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日蓮大聖人・池田大作

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第32回本部総会 人類史の源流、環境革命から人間革命へ

1969.5.3 「池田大作講演集」第2巻

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1  青葉、若葉の茂る五月のこの佳き日、第三十二回本部総会を、総本山より日達上人猊下のご来臨を仰ぎ、全国ならびに全世界の代表の同志約二万人の出席を得て、ここに盛大に挙行しえましたことを、心から御礼申し上げるものであります。(拍手)
 また、来賓の皆さま、本日はご多忙のなかをご出席いただきまして、本当にありがとうございました。(拍手)
 私も就任十年目に入って、おかげさまでますます元気で指揮をとることができ、これも皆さま方の絶大なるご支援のたまものと、深く感謝申し上げるとともに、更に自己自身をみがき、勉強し、力の限りを尽くして、広宣流布の新舞台を切り開いてまいりますので、今後ともよろしくお願いいたします。(大拍手)
2  個人と家庭に基盤おく本源的革命
 顧りみますれば、本年を「建設の年」と銘うって出発してよりはや五か月、本日をまた新たなる出発として、妙法広布の盤石なる布陣の建設のため、また、個人にあっては、希望の風そよぐ”前進する家庭”の確立のため、更にたくましく、そして朗らかに、有意義な年輸を刻んでいっていただきたいと思うのであります。
 私は「建設の年」の意義の意義を”個人の建設””一家の建設””社会の建設”であると申し上げました。当初、最も強調したのは、自己自身の建設でありました。この個人の建設の延長として、私どもは更に一家の限りない建設に焦点をおいていきたい。
 いうまでもなく、一家の真の和楽の建設は、信心をたもった人が、一家の太陽の存在として光り輝いていく以外にない。清流のごとく清く、太陽のごとく明朗に、全てを価値創造に向かわしめていく、その一人一人のけなげな信心は、濁流のごとき暗黒の社会にあって、必ずや崇高に輝き、新社会建設の大波をつくっていくことでありましょう。
 私どもの革命は、個人と家庭に基盤をおいた、本源的な革命であります。どうか、潤いに満ち、談笑に包まれた”めざめたる”新しい家庭の建設を誇り高く進めていっていただきたいことを、心より念願するものであります。(拍手)
 本日より来年の五月三日にいたるこの一年間は、さる昭和三十五年の会長就任からの満十年間の総仕上げの一年間となります。同時に、それは、きたるべき”第七の鐘”の昭和五十四年、五十五年にいたる第二の十年間への飛躍台となることを、どうか幹部諸兄は知っていただきたい。
 この一年間を展望しますと、本年十月十二日には、本門戒壇たる正本堂の定礎式をとり行なう段取りとなっております。すなわち、正本堂は一昨年の十月十二日に建立発願式を終え、昨年十月十二日の着工大法要をもって建設工事に入り、現在、地盤の掘り下げ、土台の固めを進めております。本年の十月十二日には、大御本尊をご安置申し上げるべき須弥壇の基底部分に、世界中の同志の手によって集められた世界百三十五か国の石を埋め、その礎と定めるわけであります。
 この定礎式をもって、正本堂本体の建設にいよいよ本格的にかかるわけでありますが、このように、礎石を世界百三十五か国から求めた建て物は、おそらく世界に前例を見ないでありましょう。これこそ、一閻浮提総与の大御本尊を安置し奉るに最もふさわしい礎であり、人類万年の幸福と平和の礎であると私は確信したいのであります。(大拍手)
 将来、世界にこの仏法が流布し、あらゆる国の民衆が、総本山富士大石寺にやってきたとき、この正本堂の礎石に、自国の石が含まれていることを知って、必ずや心からの親しみをおぼえるとともに、そのような基盤をつくってくれた先覚者達に、感謝の念をささげるにちがいないと思います。
3  七百五十万世帯の達成へ
 きよう五月三日現在、国内における学会世帯数は、七百二万七千二百九十六世帯であります。そこで、本日から来年五月三日までの一年間の折伏目標として、七百五十万世帯達成を掲げて進みたいと思いますが、いかがでありましょうか。賛成の方は手を上げてください。(大拍手、全員挙手)
 布教は宗教の生命であります。布教なき宗教はもはや”死せる宗教”であります。思えば、戸田前会長は批判と嘲笑のなかで、七十五万世帯の達成という生涯の願業を成就されました。私はそれをうけて、来年の恩師の十三回忌、そして就任十周年を七百五十万世帯で飾り、恩師戸田前会長に報いる道とさせていただきたいのであります。(大拍手)
