Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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金剛不壊の信心を貫こう  

「池田大作講演集」第2巻

前後
1  乙御前御消息にいわく、
 いよいよ強盛の御志あるべし、冰は水より出でたれども水よりもすさ凄冷まじ、青き事は藍より出でたれども・かさぬれば藍よりも色まさる、同じ法華経にては・をはすれども志をかさぬれば・他人よりも色まさり利生もあるべきなり、木は火にやかるれども栴檀の木は、やけず、火は水にさるれども仏の涅槃の火はきえず、華は風にちれども浄居の華は・しぼまず・水は大旱魃かんばつに失れども黄河に入りぬれば失せず
2  「いよいよ」という言葉は、よく御書のなかにみかけます。日蓮大聖人からお手紙をいただいて、「よしやる!」と決意する――「いよいよ」です。凡夫の私達は非常に惰性に流されやすい。しかし、ひとたび広宣流布の大きな戦いがあると、それだけ急激に私達の信心が進むのです。今までの惰性を吹き飛ばしてしまうことができます。これは、実は慈悲なのです。だれでも自分に悩みがあるときは、一生懸命信心に励みます。これは個人の「いよいよ」という決意であり、姿勢です。その後、信心成長し、個人の問題を乗り越えて、更に大きな問題に直面するならば、惰性のために遅れた分も「いよいよ」いっきょに取り戻すことができるのです。
 「いよいよ強盛の御志あるべし」――なにかを一つのきっかけとして、いっきょに進みなさいとの激励です。
 「冰は水より出でたれども水よりもすさまじ」――水は蒸気になるときもあるし、熱湯にもなる、氷という状態のときもある。同じ水でも氷は水よりもずっと冷たい。
 「青き事は藍より出でたれども・かさぬれば藍よりも色まさる、同じ法華経にては・をはすれども志をかさぬれば」――同じ信心をしていても、人が見ていようと見ていまいと、自覚をもって実践を重ねた人は、「藍より色まさる」――他人より色がまさる、つまり同じ学会員でも、功徳の相違というものは厳然とあるということです。同じ御本尊でも、信心、実践の強弱・多少によって、その人の実相は、みんな変わってしまう。それが因果の理法であります。
 「他人よりも色まさり利生もあるべきなり」というのは、利益であり、功徳です。実践しただけ自分が得をし、実践しないだけ損をするのです。
 私は戸田前会長のもとに、学会員としてやるべきことは、一心不乱にやってきた。現在あるのはその功德です。なんのとりえもない、体の弱い、貧乏な一人の青年だった。それほど、学歴があるわけでもない。それが一千万人もの人々と友達になれて、日本の第三勢力を築けるなどということは、大変なことです。信心を全うした功徳です。皆さん方も同じ御本尊を持っている。御本尊は平等大慧ですから、おのおのが自信をもって信心を全うし、実践しきって大福運を積んでいただきたい。
 「火は水にけさるれども仏の涅槃の火はきえず」――火は水を力ければ消えてしまう。しかし「仏の涅槃の火」つまり絶対的幸福、金剛不壊の信心は、誰人がどんなことをしても、壊すことはできない。これほど強いものはないというのです。総理大臣といおうが、大学者といおうが、大統領といおうが、国王といおうが、必ず、いつかは崩れるものです。信心というのは、字宙の根本法則ですから、絶対に壊れません。
 上げ潮の場合には、いかなる手段で押えようとしても、前進は止まらない。すでに一つの法則となっているのです。同じように、南無妙法蓮華経という法則はいかなる手段をもってしても消すことはできないのです。その功徳の現われとして、一千万人という、誰人も考えなかったほどの仏の軍勢になったではありませんか。
 「華は風にちれども浄居の華は・しぼまず」――妙法の福運というのは、もうしぼまないのです。商売、才能、金などの普通の福運の場合には、いつかはしぼんでしまいます。
 たとえば、極端な話ですが、ある人が火災にあって、一千万円相当を、焼失してしまったとする。しかし信心ある人は、そのときは一時的になくなったとしても、必ず一千万円の財産を築き上げることができます。時の経過と共に、更にそれ以上に福運を積んでいく。これが妙法の福運であり、壊そうとしても壊れないのです。それには実践がなければなりません。何ボルトの電流であっても、スイッチを切ってしまえば、なんの価値もありません。この偉大な仏法も実践しなくなったならば、それで終わりです。実践さえ続けていけば、その福運は消えません。どのような外部の社会的圧力、破壊力が加わったとしても、一瞬壊れたようであっても、必ずすぐ立ち直ってしまう。
 「水は大旱魃に失れども黄河に入りぬれば失せず」――水というものは、大旱魃のときには、いくら注いでも、すぐにサーッと吸いとられてしまうが、中国の黄河に流入すれば滔々たる流れとなります。それと同じように、どんなにむだな修行を積み重ね、虚栄の人生を追い求めようとも、絶対的幸福はつかめないし、福運も積めない。悲哀と悔いしか残りません。しかし、黄河に流れ入る水のように、私達の行動というのは、たとえ現在は、一滴一滴の水にすぎないとしても、大河の流れとなって決して消滅することはない。南無妙法蓮華経という大リズムにのっとった私達の行動というのも、実はこの一滴の水である。一滴一滴に価値があり、それが集まって大河を支えているのです。
3  私達は大聖人の子であり、法王の子です。誰人にも使命があり、おのおのの分野、境遇、立ち場で、広宣流布に励む地涌の菩薩です。だれから命令されたのでもない、自ら地より涌き出たのです。生命の発露として、自身の自覚として、最高の宇宙の法則にのっとっての人生なのである、と考えるべきです。
 現実には、いろいろ大変なことがあるとは思います。悩みのない人は一人もいない。その悩みが全部、妙法の力によって、変毒為薬されていくことも間違いありません。悩みに負けず、自分自身に挑戦して勝っていきましょう。

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