Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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人間と環境の哲学 「東洋学術研究」

1970.10.25 「池田大作講演集」第3巻

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1  公害問題は、いまや全地球的規模で進行し、人類の生存をすら脅かすにいたっている。その惨状は、いまさら、いちいちあげるにもおよぶまい。毎日の新聞や雑誌、そして専門研究者の著書を読めば、だれしも、不安と憂慮と、そして、憤りをおぼえずらはいられないであろう。人類は、自らのつくりだした文明によって、確実に健康を破壊し、寿命を縮めている。
 確かに、現代文明を代表する科学技術、高度の産業体系によって、少なくとも先進工業社会は、人々の物質的要求を満足させられるようになった。それは、人間が環境、自然を征服し、破壊し、支配することによって得られたものである。しかし、人間の貪欲と、あくなき征服欲によって破壊された自然は、もはや二度と、元のままの姿にはもどらない。
 樹齢幾百年の原始林も、開発という美名のもとに、またたくまに伐り開かれ、野鳥や愛すべき小動物たちは、次々と死滅してゆく。そのうえ、ひっきりなしに撒き散らされ、たれ流されている廃棄物は、大気を汚染し、河川や海を汚濁させる。こうした、破壊され、汚染された環境が、じつは、我々人間の生命に強く影響し、これを形づくっていくのである。健康を害し、寿命を縮めていくのも当然というものであろう。
 この公害問題について、多くの人は、単に局部的な現象であり、一部の道義感を失った企業家の横暴がもたらしたものと考えているようである。もちろん、さし迫っての問題としては、事実その通りである。だが、それさえ解決されれば、おさまるという簡単な問題ではない。私は、文明それ自体の根底的な姿勢にこそ、この問題の淵源があると考える。
 それは、自然は破壊し征服されるべきものであり、どのように破壊しても、それなりに調和を保っていくのだとする楽観論であり、人間こそ宇宙の一切に君臨すべく資格を与えられた“万物の霊長”であるとする、勝手きわまりない“人間生命の尊厳”観である。人間存在と自然との関係についての、誤った考え方に、抜本的なメスが加えられねばならない。
2  欧米のキリスト教文化が、人間ならびに自然の関係性について、そのもっとも本源的な考え方の原点としてきたのは、聖書のそれであろう。すなわち、旧約聖書の「天地創造」の章に、神は、神自身の姿に似せて人間を創り、これをこう祝福している。
 「産めよ、殖えよ、地に満ちよ。地を支配せよ。そして海の魚、空の鳥、地に這うすべての生き物を従わせよ」(中沢洽樹訳)
 人間は神の似姿――ということは、神を信ずる人々にとって、人間こそ、あらゆる生物のなかで、もっとも尊き存在であるとする、大事な論拠である。また「地を支配せよ。……すべての生き物を従わせよ」と神がいったことは、人間こそ、この地上の支配者であり、他のすべての生物は、人間に従い、仕え、養うために存在するのだということになる。
 欧米のヒューマニズムを論ずる場合、多くの引き合いに出されるのは、古代ギリシャの文化・思想である。――それは、芸術・学術に関するものがあって、より本源的な人生・生活に結びついてきたヒューマニズムは、まさに、この旧約聖書の教えが、原型になっていると思われる。
 肉食を主体とする欧米人の生活において、一切の生き物は、人間に奉仕するために、神によって作られたという考え方が、広く支持を得たことも、むしろ自然の成り行きであったろう。いな、食生活ばかりではない。自然それ自体、人間に征服され支配されて、初めて神の意志に叶ったものとなる――。人間もまた、自然を征服し支配することが、神の意志にそった行為なのである。
