮華経と唱えて、生活、社会を日々斬新的に創造することが、その根本使命であるということであります。
 すなわち、火が物を焼くのも、水が物を浄めるのも、風が塵埃を払うのも、大地が草木を育むのも、それ自体の本然の作用である。それと同じく、地涌の菩薩も南無妙法蓮華経という本源の法をたもって、自ら能動的に己自身の幸福のため、人のため、社会のために貢献していくことが、本然の使命であり、働きであるとの仰せであります。
 この大宇宙、大自然の運行というものは、見事な調和であり、さながら無限の活力を秘めた生命のオーケストラであります。太陽の燃焼、地球の公転と自転、星雲、島宇宙等々、まさに壮大な調べとしかいいようがない。
 この大宇宙、大自然は、他に作者がいて、つくられたものではない。自らが作者であり、作品であり、監督であり、演出者であるといえましょう。仏は、この本然的作用の本体を、南無妙法蓮華経であると覚知なされたのであります。
 人間もまた同じであり、その根本的な知恵、活力、生命のダイナミックな動き等は、内より発するものであって、他から決して与えられるものではない。
 人間が人間本来の力を発揮していくとき、これを地涌の菩薩というのであります。地涌の「地」とは、生命の大地であり、もっとも本源的な大地に立って、行動を起こしていくことであり、地涌の「涌」とは、他からの作用ではなく、内より悠然たる生命の力を湧現することにほかならない。
 「四菩薩の行は不同なりと雖も、倶に妙法蓮華経の修行なり」とは、私たちの実践においていえば、地涌の菩薩として活躍する使命の庭は、それぞれ異なっていても、所詮妙法蓮華経の所作であるということであります。
2  自発の人、能動の人に
 この地涌の菩薩の住処は、どこか――それは、天台の釈には「法性之淵底玄宗之極地」とある。生命の究極、根源の実在を、天台大師はこのように表現したのであります。一言でいえば、法性之淵底玄宗之極地とは、南無妙法蓮華経のことであります。これを天台家では、真理ともいっている。この「真理」は、一般哲学的に使われている「真理」よりも、もう一重深い意義をもっている。大宇宙、そして生命自体を掘り下げていった究極の真理とは、南無妙法蓮華経であるとの意味であります。自己の生命の奥深くには、法性之淵底玄宗之極地という確たる実在がある。それに到達し、そこから、豊かな生命力をくみ出していったときに、人間としての真価が発揮されていくのであります。
 卑近な例でいえば、地下八百メートルのところに温泉があったとする。それを七百メートルしか掘らなければ温泉は出ない。八百メートル掘ってはじめて温泉が噴き出してくる。と同じように法性の淵底にいたって、これまで冥伏していた力が厳然と現れてくる。ここに到達していく生命の開拓作業が日々の信仰、唱題なのであります。
 更に、引き続いて御義口伝には「又云く千草万木・地涌の菩薩に非ずと云う事なし、されば地涌の菩薩を本化と云えり本とは過去久遠五百塵点よりの利益として無始無終の利益なり、此の菩薩は本法所持の人なり本法とは南無妙法蓮華経なり」と。
 千草万木ことごとく地涌の菩薩である。たとえ、どんな草木といえどもことごとくそれぞれの特質をいかんなく発揮している。桜は桜である。決して椿とはならない。皆、自己の本然の個性を主張しているわけであります。
 地涌の菩薩もまた、もっとも本然的な人生の軌跡を描いて進むのであります。しかも、その講堂は久遠以来の本有の慈悲の運行に合致すると仰せなのであります。それは南無妙法蓮華経という本源の法をたもっているがゆえである。したがって、地涌の菩薩を本法所持の人というわけであります。
 この御義口伝の一連の御文は、いかに生命の内に妙法の珠をいただいた自発の人、能動の人が尊いかを示されている御文なのであります。
 法性の淵底、玄宗の極地に自身をおいた人は、おのずから、無始無終に衆生を利益してきた地涌の菩薩という内証を、この小宇宙たるわが身に具現していくわけであります。すなわち、内なる生命の力を人生と社会に最大限に発揮しながら、自己の本有の使命を全うしていくことができるわけであります。これ以上、力強い、尊い人生の価値はない。
 現今の社会はあまりにも受動的な人間が多すぎる。自ら考えることを拒否し、あるいは社会の巨大なメカニズムのなかに埋没し、機械仕掛けのような人間になりさがってしまった。それは、一面では社会構造に由来するものでありましょうが、より根本的には生命の革新性がないからであり、更にはその力を本源となるべき生命の電源体がないからであると、私はみたいのであります。
 私どもは久遠の流れに棹さして生きる地涌の菩薩のつどいであります。それぞれが、広宣流布になくてはならない使命の友であることを決して忘れてはならない。
 大地より六万恒河沙の地涌の菩薩が湧きいでた生命の儀式は、まさしく広宣流布の方程式にほかならない。それは、使命の人の自発の連帯であり、崩れざる平和へのやむにやまれぬ心情と行動の広大な渦潮であることを知っていただきたいのであります。
3  広布の使命を生涯持続
 諸法実相抄にいわく「いかにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし、日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや、経に云く「我久遠より来かた是等の衆を教化す」とは是なり、末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり、日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし、ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給うべし」と。
 「法華経の行者にてとをり」また「日蓮が一門となりとをし給うべし」そして「日蓮と同意ならば」という御金言を深く胸奥に刻んでいただきたい。