 かつて、昭和四十七年五月までの目標として掲げた六百万世帯は、すでに完全に達成し、本当は四十七年までは、もう折伏をする必要はないともいえます。(笑い)しかし、大聖人のご遺命である折伏の流れは、永遠に止めてはならないし、更に日本の現在と、未来の進路を考え、全民衆の”心”を読むときに、ここでより深く、強く、できるかぎり広宣流布の基盤を盤石にしておきたいのであります。
 ただし、数のみにとらわれて、いいかげんな折伏をするようなことがあっては断じてならない。かえって、それは折伏の精神に反することになります。真心こめて折伏し、真剣に面倒をみてあげて、なおかつ退転していくのは、退転する人自身の問題で、この場合は折伏した人に罪はない。
 真剣に戦う人は、相手が将来、退転するとしないとにかかわりなく、因果の理法に照らし、大功徳をうけることは当然である。また確固たる楔を打ち込んでおけば、たとえ退転した人でも、めざめるのは早い。したがって、退転することを恐れて、折伏をためらう必要は決してない。
 むしろ”折伏しないこと”それ自体を恐れるべきでありましょう。どうか、道を求めゆく人救うため、真実の幸福の道に入らしむるため、自己自身の人間革命のため、そして、妙法の広宣流布のため、勇敢に、そして伸びのびと活動を進め、地涌の菩薩の使命を全うしていただきたいのであります。(大拍手)
4  世界が学会をますます注目
 なお、来年一九七〇年には、万国博覧会が日本で行なわれます。ご承知のごとく、万国博覧会は、一八五一年、ロンドンで第一回が開催されて以来、数年ごとに各国持ち回りで行なわれている国際的な行事であります。最初のころは、機械・技術文明の発達を展示することが中心でありましたが、今世紀に入って、二つの大戦にはさまれた時期は、芸術に主眼が移り、第二次大戦後、すなわち二十世紀後半に入ってからは、人間性の尊重という面に重点がおかれるようになったといわれる。
 今度の万国博覧会は”人類の進歩と調和”というテーマで、大阪の千里丘陵を会場にして行なわれることになっておりますが、期間も約半年と長く、入場者もおそらく延べ三千万人ぐらいに達するのではないかといわれています。
 世界各国から集まってくる人々の数も、相当数に達するでありましょうし、世界の注目が日本に集まることも当然なことであります。それにともなって、この日本における新しい精神運動、宗教運動、大衆運動としての創価学会の存在を、心ある人々は、ますます注目してくるにちがいない、と私はいっておきたい。
 いずれにせよ、この一年間の私どもの戦いは、三年、五年の戦いに匹敵する重要な意義をもっていることを誇りとし、ともどもに、若々しく、希望に燃え、そして、自信に満ちみちて、更に一歩前進の駒を進めてまいろうではありませんか。(拍手)
5  時代が待望する創価大学の創設
 さる四十四年四月二日に起工式を終え、その後、いろいろと話題を呼んでおります創価大学について申し上げたい。
 創価大学創立の基本理念等については、すでに昨年の本部総会の席上で申し上げた通りであります。現在、世間においては、各大学で紛争が続発し、既存の理念や方策をもってしては、律しきれない深刻な社会問題と化していることは、ご承知のことと思います。この果てしない泥沼に入った大学問題の実体こそ、新しい理念と思想による、全く新しい大学の出現を待望する時代の表徴であると考えたい。
 創価大学は、まさにこの時代の要望に応える新時代の学府でなくてはならない。またそれは同時に、破壊と混乱に終始している今日の大学革命のなかにあって、初めて芽ばえた建設の象徴であり先駆でもあります。
 創価大学の第一の特色は、教授は、たとえ無名であっても、靑年のように旺盛な研究意欲をもち、教育に生命をかけて取り組んでいく人をもって構成するということであります。教授が有名だから立派な教育が行なわれるとはかぎらない。
 かつて明治維新の原動力となった長州・萩の松下村塾は、吉田松蔭という一人の学究が師匠であり、集まった生徒も下級武士のであった。今でこそ、吉田松陰といえば有名ですが、当時は片いなかの無名の学者にすぎなかった。しかも松陰は、幕府に捕えられて刑死したのが三十歳でありますから、子弟を養育したのは二十歳代のころになります。名もない貧乏な青年が開いた、ひなびた松下村塾という私塾が日本の運命を変える原動力となり、近代日本の先駆けとなる人材を輩出するなどということは、当時のだれが予想しえたでありましょうか。
 いかなる革命であれ、真実の革命は無名の青年によって初めて成し遂げられるのであります。創価大学もまた同じであります。次代の日本の運命を決定し、世界平和を築いていくのは、無名の教授と無名の学者とによってつくられていく創価大学をおいて、ほかにはないと断言しておきたいのであります。(拍手)
 創価大学は、まずそうした人々によって中核を固め、あとはテーマに応じて広く内外の一流の学者、創価大学設立の精神に賛同する人々にも、希望に応じてどしどし教壇に立っていただくことも考えております。私も勉強もさせていただきたいと思っておりますし、もし、大学当局よりお許しをいただければ、文学論の講義をさせていただきたいと思っております。(拍手)だが、だめでしょう。(笑い)
