Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

広布への道程を展望して 大白蓮華

1971.1.1 「池田大作講演集」第3巻

前後
1  希望もゆる「文化の年」の新春を、全学会員の皆さんに、心からお祝い申し上げます。なかんずく、私どもが、新しい年を、洋々たる前途への喜びのなかに迎えることができるのは、ひとえに総本山に日達上人猊下が在すゆえであります。信徒一同、猊下がますますご健康であられますよう、祈るとともに、広布実現をめざし、異体同心の団結をもって、更に一層の精進を誓いたいと思うものであります。
 創価学会会長就任以来の十年、日達猊下のご慈愛につつまれ、会員の皆さんの、真心からのご支援により、掲げた構想は、全て見事な成果をもって成就することができました。そして迎えた昨年五月三日の総会において、新しい十年のスタートを切るにあたり、私は、広宣流布の本義を「妙法の大地に展開する大文化運動」と定め、それには、学会は「社会に信頼され親しまれる創価学会」でなくてはならないことを、全員で確認しあったのであります。
 その後、具体的に、いかなる目標を、どのように掲げて進むかについて、種々、検討を重ねた結果、その詳細について十一月度本部幹部会の席上で提案し、ご賛同を得ることができました。今、私は、この新しい段階への事実上の第一歩を踏み出す「文化の年」の年頭にあたって、今後の学会の進むべき道を、更に内容的に掘り下げて考えてみたい。
2  後世に誇る精神文明の基盤築こう
 いうまでもなく、広宣流布の根本は三大秘法の御本尊を受持せしめていくことにあります。私どもは、末法広布のために生まれた地涌の菩薩の眷属であり、この根本の自覚、使命感、誇りは、いかなる立場になったとしても、永久に忘れてはなりません。したがって、その信心の実践、末法救済の使命の遂行という、おのおのの自覚のうえから、布教、折伏のたゆまぬ前進は続けていかなくてはならない。だが、数をあわせるのではなく、どこまでも御本尊を大事にし、折伏にあたっては、十分に相手を納得させ、生涯、御本尊を受持しきる決意の人にのみ下附されるのが、信仰の正しい行き方であることを、つねに再確認していきたいと思います。
 広宣流布とは、宗教革命であり、思想革命であります。その宗教、思想とは、日蓮大聖人の大仏法、色心不二の生命哲理です。布教、折伏というも、この宗教、思想革命の実践にほかならないといえましょう。
 特に、これからは、大聖人の仏法を現代的に展開していく戦い、また、仏法をその底流として、現代の思想界の舞台で、力強く正義の言論を繰り広げていく戦いが大事になってまいります。一冊の書物がもつ力は、時間と空間を超えて、深く人々の生命のなかに浸透し、やがて時代と世界を動かすにいたるのです。
 今後のビジョンにおいて、私は、御書講義録をはじめ種々の書の執筆、刊行計画を発表しましたが、そうした事業にたずさわる人々を、皆で理解し、支援してあげていただきたい。そして、後世に誇るべき、思想文化、精神文明の基盤を築いておきたいと思うのであります。
3  世界平和へ万全の体制を
 次に、海外の問題について申し上げますと、昭和四十七年の正本堂落成、それを慶祝する登山のために、世界各国から多数の同志がやってまいります。これによって、世界各地に、妙法流布の意欲が高まり、新しい時代が開けていくことは必定であろうと思います。少なくとも、私どもは、そうした機運の盛り上がりと、世界の人々から寄せられる、あらゆる要請に応えうる体制だけは、万全を期して確立しておかなくてはならないと考えます。
 たとえば、御書通解の翻訳も必要でしょうし、どこの国へでも、指導担当として行けるような人材も育てていきたい。それには、語学はもとより、その国の人情、風習、思想、体制にいたるまで、一切をマスターしている人でなくてはなりません。
 ただし、あくまでも、それぞれの国の実情に応じ、その国の自主性を尊重していくべきです。活動の中心者もやがてその国の現地の人たちを立てていくことになるでしょう。指導担当は、あくまで陰で支え、助言し、推進していく立場です。その活動の目標、理念も、その国の民衆を守り、幸福と繁栄を増進することにおかれるべきであります。日蓮大聖人の仏法流布の根源地は日本でありますが、大御本尊は一閻浮提総与であり、御本仏の慈悲は、あらゆる人々のうえに平等である、との原理が、永久に貫かれていくべきであります。
 仏法の“本国”が日本だからといって、日本の利益のために、いかなる国の民衆も犠牲になるようなことがあっては断じてなりません。
4  民衆とともに総体革命めざそう