 今後、どのように時代が変革、進展しようとも、広宣流布を決定づけるものは、どこまでも地涌の菩薩という内証の自覚であることは不変の原理であります。
 この自覚だけは、絶対に破壊できない。いな、破壊してはならない。たとえ誰人が批判しようが「智者に我義やぶられずば用いじとなり」との不動の信念で、限りなくわが道を堂堂と進んでいこうではありませんか。(大拍手)
 諸法実相抄の次下の文にいわく「現在の大難を思いつづくるにもなみだ、未来の成仏を思うて喜ぶにもなみだせきあへず、鳥と虫とはけどもなみだをちず、日蓮は・なかねども・なみだひまなし、此のなみだ世間の事には非ず但ひとえに法華経の故なり、若しからば甘露のなみだとも云つべし」とございます。
 将来においても、猶多怨嫉の経文どおり、非難、中傷もいろいろあるでありましょう。しかし、広宣流布する以外には道はないのであります。その使命を生涯持続し、実践する人こそ、まことの地涌の菩薩ではないでしょうか。
 頼基陳状にいわく「智者と申すは国のあやうきを・いさめ人の邪見を申しとどむるこそ智者にては候なれ」とあります。
 社会の危機、民衆の前途の苦悩に生命の痛みを感じ、その根本解決のための抵抗運動に戦う人こそ智者であるとの御金言であります。私としては、学会の庭からほんとうに社会のため、人々のため、文化のために貢献していく人が続々と出てもらいたいのであります。創価学会の社会的意義もそこにあるし、それがまた広宣流布であると信ずるからであります。
 木にたとえれば、根は日蓮大聖人の哲理であります。学会を幹とすれば、そこからどう枝を伸ばし、葉を茂らせ、花を咲かせ、果実を結んでいくかが、これからの課題といってよい。そのためにもこの数年間、更に大樹の根である大聖人の仏法哲理を掘り下げ、幹である学会という組織を完璧にし、人材育成に全力をあげていきたいものであります。
 どうか、私とともにこの未曾有の建設の事業に忍耐強く、英知と情熱をかたむけて取り組んでいっていただきたいことを、再びここにお願い申し上げるしだいであります。(大拍手)
4  民族の興亡と宗教の関係
 諫暁八幡抄にいわく
 夫れ馬は一歳二歳の時は設いつがいのびまろすね円脛にすねほそくうでのびて候へども病あるべしとも見えず、而れども七八歳なんどになりて身もこへ血ふとく上かち下をくれ候へば小船に大石をつめるがごとく小き木に大なる菓のなれるがごとく多くのやまい出来して人の用にもあわず力もよわく寿いのちもみじかし、天神等も又かくのごとし成劫の始には先生の果報いみじき衆生生れ来る上・人の悪も候はねば身の光もあざやかに心もいさぎよく日月のごとくあざやかに師子象のいさみをなして候いし程に成劫やうやくすぎて住劫になるままに前の天神等は年かさなりて下旬の月のごとし今生れ来れる天神は果報衰減し下劣の衆生多分は出来す、然る間一天に三災やうやくをこり四海に七難ほぼ出現せしかば一切衆生始めて苦と楽とををもい知る。
 此の時仏出現し給いて仏教と申す薬を天と人と神とにあたへ給いしかばともしびに油をそへ老人に杖をあたへたるがごとく天神等還つて威光をまし勢力を増長せし事成劫のごとし
 この文の大意は、まず馬に例をとり、馬というものは一、二歳のときは、たとえ関節が伸び、まるい脛で細長く腕が伸びていても、病気があるようには見えない。
 しかし、七歳とか八歳になって身も太り、血管も太く、上体が重く、下半身とのバランスを失えば、ちょうど小船に大石を積んだようなものであり、小さい木に大きい果実がなったようなものである。そのときには大きな病気が起こり、人の役にもたたず、力も弱く、寿命も短くなってくる。つまり、若いときには生命力がたくましいが、やがて年をとり体も肥えてくると、生命力が衰えていくという大意である。
 これは、民族においても、社会においても、また人類史においても同じことがいえると思うのであります。この御書の「天神等も又かくのごとし」とは、民族の生命力、民衆の生命自体の力ということであります。
 成劫とは、民族の勃興期、社会の生成期であります。そのときには衆生は、生命力を満々とたたえ「身の光もあざやかに、心もいさぎよく日月のごとくあざやかに、師子象のいさみをなして」いる。しかし、その民族もやがて安定した住劫という段階に入ると、その生命力はしだいに衰えていく。民衆自体も退廃的になっていく。そこで社会全体に三災七難が起こり、人々も苦悩というものを感じ始めるというのであります。
 仏教は、このいよいよ衰微しはじめた民族、社会、また一切衆生に再び新しい活力を与えた。「天」とは自然、「人」とは民衆、「神」とは生命それ自体と約します。燃焼する燈に油を注ぎ、老人に杖を与えるようなものであった。そこで、民族・民衆は、威光・勢力を取り戻し、勃興期、生成期と同じように生々はつらつたる息吹をたたえるようになった。
 以上、おおよその御文の意味であります。この原理はひじょうに重要であり、民族または文化の消長と宗教との関係を明瞭に説き明かされていると思うのであります。
 ある日本の有名な文明史の大家は「あらゆる文明は宗教を中核として生まれる。宗教によってその民族は精神的活力を付与され、宗教を機軸として文明が展開される」といっている。
5  宗教の興隆は時代の要請
 かつて幾多の民族の興亡、盛衰が、歴史上くり返されてきました。そこに示されたものは、新しい宗教を核とした民族は興隆し、やがて、それが形骸化するとともに、民族の生命力は失われ、滅亡していくという流転の姿であったということも明瞭であります。
 仏教東漸の歴史においても、インドに仏教が興った時には、その地に文化の興隆があった。阿育大王、あるいは迦弐志加かにしか王の時代における世界的な文化の開花をみれば明らかであります。しかし、その後インドにおいては、仏教は失われ、民族、民衆の力を衰え、イスラム世界に侵略されるところとなっております。
