Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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広布の大願に生きよう  

「池田大作講演集」第2巻

前後
1  阿仏房尼御前御返事にいわく、
 いよいよ信心をはげみ給うべし、仏法の道理を人に語らむ者をば男女僧尼必ずにくむべし、よしにくまばにくめ法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身をまかすべし、如説修行の人とは是れなり、法華経に云く「恐畏の世に於て能く須臾も説く」云云、悪世末法の時・三毒強盛の悪人等・集りて候時・正法を暫時も信じ持ちたらん者をば天人供養あるべしと云う経文なり。
 此の度大願を立て後生を願はせ給へ・少しも謗法不信のとが候はば無間大城疑いなかるべし、譬ば海上を船にのるに船おろそかにあらざれども・あか入りぬれば必ず船中の人人一時に死するなり、なはて堅固なれども蟻の穴あれば必ず終に湛へたる水のたまらざるが如し、謗法不信のあかをとり・信心のなはてを・かたむべきなり
2  「弥信心をはげみ給うべし」――なにか困難に直面したならば、いよいよ信心に励むときと心得、このときをチャンスとして成長していこう、自分を人間革命していこう、こう考えていきなさいということです。
 事にあたって、みんな悩みがあるでしょう。所詮は、自分自身との戦いなのです。一生涯、その連続であり、一切、信心で自分自身に打ち勝っていくところに、宇宙大の境涯が開け、福運が積まれていくのです。
 物事には潮時というものがあります。海にも上げ潮と引き潮がある。魚を釣る場合にも、この潮時を見定めることが大事です。秋にカキをもぐときも、またイネを収穫するにも、チャンスがあるではありませんか。
 それと同じように、信心のチャンスは「弥信心をはげみ給うべし」のときなのです。御本尊に祈りを込めて願い、そして、その祈りを込めたことに対して実践しぬくということです。
 そうすれば所願満足で、一片の悔いも残りません。それが成仏です。こう繰り返していくうちに、永遠の幸せが全部つかめるといえましょう。
 「仏法の道理を人に語らむ者をば男女僧尼必ずにくむべし」――社会性は大事にしていきなさい。日蓮大聖人の時代は、逆縁の時です。現在とは時も違うし、背景も違う。今は順縁広布の時です。最大限に社会性を重んじ、常識ある行動をしていただきたい。ただし、大聖人の仰せ通りに仏法を実践していった場合に、必ず批判はつきものです。美人はねたまれてあたりまえです。勉強できる者はやきもちをやかれ、金持ちは憎まれます。これが世間の道理なのです。
 同じように、妙法は、永遠の幸福を確立していくという宇宙の鍵ですから、宇宙のリズムにのっとった私どもの行動は時代の先端を行くものです。それをねたむが故に、世間の人が批判したり、憎むのは当然なのです。恐れてはいけない。どんなに批判されようが、なんといわれようが、「よしにくまばにくめ法華経・釈仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身をまかすべし」の決意でいくことです。とにかく御本尊に題目を唱えきっていきなさい。大聖人の仰せ通りに進みなさい。こういう人を「如説修行の人」というのです。
 「法華経に云く『恐畏の世に於て能く須臾も説く』云云」――「恐畏」とは恐ろしいこと。恐ろしい社会において「能く須臾も説く」ということは、折伏です。
 「悪世末法の時」――今です。
 「三毒強盛の悪人等・集りて候時」――末法は三毒強盛の人が多い。右を見ても、左を見ても、金、名誉欲、いさかい、それから利己主義にしばられている。その本質を見ぬいていくのが仏法という鏡なのです。
 「正法を暫時も信じ持ちたらん者をば……」――私達のことです。御本尊を持ちきっていく者を、天人供養あるべしという経文である。本当に信心を全うしていけば「天」も、みんな私達を守る働きになる。それから「人」――お互いも守り合う。また社会の人であっても、なんらかの形で、有形・無形にかかわらず私達を守る。
 「此の度大願をて後生を願はせ給へ」――今はちようどチャンスです。批判されたり、大きな事件があったり、大きな目的があったり、そういうときに大願を立てなさいというのです。”ようし、これをやりきっていこう。御本尊様、どうかこれをかなえてください”こう願いきることです。
 「少しも謗法不信のとが候はば無間大城疑いなかるべし」――また、せっかくの願いも、少しの謗法不信があったなら”九仞の功を一簣に虧く”と同じ結果になってしまいます。
 「譬ば海上を船にのるに船おろそかにあらざれども・あか入りぬれば必ず船中の人人一時に死するなり」――船は立派で、頑丈であっても、水が入ってしまったならば、船は沈没し、必ず船中の人々は一時に、溺れ死んでしまう。また、ちょっと穴があいていれば、雨が漏るでしょう。
 「すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」です。仏法は道理です。やるべきことをやっていないと魔がたよりをえて、せっかく今まで何年も、また十何年も信心を続け、功徳を積んだものまで消してしまうことになります。しかし大願を立てた場合には、少しぐらい穴があっても、それを直すことができます。
 「なはて堅固なれども蟻の穴あれば必ず終に湛へたる水のたまらざるが如し」――「なはて」とはあぜ道です。どんな堅固なあぜ道であっても、蟻が通れるぐらいの小さな穴があいていれば、だんだん水が入ってきて、最後は崩れてしまうではありませんか。
 「謗法不信のあかを・とり」――真面目な信心、純真な信心、強盛な信心を貫きなさいということです。
 「信心のなはてを・かたむべきなり」――これは団結です。すなわち、信心とは団結であり、これが最も大事であると仰せなのです。この信心と団結で、今までの未會有の創価学会の発展をみました。本気で信心し、団結すれば、大偉業を成すことができるのです。

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