 元来、聖書の思想が形成された国土は、砂漠あるいは半砂漠の厳しい世界であった。生きるために、人間は、たえず自然と対決しなければならない。砂漠の民族のあいだでは、たとえ相手が見も知らぬ人であれ、困っているときは助け、宿を提供して歓待することが“掟”となっているという。これも、厳しい自然に生きる、人間の生み出した知恵といえまいか。
 ヨーロッパの気候風土も、砂漠でこそないが、大半が千古の森林に蔽われ、土地は概してやせていたという。地中海に面した南部は別として、ヨーロッパの歴史は、ほぼ十二、三世紀にいたるまでは、開拓の歴史であったようだ。人間に征服されない、支配されない自然は、恐ろしい狼などの野獣や“悪魔”がひそむ「暗黒の世界」であった。これを伐り開き、農地とし、文明の光をあてることは、神の王国を広げることであり、その労働は、神への奉仕にほかならなかったであろう。
 同じ、征服・支配の論理は、近世君主制時代の、世界を征服していった行動のなかにも、明らかに認められる。地理的大発見の情熱に燃え、巨財を手にしたいという野心にとりつかれ、勇敢な男たちは、世界へ乗り出していった。彼らは、行く先々、すでに先住民があり、立派な国家を築いているにもかかわらず、キリスト教国の先着者がいないかぎり、まるで、それが無人の土地であるかのように、所有権と支配権を主張したのである。
 インカ帝国や、インド、中国のように、高度な文明国に対しても、彼らは、その民族を人間とはみなさなかった。したがって、人間としての権利を認める必要など毛頭なく、金や銀、香料、ゴムをとるために、牛馬のごとく酷使し、自分たちのために仕えさせればよいと考えたのである。
 ヨーロッパの世界他民族に対する征服、支配の論理は、二十世紀半ばにいたり、植民地開放運動によって挫折した。そして、今日、人種問題等によって、更に厳しい報復をうけているともいえそうである。
3  ところで、現代の欧米文明を特色づける、科学技術のめざましき発展も、やはり、以上に述べた、征服と支配の論理から生まれたものである。つまり、未知の真理の世界を征服し、支配しようとしたところに科学の発達かあり、その科学の力を応用して、自然と人間を征服し、支配しようとして、技術の進歩がもたらされたわけである。自然を征服する技術は産業であり、人間を征服するための技術は軍事力となった。征服と支配の哲学から生まれた、それらの科学、技術が、いま、自らを滅ぼす恐るべき脅威となってふりかかっているのだ。それは、この征服と支配の、哲学の底にある、人間の傲りと独善の破局であり、人間存在が、宇宙の万物に支えられているという関係を無視した、必然の結果であるといってよい。
4  人間は、いまさら、事あたらしくいうまでもなく、それ自体、自然のなかの一つの生物である。生命体としての、その機能の大部分は、他の生物のそれと全く変わらない。他の生物が、環境によってその住む所を決め、おのずから独特の生息分布図を描き出しているように、人間の体か対応できる自然の条件も、厳しく制限されている。砂漠の住民だからといって、水なしで生活はできない。エスキモーだからといって、防寒具なしに零下何十度の寒気で生きられる道理もない。
 ただ、人間が、このように、地球上、さまざまの条件の土地に住みつけられるようになったのは、その知能と技術によって、自然の条件を巧みに生かして、生存に可能な環境をつくりあげたからである。
 人間は、進化論的にいって、もっとも進化の頂点にある生物てあろうが、環境と無関係に独立して生存できるものでは決してない。むしろ、その生理的な適応能力は、他のどの生物よりも弱いとさえいえるのではないだろうか。
 人間は、環境によってその生命を形成し、環境の条件によって生存を支えられている。この環境は、空気や水、大地といった非生物的環境と、他の動植物によって形成されている生物的環境、そして人間がつくっている社会的・文化的環境に分類できる。それらは、相互に微妙な調和を織りなし、総体としての環境をつくっている。そして、人間は、その総体としての環境に調和することによって、健全な生命活動を営むことができるのである。