 中国においては、仏法が流布して数百年のあいだに定着し、やがて隋・唐における国際的な仏教文化が繁栄していきますが、これも排仏とともに中国文明は衰退していった。
 日本もまた、仏教が伝来して以来、日本独自の仏教文化を生み出した。しかし、やがて仏教それ自体が形骸化し、奈良朝文化は衰退する。それにかわって伝教大師による法華経迹門の興隆とともに、一時、平安朝文化が栄えますが、貴族化し、民衆をリードするもではなくなっている。かえって、民族をとらえたものは、相つぐ三災七難のなかで末世的、終末的な様相であった。
 このとき、末法の初めに日蓮大聖人が出現し、再び新しい生命力を民衆に与えるべく生涯を期して戦われたのであります。それは、たんに一時代、一民族の興隆という規模のものではない。末法万年尽未来際にわたり、かつは全人類の生命の夜明けを告げられたものであります。
 同じく諫暁八幡小にいわく「天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国ふそうこくをば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月にまされり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり、仏は法華経謗法の者を治し給はず在世には無きゆへに、末法には一乗の強敵充満すべし不軽菩薩の利益此れなり」とあります。
 大聖人の仏法を太陽になぞらえて、釈仏法を月にたとえて、いまこそ新しい仏法が興り、末法万年の闇を照らし晴らすことを宣言された御文なのであります。
 この一人の智人の叫びが、やがて万人の叫びとなって伝播していくのに、七百年の歳月が必要であった。果たせるかな、現代文明は挫折の極に達し、人類の未来は暗い闇の底に沈もうとしているのであります。民衆の生命力は衰え、あるいは偏屈し、国土、自然の破壊は恐るべき速度で進行しているのであります。
 人類の英知といわれる人々は、一様に新しい世界宗教の興隆を待望し、人類の前途を開く地球文明の誕生を訴えている昨今であります。
 減劫御書にわく「減劫と申すは人の心の内に候、貪・瞋・癡の三毒が次第に強盛になりもてゆくほどに・次第に人のいのちもつづまりせい身長ちいさくなりもつてまかるなり」と。
 しだいに衰減しゆく時代の運命のリズムを転換し、人類の活力源を回復し、新しい興隆のリズムをつくり、無限に伸ばしきっていく原点こそ、一念の変革、すなわち大宗教の勃興であることを、私は宗教者の責任において叫んでおきたいのであります。(拍手)
 そして、この宗教の興隆を根底とした人間文化の再建こそ、私どものなさねばならない最大の目的であり、使命であることを、ここに再確認しておきたいのであります。(大拍手)
6  人間と文化
 古来、人間にとってその生存を脅かす最大の元凶は、天災、地変であると考えられてきました。その自然の脅威から身を守る手段として文化が創造され、築かれてもまいりました。
 ところが、現代は戦争や公害、あるいは物質文明による人間性疎外等にみられるように、じつは、その文化が人間の最大の脅威とさえなっている。ここにこそ、現代人の深く考えるべき問題の焦点があるといえるのではないでしょうか。
 この点について、私は、文化が、“人間”という基点を忘れたところにこそ、この矛盾の淵源があると考えるのであります。文化が“人間”を基点とするということは、文化をつくるのも人間なら、その文化の恩恵が帰着するところも人間でなければならないということであります。
7  創価文化とは人間の文化
 かつてリンカーンが、ゲチスバーグでの演説で述べた「人民の、人民による、人民のための政府」という言葉は、民主主義というものを簡明に表明した明言としてよく知られていますが、それを応用化して、私は、文化とは「人間の、人間による、人間のための文化」でなければならないといいたい。すなわち、我々の志向する創価文化とは、“人間文化”であると宣言しておきたいのであります。
 考えてみれば、文化は本来、人間が生み出した人間固有のものであり、それは当然、人間のためのものであったはずであります。“人間文化”ということ自体、あたりまえのことともいえましょう。だが、現代文明の実態を澄みきった心で冷静に凝視するとき、まさにこれこそ現代の最大の課題となっているのであります。
 恩師戸田会長は「文化とは、知恵の知識化である」とよくおしゃっておりました。人間の幾多の英知の所産が、知識とし遺産として伝承され、蓄積されて、人間を自然の猛威から保護し、精神の飛翔と深化をもたらしてきたわけであります。
 その内容は、食衣住を構成する卑近な物質的要素から、さまざまな社会の組織機構、更に言葉や倫理、芸術、学問などの無形の精神文化等々を含むでありましょう。それらが、複雑に組み合わさって一つの壮大な系を作り、人間と自然を覆いながら調和をかもしている――。そうした文化はまさに人間固有のものであります。
 ところが今日、この「文化は人間固有のものである」ということを通り越して、人間主体を離れ、ともすればある特殊な論理のものとさえなりがちになってしまった。
 つまり、主人である人間を無視して、科学は科学の論理のもとに際限のない分化と発展をつづけ、ジャックと豆の木のようにとてつもない巨大な存在となってしまっております。その科学の野放図な発達が、やがて人間を押しつぶす脅威となることを考えず、科学者は科学の真理につかえる祭司として、ひたすら脅威の増大に努めている感さえあります。
 政治家は権力を全知全能の神と信じこみ、民衆すなわち人間をいけにえとし、権力の巨大化に奉仕している。経済人は資本の魔力に魅入られて、弱い者から非情なまでの搾取を行い、自らエコノミック・アニマルというだけものに堕しているのが、偽らざる実態ではないでしょうか。
 すなわち、現代文明は本来、人間のものであるという原点を忘れたことによって、その文化にたずさわるものを非人間化、動物化し、その文化のもたらす結末は、人間の幸福の増進ではなく、むしろ人間を抑圧し、不孝と絶滅の淵に追いやってしまたといわざるをえません。
