Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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日常の生活態度について  

「池田大作講演集」第1巻

前後
1  特に壮年部の人は、住んでいる町や地域で″名士″になってもらいたい。婦人部は、その町内、その近所やグループのなかで″人気者"になっていただきたい。また、壮年部、青年部は、職場において、実力者、中心者――職場の″名士"になっていくことです。
 幅広い社会性、豊かな人間性を基盤に、どんどん多くの人達と交わり、とけこみ、社会に根を張っていく時代です。信心していない人を区別して、自ら心を閉ざすようなことも、時代遅れであります。草創期のころは、学会に立ちふさがる大きい壁に、それを打ち破っていかねばならなかったので、ある面では、闘争的になることもやむをえない場合もありました。しかし、今は違います。
 学会ほど強く美しい団体はありません。現在の世の中は、利害や栄達等で動かされているのが実情です。学会員には上下の差別はなく、皆、平等に御本尊につながっているのです。互いに守り合い、励まし合っていく――こういう団体は学会しかありません。
 したがって、私達は、この完璧な学会を基盤に、臆することなく、堂々と、それぞれの世界に入り、行動していけばいいのです。ことさらに信心の話をする必要はありません。その世界なりの言動をもって接し、信頼を勝ち得、主導権を取っていくおのおのになっていただきたいと思います。
2  七月はお中元、年末はお歳暮の時期です。しかし、信心の世界においては、先輩だから、幹部だからといって、そうした気を使うことは一切必要ありません。会長をはじめ、いかなる大幹部にも、お中元、お歳暮を贈る必要はないし、また贈ってはなりません。もしも、その余裕があれば、その分を、日ごろお世話になっている職場の上司や、知人、友人等に差し上げていただきたい。お中元、お歳暮等の、こうした慣習の善悪は別として、社会的に、そうすることが礼儀であり、心のつながりをつくっていく場合があります。そのときには、真心こめて、更に友好を深めていくように心がけるべきでしょう。
 民家が密集している地域の会館や、座談会場での学会歌や勤行は、近所にも迷惑がかかるし、歌わないようにしてほしい。
 更に、会合終了後には、大声で話しながら帰ったり、自動車のエンジンをふかせて迷惑をかけることのないようにしていただきたい。もともと、自動車を会館のまわりにとめること自体やめるべきです。それが、信心で最高のセンスを身につけた学会員の行動でなければなりません。
 それとともに、会合の場合などは、いつも、ネクタイをきちっとしめ、堅苦しい格好で参加する必要はありません。場合によっては、夏などはゆかた姿や、ポロシャツ(笑い)でもよいのです。要は、みんなで、伸びのびと楽しい会合を開いていくことが大事です。
3  金銭のことは潔癖にしていただきたい。学会員同士の金銭貸借は厳禁です。それは信心を破り、学会の団結を乱すからです。
 組織利用、信心利用の金銭貸借は、破和合僧の大謗法になります。したがって、どんなことがあっても、そのようなことのないようにしていただきたい。
 信心即生活ですから、金銭にだらしない人は信心がないのだといってよい。信心がしっかりしている人は生活態度も立派であり、金銭的にも清潔できちっとしています。
 信心のない人は生活もルーズで、仕事もうまくいきません。どうか立派な信心即生活を貫いていってください。
4  交道事故にはくれぐれも注意していただきたい。広宣流布のために生きねばならない尊い生命です。それを、あたら事故のために散らすとはあまりにも痛々しく、悲しい。
 事故の原因を調べてみると、やはり大半が油断から起きています。強い信心に立ち、自らの生命を大切に守ろうとの毎自作是念があれば、大きな事故にあうわけがありません。きようからは、痛ましい交通事故などは一件もないという、現世安穏の輝かしき歴史を、私達の手でつくっていきたいと思います。