6  師弟不二の教育観で理想の学園
 教授と学生との関係は、相互に対峙する関係ではなく、ともに学問の道を歩む同志として、あえていえば、先輩と後輩といった、あくまでも民主的な関係でなくてはならない。
 今日の大学問題の行き詰まりも、直接的な原因をたずねてみれば、やはり教授と学生との隔絶感、対立思想にある。かつての西洋中世の封建的な師匠と弟子との関係から生まれた相対的な考え方では、これからの青年達、学生達を納得させ、引っ張っていくことは、もはやできません。
 仏法の師弟観は、根底は師弟不二であり、仏法の道をともに研鑽する同志であり、友達の間柄であります。これが最も民主的な師弟の関係であり、本来の師弟観なのであります。これからの大学においても、この仏法の師弟不二の教育観に基づいた、新しい教授と学生の関係性が、樹立されなければならなくなってくると思うのであります。
 したがって、創価大学は、学内の運営に関しても、学生参加の原則を実現し、理想的な学園共同体にしていきたい。
 なお現在、創価高校、創価中学は、男子だけの学校でありますが、当然、創価大学は女子にも平等に門戸を開放し、男女共学にいたします。(拍手)
 また、これらは最初からは無理かもしれませんが、通信教育や夜間部もできるだけ早く始めたい。夜間部ができれば、昼間働きながら夜勉強することが可能でありますし、通信教育ならば、年齢、職業、居住地等に関係なく、あらゆる人が勉学にいそしむことができることになります。
 ともあれ、創価大学は皆さんの大学であります。東大などのような官制の大学でもなければ、一部の私立大学にみられるような商業主義の大学でもない。皆でつくり、皆で勉強し、そして次代への偉大な遺産としていきたいのであります。
 なお、できうれば講師としては、日本中いな世界中の一流学者を招くようにもしたい。また教壇に立つのは、なにも専門の学者でなくても、たとえば、見識のある一流の事業家に経営学の講義をしてもらったり、国際情勢については、一流ジャーナリストに、また法律の問題ならば現実に法曹界で活躍している裁判官や弁護士、検事の人達に教壇に立ってもらうことも考えております。
 設備についても、近代的・合理的な最新の設備をどしどし取り入れてまいります。語学の学習については、これは創価学園でも採用しておりますが、LL教室、自然科学部門では最新の実験設備、またその他の部門でもテープレコーダーや映写設備等を教室にセットし、授業のなかで自在に使えるようにしたい。
 また将来の構想の一つとして、たとえば東西文明のかけ橋であり仏教東漸の道となったシルクロードへの学術調査団の派遣、国内では邪馬台国の実地調査等にも取り組んでいってはどうかと考えております。
 更に人間主義経済の研究、すなわち資本主義、社会主義を止揚する、人類の新しい経済のあり方について、理論的・実践的な研究もしていったらどうかと思う。また人間史観の研究、すなわち唯心史観、唯物史観に対して、生命哲学のうえに立脚する新しい歴史理論の確立などもやってはどうかと提案しておきます。(拍手)
 なお、昼間学ぶ学生については全寮制にしたい。バランスのとれた、健全な社会人として、全体人間をつくっていくうえには、どうしても全寮制が必要であります。しかしながら、四年間通じて全員を寮に入れることは、その設備だけでも大変です。一年あるいは二年だけでもよい、親元を離れ、甘えた気分を一掃して、共同生活の経験を積むことは尊いことです。寮生活をすることによって、生活のあらゆる面で互いに研鑽しあうことができるし、緊密な連帯感が生まれることも期待できると思います。
7  新しき大文化建設の揺籃
 ここで私は、創価大学の基本理念として、次の三つのモットーを提唱しておきたい。
 一つには『人間教育の最高学府たれ』
 二つには『新しき大文化建設の揺藍たれ』
 三つには『人類の平和を守るフオートレス(要塞)たれ』
 第一は、人間を、社会のメカニズムの部品と化し、人間性を無視している現代の教育界の実情に対して、創価大学は、あくまでも社会を動かし、社会をリードしていく英知と創造性に富んだ、全体人間をつくっていく学府でなくてはならないという意味であります。
 第二は、行き詰まっている現代文明のなかにあって、大仏法を根底におき、人間生命の限りなき開花を基調とする、新しい大文化を担っていくことであります。すなわち、第三文明を建設しゆく、あらゆる分野の人材が、この創価大学から巣立っていかなくてはならないということを意味します。すでに私どもは、芸術祭や文化祭等を通して、第三文明の萌芽ともいうべきものを世に示してまいりました。だが、まだこれらはほんの序分にすぎない。真実の第三文明の興隆は、創価大学に学び、創価大学より巣立った、未来の人材によってなされることを断言しておきたいのであります。(拍手)