 つまり現代文明は、もはや「人間の、人間による、人間のための文化」ではなくなってしまった、と私はいいたい。これは重大な問題であり、現代の人類社会がいだいている一切の悩みは、直接的にせよ間接的にせよ、すべてここに淵源をもっているといっても過言ではないと思うのであります。
8  欲望に支配された現代文明
 では、文化はなぜ本体である人間を離れ、人間を無視して野放図な発達を遂げるにいたってしまったのか。その根本的な原因として、私は、人間が欲望の命ずる声にあまりにも安易に身をゆだね、欲望の支配に屈してしまたっことをあげざるをえないのであります。
 現代社会は欲望追求の文明の発達によって確かに繁栄してはまいりました。しかし、それは人間のために自然を、自己のために他人を、そして現在のために未来を犠牲にした繁栄であり、いつかは崩れる幻の栄光にすぎない。しかも、人々の心の幸福の実像は、飽くことを知らぬ欲望のスモッグに覆い隠され、蝕ばまれて崩壊し去ろうとしているのであります。
 極端な欲望に支配された文化は、結局は人間を欲望の奴隷としてしまうのでありましょう。欲望の奴隷となった人間にとって、幸福とは虹のようなものであって、どこまで追っても手につかむことはできない。
 欲望はたしか人間の本性の一つではありますが、すべてではない。むしろ欲望に身をゆだねることは、人間としてのもっとも尊いものを見失ってしまい、際限のない炎にわが身を焼き尽くしていくのであります。この欲望をいかにして賢明にリードし、人間としての尊さを守るか――ここに倫理、道徳、思想、宗教といった精神文明の起点がある。
 ところが、近代文明はそうしたものは観念にすぎないとして欲望に自由を与え、その荒れ狂うままにまかせてしまった。そうした欲望の解放は本来、人間の尊厳を実現するという意図で行われたのでありました。しかし、残念ながら社会的、道徳的規範にかわって調整する良識や道義観が、個人の内面にいまだ確立されないうちにそれがなされてしまった。
 このため、人間解放が、じつは人間の内なる魔性の解放となってしまい、人間と文化を邪智と欲望の手にゆだねる結果になったのであります。
 同じく減劫御書にいわく「末代濁世の心の貪欲・瞋恚しんに・愚癡のかしこさは・いかなる賢人・聖人も治めがたき事なり」とあります。
 まさしく現代世界は、文明が発達すればするほど、この御文に仰せの末代濁世の様相を如実に示しているといっても過言ではありません。解放され、暴走に暴走をつづける欲望は、外なる世界においては自然と環境の荒廃を招き、内なる精神の世界にあっては潤いのない殺伐たる荒涼の砂漠を広げている。
 ニクソン米大統領が指摘したように、繁栄する現代社会は、その道徳的退廃、精神の腐食によって内面から崩壊した古代ギリシャやローマの轍を踏もうとしております。
 ご承知のように古代ギリシャはペリクレス時代のアテネの繁栄を頂点として、その後は衆愚政治に陥り、有能な人材を追放などしてつぎつぎと失ってしまった。やがてアテネはスパルタに敗れ、そのスパルタはテーベに屈して都市国家同士、絶えまない争いをつづけたあげく、北方のマケドニアに征服されてしまっております。
 古代ローマはマケドニア、ギリシャも含む地中海周辺の全域、更には北のガリア、更には、ブリタニア、すなわちイギリスをも征服して空前の大帝国を築き上げました。だが、栄光の頂点にあって内部から腐敗が広がり、人々は刹那的に快楽に酔いしれ、道義は退廃し、社会は混乱の渦に巻きこまれていったのであります。
 物質的な繁栄の陰に進行していった精神的な貧困、道徳の凋落、ニヒリズムは蔓延は現代のアメリカをはじめとする先進文明社会の様相と、まことにあい通ずるものがあると、私は考えるのであります。
 古代ギリシャ、ローマの崩壊は、一国家、一社会の崩壊であった。しかし、現代文明の崩壊は人類社会そのものの壊滅につながっていることを知るべきであります。あまりにも巨大な、現代の物質的破壊力は、荒廃しきった精神によって用いられるとき、人類全体の滅亡、地球そのものの破壊を一瞬にしてもたらしてしまうでありましょう。
 すなわち、現代の危機は、人類の誰人にとっても対岸の火事ではありえなくなっている。地球全体が一つの火薬庫なのであります。したがって、この恐るべき一触即発の危機を解消し、ひいては進行しゆく精神の腐食をくいとめるために立ち上がるのは、人間として当然の使命であります。
 この意味からも、私どもは、どこまでも反戦平和と新しき文化を築くことを絶対の使命として進んでまいりたいと思いますが、いかがでしょうか。(大拍手)
9  文化の根底に不可欠な宗教的情熱
 その戦いはまず精神の内面からの変革、新しい道徳観、世界観の樹立から始めるのが必然の道程であると思うのであります。なぜなら危機の本源はまさにこの一点にあるからであります。倫理観、世界観が確立されるには、その基盤となり、土壌となるべき新しい宗教、信仰が定着しなければならない。この、“信仰”という基盤、土壌なくして自己の欲望を自立的に抑制することはできない。そして新たなる創造に向かっていく意思や、他の人々に対する献身の姿勢も生じてこないからであります。
 過去のいかなる文化もその根底には、必ず宗教的情熱があったことは、幾多の学者、思想家によって論じられているとおりであります。イギリスの優れた詩人であり、評論家であるT・S・エリオットはこの点についてこういっている。「何らかの宗教的根底なくして文化というものが発生し得るや、あるいは自らを維持し得るや、否やは、はなはだ疑問である」と述べ、更に「一民族の文化は本質的にはその民族の宗教のいわばインカネーション(肉化)ではないか」とさえいっております。
