Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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人間革命から社会革命へ  

「池田大作講演集」第2巻

前後
1  十字御書にいわく、
 蓮はきよきもの泥よりいでたり、せんだん栴檀かうばしき物大地よりいたり、さくらはをもしろき物・木の中よりさきいづ、やうきひ楊貴妃は見めよきもの下女のはらよりむまれたり、月は山よりいでて山をてらす、わざわいは口より出でて身をやぶる・さいわいは心よりいでて我をかざる
2  これは、有名なお正月の御書であります。「蓮はきよきもの泥よりいでたり」――蓮は、非常に清いものであります。また蓮というのは因果倶時を示しております。普通は花(因)が咲いてから実(果)がなりますが、蓮の場合は花と実が一緒にパンと音を立てて咲くからです。二千年前の蓮の種が今、大きく花を咲かせているという不思議な花です。その蓮華の花は清いものではあるけれど、どこに咲くかといえば、泥沼の中に咲くのです。泥沼が深ければ深いほど、清らかな大きい花が咲くといわれております。
 蓮が土泥の中から清浄な花を咲かせるのと同じように、私どもには悩んだり、貧乏したり、批判をうけたり、泥沼のような、なにやかや苦しい、いやな世界があります。そのなかから、本当の信心によって、本物の幸福という、蓮の花が咲くのです。私達は社会・人生にあって、その泥沼を避けてはいけない。どこか他の所に行けば苦悩から抜け出して幸福になれると思ったら、そんなものではありません。全部、本有常住で、自分のいる所、自分の家、自分の勤めている所、そこから本当の人間革命ができるのです。
 「せんだんはかうばしき物大地よりをいたり」――栴檀というものは、香ばしいにおいを発する貴重な香木でありますが、この香木は、どこに生えるかといえば、大地であります。人に踏まれ、風雨にさらされる、そういう大地のなかから、あの香ばしい栴檀は、ぐんぐんと生長していくのです。金のなかから生えるのでもない。また、ダイヤモンドのなかから生えるのでもありません。大地から生長するのです。ひるがえって、私どもの立ち場で”大地”とは何か。それは民衆であり、庶民であります。すなわち、最も苦しみ悩んでいる民衆のなかに、庶民のなかにこそ、本当の幸福はあるのだという意味です。有名人は必ずしも幸福ではない。それは虚像だからです。大臣の息子や財閥の息子が幸せなのでもありません。平凡な庶民として、人間らしい正しい生活をして、信心という最高の妙法の境智冥合によって顕現された生命、生活、これが最も香ばしいものであります。
 「さくらはをもしろき物・木の中よりさきいづ」――桜は、愛すべきものであります。その花は五弁の花びらをつけ、特に満開時には非常に美しい。しかしそれは、突然、空中に咲くのではありません。大地に根を張った木のなかから花を咲かせるのです。冬にみると、枯れ木のような木ですが、そのなかから、あのような美しい花が咲き出るなどということは考えられない。しかし、現実に春になれば見事な花を咲かせることは疑いない事実です。その木は、風雪に耐えなければならない。それから枝を虫に食われることもあります。しかし、時がくれば、満開となる。これは天地自然の道理であります。同じように、私達も、幸福という大地に根を張るならば、必ず時がきて満開になる、幸せになるという、その信心を象徴して、桜の木を例示されているのです。種をまいてもすぐに花は咲かないように、ある程度時間は必要です。
 なお、正本堂の周辺に何万本という桜を植えることにしました。すでに少しずつ植え始めているところもあります。その桜が満開になったとき、その花びらを肩にうけながら散歩し、おしるこを食べ、また甘酒を飲みながら、本当に信心してよかった、これ以上の満足の境涯はない、子供や孫に守られながら、想像を絶するような幸福な人生であった――こういう人生を生きていこうではありませんか。
 「やうきひは見めよきもの下女のはらよりむまれたり」――楊貴妃は、中国唐時代の王妃で、当代随一の美女といわれた。その最高の王妃であっても、下女の腹から生まれたという。
 同じように、最も不幸な人、低い身分の人が、最高に幸せになる、これが妙法です。学歴があろうが、なかろうが、今、貧乏であろうが、職場の役職が下であろうが、幸せという問題はどうしようもない。自分は幸せだ、生きていること自体が幸せだ、楽しいのだ、こういう人がいちばん幸せといえるのではないでしょうか。
 「月は山よりいでて山をてらす」――月はいきなり天空に浮かんで輝くのではない。山際から出てきて、そして山を照らす。また水平線から出て海を照らす。このように、どこかから出てくるが、そこには縁になるものが何かある。そして、その場所を照らしていく。これは本有常住の理であり、自分の境遇で、人間革命し、幸せをつくっていく以外にないということです。
 「わざわいは口より出でて身をやぶる」――これは仏法を批判することです。大宇宙のリズムに反することです。どんなに今偉い人であっても、法則に反逆すれば破滅します。反対に「さいわいは心よりいでて我をかざる」――つまり、信心によって、自分というものを福運で飾る。結局はだれかが自分を破壊するのでもなく、幸福にしてくれるのでもない、不幸にするのでもない。身をやぶるのも、飾るのも、全部、自分である。その自分というものを解決していくというのが日蓮大聖人の仏法です。その仏法を私達はたもち、実践しています。その人が人間革命すれば、即家庭も革命され、即それが社会革命につながっていきます。
 社会の繁栄と世界平和が実現されるのです。そうならなければ、自分も守られない。これは地球が自転しながら太陽のまわりを公転しているのと、同じ道理になります。そういう意味において、どうしても二十一世紀のために、近くは七〇年代のためにも、日蓮大聖人の子供である私達が、勇気をもち、知性をもち、福運に満ちみちて、団結し、一切の人々、そして社会をリードしていきましょう。

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