5  怨嫉について一言したい。この怨嫉という生命は、功徳を消していくおろしい生命であります。怨嫉等のある場合、その組織には事故が多く人材の成長もありません。皆さんはそういう悪感情の世界に巻き込まれることなく、信心という確固たる基盤に立って、そうした問題に悩んでいる人達を、きちんと指導していっていただきたい。それがいちばん賢明な行き方だといえます。
 大勢の同志が気持ちのよい活動ができるようにしていくことが和合僧を支持したことになり、成仏の因となっていきます。反対に、和合僧を破る行為を支持すれば、堕地獄の因となってしまいます。どうか功徳の敵である怨嫉を堂々駆逐し、すっきりとした組織を確立していっていただきたい。
6  学会の世界のなかで、華美を競ったり、見栄をはったりすることは、あってはなりませんが、お正月とか文化祭、芸術祭というようなときには、いい着物を持っている人、礼服を持っている人は、遠慮なく着てください。特に女性は、思う存分に着てください。
 七五三でお子さんに着せるのも結構です。そういうものを着たから信心が弱いなどということは決してありません。(笑い)晴れがましい姿で人生を楽しんでください。
 持っていない人も、(笑い)学会員同士は兄弟姉妹のつもりで喜んであげてください。家族であれば、そして仲のよい兄弟姉妹であれば喜ぶことでしょう。そういう意味で着たいときには、思う存分に着てください。いつも同じ古い、地味な洋服でなければ幹部ではない、(笑い)というのは古い考えです。
 お正月ぐらいは、いい着物を着て御本尊の前に、福運を積んだ悔いのない姿、そして栄光ある人生を見てください、といえるような一年一年になっていただきたいのです。
 ただし、服装が華美だからどうの、粗末だからどうのといった、悪口や怨嫉は絶対に起こしてはなりません。皆がきれいな服を着ているのに自分は粗末だからといって恥ずかしがることもありません。自由自在で、伸びのびとした世界が学会なのです。
7  次に、これは総本山とよく相談した結果をお伝えするわけですが、塔婆供養について一言申し上げたい。
 というのは、従来、人によっては、五本も十本も塔婆をたてて追善供養してきたケースがありましたが、原則は一本でいいのです。あとは回向料として、御供養すればよい。
 こういう細かなことをいうのは、日蓮大聖人の仏法が、末法万年にわたって、永違に合理性をもち、近代的であるからです。事実、御書をみても、塔婆を何本立てなさいという指導はどこにもありません。
 でないと、世間の人達が、日蓮正宗創価学会を、葬式仏教となりさがった既成宗教と同一視してしまう可能性さえあります。わざわざ世間の人の不信を買い、法を下げる結果を招いてしまうのです。塔婆は一本と決めておけば、すっきりします。裕福な人も貧しい人も平等なのが真の仏法です。
8  それからシキミも品不足で値上がりし、地方によっては、手に入りにくくなりました。香木であるシキミは色花と違って散らないし、四季を通じて常緑であることから、永遠の生命をあらわすものとして日蓮正宗では用いてきました。しかしこれについても、御書にはシキミでないといけないとは書かれていません。あくまで後世になって、形づくられた化儀なのです。化法は御本尊に題目をあげることであり、折伏、教学が第一義であり根本であります。あとは、全て化儀であり、時代に即応して形式を変えても許されるのです。
 大聖人の仏法、そして信仰のあり方は、いかなる時代になっても、近代人が全て納得できるものです。大聖人は、末法万年尽未来際の仏さまですから、後世の信者が、社会人が行き詰まるようなことをさせるわけがありません。
 こう考えるならば、シキミは量的にも制限がありますし、場合によってはシキミの鉢植えを飾っておくのでもよい。また、たくさんお飾りできない場合には、真心こめた二、三本でもいいのです。どうしてもシキミがない場合には、緑葉の草木でもかまいません。また、緑の葉の造花でもよいでしょう。
9  線香とロウソクも、絶対に使わねばならないという理由はありません。これも御書のいずこにも書いてありません。病院や外国など、場所によっては、いやがられる場合もありますし、狭い部屋などではロウソクが危険なときもあります。ですから、ロウソクをやめて電灯にしてもいつこうにさしつかえありません。要は、御供養の精神が大事なのです。
