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日蓮大聖人・池田大作

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男子部全国幹部会 妙法の革命家たれ

1970.8.6 「池田大作講演集」第3巻

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1  きょうは、久しぶりに諸君とお会いし、心よりうれしく思っております。この夏季講習会が、楽しい、有意義な二泊三日であられることを期待するとともに、いくつかの所感を申し述べ、私の指導にかえさせていただきます。
2  男子部が第二の草創期を開拓
 まず第一に、現在の新生創価学会は、第二の草創期にあるといえる。第一の草創期を築いてきたのは、男子青年部であります。それと同じく、第二の草創期も、諸君たち男子部の手で築いていっていただきたい。
 四条金吾殿御返事にいわく「根ふかければ枝さかへ源遠ければ流長しと申して一切の経は根あさく流ちかく法華経は根ふかく源とをし、末代・悪世までも・つきず・さかうべし」と。
 妙法は、末法万年尽未来際まで尽きることなく、栄えていくとの御文であります。ともに現在の諸君の信心、すなわち、広宣流布への自覚、決意、実践がいかに深いかによって、未来は決定されてくると拝することができましょう。
 どうか、男子部が創価学会を、断固守っていってほしい。それ以外に、広宣流布も、また不幸な民衆を救済することも、決してできないからであります。
3  本地の自覚が一切を生かす
 第二に、男子部は力ある妙法の革命家に育ってほしい。私は、諸君に社会のあらゆる分野の指導者に成長するよう要望するものでありますが、それは、社会を本源的に救う革命家であるとの、本地の自覚があってこそ、初めて一切のことを真に生かしていくことができるのであります。
 私ども学会員の根本的自覚である地涌の菩薩ということは、末法現代にあっては、たとえ、いかなる迫害・誹謗・弾圧があったとしても、それらに負けず、広宣流布を人生の本分とする革命家の異名であります。大聖人の眷属ということも、妙法の革命児の集まりとの異名であるといえます。したがって、どのような逆境にあっても、妙法の革命家ということを、基本思想にして戦っていっていただきたい。
 御義口伝には、「日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は従地涌出の菩薩なり外に求むること莫かれ」とあります。末法現代の社会を本源的に改革する大文化運動、大宗教運動を展開してゆく地涌の菩薩は、妙法受持の私ども以外には断じていないことを確信し、前進していこうではありませんか。(大拍手)
4  庶民に人生の姿勢の原点を
 第三に“男”という文字は“田”に“力”と書く。田畑を自らの力で開拓していくというのであります。すなわち、自分の仕事、組織活動等々、あらゆる分野で、どれだけ新しい価値を創造し、開拓していくか――ここに男子の生命、本懐、本源がある。開拓精神を旺盛に燃やし、おのおのの立場で、忍耐強く社会に貢献し、広宣流布に貢献していっていただきたいのであります。
 御書に「しかるに日蓮は中国・都の者にもあらず・辺国の将軍等の子息にもあらず・遠国の者・民が子にて候」云云とあるように、大聖人ご自身、当時の文化の中心から遠く離れた地に、貧しい、庶民の子としてお生まれになった。
 男というものは、身分や家柄等によってうんぬんされるものでは絶対にない。自分自身の力で、どれだけ物事を切り開いたかが、価値を決定づけるのであります。
 豊臣秀吉と明智光秀に関して有名な話がある。秀吉と光秀は、ともに戦国時代を代表する有名な武将でありますが、その性格はまったく異なっていた。その違いがもっとも顕著にあらわれていたのが、主君・織田信長に対する仕え方であったと論じられている。信長は、非常に短気で気むずかしく、また合理主義者であった。そのため、家臣の失敗に対しては、たとえ過去に功績があったとしても、即刻、所領没収など厳格な態度で臨んだ。そのやり方が徹底していたため、家臣は、つねに内心ビクビクしていたといわれる。秀吉と光秀も信長の重臣であったが、同じく主君に対しては恐怖心をいだいていた。
 しかし、秀吉についていえば、たとえ信長が極度に気むずかしい性格の主君であっても、自分の過去の困窮時代に比べれば、まだまだ信長に仕えるほうがましだと思ってがまんしていた。
 これに対し、光秀は、戦国武将のなかでは珍しく詩歌にたけるなど、教養も当代一流で、最高の文化人の一人であったといわれる。また、武将としての手腕も優れ、智勇兼備の人であった。
 ところが、光秀には、その手腕と教養を鼻にかけるところがあり、いつもうぬぼれていた。出身も貴族であったため、信長のやり方に対し、ことごとく批判的な目で見ていたわけだ。
 光秀の念頭には、自分は貴族の出身で、信長より偉いのだという、強い自意識がつねにあった。そのため、どうしても本心から信長につききることができない。その不満と反感が心のなかでくすぶり続け、ついに本能寺の反逆となって、諸君がよくごぞんじのように、あの悲惨な最期を遂げたというのであります。