 たとえば、日本は四季の変化がある。冬は氷点下まで気温が下がり、夏は三十数度にも上昇していく。自然環境の変化を直接に肉体にうけては、人間は生きてはいられない。そこで、夏は熱を発散しやすいように薄着をし、冬は体温を保持するために厚着をし、更に火などにより暖をとる。着物や火は人間がつくった文化的環境である。それを四季の変化に合わせて使い分けることにより、肉体の機能と調和した環境総体をつくりだしているわけだ。
 しかし、体そのものにも、こうした環境の変化に合った適応をする――機能がないかといえば、そうではない。獣にも、秋から冬にかけては毛がふさふさと密生し、春から夏になると脱毛して薄くなる現象がみられるように、人間の体も、季節の変化に応じたリズムがある。それは、何十万年、何百万年の歴史を通じて、その遺伝因子のなかに刻みつけられたものであろう。
 今日、近代的なビルは、ほとんど冷暖房完備である。人々は、夏の暑さも冬の寒さも関係ない――調整された気温のなかで、仕事をし生活することができる。これは肉体的な不快感をなくし、仕事の能率をあげるために、人工的につくられた環境である。とすれば、それは感覚的に快適であると同時に健康にももっとも有利な環境であるはずだ。ところが、その冷暖房が、ビル病とか冷房病と呼ばれる、新しい“文明病”を生みだしている。気管支をいためたり、頭痛がしたり、腰や関節などが痛むという症状である。
 これは、体自体が、夏は暑さに対応するよう機能し、冬は寒さに耐えられるように働くという、四季のリズムをもっている。ところが、環境だけが体のリズムとは違った変化をしてしまったのである。このアンバランスが、病気にかかりやすい状態をつくっているのだと考えられまいか。
 我々は、単に肉体的に環境の影響をうけるだけでなく、精神的にも大きな影響をうけている。秋に物悲しさや寂しさをおぼえるなどというと、現代の都市生活しか知らぬ人は笑うかもしれない。だが、大自然の蕭々たる、秋の気配のなかに身をおいたとき、そうした感慨は、だれしも禁じえないであろう。わが国の古典文学は、そうした、四季の変化と人間の心とが奏でゆくハーモニーであるといっても過言ではあるまい。
5  大自然は、先述した“非生物的環境”を基盤としつつ、あらゆる“生物的環境”が不可分の関係で結合した、一つの壮大な生命の環である。人間もまた、この複雑にからみあった連鎖の、一つの環にほかならない。物質は、この環から環へ循環しており、生命の機能によって分解されないかぎり、次次と移っていく。また、一つの環の破壊は、隣接する環の破壊につながり、ひいては全体の調和を乱すことになる。
 生態学者の説によると――この生命の環の破壊もまた、文明の進歩とともに始まり、進行してきた。幾つかの動物が絶滅し、今は、多くの野生動物が、特別に保護されなければならなくなっている。
 ちなみに、肉食獣と草食獣の関係を考えてみよう。自然のままの状態では、草食獣のいるところには、必ず、肉食獣がいるものである。草食獣は繁殖力は強いが、それを食べる肉食獣がいるので、異常に繁殖することは、まずない。ところが、人間は、そうした草食獣を家畜とし、牧畜を始めた。当然、そうした草食獣は大事な財産であったから、それを襲ってくる肉食獣を目の敵にし、次々に殺していった。こうして絶滅した猛獣には、わが国の狼や、ヨーロッパ南部から中東にいたライオン、アフリカでは北部のバーバリ・ライオンや、南部のケープ・ライオンなどがある。
 肉食獣が姿を消すと、草食獣、特に家畜化されていない小動物が、ぞんぶんに繁殖していった。彼らは、草を根まで掘り返して食べた。むき出しになった大地は、風雨にさらされ、栄養分も流され、岩肌の露出した荒地と化してしまった。名作「嵐が丘」の舞台となった、スコットランドの荒涼たる高地は、じつは、本来のスコットランドの風土なのではなく、人間の文明がもたらした、無残な破壊の傷痕であるという。
 一年近く前――新聞に、富士山の原生林が、一本の道路のために次々と枯れ始めた、という記事が出ていた。それは、その道路を走る自動車の排気ガスのためではなく、樹々が互いに助けあって生命を維持していたのを、一本の道路が、無残に断ち切ったので、次々と枯死を始めたのだということであった。これは、植物同士の、生命の連鎖の一例であろう。
