Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

関西幹部会 第12回中部幹部会

1969.2.10 「池田大作講演集」第1巻

前後
1  三沢抄に次のような一節があります。「此の法門出現せば正法・像法に論師・人師の申せし法門は皆日出でて後の星の光・巧匠の後に拙を知るなるべし、此の時には正像の寺堂の仏像・僧等の霊験は皆せて但此の大法のみ一閻浮提に流布すべしとみへて候」と。
2  既成の権威は全て崩壊
 日蓮大聖人は、この三沢抄の一節で、新時代の偉大な思想が興隆したときには、既成の権威・思想は崩壊していくという定理を示されたのであります。
 「此の法門出現せば正法・像法に論師・人師の申せし法門は皆日出でて後の星の光」――「此の法門」とは八万法蔵の究極・大聖人の三大秘法の法門であります。この三大秘法の仏法に比べたならば、過去の聖人、賢人の思想・哲学も、また権威ある大学教授の立派な理論体系も、実に微たるものである。全てが、この御本尊、三大秘法の仏法の序分であり、流通分にすぎない。ある真理の一部分の説明にすぎないというのです。
 まして、大聖人の仏法の奥底も知らず、有名人だからといって、仏法の真髄を学び実践している学会を睥睨したり、批判すること自体、もはや二流、三流の人物であることを自ら証明しているにすぎない。後世の笑い者になるだけでありましょう。
 南無妙法蓮華経というし色心不二の大哲学が出現したならば、正法・像法年間の論師・人師――つまり、過去の大学者、高僧の法門、思想・哲学は、皆、太陽が出たあとの星の光のようなものであると断言されているのであります。日蓮正宗創価学会の哲学が、日々、月々、年々に興隆し、その実践が推進されていけば、一切の思想・哲学は太陽が出たあとの星の光のように雲散霧消してしまうのです。また、いい方をかえれば、それらの思想・哲学は、流通分として正法の興隆を支えていく方向になるともいえるでしょう。
 「巧匠たくみの後に拙を知るなるべし」――「巧匠」とは、偉大な芸術家です。最高の絵画や彫刻、文学などの作品が出現すると、下手な作品は全て明瞭になってしまう。だれも見向きもしない。「あの文学は、あの作品はなっていない」などということになるわけです。ここは三大秘法の仏法の偉大さを強調されているところであります。
 「此の時には正像の寺堂の仏像・僧等の霊験は皆きへうせて」――大聖人の仏法が広宣流布していけば、正法、像法の時代の寺堂の仏像・僧等の離は、全て消えうせてしまう。今でいえば傲慢な評論家や邪悪な政治家などの思い上がった人々の威力が、全部消えうせていくというのです。民衆のだれもが信用しなくなるともいえるでしょう。「但此の大法のみ一閻浮提に流布すべしとみへて候」――此の大法のみ、すなわち末法の正法のみが、一閻浮提すなわち全世界に必ず流布していくであろうとのご予言であります。
3  この方程式は個人においても同じです。本物の信心をしぬいていけば、今まで反対していた人が必ず尊敬し、ついてくるようになるのです。また、社会、世界という広い見方をしても同じ原理になってきます。その所詮は、やはり強い強い祈りであり、粘り強い闘争、揺るぎない確信であることを知っていただきたい。(拍手)
 ともあれ、開目抄下に「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲てんごくに未だ得ざるをれ得たりとおもい我慢の心充満せん、或は阿練若あれんにゃに納衣にして空閑に在つて自ら真の道を行ずと謂つて人間を軽賤する者有らん利養に貪著とんじゃくするが故に白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるることを為ること六通の羅漢の如くならん」と述べられているように、知識人、評論家といわれる人達は、自らの経験や既成概念にとらわれ、永遠の生命を説ききった三大秘法の南無妙法蓮華経という哲理の偉大さを理解することができないのです。
4  「生命」こそ人生の最難問
 先日来、しばしば各界の有名人達と会う機会があって、生命の本質、生死の問題に話が及ぶことが多々ありますけれども、満足に答えられる人はいないものです。政治や、経済、芸術といった問題については見事に論じられても、最も大事な「生命」に関しては、百人が百人とも暗中模索の状態で、根本的な解決策を知らず、悩み苦しんでいるのが真相であります。
 この本源的問題を解決せずして、いくら社会、政治を論じ、平和運動を展開しようとも、砂上の楼閣であるといいたい。結局、全てが空転してしまうのであります。
 これに対し、私どもは、生命の本質を解明した最高の仏法哲理を受持することができた。人生の最難問である「生命」を根本的に解決する鍵を握ることができたのです。
 したがって、多少の苦難があろうとも、一人一人が二十一世紀、更には末法万年の未来に向かって、生命哲学を根底にした盤石な民衆の基盤と社会を建設しゆく、かつてない先駆者であるとの襟度と誇りをもち、更に勇猛邁進していこうではありませんか。(大拍手)