 第三に、人類の平和を標榜したゆえんは、新しき文明の建設といい、未来社会の開拓といっても、平和なくしてはありえないからであります。いかにして平和を守るか、これこそ人類の担った最大の課題であります。過去の指導者は、常に世界を戦乱の渦中に巻き込み、民衆を不幸のどん底にたたきこんでまいりました。今、私どものつくる創価大学は、民衆の側に立ち、民衆の幸福と平和を守るためでなくてはならないと申し上げておきたい。(拍手)
 私は創価大学の創立者として、この三つの理念を、創価大学の基本モットーとして掲げたいと思いますけれども、いかがでありましょうか。(拍手)
8  学生連動に第三の道を開け
 なお、この創価大学の語に関連して私は、現今の学生運動の問題について、一言申し上げておきたい。
 現在の学生運動が、既存の大学のあり方、また、ひいては社会それ自体の矛盾と不合理への抵抗として起こっていることは、私も理解しておりますし、その青年らしい純粋な心情には同情もしております。しかし、その半面、純粋な青年の心情が、一部の扇動家や陰険な政治家によって利用され、無用の混乱を招き、下手をすれば、逆コースを歩みかねない実情にあることも知らねばならない。
 しかも、学生同士は、いわゆる三派全学連、代々木系と、幾つもの派閥に分かれ、互いに争って、無益な混乱を繰り広げていることも事実であります。私は、こうした学生の姿を見るにっけ、いじらしいし、可哀想でもあり、また正しい学生運動の発展のために残念に思えてならない。
 そこで、一つの、将来の問題として、もしも、このまま学生運動が混乱のなかに、いつまでも悪循環を繰り返していくとするならば、やがては健全な学生運動の発展のため、日本の将来のために、第三の道を考えることも必要ではないかと思う。こうした気持ちをいだくのは、私一人ではないと思いますけれども、皆さんいかがでありましょうか。(大拍手)
9  新しい思想を求める時代
 ある学者は、学生問題について次のように述べております。「この問題については、多く論じられているが、当事者の教授達だけの問題ではない。国のレベルで考えなくてはならないものである。親の反省であり、文化の反省であり、国の反省であるからだ。国民総ざんげの問題でもある」――私もその通りであると思う。
 だが、更に深く、未来への展望のうえから考えると、今日の大学問題、スチューデントパワーの意味するところは、所詮、既成の価値観、既存の思想・理念の崩壊であり、新しき価値観、新しき思想・理念を求める時代の流れであります。
 それでは、その既成の価値観、思想・理念とは、いったいどのようなものか。直接的には、資本主義などの経済理念、マルキシズムの経済・社会理念、カントやへーゲルの流れをひく人生観、世界観、我が国においては、封建的な社会理念等があげられるでありましょう。だが、これらのさまざまな考え方の基調をなし、これらの思想・理念を支えてきた根底の実体は、結局、宗教に帰着せざるをえない。
 そこで、三大宗教といわれる、キリスト教、イスラム教、仏教の実体をみておきたい。
 なかんずく、近代世界の主流をなしてきたものは西洋文明であり、その中核をなすものはキリスト教でありました。このキリスト教が、近世以降、西洋文明の世界的進出の過程で、どのような役割りを果たしてきたかということを振り返ってみると、我々は驚くべき事実に気がつくのであります。
 私は、アンチ・クリストでは、決してありません。キリスト教が過去、人類の歴史に、精神的に寄与した面があることも、十分に認めております。だが、歴史の示す事実を無視することはできない。一面のみに目を奪われるのではなく、全体を正しく見なければならないと思う。
 往々にして、キリスト教は博愛主義の教えであるかのように考えられておりますが、実体は決してそんな甘いものではない。たとえば、西欧諸国の植民地発展時代に、その植民地政策の遂行に最大の貢献をしたのがキリスト教であるといわれております。
 近世以降、スペイン、ポルトガル、フランス、オランダ、イギリスと、西欧列強が、アジア・アフリカ、中南米、北米の各地に、その植民地を広げてまいりましたが、植民地主義者の行くところ、常に影の身に添うごとく付き従い、植民地化の手助けをしたのが、キリスト教の布教師であったという。
 彼らは、無知な原住民に、ヨーロッパ人が神に選ばれた”優秀民族”であることを教え、”劣等民族”である原住民は、ヨーロッパ人に従属することが自然の摂理であることを教えた。
 これによって、植民地主義者達は、原住民の反抗をうけることも少なく、奴隷のごとく思うがままに搾取することができたというのであります。宗教を”アヘン”とする考え方も、こんなところから出たように思われてならない。
10  第二次世界大戦後、世界各国の植民地は続々と独立を勝ち取り、植民地問題は、すでに過去の悪夢とはなりつつある。とはいえ、長年にわたって搾取され続けてきた、低開発諸国の経済の基盤は弱く、無気力化した民衆の状態は、今なお深い暗影を、これらの国の前途に投げかけております。
