Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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沖繩広布の朝ぼらけ  

「池田大作講演集」第3巻

前後
1   ゆらゆら ゆーら
  ゆうなの花は
  さやさや風の ささやきに
  色香も染るヨ ゆーらゆらゆら
  
  ゆらゆら ゆーら
  ゆうなの花は
  おぼろの月に いだかれて
  色香も匂うョ ゆーらゆらゆら
 沖繩民謡の″ゆうなの花”の哀調を帯びたレコードが、雪山坊の部屋に流れている。守礼の国、沖繩の友を偲びながら筆をとろうとした時、伸一の妻・峯子がかけてくれたのである。それは一昨年二月、沖繩指導の帰りに戴いたものであった。雪山坊の時計は、夜の十二時に近い。
 猊下より賜った″姫リンゴ”の花びらが、真自に、品格高く咲き開いている。
2  戸田城聖は、沖縄に行ったことがない。だが、沖縄の物語りをよく伸一に聞かせてくれるのであった。その一つに、有名
 な″椿説弓張月”がある。
 物語りは、源為朝が九州を攻略して、保元の乱で奮闘したが、武運つたなく敗戦。大島へ流されていく。武勇の誉れ高き為朝は、そこで付近の諸島を征服していくが、為朝追討の軍が攻めて来たので、九州へ逃れた。
 一度、九州へと逃れた為朝であったが、戦機を見て、平氏を討つために再度挙兵し、海路をもって東上しようとした。しかし、東上の途中、折りからの台風にあって、船は琉球(沖繩)に漂着してしまった。
 ここで為朝は、生涯を漂着した琉球のために尽くすことを決心する。王女を助け、悪臣、奸賊を討ち減ぼして、琉球の国乱を平定するのであった。話は、このあと為朝が亡くなり、その子が琉球の王位に就くところで終わる。
3  伸一は、ある青年部の会合で、沖繩の妙法広布の質問をしたことがある――戸田は答えた。必ず、一人の地涌の菩薩が立ち、折伏の火蓋を切るであろう、と。
 その通りであった。昭和二十九年の夏、一人の三十八歳の青年が東京で入信。Y君である。沖繩県人であった彼は、誰にいわれるのでもなく、単身故郷に帰り、闘争を開始したのである。今、数万の沖繩の友の連帯となる。その勇猛精進の丈夫の姿が、伸一の眼底に強烈に焼きついて離れない。
 伸一が、沖繩に初めて行ったのが、昭和三十五年の七月十六日。数千世帯で、翌十七日に支部を結成した。その年の三月には、那覇に正宗寺院・光明寺が落成している。
4  四月十八日は、沖繩の初の文化祭。十九日は、コザの会館落成式である。戸田城聖がいたら、どんなにか喜んでくれるであろうと、その様子が目に浮かぶようだ。
5  新生沖繩の友よ!
 君達が作った″沖繩健児の歌”を、感傷と悲観を乗り越えて、怒濤の如く歌いながら、平和への行進を開始してくれ給え。
6   正法流布の 朝ぼらけ
  打ちくだかれし うるま島
  悪夢に目ざめ 勇み立つ
  伝統誇る 鉄拳は
  沖繩健児の 誇りなり
  
  命をかけて ひと筋に
  仏意を奉じ 示さんと
  万里の波濤を 乗り越えて
  世界に挑む 雄叫びは
  沖縄健児の 大使命

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