Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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最高に常識ある社会人に  

「池田大作講演集」第2巻

前後
1  日女御前御返事にいわく、
 設ひ日月の光ありとも盲目のために用ゆる事なし、設ひ声ありとも耳しひのためになにの用かあるべき、日本国の一切衆生は盲目と耳しひのごとし、此の一切の眼と耳とをくじりて一切の眼をあけ一切の耳に物をきかせんは・いか程の功徳かあるべき、誰の人か此の功徳をば計るべき、設ひ父母・子をうみて眼耳有りとも物を教ゆる師なくば畜生の眼耳にてこそあらましか
2  前半は、日蓮大聖人の末法万年を救いきる、この色心不ニの大生命哲学をいくら教えようと思っても、相手が盲目であり、つんぼであったら理解できない。それをなんとか聞かせてあげよう、見せてあげようとするのが、私達の精神であり、折伏の実践であります。この功徳はどれほど大きいものか測り知れない、との仰せでございます。
 皆さんは、信心する前の日蓮大聖人に対する考え方と、信心してからの考え方とでは、ぜんぜん違うでしょう。
 また信心する前の創価学会観と、入信した後の創価学会観とでは、天地雲泥の相違があると思います。ですから、日蓮大聖人の仏法を理解していない人達が、いろいろと批判しておりますが、私達は柔和忍辱の衣を着て、なんとかその魔に挑戦する以外ないのです。それが仏道修行であります。
 今までの十年間で、創価学会が新しい第三勢力になるなどということは、だれも考えていなかったでしょう。それも結局、日蓮大聖人の仏法に力があり、功徳があり、生活に直結しているからであります。いろいろな悪口雑言をいわれるなかにおいても、真実に勝る弁明はありません。真実であるが故に、これだけの力が浸透して、第三勢力となり、やがて日本の国のキャスチングボートを握るようになってきたのです。
 日蓮大聖人もあらゆる御書で、今を、末法万年の先駆けである、だから無認識な批判もあるだろう、しかし、そこで戦っていることに偉大な功徳がある、名誉と思いなさい、ということを指導・激励されております。それを再確認していただきたい。
 後半は、人間として生まれ、目、耳など五体満足であったとしても、ものを教え、道理、人生を教える師がなければ、更に根本的には、生命とは何か、人生とはどうあるべきか、ということを教えるべき師がいなければ、また教わらなければ、それは畜生の目であり、耳と同じであると仰せであります。
 イギリスの経済学者等が、急成長を続ける日本の経済に対して”エコノミック・アニマル”といっておりますが、動物と同じということです。日蓮大聖人の仰せに通ずるものです。ともかく妙法以外に、新しい世紀の社会の断絶をうめる哲学はないといえましょう。宗教という、人間として根本とすべき理念・哲学が欠如しているために、人間を忘れ、社会の様相が野獣的になっているのです。
 私どもは妙法という最高の仏法哲理をたもち、その信心・実践に励んでいるのです。これほどの誇り、強さはないといえましょう。いかに外部から批判されようと、創価学会の崇高なる使命を確信し、日蓮大聖人の仰せ通り、永久に堅持していきましょう。そして十年先、二十年先を目指して、たとえいかなることがあろうと、柔和忍辱の衣を着て、更に前進してまいりましょう。
3  仏法は道理です。哲学的にも矛盾がない。故に生活のうえからみても道理です。したがっで、道理にのっとったうえの生活・人生には、むだはないはずです。むしろそこには、春のような希望に満ちみちた爽快さが横溢してくるでしょう。
 真剣に信心していくと、生命力が充実して体の調子もリズムに乗り、生活はむだなく、合理的になってまいります。仏法を根底とした活動には空転がないのです。
 私達の活動は、御本尊に直結した実践であります。偉大な功徳があることを大確信していただきたい。今、苦労したことが、必ず思い出になり、福運の花と咲くことは間違いありません。「陰徳あれば陽報あり」という原理を、人がなんといおうが、それを確信して、明るく、団結して進みましょう。
 結局、私達は、常識豊かな社会人でなければならない。最高に常識ある社会人、これが仏法の究極なのです。非常識な行動は、批判されるだけであって、決してプラスにはなりません。むしろ、学会のをきつける、謗法行為です。
 なお、創価学会は、人間主義の団体であり、権威主義であってはなりません。あくまでも人人の意見を、みんな聞いてあげ、話し合って心から納得するようにしてほしい。内外ともに、一人一人の民衆と、一対一でひざをまじえて語り合う。それが創価学会の姿であり、本当の民主主義であって、勝利の根本であります。

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