 また、ポーランド生まれのイギリスの実証主義的な文化人類学者マリノフスキーも、その「文化論」において次のように述べております。「人間の技術的成果、人間の建物、人間の航海用の船、人間の道具および武器、呪術や宗教の礼拝の附嘱具等は文化の最も顕著な触知しうる様相であり、それらは文化の水準を決定し、文化の有効性の本質をなしている。しかしながら、そうした物質的な文化の装備は、それ自身では力ではなくし、その使用には、知識が必要であり、それは本質的に精神的、道徳的訓練に関係している。そして、宗教、法および倫理的規範がそれらのものの窮極の根源である」と。
 エリオットが「宗教のインカネーションしたものが文化である」と詩的に表現し、マリノフスキーが、物質的文化を使いこなす知識、その知識をリードする精神的、道徳的訓練の必要性を指摘し、その究極の根源としての宗教、法および倫理規範を論ずるも、意味するところは同じであります。つまり、あらゆる文化は宗教または宗教的信仰ぬきにしては考えられないということでありましょう。
10  信仰の根本義
 この宗教的信仰と理性という問題について一言しておきたい。信ずるということは、ある意味では理性的認識の範疇の外にあることも事実であります。
 しかし、それは非合理、すなわち、理性的認識理解と背反することとはかぎらない。ヨーロッパにおいて、キリスト教神学が合理主義のまえに敗れたのは、この非合理のゆえであったと思う。そして近代科学合理主義は、一方では、理性に対しては、片意地なまでの信頼をおき、他方、理性では解明することも操作することもできないが、人間本然のものとして存在する欲望にたいしては“やむをえない”なれあいに終始してきたのであります。
 すなわち、これをもう少しわかりやすくいうと、理性そのものは、これ以上疑うことのできない人間の能力として信ずる以外になかった。それはデカルトが「われ思うゆえにわれ在り」といってあらゆるものを疑っていった結果、その疑っている自分の理性そのものは、疑う余地のない真実であると考えたところから出発している。
 これが近代科学の哲学的基盤となり、やがてフランス革命のさいには、キリスト教に代わって理性を神とする理神論まであらわれるにいたっております。
 一方、欲望の問題についていえば、キリスト教世界においては、神の禁欲の教えが欲望を抑える手綱になっていたといってよい。ところが、神は超越的な観念の世界のものであるのに対し、欲望は人間性に密着した確かな手応えがある。むしろ、その手応えは確かすぎるほどだといってよい。結局、神は死に欲望は生き残ったのであります。
 先ほども申し上げたように、欲望もまた、理性の範疇の外にある。理性の範疇外ではあるが、その実在性はどうすることもできない。その結果、欲望のおもむくままに身をゆだねることとなってしまったのであります。この理性と欲望に対する一種の“信仰”が西洋近代文明の原動力となり、現代にいたるいわゆる“進歩”と“発展”がもたらされてきたのであります。
 ところで、理性のそのものは善悪の価値判断を除外した中立的なものであります。
 この認識を忘れ去ったために理性は欲望に従属し、欲望の暴走に拍車をかけ、現代の不幸に輪をかけてしまったと、私はみるのであります。
 欲望が理性の範疇の外にあるように、理性が生命現象のすべてを律するのではないことは明白であります。愛憎もそうであるし、喜怒哀楽も情もそうであります。
 どんなに冷静な学者でも、恋心はどうしようもない。(笑い)とりすました聖人君子たりとも喜怒哀楽の感情はあるのが当然である。
 理性というものは、または理性によって目のとどく意識の分野というものは、生命の全体からみるならば、大海の表面の波にすぎない。その下には計り知ることのできない無意識の深淵が広がっているのであります。この理性の奥の領域に関与し、正しくこれをとらえることは、決して非合理ではなく、むしろ超合理というべきでありましょう。そして、この超合理の領域のなかにこそ、じつは人間を行動に駆りたてる巨大なエネルギーがあります。
11  信こそ行動の起点
 したがって、この超合理の領域をどう開拓し、そのエネルギーをどう導くかによって、個人と社会を幸福にもすれば、不幸にもする。これこそ、“信仰”というものの確たる力であり、根本義であると私は考えるのであります。
 仏法では、こうした生命の思議しがたい全体を一念三千ととらえ、この生命の全体観を、“円教”と名づけている。円とは完璧にして欠けるところがないという意味であります。観念的な超越者としての「神」によるのではなく、現実に、眼前に実在する生命そのものに即し、誰人もまったく疑う余地のない「信」の道を開いた仏法こそ、永遠不滅の究極の宗教でありましょう。
 そして、欲望によっていたずらに支配されるのではなく、生命の全体観のなかに正しく欲望を位置づけ、幸福と繁栄のために誤りなくリードしうる方途も、ここに鍵があるのであります。
 それはまた、現代文明の危機を救い、開く二十一世紀から未来にかけての真実の人間文化建設の起点であり、原動力であると、私は考察したいのであります。
 妙楽大師の「摩訶止観輔行伝弘決」にいわく「円信と言うは理に依って信を起こす。信を行の本と為す」と。この仏法の揺るぎなき信仰は、不合理と対決し、むしろ理性の判定しうる範囲においては、あくまでその判断に合致したものであります。
 ゆえにその信を円信というのであります。そして、この確固たる信は行動への強固な起点となり、根源となっていくとの謂であります。
 狭義には、この“行”とは仏道修行の実践をさしますが、仏道修行といっても、社会に生きる一個の人間としての現実の行動から離れた特殊な活動をいうのではない。
 「一切世間の治生産業は皆実相と相違背いはいせず」と説かれるように、経済、政治等の社会的活動も、すべてここにいう“行”に含まれるのであります。
 すなわち、この一句は個人についていうならば、実践行動の根本は“信”という生命の姿勢であり、社会についていえば、その生きいきとした円滑な運用の活力源は畢竟、人々の相互の信頼感であるという意味でもありましょう。
