Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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社会の依怙依託たれ  

「池田大作講演集」第2巻

前後
1  乙御前御消息にいわく、
 そもそも一人の盲目をあけて候はん功徳すら申すばかりなし、いわんや日本国の一切衆生の眼をあけて候はん功徳をや、何にいわんや一閻浮提・四天下の人の眼のしゐたるを・あけて候はんをや、法華経の第四に云く「仏滅度の後に能く其の義を解せんは是諸の天人世間之眼なり」等云云、法華経を持つ人は一切世間の天人の眼なりと説かれて候、日本国の人の日蓮をあだみ候は一切世間の天人の眼をじる人なり
2  「抑一人の盲日をあけて候はん功徳すら申すばかりなし」というのは、一人の一らの目をあけさせた功徳は偉大なことである。いわんや、日本国全体の一切衆生の眼を開かせていくという功徳は、想像できないくらい莫大なことであるとの意味です。「眼」というのは心眼のことです。正しい人生観、真実の幸福、正しい理念、社会観、世界観などを含めたものです。最高の哲学ということです。
 「何に況や一閻浮提・四天下の人の眼のしゐたるを・あけて候はんをや」とは、全人類の地獄界、または不幸という眼を開いて、幸福に転じさせるということは、また偉大なことです。
 「法華経の第四に云く『仏滅度の後に能く其の義を解せんは是諸の天人世間之眼なり』等云云」とは、その人が三大秘法の妙法をたもつということは、「天人世間之眼」すなわち全社会の指導者であるということです。
 経済の指導者、政治の指導者等は、現象を局部的にはとらえるが、本当の指導者は、物の本質に迫り、生命というあらゆる現象の本源を教える指導者です。
 「法華経を持つ人は一切世間の天人の眼なりと説かれて候」――前文の「法華経の第四に云く」とは教相の文を引用したもので、次は大聖人の観心釈です。「法華経を持つ人」とは、末法に三大秘法の御本尊を持つ人のことで、全社会の人々を幸福に導いていく指導者であり、眼であると仰せです。あらゆる階層の指導者という使命があるのです。
 「日本国の人の日蓮をあだみ候は一切世間の天人の眼をくじる人なり」――日蓮大聖人の法難の時のことであります。日本国の人が日蓮大聖人をうらみ、憎み、誹謗し、弾圧する。ということは、社会のなかにあって、幸せになれるという眼を、自分でわざわざとってしまうようなものである、と仰せです。
 すなわち、大聖人の弟子は、地涌の菩薩である。人にいわれてやるのではない。地から涌き出るごとく、自分も最高の人生を生きつつ、社会にも貢献していく――それは即、現在でいうならば創価学会であります。創価学会こそ日本の、人類の未来を正視した人々の集まりです。
 確かに、ものの見方が正しく、道理にあっている、誰もが納得のいく集まりであるとの大聖人の御金言です。
 広宣流布の前進は、民衆一人一人の英知の眼を開いていく戦いです。それが根本的、本源的な人間性啓発の戦いでもあります。
 創価学会は、あらゆる人の人生の眼になっていかなくてはなりません。更に日本の眼、世界の眼になっていくのです。この眼とは、肉眼ではなく、正しい前途を見きわめていける眼です。もし、この理念・哲学という眼がなくなってしまったならば、人類の前途は暗たんたるものになるでしょう。なんの救いようもありません。科学がどんなに進歩・発達しても解決できません。最近、”サイエンティフィック・アニマル”という言葉がよくいわれますが、まさしく自分の国を守るという競争をしているようなものです。たとえ科学がどんなに発達したとしても利己の枠を越えない畜生界の存在です。自分さえよければそれでいいとするたぐいです。
 その打開策は何かといっても、教育は今やその資格を失っており、所詮は宗教しかないのです。
 近代的な、そして少なくとも因果の理法にかなった、科学的な真実の宗教でなければ、全人類を救えるわけはありません。徐々にではあるが、それは理解されつつありますが、該当するものが一つとして現われない。あまりに今の宗教は金もうけ主義で次元が低いし、あるものは呪術的あるし、形式的であるし、すでに形骸化して、そのうえ内容がない。日蓮正宗・創価学会だけが、社会の依怙依託となる唯一の宗教といえましょう。また私達は、”あの人に何か教えてもらおう””あの人ならばお付き合いさせてもらおう”と、大なり小なり、人からそういわれ、尊敬され、信頼される人にならなければならないというのが、この御書の本義です。
 なお、戦いには決してむだがあってはなりません。きちんとリズムに乗った、むだのない日日の活動を推進していきましょう。戦いの機が熟すれば熟するほど、大きな魔が競い起こってきます。絶対にむだのない、価値的な会合であり、戦いであることが、次への勝利の因になっていくのです。だいたい戦いに負けるのは、リズムから外れているからです。そのスキに魔が入ってしまうのです。戦いの方向を決めるのは、幹部にとって最高の責任です。幹部は、第一線で戦っている人が、存分に、自由に、価値的に、力を発揮できるように智恵を働かせていくことが大切です。それには自らが第一線に出て動いてみて、初めてどうしたらよいかがわかってくるのです。これが最も優れた指導者であり、聡明な幹部である、と私はいっておきたいのです。どうか、本当に気持ちよかった、本当にすがすがしかった、本当に功徳が湧き出るような戦いであった、といえるような活動をしていっていただきたいと思います。
 今から七百年前は、専制時代、独裁時代である故に、日蓮大聖人は、救国の情熱に燃えて不自惜身命で幕府に諫言した結果、いろいろな迫害、法難にあいました。しかし、現在の日本は、法治国家であり、民主国家です。その時に非合法的なことをやるのは誤りです。あくまでも合法的に、一人一人をめざめさせてこそ、革命が成就されるのです。平和革命、漸進的な無血革命、これが私達の主義ですし、そこに生きゆく人生こそ、物心ともに最も充実した青春の生き方だと思います。
 日蓮大聖人の仏法は、この法治国家、民主国家においては、随縁真如の智に基づいて布教すべきであり、また折伏で一人一人を覚醒させ、人間革命させていくという教えであります。
 今まではその通りに実践してきたが故に、今日の大発展があったのです。遠回りのようであるけれども、最も堅実で、最も価値的な道なのです。
 他の幾多の団体にしても、表面は派手なことをやっているようにみえても、内部は派閥があったり、我慢偏執にこり固まって乱れています。それでは、大きな、深い基盤はできあがらないのです。ですから、軽率にして非常識な行動のために、創価学会全体に非常に迷惑がかかるようなことは、厳に慎むべきです。せっかく皆さんが、真面眼に社会のなかで信用を勝ち取り、真剣に戦っているのに、一人の人の非常識な振る舞いのために、全部、水泡に帰してしまう。結局、その人の信心は火の信心であり、信心があるようで信心がない信者といわれても、しかたがないでしょう。そういう人がみんな、過去においても、宗門を弾圧させる原因となってしまったり、非常に宗門全体を苦しめる結果になっています。
 したがって常識豊かに、だれがみても「なるほど」という戦いをすることが、日蓮大聖人の仏法にかなった修行であり、時にかなった現代の仏道修行であることを申し上げておきたい。

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