Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

通説と真実の距離  

「池田大作講演集」第3巻

前後
1  今年の六月六日は、牧口常三郎先生の生誕百年である。わが創価学会の創始者として、その功を記念した胸像もできあがり、この日には除幕式を行ないたい。
 私はこのさい、牧口先生の正確な足跡を知る必要性を感じ、いくつかの調査を進めてきた。これはその一つである。昭和十八年七月六日の逮捕の瞬間を確認すべく努力した。通説では当時、先生は伊豆方面の指導に行かれ、蓮台寺温泉のある旅館で逮捕されたと信じられていた。地元の人々も、私も長年のあいだそう思っていた。
 蓮台寺にあったという、その旅館は戦後に焼失していずこにもない。なおも調査を依頼した。すると、その旅館の盲目の女主人が町はずれに住んでいて、健在であることがわかった。しめたとばかり、女主人を尋ねるよう指示。女主人は盲人であるだけに、記憶は実に鮮明のようである。
 「実に立派な先生でした。家には何度もお泊まりになってくださいました」
 「ところで、先生がお宅で逮捕された時のことをお話しくださいませんか」
 「逮捕?」
 「刑事が踏みこんできたでしよう」
 「いいえ、そんなことはありません。そんな喧嘩のようなことをする先生では、絶対にありませんでした」
 女主人は、言下に否定。
 ここで私は、通説に疑いをもったのである。何がなにやらわからなくなってしまった。通説と真実の距離の探究。ここにこそ真実の歴史は残される。
 当時、牧口先生には二人の婦人が東京から随行していた。I女とM女である。早速、問い合わせてみると、二人は確かに蓮台寺にお供し、翌日、下田で座談会を開いたが、そこで先生と離別。二人は、それぞれ下田近在の実家におもむいている。
 しかし、二人の記憶から、もう一人、東京からK女が随行していたことがわかった。やっとのことで、三多摩のある山裾で老後を送っているK女を捜しあててもらう。K女の実家は下田の須崎にあった。牧口先生は、そこからの広大な太平洋の眺望を、ことのほか愛していたという。幾度か、一家をあげて先生をお迎えしたこともあると語る。――その日、下田の座談会から須崎に行き、翌朝、いきなり司直の手がのびたのである。時に七十二歳。その後のことは小説「人間革命」に書いた通りである。
 なお、牧口先生の死しての出獄の模様も調べてもらった。終戦のドサクサの折り、多くの書類は散失。それでも出所記録を見ると、先生の名前があり、その下に「保釈出所」とだけ書かれていた。先生の死については、何故か隠されていた。真相の追究ということは、余程の情熱を傾けないかぎり、まことに至難であるということを私は知った。
2  朝の七時頃一毎日、聖教新聞がわが家に届く。どのような人が配ってくださるのか……。いかなる執筆をしても、配達員の方々がいなければ読者には達しない。寒い日も、雨の日も、眠い日も、毎日毎日、本当にありがとう。どうか、お体を大切に。
 私も少年の頃、新聞の配達をしたことがある。友は炬にはいっている。ともすれば、人びとから蔑如されるかも知れぬこの仕事。しかし、我らよりも尊く、真実の厳しい人間革命の実践者は、皆さんであろう。只、頭を垂れる。
  配達員 われもその道 朝の途
  誇りあれ 人間勝利の 今朝の跡

1
1