 更に、文化の創造的諸活動についても、その源泉となるのは、あくまで“信”であります。その信ずるにたる基盤をうる手段として、懐疑は必要なのであって、いつまでも不信と疑惑に終始し、それだけに支配されていくならば、そこには断絶が広がり、破壊的活動しか起こりえないでありましょう。
 これはひじょうに重要な問題であります。日蓮大聖人が浄土宗を厳しく破折されたのも、浄土信仰のもたらす逃避主義を責められたのであります。釈迦が方便として西方十万億土を説いたのは、衆生に永遠的なもの、尊極の理想境涯を教えるための仮説であり、そのかぎりでは、それなりの意義があったかもしれない。ゆえに、実大乗教である法華経においては、それはあくまで権教方便であって、尊極の理想郷といえども、衆生のこの生命のなかにあると明かすのであります。これを知らずに、誤って浄土思想を究極の信仰としていくならば、必然的にこの現実世界は穢土であり、幸福を得るには、この現実から逃れる以外にないことになる。しかし、人間はまさしくこの厳しい現実に生きている以上、この現実のなかにおいてのみ、よりよき人生と社会を求めて努力しなければならない。
 「立正安国」の“安国”とは権力者を中心にした国の安泰などということではなく、人間存在として、この現実の人生、社会に真っ正面から向き合い、その変革に取り組む精神が込められております。“立正”とは、その現実を、雄々しく生き、勇敢に戦い、たくましく建設していく実践の基盤となる揺るぎなき“信”の道の確立を意味するのであります。
 なぜならば、いかに疑って疑って疑いぬいても“真実”と認めざるをえないもの、信じて悔いなきものが「正法」だからであります。“安国”のためには“立正”がなくてはならない。ということは、真の文化建設のためには、確たる“信”の基盤がなければ不可能だということであります。
 その信ずるにたる、信じて悔いなき唯一の正法を、日蓮大聖人は、三大秘法の大御本尊として樹立され、末法万年の未来のために遺されたのであります。
 私どもは、現代の人類文明を、幸福と繁栄へ正しくリードしていくべき、本源的な使命と責任を担って立ち上がった妙法の使徒であります。そして、その実践の根源は、あくまでも末法唯一の大生命哲学たる日蓮大聖人の仏法を、全世界に広宣流布する大宗教運動にあることを、再確認しておきたいと思うのでありますが、いかがでしょうか。(大拍手)
12  人間文化の特質は“調和”
 それでは、人間から出発し、人間に帰着すべき文化において、もっとも強く要請される特質は何か。私は、これを「調和」と規定したい。本来、人間そのものが調和体であり、人間に原点をおいて出発したものは、調和のとれたものであるはずであります。
 古代ギリシャのデルフォイの神殿には、その入口のに、次の文句が記されていたといいます。すなわち、一つは「汝自身を知れ」、いま一つは「何事も過度にするなかれ」と。これは人生に処するギリシャ的な知恵を表現したものでありましょうが、「汝自身を知れ」とは、人間自身にたちかえれ、ということと道義と考えられます。「何事も過度にするなかれ」とは、調和という意義に解釈することもできる。この「過度にするなかれ」というギリシャ的な表現もそうですし、また“調和”という言葉の語感も、一般的には、消極的ないき方、発展や創造のない、静止状態というニュアンスが強い。しかし、私がいう。“調和”とは、そこにおのずから創造性、発展的流動性を包含した概念があります。
 現代文明の欠陥は、人間との関連でいうならば、それは、人間喪失でありますが、文化のありかた自体についていえば、アンバランスであり、不調和であります。文化は、それを構成するあらゆる要素が、それぞれに自主性をもちながらも、全体の調和が保たれていかねばならない。
 西欧文明においては、そうした調和は、神の恩寵によって、おのずと保たれるものであり、人間は、ただそれぞれの分野まで発展に尽くせばよいと考えられました。その結果は、鎖を放たれて野獣と化したかにみえる文化の狂奔をもたらしてしまったのであります。
13  仏法は“調和”の原理基盤
 人間は、文化の発達に力を注ぐと同時に、それ以上の力を“調和”の実現に傾注すべきであります。すばらしい多くの技術を開発したからといっても、それが、経済に、教育に、人間の精神生活に、いかなる影響を及ぼすかが検討されるべきであります。核兵器の脅威、公害による生存の危機、コンピューターによる人間の尊厳に対する侵害、あるいは、さまざまな薬品公害や食品公害等々の諸問題は、この点を検証を怠ったための報いともいえましょう。
 こうした文化の調和を人間が人間自身ではかっていくために、もっとも強く要請されるものが、人間存在をどうとらえるか、そして、そのうえに立って文化、自然、宇宙の全体系を、どうえがいていくかという哲学と思想、そしてより根底的には、偉大なる宗教が絶対に必要となるのであります。
 “調和”を実現するといっても、それは、権力によって、権力者が都合のよいように、文化の各分野に、干渉を加えることなどでは絶対にない。賢明なる大衆としての人間それ自身によってなされるべきことは、当然の理であります。
 しかし、現実には、人間は貪(むさぼり)瞋(いかり)癡(おろか)の三毒強盛の衆生であることも事実であります。もはや、この乱れた社会の人々を、現代の強大な文明を担い、賢明に使いこなしていける英知の民衆に変革することのできる、本源的な人間革命の大宗教が出現しなければならない。私は、これを日蓮大聖人の仏法であると主張するものであります。(大拍手)
 この人間主体の確立を基盤とし、機軸として、文化のあらゆる断面の“調和”が考えられなくてはならない。すでに述べた物質的所産と人間性との関係ばかりでなく、社会のなかにおける権力者と民衆の問題、職業や階級の問題、都市と農漁村、更に生産と消費、個人と社会、人間と自然等々の調和である。