 つまり、秀吉と光秀の違いは、教養や武将としての手腕にあったのではなく、根本的に両者の人生に対する姿勢という、原点からくる相違であった。秀吉は“庶民”にその人生の姿勢の原点をおいた。光秀は“貴族”にその原点をおいた。この“庶民”と“貴族”の体質の差が、戦国乱世を生きぬく武将の“明”と“暗”を分けたのであります。
 いま、乱世のなかにあって戦う男子部は、断じて貴族になってはならない。あくまでも庶民のなかの学会っ子として、庶民の味方として、生涯、泥まみれになって戦っていっていただきたい。その人が真実の、最後の大勝利者となることを確信してほしいのであります。
5  社会のなかで妙法の実証示せ
 第四には、男子部は社会のなかで妙法の実証を示していける、真の信仰者に育ってほしい、ということであります。また、社会、時代の動きに敏感に対応するとともに、日常の実践活動に、新しい息吹を反映できる人材となっていただきたい。
 信心は観念ではない。観念であっては人間革命はできない。福運も築けない。大御本尊を信じた結果と実証を、社会のなかで出しきっていくのが信仰者の戦いであります。
 社会即仏法、仏法即一切法である。仏法は社会と遊離した世界にあるのでは決してない。したがって、男子部は勉強をしっかりしていってほしい。そして、一人ひとりが一流の青年指導者たちと現代社会のあらゆる問題について、対等に語り合えるような力をもたなければならない。
 社会の動向に無知であっては、化儀の広宣流布は、この厳しい、激動の社会にあって遂行していくことはできない。新聞、そして一流の雑誌等にもよく目を通し、現在、社会でいかなることが問題になっているのか。国際問題はどうであるか。それを解決するにはいかにすべきか――そうしたことを思索していただきたいし、ともに実践に移せるようでなければ、真の妙法の革命家とはいえないのであります。
 諫暁八幡抄には「法華経の第四に云く「仏滅度の後能く其の義を解せんは是れ諸の天人世間の眼なり」等云云、日蓮が法華経の肝心たる題目を日本国に弘通し候は諸天・世間の眼にあらずや」との一節がある。
 この御文に仰せの「諸天、天人」とは社会の指導者階層であり「世間」とは庶民である。「眼」とは英知であり、英知の指導者であります。
 なお、過日、ヒマラヤ登山隊の記録をテレビで見る機会がありました。八八四八㍍の世界最高峰のエベレスト山をめざして、三〇〇キロの道を、地元のキャラバン・ポーターたちといっしょになって氷壁をぬい、必死に挑戦する日本登山隊の様子がなまなましく描かれていた。
 ひとくちに八八四八㍍といっても、その登頂に成功するまでには、高い峠、深い谷、また、変わりやすい天候、氷点下にさがるほどの厳しい寒さ等との戦いがある。登山隊の人たちは、前方にそびえるエベレストの頂きを、ただ一筋の希望、目標として、くじけそうになる心を支え、一致団結のチームワークで、一歩一歩、忍耐強く登っていった。
 テレビでは、ヒマラヤ登山が成功したという華やかな壮挙の裏に、困難な“人間の戦い”があるということを映し出しておりましたが、私がこれを見て感じたことは、私どものめざす妙法広布の戦いは、このヒマラヤ登山以上に困難であるということです。
 エベレスト登頂は、史上六度目であるといわれていますが、妙法の広宣流布は前人未到の戦いなのであります。それだけに、さまざまな中傷や批判があることは当然でありましょう。
 これからの時代も、決して容易ではない。しかし、やりきったときの喜びもまた大きい。どうか今後も、どのようにつらいこと、厳しいことがあっても、学会っ子らしく、希望に燃え、仲良く、広宣流布の達成という未聞の頂上をめざして、しっかりと登ってまいろうではありませんか。(大拍手)
6  智勇兼備のリーダーに
 第五に、学会のなかにあっては智勇兼備の若きリーダーであっていただきたい。
 大ブロック、総ブロックにあって、意見、行動等、あらゆる面で先駆を切って動き回ってほしいのです。青年は腰が重くなっては絶対にならない。口ばかりうるさく、体が動かないのは、年齢的には若くとも、すでにその人は青年とはいえない。
 御書には「いくさには大将軍を魂とす大将軍をくしぬれば歩兵つわもの臆病なり」とあります。男子部の諸君は智勇兼備の将軍であります。
 最初に申し上げた通り、男子青年部が第一の十年を勝ち取った。第二の十年は、同じく男子部の諸君たちが今度は勝ち取っていくべき将軍であります。
 どうか諸君は、信心の大将軍、座談会のエキスパートとなって、全体の人々を力強くリードしていっていただきたいのであります。(大拍手)
7  理論を構築し、鮮明にすることも大事な実践
 第六に、理論と実践について申し上げれば、理論は実践でないという考え方は誤りである。理論を構築し、理論を鮮明にすることも、大事な実践である。
 人間は知的動物であり、なかんずく情報化時代といわれる現代にあっては、理論のもつ重みは大きい。
 広宣流布の新段階は幅広い実践がなくてはならない。それぞれの立場と、使命を重んじつつ進んでいくことが大切であります。浅く狭い考えではもろくなってしまう。深い人であっていただきたい。深い、若きリーダーであっていただきたいのです。そこで男子部で、実践の教育を図っていっていただきたいことを、お願いしておきたいのであります。
 御義口伝に「法華経の行者の智は権宗の大智よりも百千万倍勝れたる所を智勝と心得可きなり」と。
