Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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難を乗り越える信心を  

「池田大作講演集」第2巻

前後
1  椎地四郎殿御書にいわく、
 これにつけても・いよいよ・はげまして法華経の功徳を得給うべし、師曠が耳・離婁が眼のやうに聞見させ給へ、末法には法華経の行者必ず出来すべし、但し大難来りなば強盛の信心弥弥いよいよ悦びをなすべし、火に薪をくわへんにさかんなる事なかるべしや、大海へ衆流入る・されども大海は河の水を返す事ありや、法華大海の行者に諸河の水は大難の如く入れども・かへす事とがむる事なし、諸河の水入る事なくば大海あるべからず、大難なくば法華経の行者にはあらじ
2  「これにつけても・いよいよ・はげまして法華経の功徳を得給うべし」――「これにつけても」ということは、おのおのの立ち場、立ち場で考えればよい、との意です。非常にいやな思いをしなくてはならないときもあるだろう。その原因は三障四魔であり、三類の強敵であり、なかんずく僣聖増上慢です。なにか問題や悩みが起きてきたら、いよいよ信心を奮い立たせて、自分の分野、自分の境遇において戦いきりなさい、ということです。そして「法華経の功徳を得給うべし」――必ず大功徳を得ることができる、得られないわけは、絶対にないのです。
 「師曠が耳・離婁が眼のやうに聞見させ給へ」――これは、有名な中国の故事です。師曠とうのは周の時代の人で、どんな微妙な音も聞き分けることができるし、遠く離れた声も、だれの声だかわかるというすばらしい耳をもっていた、ということです。いわば地獄耳といえましょう。
 離婁は黄帝の時代の人で、百歩離れたところの毛の先を見ることができるという眼をもっていた。千里眼といえるかもしれぬ。
 すなわち、戦いにおいては、神経質すぎるくらいに気をつかっていきなさい、とのことです。そのうえに立って、大胆な行動をとることです。もう一つの意味として、自分の才能・智恵を広宣流布のために、あらゆる面において発揮していくことにもなります。百歩先にどういうことがあるかわからないが、いざというときには信心で戦うのだ、という心構えが大事です。細心の注意を払うことです。
 「末法には法華経の行者必ず出来すべし」――これは日蓮大聖人のことである。しかし、広宣流布の時を今日迎えた私どもは、法華経の信者であるとともに、法華経の行者ともいえましょう。悪口罵詈、猶多怨嫉と、いよいよ経文通りになってきた。「但し大難来りなば強盛の信心悦びをなすべし」です。
 大難が起きたならば強盛の信心ができるし、いよいよ、それを喜んで迎え撃ちなさい。この一言を忘れないでほしいと思います。

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