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日蓮大聖人・池田大作

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唱題で全てを解決  

「池田大作講演集」第2巻

前後
1  妙法蓮華経を中心とする三部経の内、結経といわれる「仏説観普賢普薩行法経」のなかに「纖悔」について書かれている個所があります。
 「懺悔」は、もとより日蓮大聖人の仏法においては、不必要でありますが、他宗では無視することができない大きな問題の一つです。人間は本来弱いもので、虚栄に走りがちです。夫婦や親子の間でさえも、なかなか真実のことをいえない。ですから「懺悔」といって過去の過ちを告白することは、ほとんどが口からの出まかせになってしまうものです。
 ところが、日蓮大聖人の仏法では「懺悔」とは大荘厳懺悔といい、御本尊に題目をあげることに尽きる。それにより「衆罪は霜露の如し慧日能く消除す」の御文通り、一切の苦悩が解決する。露や霜は太陽が出てきたら、いっぺんに消えてしまうように、たくさんの罪は、唱題によって、全部消えてしまうのです。非常に簡単といえば簡単ですし、実質主義、合理主義ともいえる。また、人間主義、現実主義ともいえます。そこには、いささかのウソ、偽りもありません。
 たとえ、社会で取り残された人であっても、御本尊を受持し、唱題に励めば「妙とはの蘇生の義」「皆成仏道」の原理で、一切を変毒為薬し、幸福になり、新社会実現に貢献できるようになる。この仏法ほど現実の社会にあって偉大な宗教はありません。
 ところで、先の「仏説観普賢普薩行法経」のなかには、五つの「懺悔」について、次のように述べています。
2  如何なるをか刹利、居士の懺悔の法と名づくる。刹利、居士の懺悔の法とは、但当に正心にして三宝を謗せず、出家を障えず、梵行人の為に悪留難を作さざるべし。応当に繋念して六念の法を修すべし。亦当に大乗を持つ者を供給し供養し、必ず礼拝すべし。応当に甚深の経法、第一義空を憶念すべし。是の法を思う者、是れを刹利、居士の第一の懺悔を修すと名づく。
 第二の懺悔とは、父母に孝養し、師長を恭敬する、是れを第二の懺悔の法を修すと名づく。
 第三の懺悔とは、正法をもって国を治め人民を邪枉せざる、是れを第三の懺悔を修すと名づく。
 第四の懺悔とは、六斎日に於いて諸の境内に勅して、力の及ぶ所の処に不殺を行ぜしめ、此の如き法を修する、是れを第四の懺悔を修すと名づく。
 第五の懺悔とは、但当に深く因果を信じ、一実の道を信じ、仏は滅したまわずと知るべし。是れを第五の懺悔を修すと名づく。(大石寺版・妙法蓮華経並開結719㌻)
3  これを要約していえば、大荘厳懺悔の原理から唱題によって一切が解決するということです。
 現在のせちがらい世の中に「懺悔」するような人はいないでしょう。善悪についての真の基準もない世界となってしまった。悪に悪を重ね、言葉も悪くなり、社会も悪くなり、自分自身の生命も濁っていく。
 したがって「応当に甚深の経法、第一義空を憶念すべし」との経文に心すべきです。
 「甚深の経法」とは、文上においては法華経ですが、末法今時においては三大秘法の御本尊のことです。つまり、二十一世紀の世界と人類は、この妙法による以外に救済される方法は全くなくなってくるでしょう。私達は、その先駆けとして進んでいるわけですから、功徳も大きい。多少、大変なことがあるかもしれませんが、その偉大な功徳が、子孫末代まで大きく回向されることを確信していただきたい。
4  全て御金言・御聖訓にのっとった活動
 「第一義空を憶念すべし」とは、題目を唱えることです。「是の法を思う者、是れを刹利、居士」とは、ひとくちにいえば、仏法の実践者、修行者のことです。これを「第一の懺悔を修すと名づく」というわけです。すなわち、三大秘法の御本尊に題目をあげることを第一の懺悔というのです。私達は、毎日唱題していますから、罪は全部消え、そして福運を積むことができる。
 第二の懺悔とは「父母に孝養し、師長を恭敬する」ことです。「父母に孝養し」とは、父母に御本尊を持たたせることであり、また持たせようと努力している信心の姿です。
 「師長を恭敬する」――ここで、師長とは師匠のことで、別しては日蓮大聖人になります。総じては、私どもが学生時代におそわった先生に聖教新聞を送ったり、折伏してあげたりすることにも通じます。
 第三の懺悔は、王仏冥合のことです。正法、すなわち色心不ニの仏法、三大秘法の仏法を根底として、社会を繁栄せしめていくことです。「人民を邪枉せざる」とは、民衆をだましてはいけないということです。
 利害がからみ、民衆の幸福を心から願わず、みな名聞名利に走っていく――これ邪枉です。
 しかし、私達の場合は、真剣に新社会の実現を目指し、また日夜、血みどろになって仏国土建設のために活躍している。これこそ第三の懺悔を修することになるのです。私達の活動の裏づけは、このように御書や法華経に厳然とあるのです。
 私どもの行動は、御本尊根本であります。そしてまた、御書に書いていないことは、なに一つやっていない。全て御金言・御聖訓にのっとった現在の活動であります。その証拠に、みんな大きな功徳をうけている。故に学会員は偉大なる自負と勇気をもって進むべきです。
5  最高の仏道修行、社会への貢献、福運を積む実践
 それから、第四の懺悔とは「六斎日に於いて諸の境内に勅して、力の及ぶ所の処に不殺を行ぜしめ、此の如き法を修する、是れを第四の懺悔を修すと名づく」とあります。ちょっと難しい言葉ですが、現在でいえば、御授戒、座談会にあたります。
 座談会に出席して、一生懸命に指導、折伏したり、新入信者の面倒をみる。お寺へ御授戒に連れて行くことも、これにあたります。
 第五の懺悔とは「但当に深く因果を信じ、一実の道を信じ、仏は滅したまわずと知るべし。是れを第五の懺悔を修すと名づく」――「因果を信じ、一実の道を信じ」とは、御本尊を信じることであります。信心のための信心というような観念論ではないのです。信心即生活であるということをわきまえておかなくてはなりません。
 また「一実の道」とは、御本尊を根幹とした妙法流布の実践です。
 「仏は滅したまわずと知るべし」――仏の予言というものは、必ず実現できる。仏の予言を実現するために活躍していく――これが第五の懺悔ということになります。
 これらを要約すると、いつも私どもが実践していることばかりです。
 したがって皆さん方は、最高の仏道修行、社会への貢献、福運を積む実践をしているということを、更に確信して、自信をもって、伸びのびと、人生を歩していっていただきたい。

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