 同時に、西欧民族が植え込んだ人種差別の思想は、今、ひるがえって欧米諸国自体のなかに、鋭い禍根を刻み込んでおります。アメリカにおける黒人問題もその一つでありましょうし、国際的にみれば、中近東におけるイスラエル紛争も、その人種差別観に淵源を発しているといっても過言ではない。
 また、欧米の青年のあいだに広がっているヒッピー化の波も、彼らがよりどころにしているものが、ヨガや禅であることから知られるように、欧米社会の伝統であるキリスト教に対する反抗精神のあらわれであるということもできると思う。
 これに対し、イスラム教の場合をみると、中近東、東南アジアに、なお数億の信徒を有しているとはいえ、すでに近代文明の時代の潮流からは、取り残された過去の存在となっております。
 この宗教は他宗に対して、比較的、寛大であったという説もありますが、かつて流布していった当時の様相を振り返ってみれば、全体としては”右手にコーラン、左手に剣”といわれるように、破壊と殺戮を繰り返しております。
 また、一日に五度も行なう礼拝の儀式、断食、その他の厳しい戒律等、およそ、イスラム教は近代生活には全くマッチしないといわざるをえない。更に、全てをアラーの意思とする信仰精神も、民衆のなかに無気力な風潮を浸み込ませております。
11  世界流布の宿命もつ大白法
 では、釈迦仏法の場合はどうか。過去の歴史を振り返ってみると、確かに釈迦仏法はインドでは阿育大王の時代の文化、カニシカ王時代のガンダーラ文化を栄えさせ、中国では天台大師の法華経迹門のの広宣流布による唐の大文化、日本では聖徳太子の仏教興隆による飛鳥、そして天平の文化、伝教大師の法華経迹門の戒壇建立による、平安朝文化の興隆等々をもたらし、幾多の輝かしい歴史を刻んでおります。
 だが、今日、すでに釈迦仏法はことごとく形骸化し、葬式と法事のみの宗教と化してしまっている。この根本原因は、釈迦仏法は正像二千年の時代を過ぎて、すでに末法に入ってしまったことにあることはいうまでもありませんが、もう一歩、現代的にこれを分析してみると、結局、釈迦仏法は僧侶仏教であり、貴族仏教であったといわざるをえないのであります。
 今日、東南アジアに残存している小乗仏教も、その実体は僧侶仏教といってよい。また、過去に文化の花を咲かせたインド、中国、日本の仏教の正統の流れといえども、その本質は、全て貴族仏教であったといわざるをえません。
 この釈迦仏法に対し、日蓮大聖人の仏法は、民衆の仏教であります。御本尊を受持し、題目を唱え、そして社会のなかに生ききり、繁栄していくという大聖人の教えは、いかなる職業の人も、いかなる国の人も、教育があってもなくても、全ての人が実践できる信仰なのであります。(大拍手)
 しかも「無量義とは一法より生ず」との経文のごとく、全ての哲学、全ての思想は、この南無妙法蓮華経の一法に帰着し、この南無妙法蓮華経の一法から出発するのであります。私は日蓮大聖人の大仏法こそ、階級も、職業も、そして民族も越えた真実の宗教であり、全人類に流布すべき宿命をもった大宗教であると、一生涯訴え続けていきたいのであります。(大拍手)
 この仏法の根底にある精神は慈悲であります。慈悲とはすなわち生命の尊厳であり、一切を生かしていくことにほかならない。生命軽視の風潮におおわれ、人間性の危機が叫ばれている今日の社会にあって、人類を根底から救い、そして繁栄させ、偏見と憎悪に満ちた現代社会を一つに結ぶ生命のきずなは、この生命の尊厳を説ききった宗教以外に絶対にないと確信し、第三文明の建設、そして世界広布を目指して、更にスクラムを組んで前進してまいろうではありませんか。(大拍手)
12  環境革命から人間革命の時代
 ここで、人類文化史のうえにおける仏法の意義を考えてみたい。思うに、人類のここ数千年の歴史は、環境革命の時代であったといえましょう。人類の英知は、まず火と、そして極めて素朴な道具を用いて、いかに食・衣・住を確保するかということから始まった。これは最初の技術革新であります。
 これによって生活環境に変革がもたらされ、社会を構成するようになった。その後、次々と技術革新が重ねられてまいりましたが、近代に入ってからは、産業革命を契機に、加速度的な技術革新の時代に入ったわけであります。
 特に二十世紀後半、すなわち、第二次大戦後の変革の速度は、もはや加速度的というより、爆発的と呼ぶほうがふさわしいといわれております。ある人の計算によると、人類の文化の誕生以来、一九四五年までの技術革新をグラフに表わすのに、十㌢の高さで示したとすると、一九四六年から一九六〇年にいたる、この十五年間の技術革新をグラフにするには、十三階建てのビルの高さが必要であるという。