 以上の宗教運動、すなわち「妙法の大地」を確立する戦いを根底として、社会、文化のあらゆる面にわたって、新しい人間勝利の世紀を志向する、広範な変革と建設の運動が展開されていかなければなりません。
 広宣流布は、宗教、思想の運動であるとともに、社会、文化運動でもあります。宗教・思想は、それ自体としては、みえざる精神の世界の変革であり、それは必ず、現象界としての社会・文化の変革、建設にあらわれてくるものでなくてはならない。これが、色心不二、依正不二の原理であります。
 また、個人における人間革命、生活革命を土台とし、教育、経済、政治、文学、芸術、科学等のすべてを網羅した“総体革命”が具現されなくてはなりません。たとえば、政治の分野では、学会を母体として生まれた公明党が、すでに、わが国政界で第三党の地歩を築くまでになった。学会の政治部から出発し、党を結成し、今日の姿になるまで、学会としても、各種文化活動のなかでもまず最初に力を入れきたことは事実です。
 このことは、全学会員が社会に眼を開き、また大衆のなかに民主政治が根を下ろすという点で、大きい意義があったことは認めなくてはなりません。しかし、これからは、総体革命を進めていくという観点からも、政治の分野に偏重する行き方であってはなりません。公明党がその分野で第三党になったと同じく、婦人運動として主婦同盟、教育の分野では創価大学、創価学園、創価女子学園等、また、大衆の音楽運動として民音等々が、それぞれの世界で第三勢力として発展していくことが望まれます。
 その場合、誕生、育成にあたっては、もちろん、できるだけの応援はしますが、ひとり立ちできるようになり、また、客観的にみて、当然ひとり立ちすべき時がきたら、独自の力で運営されていくようにするのが正しい。
 ただし、それぞれの組織運営の原則は、民主的方法にのっとって行われるべきであり、あくまで民衆の側に立ち、民衆のために新しい文化の建設をめざしていくのだという大目的を忘れてはならない。理想を忘れ、民衆から遊離し、醜い内紛におおわれたときには、もはや存在する価値なしとして、即時に解散すべきであると考えます。
5  慈悲の精神で社会に貢献
 広宣流布とは、生命の尊厳に貫かれた、最高の文化、社会の建設であり、人間の世紀、生命の世紀の具現であります。したがって、文化、社会のすべての分野にわたって、活動していかねばならない。いずれの分野といえども、これは不要であるというものはない。どれかのために、他のものが犠牲にされてよいということはありえない。どれが“本流”で、どれが“支流”ということはありません。
 いかなる立場であれ、広宣流布のためを考えて真剣に戦っている人に対しては、心から激励し、支援し、守りあっていくのが、異体同心の、仏法の団結であると申し上げておきたい。異体同心の“心”とは、三大秘法の仏法を信ずる信心であり、広布という究極の目的、理想をめざす心であります。異体とは、各人の社会的立場、特性、能力が異なっていることであります。異体でありながら同心。同心を基盤とした異体。この見事な調和と、あらゆる力の総合によって、初めて広宣流布の偉業は成就されるのであります。
 個人の人間性を殺したファシズムの強制的集合とは本質的に異なる、民主主義のうえの自主性をもった“団結”が、ここに確立されていくといえましょう。
 仏法、信心という次元においては、いうまでもなく、価値の究極の実在は三大秘法の大仏法に集約される。だが、学会は在家の信徒の団体であり、その目的も、この仏法の理念、哲理を社会に開いていくことにある。それが広宣流布であり、そこにおいては、いわば“価値の多元化”ということが認められなければなりません。
 また、こうした文化運動、社会運動の展開にあたって心しなければならないことは、それは決して学会の勢力拡大の手段ではないということであります。確かに、そうした活動の成功は、学会に対し理解を深め、認識を高めていくことでありましょう。しかし、それは結果としてそうなるというのであって、出発の動機と基本理念は、どこまでも現代社会を救い、新文化建設、人類文化の蘇生に貢献する“慈悲”の精神でなくてはなりません。
 御書にも、古今の賢主、名君といわれた人々は、慈悲をもって政治にあたったがゆえに、たとえ仏法をたもっていなくとも、しぜんに仏法の精神を行じたことになると説かれております。社会への貢献、民衆救済の精神の実践は、それ自体が仏法に通ずるものであります。社会即仏法であり「一切世間の治生産業は皆実相と相違背いはいせず」というのは、まさにこの原理を示されているのであります。
6  仏法の極理は秘妙方便
 日本人のものの考え方の悪い癖として、本音と建前ということがある。仏法にも内証と外用という考え方はあるが、この本音と建前というのとは違います。
