Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

仏法は絶対的幸福の世界  

「池田大作講演集」第2巻

前後
1  上野殿後家尼御返事にいわく、
 夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏といふ・これにまよふを凡夫と云う、これをさとるは法華経なり、もししからば法華経をたもちたてまつるものは地獄即寂光とさとり候ぞ、たとひ無量億歳のあひだ権教を修行すとも、法華経をはなるるならば・ただいつも地獄なるべし、此の事日蓮が申すにはあらず・釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏の定めをき給いしなり
2  「夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず」――仏界というも、また地獄界というも、これは「ただ我等がむねの間にあり」――すなわち、別の世界にあるのではなく、私達の胸中にあるのです。
 すました美人が歩いている。だれが見ても、なかなかいい洋服をきて、いいメガネをかけて、ハイヒールをはいて、一見、幸せそうだなと思うけれども、その胸中は、さまざまな苦悩に満ちているかもしれません。
 また、どんなに貧しい一家に暮らしていても、自らの汗みずを流して働き、わずかのお金で一家が真面目に和気あいあいと生活している場合もあります。その一家は、天上界ではありませんか。反対に金を何千万もかけて、結婚式をあげている姿が、週刊誌などに出ておりますが、それは虚栄であり、見栄であります。世間に対して虚栄を示し、見栄を張らなければならないその人自身の胸中は、あるいは苦しみで悶々としているかしれません。ですから、そのこと自体が地獄でありましょう。
 幸福そうに見えるけれども、ほとんど”虚像”であり”架空”のものです。その半面、何人かの友達を招待して、一万円か二万円くらいで結婚式をするほうが、どれほど幸福かしれません。そして御本尊の光明に照らされて、妙法に一生涯帰命し、一緒に清らかな生命で生活を確立していこうとする姿、人生のほうが仏界であり、天上界であります。
 だから、日蓮大聖人は「ただ我等がむねの間にあり」と仰せなのであります。ですから、皆さんは誇り高く生きていただきたい。私達は御本尊と直結しているのです。地位や名誉などにとらわれ、見栄を張る人生とは比べものにならないほど尊いといえましょう。
 「これをさとるを仏といふ・これにまよふを凡夫と云う」――御本尊に直結することによって仏の働きとなっていきます。ぐんぐん功徳を積んでいくのです。それが、御本尊に直結しない場合には全てが迷いとなってしまうのです。普通の凡夫とかわりありません。
 「これをさとるは法華経なり、もししからば法華経をたもちたてまつるものは地獄即寂光とさとり候ぞ」――法華経とは末法の法華経、すなわち大御本尊を持っている人の生活は、即寂光土へと転じていくわけです。
 「たとひ無量億歳のあひだ権教を修行すとも、法華経をはなるるならば・ただいつも地獄なるべし」――間違った学問、間違った宗教をいくら修行しても、法華経を離れ、現実には御本尊から離れたならば、更にその御本尊を守り、日蓮大聖人の教え通り広宣流布に向かっている和合僧の創価学会を離れてしまったならば、その時は、常に地獄であり、結局は砂上の楼閣です。
 たとえば、有名校を出ても、あらゆる役職をもらっても、代議士になっても、いかなる財閥になっても、根本において御本尊を信受していなかったならば、根本的幸福、絶対的幸福はつかめないということであります。
 「此の事日蓮が申すにはあらず・釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏の定めをき給いしなり」――日蓮大聖人が勝手にいうのではない。一言でいうならば、大宇宙の法則ということです。
 仏法は現実論であって、架空論ではありません。したがって妙法流布に生きるなかに、学会に生きるなかにこそ、本当の希望も喜びも幸福もあるのです。その世界を離れたら、どんなに努力をしても、結局は廃墟の人生しかないでありましょう。
 人生の勝負は、一生涯です。一生涯、不退転の決意で信心を貫くならば、我が身は妙法蓮華経の当体となり、願いがかなわないわけがありません。全部、社会に貢献していける人生です。それを自覚して、人生を最大にエンジョイし、最大に乱舞していきたい。

1
1