13  かつては、技術革新のあとには、必ず社会革命が続き、そして社会革命には文化革命がともない、更に文化革命を総仕上げするものとして思想革命、もしくは人間革命があった。そして、その思想革命、人間革命が基盤となって、次の技術、社会、文化の革新がもたらされていったのであります。
 紀元前数世紀のころ、インドでは仏教の釈迦、ペルシヤではゾロアスター教で有名なツァラトゥストラ、ギリシャでは哲人ソクラテス等と、いっせいに大思想家が世界的に輩出しております。これは、まさに、この思想革命、人間革命への時代の要請にほかならなかったと思えてならない。
 しかるに近代以降の、西欧世界を中心に行なわれてきた現代の技術革新は、もはやそうした人間への回帰を忘れ、科学技術だけの独自のメカニズムで動いている。いわゆる思想の貧困、哲学の貧困の時代を迎えるにいたった。
 哲学者といっても、このすさまじい勢いで進んでいく科学技術と社会に対して、かろうじて分析をし、説明を加えているにすぎない。なんらの指導・指針を与えることもできない。それはちようど、天候がめまぐるしく変わるので、気象庁が予報できないでいるようなものであります。(笑い)
 今、この技術革新の暴風雨が吹きまくる現在、いったい、なにが必要でありましょうか。これこそ人間回復を可能ならしめる、かつてない広大な思想革命であり、それによる人間革命の実践こそ、時代の要望ではないかと申し上げたいのであります。(大拍手)
14  妙法で人類史の黄金時代開こう
 私どもは、新しき、人間主体それ自体の革命の時代を迎えているのであります。これまでは、技術革命、社会革命であり、環境の変革が時代の主軸であった。もとより、これらも大事であるし、これからもこの環境革命は、ますます急速に進んでいくでありましょう。だが、人間を忘れた、主体性しの環境革命は、それがいかに花々しくとも、結局、人問それ自体を幸福にすることはできません。
 これからの健全な環境革命の一のためには、まず、人間革命が原点とならなくてはならない。この人間革命が起点となって、社会革命、技術革命等の環境革命をもたらしていくのが、二十一世紀の歴史の流れであると私はいいたい。
 この人間革命をもたらす現在と未来の宗教こそ、結論していうならば、日蓮大聖人の生命の宗教、生命の哲学であります。
 今日の考古学、人類学の説によると、人類の誕生は、約百五十万年前までさかのぼることができるといわれております。一説には千数百万年というのもあります。仮に、百五十万年としても、歴史時代以降の数千年は、百五十万年に比べればほんの瞬時にすぎない。有史以来の文化の発展史は、人類の歴史における一つの転換期であるとみることができる。
 この転換の仕上げをするのが、日蓮大聖人の仏法による真の人間革命であります。これによって初めて、末法万年尽未来際、すなわち未来にわたる真の人類史の黄金時代を開いていくことができるからであります。
 人類は、決して環境革命の魔力に振り回されていってはいけない。それによって自分を見失い、自殺行為に走るようなことがあっては断じてならない。人類が最も恐れている第三次世界大戦も、それを起こす危険性をはらんでいるのは、とりもなおさず、自己を見失い、生命の尊厳を忘れた、狂気の人々の存在にほかなりません。今こそ、強大な科学文明を使いこなす、強靭な人間の主体性、生命力を発揮する時ではないでしょうか。(大拍手)
 今日、核戦争の危機を論ずる風潮にかわって、コンピュータによる未来社会論が盛んに論じられております。むろん、理想を描き、未来に向かって道を開いていくこと自体は、正しいことです。しかし、現実のこの危機を直視せずして、なんの未来社会論か、といいたい。バラ色の夢も一転して地獄絵図と化することを知らなくてはならない。そうでなければ無責任であり、人間回復を前提としないような未来社会論は、なんの意味もなさないというべきです。人間回復なき未来社会は、更に強大な社会のメカニズムとなって、人間を圧迫してくることは当然の理であります。
 されば、第三次世界大戦を起こさせないようにするのも、偉大な未来社会を生き生きと築いていくのも、それを人類の幸福のために活用していくのも、もはや仏法流布による人間回復以外には、絶対にないと私は叫んでおきたいのであります。(拍手)
15  創価学会こそ仏教思想の中核
 創価学会の折伏を、一言にしていえば何か。それは、この人間回復の大思想運動、大宗教運動であるといえると思う。
 顧みるに、釈尊は、当時流行していた九十五派のバラモン外道に対し、人間性を根本とした大思想運動を起こした。天台大師もまた、当時の南三北七の全宗派に対し、法華経迹門の生命哲理を根本とした哲学運動を起こしたのであります。伝教大師もまた、天台の正義をうけて、当時の南都六宗に対して思想運動を展開したとみることができる。
 日蓮大聖人もまた、南無妙法蓮華経の五字七字を骨髄とした生命哲学をもって、既成の一切の思想・宗教を席捲する大思想の波動を起こされたのであります。(拍手)