 もちろん、こうした連鎖関係は、生物同士だけに限られるものではない。さきのスコットランドの例でもわかるように、無生物の土地、地形、更には気候にまで、その影響は及んでいく。森林の乱伐が、山崩れや洪水のもとになることは、日本人にとってはたえず経験させられてきたことである。
6  ただ、単なる破壊の場合には、生物に、復元能力あるいは修理能力ともいうべき力があり、一つの環が――壊れれば、それに適応した全体系をつくり直してきた。そのゆえに、人間も、その変化による損失をうけるだけで、自らの存在に危機をおぼえるような、決定的な打撃はこうむらないですんだのである。ところが、科学技術文明は、この自然の連鎖のなかに、本来、生命体の関与するのとは全く異質な、しかも、恐るべき害をもった物質を投入しはじめた。殺虫剤などの化学物質がそれである。
 生命体をつくり、動かしている物質の構造、機能というものは、動物であれ、植物であれ、だいたい同じてあるといってよい。それだからこそ、生物は互いに依存しあい、連関しあっているのである。殺虫剤にせよ、除草剤にせよ、ある生物の生存を妨げる以上、それは、程度の差こそあれ、他のすべての生物にとって有害なものであろう。
 しかも、そうした薬剤の主成分である化学物質や重金属は、分解したり、消滅することが少なく、つながりあっている生命の流れにしたがって、どこまでもついてまわり、害を及ぼすことになる。DDTやBHCといった殺虫剤が除草剤に吸収され、それを食べた牛の体内を通じて、牛乳の中にも検出されているのは、その一例であろう。
 また、水銀は、多くの農薬に使われてきており、穀類にも、かなりの量が含まれている。そうした水銀を含む米を、主食としている日本人は、すでに、緒外国の平均値に比べて桁外れにたくさんの水銀を体内に蓄積していることが明らかとなっている。――多くの学者は、このまま進むと、何年か後には、日本人の大半が、水俣病患者になるであろうと警告している。
 この、巨大な、生命の環というものを考えるならば、そして、人間をまた、その環をつくり上げている一部分であることを思うならば、もはや、人間と自然とを、主体と環境というように対置させることすら不可能になってくるようだ。自然を汚染することは、人間を汚すことであり、自然を破壊することは、人間自身を破滅させることである。
 人間は、自然を征服した。そして、支配し、自分の力で、新しい環境をつくってきた。今日、まったく自然のままの自然環境というものは、地球上にはほとんど存在しないまでになっている。一見、自然そのままと思われるものでも、間接的には、なんらかの人工の影響をうけているものだ。
 なかんずく、都市社会においては、ほとんどが人間の手によってつくられた環境であり、わずかに残った自然も、人工的に改められた自然である。文明の進歩は、こうした人工的環境の占める比重を、ますます増大していくことであろう。その場合、人間は、環境をつくり、変えるのと同時に、その環境が、人間をつくり、変えることも、常に忘れてはならない。
 人工たると自然たるとを問わず、総体としての環境は、そのまま人間存在と一体である。人間個々の不幸というものも、しょせん、環境と自分という主体との不調和から生ずるものであり、ひいては、人間存在としての自己の本性が、ゆがんた環境のため、本来のあり方から改変を余儀なくされることによって生まれる感情なのである。
7  現代文明の病ともいうべき“公害”は、自然の破壊と汚染の結果であるが、その解決は、あくまで、人間そのものへの正しい認識から出発しなければならない。これを無視した、環境に対する技術の面だけの処方は、必ず新しい欠陥と病を生ずることになってしまうであろう。つまり、現象面だけの小手先の治療ではなく、文明それ自体の“体質”をつくり直すことから始めなければならない。