 また、念珠についても、房が三つついているほうが右だとか左だとかいった議論がありましたが、これもどちらでも結構です。大聖人ご在世のころは、両方とも二本だったのです。途中から他の影響をうけて三本になったのです。だから、どちらでもかまわないのです。
 それから、仏壇についてですが、値段の高い仏壇を買わなければ信心が強盛でないなどということは決してありません。それでは″伽藍仏教″になってしまいます。そのお金で自分の家を建てるほうへ回してもいい。御本尊を立派な家にご安置するということは、大きな意味では、立派な仏壇と同じです。(笑い)なんでもかでも何十万円、何百万円という仏壇を買えばいいというのではなく、本当に御本尊を大事にするという一念、信心のあらわれからするのでなくてはなりません。ただ仏壇の値段だけで信心の強弱を判断したり、そのように指導したりすることは誤りです。その分を折伏の交通費等に有効に使ったほうがいい。
 いい仏壇を買おうと思っていた人は買いなさい。ただ、無理して、競争をする必要はありません。大事なことは、折伏であり題目であり、我が生命の妙法の当体を湧現することです。
 だからといって、仏壇も買わない、ロウソクも、シキミも買わないなどといって退転してはいけません。(大笑い)それでは利用主義になってしまいます。
10  また、先日から一般の新聞などに葬式の合理化運動の記事が出ています。形式だけの葬式を改革しようという動きで、坊さんを呼ばないとか、死亡通知だけでよい、というような考えです。これも、私は大賛成です。
 御本尊に題目を朝晩あげて、事の一念三千の当体である我々です。死んでだれにお経を読んでもらう必要がありますか。我々こそ、葬式の最高の近代化、合理化の先駆者なのです。だから、もし葬式の改革の話が出たら、我々は賛成だ、先端をいくのだ、といっていいのです。
 日蓮正宗は葬式仏教ではなく生きるための仏教です。葬式に必ずしも御僧侶を呼ぶ必要はないのです。呼びたい人は呼んでもいいが、呼びたくなければ呼ばなくてもいい。このように日連正宗は、あらゆる宗教のなかで最先端をいくものであり、最高の近代性をもっているのです。
 これについては、総本山も「日蓮大聖人の根本精神につながった考えです」といっておりました。
 しかし、これも行き過ぎないようにしてください。御僧侶を呼ぶかどうかは、本人や家族の意思で決めることです。御僧侶を呼ばないと、なんとなく心細いという人もありましょうし、そういう人に呼んではいけないなどといってはなりません。ただ、幹部が葬式の合理化について聞かれたような場合、なにも受け身になる必要はない、保守的に封建的に考える必要はない、という意味で申し上げたわけであります。
 同志がな亡くなった場合の葬式の折り、親しい人達が集まって夜遅くまで唱題したということをしばしば聞きます。
 成仏の相にさせてあげたいという、純粋な気持ちはよくわかりますが、成仏は、あくまでも生前の本人の信心で決まるものであります。学会として年に二回の追善供養もあることだし、お通夜の際は、親族の心労を少なくする意味からも、真心の唱題をして適宜早くおいとまするようにしていきたい。
 また、これは、潔癖な学会員の気持ちを傷つける許せないことですが、親切心から、香典の受け付けや、雑用を手伝ってあげたことが、信心していない人達の誤解を招くことが往々にしてありました。したがって、香典は霊前に直接本人が供えるようにし、応援の手がなくて困っている特別な場合を除き、運営は、一切、親族にお任せしたほうがよいと思いますが、いかがでしょうか。(拍手)
11  病気のときは、必要なら当然医者にかかってしかるべきです。なぜなら仏法は道理であり、科学としての医学は大いに活用すべきだからです。事実、現代医学の発達は、目を見はるものがあります。我々は医学の力を軽視したり、否定するものでは決してありません。
 しかし、現代医学では、解明できぬ病気が多いことも事実です。私が恐れるのは、医学に頼りきって、肝心の信心を忘れ、生命力が極端に弱くなってしまうことであります。根本は信心です。故に、唱題に励んで生命力を旺盛にし、そのうえで科学を使いきって、たくましい人生の苦難を克服していってほしい。幹部は、そうした問題については、聡明に、合理的、価値的に対処していっていただきたい。

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