 これらは、一つ一つ現代社会また文明の根本的な問題を秘めた重要な課題でありますが、詳細に論ずることは、ここでは略させていただきます。ともあれ、日蓮大聖人の色心不二の生命哲学、一念三千の大哲理は、完全無欠の円教であり、それ自体、壮大な調和の哲学であります。この仏法哲理こそ、これからの文化建設に要請される“調和”の原理の基盤であり、この仏法を実践し、社会と文化に応用化し、展開していく私たちの目指すものは、もっとも理想的な調和の世界の建設、これすなわち広宣流布であり、総体革命であると考えますが、皆さん、いかがでしょうか。(大拍手)
14  世界文化の創造が恒久平和の鍵
 これを更に開いて世界的な規模の問題としていえば、世界の各民族がそれぞれの独自の文化を発達させながら、人間性というもっとも深い基底において、地球民族ともいうべき普遍的な文化の世界に一つに融合しあっていくことでありましょう。
 私は、真実の恒久的な世界平和が実現されるかどうかの鍵は、この世界を一つに融合する全科世界の創造にあると訴えたい。過去の歴史においては、平和な統合体が樹立される過程は、必ず権力か武力によって進められてまいりました。アレキサンダーの大帝国しかり、ローマ帝国しかり、アメリカの発展もロシアの拡大も、みなそうであった。いま、この世界は核戦争による脅威からいっても、地球的規模に拡大し、密接に結びついている経済体制からいっても、更に、文明自体が直面している環境の汚染や破壊、すなわち公害という問題から論じても、一日も早く全体を統括する単位の実現が望まれております。
 しかし、もはやそれは権力や武力によってなされるべきではないし、できる道理もない。なぜならば、そこに生ずる摩擦は、人類全体の絶滅すら招く恐れがあるからであります。
 では、なにによって世界の統合が可能か。それは世界人類を一つに結び合わす世界文化の創造と発展であります。各民族の豊かな伝統文化を残し、更に生かしつつ、インタナショナルな文化が創造されなければならない。それには国家的、民族的次元とは異なる、より深い「人間」次元の開拓が不可欠であります。その新たなる世界文化の源泉となり、基盤となるものは、新たなる世界宗教――すなわち、日蓮大聖哲の三大秘法の仏法であります。この仏法の大地のうえに文化が絢爛と花開いたとき、全地球人類の一つに融合する理想的平和世界が現出するものと、私は強く確信したいのであります。(大拍手)
 この文化の創造にたずさわる者は、世界のあらゆる民族のあらゆる階層の人々でなくてはならない。いまここに、呱々の声をあげ、その先駆けとなって行動し、文化の旗をふりながら、混迷させる現代世界の暗雲に向かって持続の文化活動を開始したのが、私どもの団体であると、私は申し上げておきたいのであります。(大拍手)
15  地域広布の意義
 その偉大な理想をめざす具体的な実践として「千里の道も一歩より」の方軌にしたがい、私たち一人ひとりの住んでいる地域社会の開発、地域の広宣流布という問題に真剣に取り組んでまいりたいと思うのであります。
 すでに、皆さん方に提案し、決定をみたとおり、来年は「地域の年」と銘打ちました。昨年来、協調してきた「線から面への開拓」という戦いの具体的な実践の第一歩も、地域の広宣流布にあると考えるものであります。おのおのの地域社会を緑したたる心豊かな常寂光土にしていくことが、いかに地味であっても、確実な、一国ひいては全世界の平和につながることを知っていただきたい。
 阿仏房御書にも「阿仏房しかしながら北国の導師とも申しつべし」とあります。これは阿仏房に、その住む佐渡の地の仏方の導師たれ、と励まされ、北国における広布の使命を託された御文と拝するのであります。現在の富士市のあたりに住んでいた高橋入道に与えられた御書にも「其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ」と述べられた一節があります。
 広宣流布は、いつの時代にも、民衆から湧き上がる自主的な力によってなされるものであり、根本的には一個人の確立に始まり、その地域社会、更には一国、そして全世界へと広がっていくものであります。
16  民衆からの信頼が広布の第一歩
 日蓮大聖人ご自身も、当時の政都・鎌倉を妙法広布の急所として、そこに身をおいて戦われた。しかもご自分の命を奪われんとした竜の口について「相州のたつのくちこそ日蓮が命を捨てたる処なれ仏土におとるべしや」と申されている。
 この原理を私たちの実践にあてはめていえば、妙法広布のために全生命を懸けて活躍したところは、もっとも大切な仏土であり、常寂光土でなくてはならないと拝したい。
 二祖日興上人におかれても、大聖人ご在世中から富士の地の折伏に専心され、大聖人ご入滅後は、この地を末法万年尽未来際にわたる広布の根源地とされております。これがいまの総本山大石寺となっております。
 私たちも、この方程式にのっとり、ともかくその地をもっとも大切にし、そこに住む市民からあらゆる点で親しまれ、信頼されていくことが、その地域の広布の第一歩と確信されたい。
 文化の興隆という観点からいっても、庶民の文化は各地域の大地からおこってきております。もっとも身近な生活の場こそ、人間の文化を生み、はぐくむ母体であることは、昔も今も少しも変わりはありません。それは、人間が人間らしく生きようと防衛し、思索し、努力するところに生まれたものが、真実の文化であるからであります。
 文化の単位として、これまでは一民族、一国家が主体と考えられてきました。だが、すでに述べてまいりましたように、ナショナリズムの障壁を超えて、インタナショナルな文化世界の創造のためには普遍的な人間性の基盤にたって、文化というものが再構築されていかねばならない。
 その具体的な実践化が、私は地域社会の運動であり、そこに人間としての共感にたった意思と力の結集が行われていくとき、権力の論理に支配された狭いナショナリズムの壁をつきくずす、新たなる偉大な潮流になっていくと思うのであります。
