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日蓮大聖人・池田大作

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教学の充実  

「池田大作講演集」第1巻

前後
1  教学について申し上げたい。創価学会伝続の二本の柱のうち、座談会のレールは強固に敷かれましたので、次には、教学の充実を図っていきたいと思う。末法の仏道修行は、いうまでもなく信行学、すなわち信心、実践、教学の三つがそろって初めて完璧になるわけです。
 日興上人も遺誡置文のなかで「御書を心肝に染め」と述べられ、日蓮大聖人は「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず」と断定しておられます。
 したがって、座談会と並行して、各種研究会、地区講義、一般講義の充実に全力をあげていきたい。ここで″全力をあげる″といっても、やはり、その決定的な要因は、担当講師にあります。担当講師のよ、つまりその人の信心、教学力によって、充実の度合いが決まってくるといえましょう。
2  担当講師の心構え
 では、担当講師は、いかなる心構えでの解むべきか――戸田前会長は「私の名代であると決意で講義せよ」といわれました。
 「名代」という言葉は古めかしいが、近代的にいいかえて、担当講師自身が、創価学会の代表、責任者であり、如来の使いとして、勇んで名講義をすべき使命がある、と自覚していただきたいのであります。内容の乏しい貧弱な講義では、本末究竟して、受講者を感動させられず、せっかくの求道心を失わせてしまうことになる。
 したがって、担当講師は、受講者に対しては真心を込めて接しなければなりません。たいした講義でもないのに、まるで大講師にでもなったつもりで、(笑い)受講者を睥睨するような態度があっては、絶対になりません。むしろ″よく受講にきてくださった。御書、法華経の一文一句たりとも説けることは最高の福運である″この感謝と喜びの講義でなくてはなりません。
 かつて、戸田前会長は、事業が危機に概したときであっても、講義だけは万難を排して必ず続けられました。「交通費を出してあげても、自分の講義を聞いてもらいたい」といわれた逸話さえあるくらいです。
 講義する際は、一言一句たりともおろそかにしてはいけません。そして、なんといってもわかりやすい名講義をしてほしい。また信心の情熱、確信、感激、歓喜がなくてはなりません。更に、生活、社会、現在の戦いに密着した内容を盛り込んで、納得のいく講義をしていただきたいと思う。
 担当講師は、絶対に休んではいけません。また、遅刻するようなことがあってもなりません。自らの使命を自覚して、必ず守っていただきたい。
 講義の時間は、諸会合と同じく、原則として午後七時から同九時までの二時間とします。ただし、教授(補)、助教授クラスの研究会は、それよりも更に二、三十分、深く研究しあうことも必要ではないかと考えます。
 したがって各種研究会・講義の日には、原則として、他の会合は開かず、教学の充実に総力をあげていただきたいことを申しそえておきます。
3  受講者の態度
 こうした講師の態度に対して、受講者は、法華経普賢品に説かれている「当に立って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし」との態度が必要であります。これで、初めて講師と受講者が境地冥合、依正不二になるのです。
 松野殿御返事にも「何に賤者なりとも少し我れより勝れて智慧ある人には此の経のいはれを問い尋ね給うべし」と仰せです。すなわち、どのように卑しい人であっても、自分より教学力のある人には、礼を尽くして、謙虚に法門のことを聞いていかなくてはいけないという意味であります。
 日興遺誡置文にも、同じく「下劣の者為りと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とす可き事」との御文があります。
 したがって、結論からいえば、日ごろからの地道な研鑽が最も大事になってきます。
 そして、研究会や講義のまえには、必ず予習をしていくべきです。他の学問も同様ですが、受講したあとで復習するよりも、事前に予習したほうがはるかに力がつき、成長も早い。そのうえに立って、受講者は積極的に質問し、納得できるまで答えを追究していただきたい。それが自己を鍛えていく原動力となります。
 また、担当講師にとって、予習、研鑽が必要なことはいうまでもありません。
 なお、会場を提供してくださった家庭に対して、参加者一同が感謝の念をもち、更に隣近所にも細かな配慮をしていくことは、座談会の場合と変わりありません。
4  御書拝読の意義
 御書を拝読することは、大聖人の経文を探究することであり、大きな功徳であるといえます。生涯、自己の血肉になっていくことは、間違いありません。
 御書は偉大なる「一書」です。西欧の大文豪のほとんどは、聖書という一書をもっていた。往々にして日本の作家にはそれがない。だから大文学が書けないのだと指摘している人もあります。いろいろと多くの本を読んで、ひとかどの学者ぶっていても、人生の根本となるべき一書をもたない人は、恐れる必要はない。
 日本の有名な哲学者である西田幾多郎は、その日記に次のように記している。
 「第一の思想家は多く書をよまざりし人なり。読書の法は読、考、書、一事を考え終らざれば他事に移らず。一書を読了せざれば他書をとらず」
 現代は週刊誌や新書ものが、数多く出版されています。社会を知るためには、なにを読んでもかまいませんが、肝心かなめの一書だけはもっていなくてはいけない。私達は最高の一書として御書をもっているのです。
 御書を探究しきった人は、全宇宙の思想、哲学、社会現象の一切を包含し、把握したことになる。それほど御書は偉大であります。どこでもよい、わかるところだけ読んでも結構ですから、一生涯、我が身から放さずに読み続けていただきたい。(拍手)
 剣道の師範が剣道をやらなくなったら失格です。ピアノの教師がピアノをやめたらおしまいであります。それと同様に、日蓮正宗創価学会の私達が、信心を忘れ、御書を学ばなくなったら、いったいどうなるでしょうか。
 仏法の世界に生きる者は、御書が根本であります。この一書を探究し、その通りに実践した人が、だれよりも偉いのです。役職は方便であり、形式です。あくまで信心の根本、源流を真面目に、勇敢に実践した人のみが、最高の人生を歩むことは間違いないでありましょう。その意味において、求道心を燃やして、御書を学び、ひたすらに実践していこうではありませんか。(拍手)

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