Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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福運の須弥山、幸福の大海原を  

「池田大作講演集」第2巻

前後
1  撰時抄にいわく、
 衆流あつまりて大海となる微塵つもりて須弥山となれり、日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一たい・一微塵のごとし、法華経を二人・三人・十人・百千万億人・唱え伝うるほどならば妙覚の須弥山ともなり大涅槃の大海ともなるべし仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ
2  「衆流あつまりて大海となる」とは、多くの小さな流れ、ありとあらゆる河川が集まって大海となるとの意味です。
 世間では、事あるたびにデモを行なっていますが、ちようど岸辺に沖から打ち寄せる波が当たっているようなものです。防波堤を築かれたら、そこで阻止されてしまう。それよりも、水かさをグングン増していったほうが着実です。ひとたび地震があった場合には、津波となって、難なく防波堤を乗り越えてしまいます。このほうがどれほど価値的であるかしれません。
 毎日毎日、行進しながら歩くより、座談会のほうが、屋根の下でもあるし、雨に濡れなくていいではありませんか。そのほうがずっと人間らしい。こうした、いろいろな理由から、私は、皆さん方が、そんな簡単なことに利用されるようなことは、絶対にさせませんからご安心ください。
 しかし、水かさだけはグングン、グングン増していくことです。それは折伏と内部充実にあたります。それが他の団体等では水かさが少ないうちに流してしまうから、チョロチョロと水が出て、なんら効果も得られずに終わってしまうのです。
 「微塵つもりて須弥山となれり」――微塵というのは、小さなちりのことである。須弥山というのは、さしあたって今でいえばエべレスト山、すなわち8848㍍の世界で一番高い尾根をいうのです。考えてみれば、エベレスト山も分解していけば小さな粒子からなっている。山とはいっても、無数のちりの集合体なのです。
 「日蓮が法華経を信じ始めしは」――日蓮大聖人が末法において、南無妙法蓮華経を唱え始めたときは、「日本国には一渧」――つまりポトンとたらした一滴の水であったということです。
 「一微塵のごとし」――大聖人お一人だったのです。
 「法華経を二人・三人・十人・百千万億人・唱え伝うるほどならば妙覚の須弥山ともなり大涅槃の大海ともなるべし」――このように御書にはキチンと説かれている。南無妙法蓮華経の五字七字の法華経を自らも唱え、人にも伝えて、偉大な山、偉大な海をつくれとの仰せで、創価学会はあくまでも御書の通り、実践してまいります。
 「百千万億人」――いまや学会員は千万人にはなりましたが、億人にはまだまだです。あと十倍です。しかし、一歩一歩、着実な実践を進めていけば、私達は、しぜんに妙覚の位に達し、英知と福運の須弥山に入り、大人材の山を築き上げることができるのです。有智、すなわち最高に智恵ある人材が、ズラリときら星のごとく連なり、山のごとく、次第に集まってきているではありませんか。
 「大涅槃の大海」――私達は不幸な人を全部包容し、幸福の大海原へいざないゆく実践をしているのです。大涅槃の大海をつくりあげる戦いです。「仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ」と仰せです。その実践が本当の仏道修行なのです。必ず広宣流布は実現できるのです。仏になる道は、この広宣流布の実践活動より他に求めることなかれ、です。これが根本です。
 この御書の一節を決して忘れることなく、信心根本にたくましい人生を築いていこうではありませんか。

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