 しかしながら現状では、地域社会といっても政治的には国家の下部機構と化し、民衆支配のための権力の鎖の下端であるといっても過言ではありません。これを住民の直接参加による共同体精神にたった地域社会へと転換していく必要があるのであります。そうでなければ、民衆自身の自治を生命とする民主主義の蘇生はいつになっても芽ばえない。問題は社会というものを封建時代そのままに“お上のもの”としてとらえるか、それとも“自分たちのもの”として、そのなかに生きていくかにあるのであります。
17  人間共和の故郷を築こう
 最近、公害問題などをとおして、いわゆる“住民パワー”といわれる市民運動がとみに盛り上がり、時代を動かす新しい力としてクローズアップされている。これなども、もっとも生活に密着した問題、人間的な勘定の共鳴を基盤として社会の再構成が行われようとしている一つのあらわれといえましょう。
 この時代の推移からいい、また社会というものの本来のあり方からいっても、それをリードすべき私たちの活動は、当然地域社会に根ざし、地域の住民と一体となったものでなくてはならない。この意味で私は、地域社会こそ広宣流布のもっとも具体的、現実的な実践単位であると申し上げておきたいのであります。(拍手)
 そのためには、学会の組織活動のうえにおける権限を漸次、地元組織に委譲し、自主的にそれぞれの地域の学会をつくりあげていく、という方式をとることになりましょう。地元組織としては、そうした活動を推進していけるだけのブロック組織の充実、人材の育成をお願いしたい。
 なお、基本的な考え方として、ブロック活動の場、地域社会というものを一般の人々との共通の対話の広場と考えていただきたい。地域社会の人々と一体となり、人々の幸福と地域繁栄のために、下から盛り上がった運動として、私たちの活動が展開されていったとき、それはまさに広宣流布の新時代の開幕といえるからであります。とともに、これこそ真実の“住民パワー”であり、ノンセクトの“人間党”の文化運動であるといいたいのであります。
 地域の広宣流布は、そこに住む人々の手で行っていくということ――それは誰のためでもない、自分たちのためであります。どこまでも自主的に、自分たちの力で進めていくという姿勢であっていただきたい。
 ただし、信心という異体同心の要は、絶対に失ってはならない。この一点を失ったならば拡散していく煙のようにはかない、核心のないものになってしまうからであります。どうか、自分自身のため、家族の方々のため、また地域の人々のため、仲よく楽しく“人間共和”というべき、民衆共同の故郷を築いていっていただきたいことを、私は特にお願いするものであります。(大拍手)
18  現代変革の原理
 最後に重ねて御書の一節を拝読したい。上野尼御前御返事にいわく「妙法蓮華経と申すは蓮に譬えられて候、天上には摩訶曼陀羅華・人間には桜の花・此等はめでたき花なれども・此れ等の花をば法華経の譬には仏取り給う事なし、一切の花の中に取分けて此の花を法華経に譬へさせ給う事は其の故候なり、或は前花後菓と申して花はさきあとなり・或は前菓後花と申して菓は前に花は後なり、或は一花多菓・或は多花一菓・或は無花有菓と品品に候へども蓮華と申す花は菓と花と同時なり、一切経の功徳は先に善根を作して後に仏とは成ると説くかかる故に不定なり、法華経と申すは手に取れば其の手やがて仏に成り・口に唱ふれば其の口即仏なり、たとえば天月の東の山の端に出ずれば其の時即水に影の浮かぶが如く・音とひびきとの同時なるが如し」と。
 妙法蓮華経をなぜ蓮華という植物をもって譬えたか。それは、蓮華が花と果実とが同時であり、因果倶時をあらわしているからである、との仰せであります。いうなれば、一切経の功徳というものは、さきに善根をなせば後に仏に成ると説かれているが、これは低い経文の説き方である。法華経に説く仏法の神髄の哲理は、因果倶時であり、それをたもつこと自体、すでに仏の所作である、と述べられているのであります。
 低い哲学、宗教は現実を離れた遠いところに理想を求めようとする。しかし、高度にして力ある哲学、宗教は、御書の「法華経と申しすは手に取れば其の手やがて仏に成り、口に唱ふれば其の口即仏なり」のごとく、この日々月々に振る舞う現実のすがたのなかに、理想の究極が秘められているとするのであります。
 すなわち、虚栄や観念を追うのでもなければ、現実否定の犠牲の哲学でもない。甘美な、幻想の夢にふける陶酔の宗教でもない。この現実を明晰にみつめた英知の哲学であり、人間それ自身の宗教であるということであります。
 哲学の不毛、宗教不信、そして精神の砂漠の現代にあって、再び万人の心を潤し、壮大な民衆文化興隆の発条となっていくものは、この蓮華の哲理、蓮華の宗教しかないのであります。正本堂という仏法史上未曾有の大殿堂の興る時、それは因果倶時で世界に未曾有の人間文化が勃興する時でもあり、またそれを私どもは確信したい。
 来年、一九七二年は、国際化時代の到来、アジアを中核とする新しい動向の時代の開幕等々、さまざまに論じられておりますが、詮ずるところ、国内、国外ともに揺れつづく激動の、原点模索の第一歩の年となるであろうことは間違いない。さまざまな情勢から考えて、確かに厳しい生やさしい時代ではないかもしれません。
 しかし、妙法をたもった私どもにとっては、この一年が将来の不運のコースを未然にとどめるかどうかの試練のときと考えたい。皆さんは、いかなる事態にあっても強固なる信仰と確信をもって、強風も追い風に変えて、社会のなかに燦然と輝く存在であってほしいというのが、私の祈りであります。
 どうか大聖人ご在世中の神四郎兄弟の殉教の精神を胸中深く秘め、しかも信心からほとばしる底ぬけの明るさをもって、ともどもに宗門の繁栄と学会の進展を更にめざされんことをせつにお願い申し上げ、私の話を終わります。

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