 これらはことごとく、新しき、昇華した偉大な思想をもって、既成の没落しゆく価値観に代わって展開された、人間回復の戦いであるといえるのであります。
 今、同じく時代の偉大な転換期に立ち、既成の権威、価値観が夕日のごとく沈みゆかんとするとき、これに代わって、新しい勇壮な思想運動の波を起こしているのが、創価学会の折伏であると私はいいたい。(拍手)
 同じく、創価学会とは、一言にしていえば何か。私は”仏教の中心””仏法思想の中核の存在”であると申し上げたい。
 現在、仏教は、インドにも中国にも断絶してしまい、日本にある既成の仏教もことごとく形骸化し、真実の生命の躍動はない。今、仏法三千年の生命は、日蓮正宗・創価学会のなかにのみ、たくましく鼓動しているのであります。
 したがって、全世界に誇るべき東洋の英知の最高峰たる仏教の中心は、日蓮正宗・創価学会の実践をおいては、いずこにもない。しかも、西洋文明と、その根本たる西洋の思想・哲学・宗教の退潮を眼前にしている今日、創価学会は世界の思想界の波動の中心として、一切の思想・哲学・宗教をリードし、新しい二十一世紀の大文明を樹立していくべき使命と責任を担うものである、と確信してまいろうではありませんか。(拍手)
 故に、人類の運命を思えば、折伏を一歩また二歩と力強く進めなくてはならない。折伏こそ、真の革新運動であり、戦争の根を断ち、荒れ狂う暴力革命にとどめをさす、慈悲の大革命であることを知つていただきたいのであります。(拍手)
 いつの時代においても、また、いずれの社会にあっても、古き体制、権威、価値観から脱皮し、新しい目で、新しい局面を開いていく人が、未来に生きる指導者像であった。されば、現代にあっては、折伏をする人こそ真の指導者であり、新しい世紀を築いていく当事者であることを自覚して、壮大な未来を描きながら、学会っ子らしく、秩序ある前進を開始しようではありませんか。(大拍手)
16  仏法の慈悲で根本の苦悩解決
 折伏の根本は、いうまでもなく慈悲であります。私は、この慈悲ということについて一言しておきたい。慈悲とはご存知のように、抜苦与楽、すなわち苦悩を抜き、楽しみを与えると訳します。
 これを更に現代的に開いて論ずれば、抜苦とは、根本の生命の問題の解決であり、与楽とは、文化、経済、教育、科学、政治、芸術の活動ということができる。したがって、仏法の慈悲とは、抜苦、すなわち、生命の根底にある苦悩の根本原因を解明し、更にそれを解決し、その土台のうえに与楽、すなわち、文化、経済、教育、科学、政治等を通じて、幸福を実現していくとの原理になる。
 現代においては、あらゆる人が与楽のために努力しておりますが、抜苦を無視しているため、砂上の楼閣となっております。むしろ、人々の努力と希望とは逆に、与楽たるべきものが、かえって苦を増しているとさえいえると思う。西欧文明もまた、この与楽の立ち場で発展してまいりました。だが、現実には人々に大苦を与えてしまっております。
 真実の幸福実現の道は、抜苦与楽でなければならないと説き、その抜苦与楽の実体を示したのは、日蓮大聖人の仏法であります。東洋仏法の真髄たる大仏法によって、初めて西欧文明の与楽も、真実の与楽として輝いてくる。これが東西両文明の融合であり、それによってもたらされる、飛躍的な第三次元の大文明こそ、全人類の文明ではないでしょうか。(大拍手)
17  生命開き人間性の光を顕現
 終わりにあたり、妙法蓮華経の”妙”について申し上げたい。法華経題目抄には、妙について三義が明かされております。すなわち、第一に妙法蓮華経の妙とは開く義である、第二には妙とは具の義、または円満の義である、第三に妙とは蘇生の義である、とあります。
 第一の「妙とは開く義」とは、自己自身の生命のなかにある字宙大の力を開き、あらわしていく、ということであります。誰人といえども、その胸中には、美しい至高の珠玉が秘められている。人々はそれに気づかず、幻影の幸福を求めて流浪の旅を続けている。これを、覚醒させ、生命の門戸を開いて、真実の人間性の光を顕現していくものこそ、妙法の哲理であるとの仰せであります。
 西欧思想においては人間自身のうちに見いだしたものは理性にすぎない。すなわち、十七世紀より合理主義の風潮が高まり、それは十九世紀に項点に達し、二十世紀にいたって深刻な矛盾をかかえつつも、引き続いて圧倒的な支配権を占めております。だが、理性は本来、両刃の剣であり、善にも悪にもなる性質のものなのであります。一方においては偉大な西欧文明の殿堂を築き上げるとともに、一方ではその力を駆使して、幾多の残虐な歴史をつづってきたことも、厳然たる事実であります。
 もはや人類は、もう一歩賢明にならなくてはならない。すなわち、理性を支配し、悪の面を押え、理性の働きに光沢を増し、力を与えていく、更に力強い英知を開いていかなくてはならない。それには、理性の深奥の、生命の大海原を解明し、これを開きあらわしていく日蓮大聖人の大生命哲理以外にはない、と私は強く申し上げたいのであります。(拍手)
