Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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実像の幸福を満喫  

「池田大作講演集」第2巻

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1  主師親御書にいわく
 我等衆生・無始曠劫むしこうごうより已来このかた・妙法蓮華経の如意宝珠を片時も相離れざれども・無明の酒にたぼらかされて衣の裏にかけたりと・しらずして少きを得て足りぬと思ひぬ、南無妙法蓮華経とだに唱え奉りたらましかば速に仏に成るべかりし衆生どもの五戒・十善等のわずかなる戒を以て或は天に生れて大梵天・帝釈の身と成つていみじき事と思ひ或時は人に生れて諸の国王・大臣・公卿・殿上人等の身と成つて是れ程のたのしみなしと思ひ少きを得て足りぬと思ひ悦びあへり、是を仏は夢の中のさかへ・まぼろしの・たのしみなり唯法華経を持ち奉り速に仏になるべしと説き給へり
2  この御書の一節を、日々、広宣流布への活動に励む私達の立ち場から、信心で拝読しておきたいと思います。
 概して、信心の成長がない人はすぐに批判したがる。信心がぐんぐん成長している人は教学を求め、そしてその教学のは、更に信心を深めていくことになるのです。したがって、御書を根幹にした生活・活動が大切なのです。
 「我等衆生・無始曠劫より已来・妙法蓮華経の如意宝珠を片時も相離れざれども」というのは、私達の生命のなかに南無妙法蓮華経という宮殿が輝いており、南無妙法蓮華経という如意宝珠が厳然と存在しています。ここで如意宝珠とは、意のままになんでもつくり出せる玉のことです。
 「無明の酒にたぼらかされて衣の裏にかけたりと・しらずして少きを得て足りぬと思ひぬ」――しかし、酒に酔い、無明の酒にたぼらかされているので、如意宝珠が衣の中にあることを忘れてしまった。それで刹那主義に走ったり、名聞名利だけを追い回すあまり、自らの生命のなかにある南無妙法蓮華経を、引き出すことを忘れているわけです。
 私が信心したのは、昭和二十二年です。当時、恩師戸田前会長が、御本尊は「打ち手の小槌です」とよくいっておりました。
 戦後、なにもかも信用できなかった時代です。そのときに戸田前会長が「打ち手の小槌」というのです。そのとき〃おとぎ話みたいだな”と私は思いました。しかし、今になって考えてみると、全くその通りです。まさしく御本尊は如意宝珠です。長い目でみれば、願いが全部かなっています。短期間のうちに願いがかなう場合もあります。しかし、根本的には願いというものは長い間かかってかなうのが、本当なのです。仏法の勝負は、長い目でみるべきであると思います。
 なぜなら”きよう大阪へ行こう”――きよう大阪へ行こうといっても、すぐに着くわけがありません。まずは仕度をして、大阪に行こうという姿勢をつくることでしょう。一念を定めることが先決です。当然、時間がかかります。それだけのことでも、時間がかかるのです。パッと願いがかなうのは、本当に生きるか、死ぬかという生死の瀬戸際の場合などです。
 しかし、冥益が日蓮大聖人の仏法の本質です。たとえ長くかかっても、願ったことが今世に全部実現すれば、すなわち一生成仏できれば、それで完璧なのです。きようから十日間で願いがことごとくかなったとしても、死ぬ間際にまた他の悩みがいっぱい出てきたのではしかたがありません。最後に全部の総仕上げができればいいのです。それで、今まで思師のこの指導が、私の胸の中に強く焼きついているのです。
 「五戒」とか「十善」とは、阿含経等の小乗教で説く戒律のことで、不殺生戒、不妄語戒、不偸盗戒などをいいます。また、小乗教や権大乗教等を実践した結果、ある人は天に生まれて大梵天になる人もいる。ある人は帝釈の身となってその働きをする人もいる。今でいえば、代議士とか、社長とか、会社の上役など、裕福な生活を送っている人といってもいいと思います。
 またある時は人に生まれて「諸の国王・大臣・公卿・殿上人」となる人もいます。
 このような境遇になることを、自分ではたいへんな幸福と思い込んでいるだろうが、仏の目から見るならば、大した幸福境涯ではないのです。これを仏は「夢の中のさかへ・まぼろしの・たのしみなり」と指摘しております。虚栄・虚飾にすぎない人生です。
 「唯法華経を持ち奉り速に仏になるべし」――成仏という境涯、信心根本の人生、これ以外の実像の幸せはないのです。
 仏法の世界、信心の世界は決して崩れません。偉大な幸福の”珠”は、私どもの生命のなかにしかありません。決してどこか外にあるものではない。幸福の内容は、肩書きでもない、地位、財産だけでもない。これらは結果として生活のなかに現われるものであって、それが目的ではありません。
 自分の生命自体を閉ざして、いくら外に幸福を求めても、そこにはただ幻影しか残らないのです。
 やきもちをやいて、創価学会のことをとやかく悪口する人がいる。それならば、悪口の限りを尽くしている本人は本当に幸せなのか。その本人は人々を救う理念をもっているのか。では、本人にはどれだけ微動だにしない信念があるか。それもなくして批判するなどということは、これほど無責任なことはないではありませんか。
 皆さん方こそ真実の指導者です。御本尊を持った人が民衆の指導者です。
 福運ある身として、たとえ人生を楽しんだとしても、一般世間において、いかに社会的に偉い人間でも、人生を楽しんでいるようなふりをしていても、胸中の南無妙法蓮華経の宮殿が開かれなければ、それは虚像の幸福にすぎません。こう確信してください。
 心底から実像の幸福を続購できるのは、南無妙法蓮華経の御本尊を持った人です。本質論をいうならば、三大秘法の仏法をたもった人以外にはありえないのです。これがこの御書の結論であります。
 これからも、どうか全員、堅いスクラムを組んで、一ミリでも二ミリでも前進し、一波を二波に、二波を三波にと、信心の波紋をつくりながら活動を進め、お子さん方へ立派に広宣流布のバトンタッチをするまでは、元気に頑張っていただきたいと思います。

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