Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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民衆の手に勝利を  

「池田大作講演集」第2巻

前後
1  呵責謗法滅罪抄にいわく、
 末法の始に妙法蓮華経の五字を流布して日本国の一切衆生が仏の下種を懐妊すべき時なり、例せば下女が王種を懐妊すれば諸女瞋りをなすが如し、下賤の者に王頂の珠を授与せんに大難来らざるべしや
2  「末法の始に妙法蓮華経の五字を流布して」のなかの「末法の始」とは現在のことです。末法は末法万年尽未来際にわたるのですから、今はまだ末法の始めといってもよいでしょう。何万年、何千万年先まで、この南無妙法蓮華経によって人類が救われていくのです。それ以外に繁栄の道はない。今はその始めであるというのです。
 「日本国の一切衆生が仏の下種を懐妊すべき時なり」――日本国の全衆生が、仏にならんとする本因たる”仏種”を植えられる時であるとの意味です。順縁・逆縁ともに、すでに下種をうけています。あとは時がくれば、子供が成長して大人になるように、”種”は花開き、必ず絶対の幸福境涯に入っていくことができるのです。逆縁とは、なにかにつけて、あることないことをいって正法を誹謗し、それによってかえって仏縁が結ばれることです。
 「例せば下女が王種を懐妊すれば諸女瞋りをなすが如し」――身分の卑しい下女が、王様の子を懐妊すれば、諸の女が皆瞋りをおぼえる。とやかく悪口をいって、やきもちをやきます。
 「下賤の者に王頂の珠を授与せんに大難来らざるべしや」――最も貧しい者に「おまえがこの次に王様になるんだ」と珠を授与すれば、すなわち記別を与えれば、他の人間は皆、その下賤の者をねたみ、怒って大騒ぎになるであろう、という意味であります。
 このような場合には、大難が起きます。皆やきもちをやきます。当然なことです。末法万年尽未来際の、今はその始めですから、いろいろな批判や中傷があるかもしれませんが、そのときに、信心を奮い起こして更に一歩前進した人には、それに相応した大功徳があるのです。大勇猛心をもって頑張りなさいと、こう日蓮大聖人は御書の各所で仰せになっているのです。
 結局、創価学会に対する批判の本質は、全部ねたみであり、やきもちであります。たとえば美人を見ると、やきもちからすぐにいじわるをしたり、批判を浴びせたりする女の人がいますが、やきもちをやく女性は、顔より、心が醜く、狭量の人だといえましょう。
 ともあれ、現代の権力者は民衆を、庶民を、私達を「下賤の者」としてばかにしているのです。ならば、それと戦って、断固、民衆の手によって勝利を打ち建てねばならない。さもなければ、いつまでたっても封建制の徳川時代と変わりありません。権力者は鉄仮面をかぶって表面を装っています。その仮面の奥にひそむ、本当の顔には一片の慈愛すらありません。その実体は魔物の根性です。これを見抜かなければいけない。なにが民衆のためか、なにが人のためか、全部自分のためではありませんか。魔物の根性です。表面は巧みに装い、立派に見せて、内面は、自身の私利私欲を肥やしているにすぎません。
 しかし、仏法は厳しい。いつまでもそのままであるはずがない。仏法では、民衆こそ王様です。庶民こそ大王です。これを忘れてはいけない。庶民が王様になって、政治家等の権力者は下僕になって、民衆の幸福と社会の繁栄のために全力を尽くして働くことです。これが本当の仏法思想であります。私ども無名の庶民に王頂の珠を与えてくださったのが、日蓮大聖人の仏法であります。
 民衆を王とする未會有の革命である以上、そこに多少の波風がたつのはあたりまえです。この革命の論理にのっとっての栄えある戦いが、私どもの実践なのです。
 皆さんは、お子さん方に最高にして永遠の財産である、信心のバトンタッチをするまでは、どうかしっかり頑張ってください。
 精神的にも充実し、また物質的にも恵まれ、あとは悠々と最後の人生を、こんなにまで楽しい人生であったかと、最高の幸福境涯を満喫しながらの一生であっていただきたいと念願しております。

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