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日蓮大聖人・池田大作

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関西センター開館式 第二の十年に厳然たる実証を

1969.11.5 「池田大作講演集」第2巻

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1  関西の皆さん方は団結と信心で”常勝関西“としての立派な足跡を残してきました。それは皆さん方の力です。その功徳は大きいでしょう。私も御本尊に、今までの功労・功績、これから十年間の発展・繁栄、またご一家の健康と繁栄を心からお願いしておきました。安心して進んでいただきたい。
 十年間というのは、十年ひと昔で、大きい節であります。十年間で大興隆する場合もあるし、逆に大きく衰亡してしまう場合もあります。国においても、一家においても、人生においてもしかりです。私もおかげさまで十年間会長の任を全うして、皆さん方の支援によって創価学会の大発展を成し遂げることができました。ある評論家は「二百年に通ずる仕事をしているだろう」といっておりましたが、これも皆さん方の力によるたまものであります。今は昭和五十四年を目指して進んでおります。それはちようど七つの鐘の最後にあたります。
 アレキサンダー大王は、その思想の善悪は別として、十年間という期限で、交通・通信機関の不便な時代でさえアフリカ、ヨーロツパ、アジアにまたがる大帝国をつくっているのです。
 ナポレオンも、十年間で皇帝となり、十年後に没しています。現代史においては、毛沢東は、新民主主義論を唱えてから、十年間で中共政権を樹立しております。
 全部、十年間で決まります。学会にとって、今までの十年はよかった。これからの十年も、真面目な信心、強盛な信心、実践の信心、この三つを今までと同じように繰り返していくならば、どんなことでも打ち破り、福運を開き、十年先に想像もっかない実証ができるはずです。
 今の何十倍、何百倍の革命ができると確信してもらいたい。想像もつかない功徳をうけます。いくら今、貧乏であっても、子供がどれだけ福運をつけるかしれません。今どんなに成績が悪くとも、十年先にどんなにいい就職先があるかしれません。無上宝聚不求自得の原理で、信心さえ全うしていけば、必ず御本尊が私どもを最高のコースへきちんと位置づけてくれます。
 今まで十年間で、疑ったり、文句いつたり、必ずしも真面目な信心ではなくても大変な功徳があったでしょう。いわんや信心に徹してごらんなさい。機が熟しているのですから、本当に御書の通り、御本尊をだきしめて、勇気をもって、実践していくならば、どれほどの偉大な功徳があるか測り知れません。
 批判した人が私達を幸せにしてくれるのでもなければ、批判した雑誌や新聞が幸せにしてくれるのでもありません。大部分が批判のための批判です。仏法を本当に実践し、深く究明しているのは、私どもしかないのです。外部からの批判・中傷に紛動されて、退転するなどというのは、全く愚かであります。
 私達の人生において、一般的なことについては自由になんでもできます。というのは、たとえば、着物を買いに行きたいと思えば、これはお金さえあれば買えます。東京に行きたい、学校に行きたい、朝起きなくてはならない、買い物に行かなくてはならない、こうしたことも自由自在です。
 しかし、永遠に幸せになっていこう、最高の人生を生きていこう、という場合には、なかなか思うようにいかないのが、娑婆世界です。また子供を思う通りに育てられない、仕事が順調にいかない、付き合いが思うようにいかない、というのもあります。
 更に深い次元である、一念の奥底で願い、考えるようなことは、思うようにいかない場合が多い。宿業・罪業甚重の自分の人生を徐々に打開して、所詮は思い通りの最高に所願満足の人生を送り、またそれを仕上げていけるというのが、御本尊であり、信心なのです。
 議員になった、有名人になったといっても、それらは表面的なことです。もっと奥の、家族の問題、自分自身の本質というものを、解決しているかといえば、絶対に解決しておりません。なにかの縁にふれると、ぼろが出て自殺したり、離婚したり、大変な悪循環ばかりしているのが実相です。
 妙法の世界は、ただ南無妙法蓮華経であります。事実のうえで境涯を開き、宿命転換できるということにおいては、どんなに高名な哲学者の思想よりも、千人の学者の学説よりも、南無妙法蓮華経を一遍でも、大御本尊に唱えることのほうが絶対の要件です。ですから、信心だけは、粘り強く、ただ、南無妙法蓮華経を唱えながら突き進んでいっていただきたいのです。それが根幹になれば、あとはしぜんに解決します。雲がだんだんと、太陽の力によって散っていくようになっていくのです。
2  次に申し上げたいことは、如説修行抄に「ひとたびは喜び、ひとたびは嘆き」という原理があります。
 実生活において、信心しているからといって、ただちに一から百まで願いがかなうというものでもありません。すぐにはかなわないという段階のものは、たくさんあります。子供が学校に行かないので、弱った。お父さんがまた退転した。やれお母さんがなかなか自分の気持ちをわかってくれない。千差万別の悩みが、刻々、瞬間瞬間、生滅しているのが人生です。定規のようなわけにはいかない。いつも動いているのですから、一定の規準で律することができない、どうしようもない場合が多いといえましょう。
 故に「ひとたびは嘆き」――子供が学校に行かないなどという場合、それは嘆くのが当然であって、子を思う本当の親の姿ともいえます。次にその嘆きを縁として、どういう智恵を働かせて子供をリードしたらよいかを考えるわけであります。
 御書に「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへさせ給へ」とあります。「苦楽」――苦しくとも南無妙法蓮華経、楽しくとも南無妙法蓮華経と唱え、ひとたびは喜び、ひとたびは嘆き、そういうことを繰り返していいのです。
 いずれにせよ、南無妙法蓮華経を根幹として、日蓮大聖人の仰せ通りに、純粋に信心をまっすぐに貫き通していけば、最後は全部解決します。必ず福運がつき、なんらかの形でその実証は現われます。御本尊が解決してくれると確信することが信心であります。
 だいたい娑婆世界というのは、堪忍の世界といわれているように、誰人たりとも苦しまなければならないのです。苦労の集合体みたいなものです。
 朝起きるのがつらい、学校に行くのがおっくうである、仕事が楽しくない、給料が少ない――こうした生活、世界が、妙法力という太陽に照らされたとき、煩悩即菩提の原理の通り、全部幸福の要件に変わっていくのです。それが生命の実体です。南無妙法蓮華経を唱えない人生は、闇であり、砂上の楼閣です。いつ崩れるかわからない。本当の意味の幸福を実感することはできないのです。御本尊を持った以上、たとえ現在がどのような境遇であろうと、幸福境涯に変わっていくことは間違いありません。ある人は悠々と、ある人は無我夢中に、ある人は悩みながら、ある人は忍耐強く、自分らしく進んでいきなさい。全部、御本尊が守ってくださいます。

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