 「智勝」とは智に勝れる。信心をもっていない大学者よりも、妙法を受持した諸君たちのほうが、百千万倍も勝れたところの智をもっていると確信していきなさい、との御文であります。
8  人類脅かす公害と対決へ
 なお、第七に申し上げたいことは、公害問題であります。今、公害の問題が、世界的に人類の切実な課題となっている。これについては、私も、近くはさる五月三日の本部総会で述べたし、随筆などでも何度か書いたつもりであります。
 これは、もはや単なる政治問題ではなく、人類の生存権を脅かす新しい魔の本性をあらわしつつある。
 かつて、戸田前会長は、原水爆に関して、人類の生存権を脅かす者はサタンなりと叫び、これとの対決を学会青年部に遺命された。
 同じ精神は、いまこの公害問題についてもいえる。私は、二十五年前に広島に原爆が投下されたこの八月六日を記念して、男子部の諸君に、こうした人類の生存を脅かす一切の魔との戦いを開始すべきである、ということをあらためて訴えておきたいのであります。(大拍手)
 すなわち、公害問題に対する深い認識とその解決法の究明――それは仏法を根底にするしかない。そして、そのことを広く社会、世界に啓発し、訴えていくべきであるということを申し上げておきたいのであります。
 御書に「貞当は十二年にやぶれぬ・将門は八年にかたふきぬ、第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして・法華経の行者と生死海の海中にして同居穢土どうこえどを・とられじ・うばはんと・あらそう、日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし」と。
 大聖人は第六天の魔王との戦を起こして、最後まで戦いぬかれた。これまでの学会もそうであります。これからも、それと同じ決意で進まなくてはならない。
9  虚栄排し信心第一に
 第八に、私は今日まで、諸君たち全員を、愛する弟という気持ちで守り育ててまいりました。一人、二人の人を特別に可愛がるというような気持ちはだれに対しても、また一度たりとももったことはありません。
 真の学会っ子とは信心第一の人である。己や名聞名利や、見栄、虚栄を排した真心の人であり、勇気ある実践の人を言うのであります。四条金吾殿御返事には「ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候」と申されております。
 第九に、青年の財産は信用である。信用とは、自己の一つひとつの言動に対し、責任を持つところから生まれる。華々しさを追って、虚栄に陥ってはならない。各人の生活にあっても、学会のなかでの活動においても、知れば知るほど頼りにできる人だ、信用できる青年だ、といわれる男子部員、そして社会人であってほしいのであります。
 崇峻天皇御書に「中務三郎左衛門尉は主の御ためにも仏法の御ためにも世間の心かりけり・よかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ」と。
 「主の御ため」とは現代でいうならば、自分自身の職場、社会である。「仏法の御ため」とは信心の世界であり、現代でいえば、創価学会であります。いずれの場にあっても、人々から賛嘆され、信頼されるようでなければならない、という大聖人のご指導であります。
10  人間性の絆で真の団結はかれ
 最後に、幹部は権威主義になってはならない。これは、これまでも何回となくいってきたつもりでありますが、特に男子部は、未来の学会の縮図であるがゆえに厳しくいっておきたいのであります。
 権威主義では後輩は心からついてはこない。必ずいつかは離れる。権威主義のもとには、優秀な人材が育つことは絶対にない。なんでも心を打ちあけて話せる友として、生涯、ともどもに進む同志として、固い絆を守り育てていってほしいのであります。真の団結はこの人間性の絆によって生まれるのであります。組織上の役職に権威を借りた団結であっては絶対にならない。
 祈祷経送状に「法華経の行者は信心に退転無く身に詐親無く・一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥に後生は申すに及ばず今生も息災延命にして勝妙の大果報を得・広宣流布大願をも成就す可きなり」云云と。
 「身に詐親無く」とは、いつわりやうそつきであってはならないということです。「一切法華経に其の身を任せ」――大聖人の仰せどおりに身を任せての修行ならば「慥に後生は申すに及ばず」――永遠の幸福は間違いない。いわんや、その大果報として「今生も息災延命にして勝妙の大果報を得」――人生の大勝利は間違いない。ともに「広宣流布大願」も必定である。真の団結をもって進むならば、広宣流布は絶対にできるとの御金言であります。
 諸君たちのなかには、宿命と戦っている人もある思う。職場で苦しんでいる人もあるだろう。また、自分の境遇、環境等に不満のある人も多くいるかもしれない。しかし、今回の講習会を第一歩として、雄々しく前進していっていただきたいことを願い、ともに、諸君の健康と成長とを心より大御本尊にお祈り申しあげて、私の話を終わります。

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