Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

民族興隆の陰に歌  

「池田大作講演集」第3巻

前後
1  折りおりの先生の姿を綴る。
2  ”星落秋風五丈原”
 この土井晩翠の歌を、戸田城聖は特に好んでおられた。四月二日の命日が近づくと、涙しながらじっと聞かれていた、当時の先生の姿が浮かんできてならない。覇道を邪、王道を正義と峻別して生きてこられた先生。この歌には自身の役割があり、学会の魂がある、と胸中深く思っておられたのであろう。私達も、この詩歌は、そして、この精神は永久に肉団に刻まれて離れない。だが、余りにも寂しい故に、今は歌うまい。
3  四海の波瀾収まらで
 民は苦み天は泣き
 いつかは見なん太平の
 心のどけき春の夢
 群雄立てことごとく
 中原鹿を争うも
 たれか王者の師を学ぶ。
 丞相病篤かりき。
 丞相とは諸葛孔明のこと。
4  一冊の土井晩翠の詩集を、私が持っていた。ある年の正月、N君に見せたのである。N君はこの詩の曲を知っていた。私共の新年の挨拶として、この歌を先生の前で歌って差し上げようと二人で結論した。先生は、幾度も幾度も、繰り返して聞かれた。やがて、N君が一人で歌った。眼を閉じ、先生は動かなかった。窓には月が冴えている。一条の涙が頬を伝わっていた。あたりは、厳粛にも近い雰囲気に変わっていった。側にいた全ての最高幹部も、何かを感じ黙然となった。
5  先生は、民族の興隆には必ず歌があったとして、よく歌を歌わせた。学会には、さまざまな歌があり、それぞれ歌いたい歌を、自由に歌ってきたのである。学会は信仰の純粋性と、広宣流布の行動については真剣であり、激しさもあったが、あとはいたって自由である。戦後の再建期には、作詞・作曲家もおらず、また、戦前派、戦中派が多かった理由もあろう、軍歌調のものも歌われたりした。別に他意があったわけでない。時代の変遷とともに、歌も大きく変わってきた。作詞家、作曲家が増えてきたからでもあろう。
6  ある時、ある人に、組織について語った。日蓮正宗も江戸時代、一時、かなり布教が進み、栄えた時がある。戦前の創価学会も、敢闘に次ぐ敢闘で、かなりの勢力が築けた。しかし、それはもろくも潰え去った。その原因は種々あろうが、先生はし、組織がないことに由来すると、喝破された。今にして思えば、組織は常識であり、驚くことはない。しかし、終戦前後にこの一点の角度を鋭く凝視したことは、偉大な卓見であるといわなければならない。しかも先生は、それを見事に構築し実践したのである。「私の生命より大切な、広宣流布の組織」と、よくいわれていた。
7  第一回の参院選の時である。三人当選し、三人が落選した。そのことを通し、先生は即座に側近に語った。『勝った時に負ける原因を作る。負けた時に勝つ原因を作ることができる』。妙法があれば、必ずこれが防げるし、転ずることができるとも付け加えられたのである。長い、長い法戦にあたって、弟子たちはこの原理を幾度も実感した。広布の戦いは、長い遠征の旅だ。だが、この妙法の原理を知る、我らの前途は、広野のごとく開けているのである。
8  ある日、仙台の青葉城に登った。先生は「学会は人材の城を築くのだ」と叫ぶ。それが今日の指標となり、礎となって、栄光の学会が完成したのである。未来も、この指標を断じて忘れてはならない。忘れぬ限り、人材は陸続と出で、広布の展開はいよいよ絢爛となっていくことであろう。
9  三月六日は”71信越文化祭”であった。吹雪のため飛行機が欠航。信越の友の顔が胸を突く。全魂を振っての演技と聞く。来賓の方々も強く、強く感銘したとの報告ばかりであった。心躍る。よくやってくださった。五月か六月にお目にかかりたいと願っている。

1
1