 たとえていえば、もったいない話でありますが、日蓮大聖人が国主諫暁をされ、大折伏をなさったのは、外からみれば地涌の菩薩のお姿であります。しかし、そこに貫かれる内証の辺は、本地自受用身の生命である、すなわち、全民衆救済への真剣勝負の戦いを通じて内証を顕されています。
 仏法の極理は秘妙方便です。方便とは単なる手段ではない。一切法即仏法の関係です。私どもにおいても、仕事、生活、また社会的、文化的のどの活動も、なおざりにされてよいものはなく、それに真剣に取り組まないのは、仏法を正しく行ずる姿では断じてないということを、わかりきったことのようですが、再確認しておきたい。
 社会の場での戦いは、信用の積み重ねが大事です。それには、誠実、誠意、真心以外にない。せっかく、あるところまで信用を積み重ねても、ひとたび、それに背くようなことがあれば、とたんにゼロになってしまうだけではない。次にそれを再建し、回復しようとしても世間は信じなくなってしまう。社会という場での戦いは、それだけ厳しいということを知らなくてはならないのでありましょう。
 更に大事なことは、こうした活動にあたっては、下からの盛り上がりを大切にし、皆の力で築いていくということです。
 今日の学会をあらしめたのも、一人ひとりの誠意と善意が結集されたからにほかなりません。地涌の菩薩も下方から湧現したものであり、自覚ある庶民の活動こそ強く尊い。いわんや、すでに七百五十万世帯とという磐石の基礎もでき、これからは、広く社会に開いていく段階に入った。それには、あくまで、下からの盛り上がりを重んじていかなくてはなりません。
 いかなる見事な成果も、人々の自主的な意志と力の結集によってなされたものであって初めて“生命”をもつのであります。そうでなければ、民衆自体のなかに、社会のなかに運動を展開することはできません。当然、その自主性は、広宣流布に向かう一念より生ずるものです。広宣流布という大目的を忘れたならば、一切空転してしまうことを銘記したい。
 現代社会においては、人々の自主的なエネルギーによってなされたものに、なによりも高い評価が与えられるのです。したがって、社会のなかで勝利を収めていくためには、幾多の試行錯誤も必要でありましょう。
 社会的活動は、相対性の世界であり、絶対ということはありえない。失敗は許されないという、オール・オア・ナッシングの考え方は捨てて「失敗は成功の母」というぐらいの気持ちで、粘り強く取り組んでいくべきでありましょう。
 ともあれ、自覚に立った下からの盛り上がりを重んずることは、大聖人の仏法として当然のことであり、ここに、真実の仏法が、民衆の時代にこそ流布し、その骨髄となっていくゆえんがあるといっておきたい。
7  人材を育成し広布へ前進
 なお、こうした多角的な活動の展開にあたって、画竜点睛ともいうべきことは、人材の育成、輩出である。創価学会が創価教育学会から出発したように、その未来の姿も、次代を担う人材を育てる“教育”をもって、本義を全うするといえましょう。創価大学をはじめとする教育事業の振興は、その一環でありますが、もとより“教育”とは、学校教育のみに限るものではない。学会の真髄の理念が“人間革命”に表徴されるように、創価学会のあらゆる活動は、すべて有能にして高潔な人材を教育、育成し、社会に輩出していくことでなくてはなりません。
 創価学会が社会に開かれた宗教運動を展開しつつあるとき、社会そのものもまた、仏法を求める機運をしだいに高めつつあります。世界的にも、十九世紀を風靡した思想、哲学は、時代の急速な変転に取り残されて挫折し、科学的合理主義も、核兵器の出現、公害問題などをまねき、その権威の座は大揺れにゆれております。
 科学主義に屈従し、宗教に対して極端なまで忌避してきた日本の知識階層も、人間とは何か”ということから、宗教に着目せざるをえなくなってきたようです。
 時代は、一見、混沌としているようであります。しかし、それは単なる混沌でありません。すでに偉大な宗教の大河が流れているからです。一九七〇年代は、選択の時代ともいわれています。それは、各人の自覚の時代ということでもありましょう。人々が何を選択するか、何を自覚するか、それは歴史の審判を待つ以外にはありません。
 しかし、私は、人が鏡に向かえば、逆に鏡がその人の姿を映し出すように、御本尊に照らされて、必ずや広布の機は、いよいよ熟してくることを信じております。
 最後に、広宣流布大願成就への使命と決意を、恩師戸田城聖先生の歌によって、更にさらに深く胸に刻み、前進の糧としてまいりたい。
  妙法の 広布の旅は 遠けれど
    共に励まし 共々に征かなむ

1
1