 これまでの文明の姿勢を、決定づけてきたものが、きわめて宗教的な信念に裏打ちされたものであったように、この新しき調和の姿勢を決定づけるのも、宗教的な特質をもったものとなろう。人間と自然との調和を主張するルネ・デュポスは、その著「人間であるために」のなかで、次のごとく述べている。
 「我々が心のなかに、人間の目標は自然の征服であり、人間精神の征服であるという考えを持っている間は、世界を変革することはできない。こうした態度を変えることはやさしいことではないだろう。自然の支配と限りない成長とを探究することは、ひじょうに刺激的でほとんど陶酔させるような雰囲気をもたらすのに反し、安定を目指すとほのめかしただけで無関心をうむだけである。このために、新しい社会倫理――ほとんど新しい社会的宗教といってもいいようなものを採用しなければ、われれのやりかた全般をとても変革できない。この宗教がどんなかたちをとろうと、それは支配の野望に駆りたてられているのではなく、自然とも人間とも調和するのにもとづかねばならないだろう」
 彼は、そうした根本的な姿勢の転換を、実現するために、ネオ・ヒポクラテス主義を提唱している。
 すなわち、人間の肉体的、精神的性向に対して、その環境である気候、地形、土壌の構成、水質など、いわゆる「空気と水と土地」が、密接に関係しているとした、古代ギリシャの医聖ヒポクラテスの思想に還れ、というのである。
 また、一切を原子アトムに分析したデモクリトスの考え方から「万物は流転する」と唱えたヘラクレイトスのそれに戻らなければならない、ともいっている。こうした、ヒポクラテスや、ヘラクレイトスの考え方は、いわゆる東洋的な思考法とされて、特に分析的な方法が盛んになった近代科学においては、まったく相容れないものとされたきたのであった。――それが、現代にいたって見直され、更には、東洋の哲学に還り、そこから新しい指導原理を導きだそうという声さえ聞かれるようになっている。
 事実、東洋においては、インドのバラモン哲学にせよ、老荘の思想にせよ、ヒポクラテスや、ヘラクレイトスの思考より、はるかに深く、広大に体系化していると思う。しかも、そのなかで、最高峰をなしているのが、大乗仏教の法理である。と私は思っている。
 人間と環境との関係について、仏法では、依正不二ととらえていく。依正不二とは、依報と正報とが、不可分の一体をなしているということで、正報とは生命主体であり、依報とはその生命体を形成し、その活動を助ける環境世界である。――生命主体とその環境とは、一応、概念として分けられるが、これらは相互に密接に関係しあい、一体をなしているのである。
 これを、更に体系化いた哲理に、一念三千がある。一念三千とは、生命の当体を三千の範疇に分析して論じたもので、仏教の生命哲理の極説とされている。これを詳説することは、煩雑になるので略させていただくが、そのなかに、三世間といって、五陰、衆生、国土があげらている。
 五陰世間とは、個々の生命を、生理的、心理的にみる見方、衆生世間とは、社会科学的な見方といえる。国土世間とは、その生命にとっての、自然環境との関係性の側面といえよう。生命の実像を、このように、国土世間も含んだ一念三千ととらえることは、自然、環境も含めた総体を、生命とみるということにほかならない。
 仏教の思想が、草木や、石ころ、砂の一粒にも仏の生命の実在を認め、一切尊極の当体とする哲学的根拠は、この一念三千の哲理にあるといってよい。仏法の眼からみるならば、この自然の万物の活動それ自体、いな、宇宙それ自体が、妙法の発現であり、仏性の働きなのである。
 環境と調和するということは、環境のなかに自己の主体を滅することではない。調和のなかに真実の主体性を確立していくのでなくてはならない。
 環境と調和しつつ、しかも主体性を確立していくためには、これを支える確固たる哲学的、思想的基盤がなければならないだろう。私は、こうした基盤となりうる哲学、現代人の心をとらえ、未来への力強い前進の指導原理となりうる、ルネ・デュボスのいう“新しい社会的宗教”は、大乗仏教の哲理以外にないであろうと確信している。

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