Nichiren・Ikeda
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1 「世紀の祭典」と銘打って、青年部主催の第一回体育大会が開催されたのは、昭和二十九年十一月七日のことである。前日来、心配された天候も、その日は晴天であった。
下高井戸の日大グラウンドは、午前九時半から、一万前後の青年と観客(当時としては、これでも多かった方であろ)で賑わった。競技は、夕方まで、熱戦が展開された。
――いうなれば、この日が、いま壮大に行なわれている文化祭の源流であったといえるかもしれない。
広宣流布とは、最高の文化活動である、と伸一は、つねづね信じていた。その結実として、彼は、体育大会の開催に向かって、一人奔走したのである。
先輩の理事達の理解は、全くない。青年部首脳達も、学会活動の支流であるとして、面倒がって、なかなか腰を上げない。伸一は、悩んだ。そして、戸田城聖に相談したのである。
「よかろう。反対が多いのであるならば、自分の力で、自主的に進めたらどうか。僕は見に行ってあげる。やれるだけ、やってみ給え」
未来を指さす青年の朝を、彼は信頼していたに違いない。
当時の学会の体制からみるならば、これに時間をさくことは、並み大抵のことではなかった。――まず資金がない。目標がない。
伸一は、幾度となく、青年部首脳に働きかけ、広宣流布という理念の上から、その必要性を力説した。それで、彼らも、ようやく覚醒し始めたらしい。
青年部の幹部は、ポマードやクツ下を安く購入しては、それを売り歩いた。そして、会場費ならびに設備費、運営費等を、やっと生み出したのである。
その日の戸田城聖は、笑みを満々とたたえ、若き弟子達の競技を、一日中、楽しそうに観覧していた。
今思えば、小さい行事にみえるかもしれぬ。しかし、伸一の胸には、それが無限の未来を開く、新たなる革命への出発の日であると、鮮明に映っていた。
2 五月三日は、鼓笛祭――。
数千の名士が、日本武道館に、自らすすんで鑑賞したいと希望していると聞く。いよいよ、世界の鼓笛隊が、文化大運動の晴れの檜舞台に出場する記念の日でもある。世界文化の使者としての、君達の幸福と成功を祈ってやまない。
各地の文化祭で、圧倒的な人気のある鼓笛隊の誕生は、昭和三十一年七月二十二日であった。その時の隊員、わずか三十三名。今は、全世界、約二万二千名に成長。このなかより、どれほどの広布の女性リーダーが輩出していったか、その実績は、誰もが賛嘆するところであろう。
この、誕生の日の中心指揮者は、Hさんであった。今は、ある芸術家と結婚して、幸福な生活を送っている。そして、鼓笛隊の育ての親として、今なお、愛情を込めて、その成長を見守っていることに、私は感謝の言葉を送りたい。
鼓笛隊の練習場に、かつて、伸一は、幾度も応援に行った。名もなき、庶民の一家庭の妹達は、何の屈託もなく、若鮎の如く、はしやぎ、すくすくと、人間的にも、技術的にも成長していった。
真の人間としての、また青春としての勝利の道を、けなげに進んだのは、彼女達である。学校の合い間、職場の合い間を縫っての、厳しい自己の修練の姿に、父兄が喜び、暖かいまなざしを送ってくれたのは、何よりも嬉しかった。
3 正月の休日のある日――。法悟空は、青年部幹部とともに、ある会場へ向かった。寒い日の夕方であった。車で明治公園のを通り過ぎようとすると、数十名の普段着の乙女らが、姉妹の如く、仲良く、何かしていた。
法悟空は、二人の青年幹部にいった。
「ことによると、鼓笛隊の人達かもしれない」
「いや、違うでしよう」
それでも、法悟空は気にかかった。
「会場に着いてから、確かめてくれ。もし違えば、それでいい。しかし、そうであったならば、お菓子でも買って、差し上げてくれ。確かめなければ気がすまない」
会合が終わって、うけた報告は、まさしく鼓笛隊であった。
はつらつと 乱世に光 鼓笛隊
鼓當隊 乙女の乱舞に 幸の歴史