 これはなにも理性の哲学だけではない。現代にいたるあらゆる思想・哲学・宗教が本来、志向しながら、遂に得ることができなかった生命の奥底の実体を、開きあらわしていくものは、この大白法以外に断じてありえない。今こそ全人類は、自らの生命を開いていく鍵を持つべきである、と私はいいたい。
18  第二の「妙とは具の義」または「円満の義」とは、妙法のなかに、宇宙の森羅万象を一切せっしつくしているとの意義であります。
 現今の巨大な社会のメカニズムのなかにあっては、人間は機械のギアのごとく部品化されてしまっております。そうした状態のなかで、今日ほど、創造的な全体人間の形成が要請される時代は、かつてなかったといえましょう。この要請に応じうるものは、従来の部分的なイデオロギーや、偏狭な、歪曲された思想・哲学ではない。新しき統合の思想、統合のイデオロギーでなくてはならない。
 これこそ、今日の対立する諸思想を包含し、指導しきっていく仏法哲理であります。もはや唯物主義でもなければ唯心主義でもない。色心不二、依正不二、一念三千を展開した偉大な生命哲学が、高らかに世に顕揚されていくことが時代の趨勢ではないか、と私はいいたいのであります。
19  第三に「妙とは蘇生の義」とは、人類がこれまで、営々として築き上げてきた文化遺産、近く論ずれば、科学技術の文明に、みずみずしい躍動する生命をよみがえらせ、更に新しい創造をもたらすものは、妙法であるとの原理なのであります。
 いうまでもなく、一切を創造しゆく主体は人間生命それ自体でありす。コンピュータといえども、人間が生み出したものであり、常に人間が原点であります。したがって、人間の一念の輝き、英知のひらめきこそ、一切の価値創造の本源であり、これなくして新しい文化の発展はありえない。
 だが、現代人の大部分は、主体性をし、無気力な生命状態となっている。そして、時代の濁流のなかに自己を失い、生命力を失い、もはや清新な創造性を失っているといっても過言ではないでしょう。
 その失われた人間性を蘇生させ、たくましい創造力を発揮させていくものは、日蓮大聖人の生命の宗教以外にはない。文明の危機が叫ばれている今日、既成の思想、哲学、体制、文化を生き生きとよみがえらせていく方途は、この仏法にあるとの原理なのであります。
 所詮、この「妙の三義」とは、人間の主体性、創造性、全体性を発揮していく哲理を説き明かしたものにほかなりません。
20  使命自覚し成風堂々と前進
 御義口伝にいわく「漢高三尺の剣も一字の智剣に及ばざるなり妙の一字の智剣を以て生死煩悩の繩を切るなり」と。
 「漢高三尺の剣……」――漢の国の創始者である高祖のもつ三尺の剣といっても、一字の智剣には及ばないと。すなわち、妙の一字の智剣以外には、人間に本然的につきまとう生死・煩悩の縄を断ち切ることはできないとの仰せであります。
 もはや、これからの時代は、武力をもって互いに争う時代ではない。思想の剣、理念の剣をもって人々の苦悩の根本を断ち、人間革命させきることが、行き詰まった現代社会を救い、偉大な生命の世紀をもたらす唯一の道である、と私はいいたいのであります。(拍手)
 我らの戦いは、かつてない善意と誠実の、無名の民衆の離い団結の戦いであります。だが、より深く論ずれば、誰人にも勝る崇高な使命を担った、地涌の菩薩の勇敢な獅子奮迅の戦いであります。
 人間の価値は名声や地位や権威で決まるものではない。どれだけ偉大な目的に向かって力強い人生を歩んでいるかが、人間としての真実の価値ではないでしょうか。(拍手)
 観心本尊抄にいわく「上行・無辺行・浄行・安立行等は我等が己心の菩薩なり」と。これは四菩薩といっても、我ら、妙法を行ずる者の胸中にあるとの言葉であります。
 「上行菩薩」とは、なにものにも左右されない、なにものにも縛られない、生命の主体の確立のことであります。また「無辺行」とは、どこまでいっても行き詰まりのない、自由自在の活動であります。そして「浄行」とは、清浄な美しい生命の輝きであり、「安立行」とは、生命の大地、民衆の大地にしっかりと立った確固不動の人生のことであります。
 真実の生命の尊厳、主体性の確立は、この己心の四菩薩をさせることにほかなりません。しかして御義口伝にいわく「今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱え奉る者は皆地涌の流類なり」と。我ら戦う地涌の菩薩は、更に六万恒河沙の友を呼び起こし、さっそうと、なにものにも屈せぬ、威風堂々の前進を更に貫いていこうではありませんか。(大拍手)
 最後に、皆さま方のご健康と、ご一家の繁栄を心よりお祈り申し上げ、私の講演を終わらせていただきます。(大拍手)

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