 「生命」といえば、最近、ある有名な小説家が、ベストセラーになった作品のなかで「生命とは、生まれ変わってくるものであるか」と疑問を提起している。また「意識は永遠に流転するものではないか」とも論じている。悩みぬいたうえの疑問として、興味ある発言ではありますが、いずれも、釈迦の方等部の法相宗の教理や唯識論の域を出ていない。
 また、明治の文豪・高山樗牛は、悩んだ末に法華経に帰着したことで知られておりますが、その樗牛も「生命は、芸術家が作った作品の中に永違に宿っている」と、思索の末に論じています。これも、結局、浅薄な結論です。
 「学問のすすめ」や「文明論之概略」を著わした福沢諭吉にしても、封建道徳に激しい批判を加え、文明開化の先駆を切ったが、生命論にはふれていない。皆、最も大事なことを避けている。
 「善の研究」など日本最初の独創的な哲学書を出して、西田哲学として有名になった西田幾多郎も同様です。彼は「純粋経験」という立ち場を確立し、著書「自覚に於ける直観と反省」において、フィヒテの主意主義により、ベルグソンの直観主義と新カント学派の論理との統一を企てたといわれております。
 「善の研究」などでは、浄土宗など権大乗教の言句を引いたり、ベルグソンやカントの思想を取り入れて、そうとう悩み、研究したあとはうかがえますが、結局、実生活のうえにはなにも役立たない観念論になってしまっている。大聖人の色心不二の哲学からみた場合には、あまりにも次元が低いといわざるをえない。
 この西田哲学と並び称される三木哲学の三木清にしても「人間学のマルクス的形態」や「唯物史観と現代の意識」などを出版し、話題になったものですが、これも観念の遊戯の域を出ない。実生活、そして社会、民衆を根底から革命しゆく力は全くなかった。
5  一方、西洋の哲学者についても同じことがいえます。まずカント、昔は、高等学校の生徒達が論じ、思索して、もてはやされたものですが、この人の「実践理性批判」という本の結論に「静かに深く思索すればするほどますます常に新たに、そして高まりくる感嘆と崇敬の念をもって心をみたすものが二つある。わがうえなる星の輝く空と、わが内なる道徳律とである」との言葉があります。
 天空とは大宇宙であり、わが内なる道徳律とは、心、与えていえば生命と約することができましょう。仏法においては、これを一念三千、法報応の三身と説き、更に宇宙即我と万法が即一念にそなわっていると明確に説ききっている。だが、カントはそれらの偉大さ、広大さに崇敬の念を述べているにすぎない。結局、カントほどの大哲人といわれる人でも、永遠に変わらざる生命の本質は説ききっていない。
 カントは最初に既成の思想・哲学を批判して以来、自由主義精神を基調とする人間の心情の深みからくる宗教論を展開しましたが、そのため、一時、政府・保守派に弾圧されたといわれている。学問的業績はともかくとして、実質的には、誰人も救いえない哲学でありました。
 弁証法的思索で名を残したへーゲルも「精神現象学」や「大論理学」「法の哲学」等、多くの著書がありますが「生命の本質は何か」という問いには答えられなかった。また「意志と表象としての世界」「自然意志論」を著わし、一世を風靡したショーペンハウアーや、「キリスト教の本質」「へーゲル哲学の批判」を出版、あらゆる思索の根源は「愛」であるとして、思弁哲学と伝統的神学を激しく批判したフォイエルバッハにしても、一念三千の哲学からみれば、ほんの一部分の説明にすぎないのです。
 更に二千年にわたるヨーロッパの精神史を支配してきたキリスト教、および哲学の主流であったデカルト、カント、へーゲル等の観念哲学と、コント等の実証哲学に対し、人間性の回復をとなえ、それらに真っ向から対決し、価値観を逆転させようとした実存主義(ハイデッガー、サルトル)にしてもそうです。従来の唯心、唯物から脱却し、新たな思索を展開しようとした意欲は認められても、生命の解明、現代の危機打開、実生活の諸問題の解決という点においては、結局、従来の哲学となんら変わりない観念哲学であった、といっても過言ではありません。
 このほか、幾多の哲学者、思想家が、独自の理論を展開し、立派な本を著わしておりますけれども、生命、生死という自分自身のことに関しては、救済できえずに終わっております。鋭い英知の哲学を体系化したつもりであっても、結局は根無し革になっている。
 ソクラテスの「汝自身を知れ」という言葉もある通り、厳しい激動の二十一世紀は、自分自身のことも知らずして、真の教育も、政治も、芸術、文化もおこすことはできないと思いますが、いかがでしょうか。(大拍手)
6  一切の思想・哲学は仏法の序分
 一方、生命の問題に根本的な解決を与えるべき宗教においても同様のことがいえます。
 仏教諸派については、四重興廃、三重秘伝、五重相対等、あらゆる尺度から検討し、日蓮大聖人の仏法を除いては、真実を説いたものがないということはよくおわかりだと思いますから、省略します。
 神が天地を創造したとするキリスト教は、カトリック(旧教)、プロテスタント(新教)、ギリシャ正教等に分かれ、長くヨーロツパ民衆の精神の支えになってきましたが、これらは唯心主義であります。処女や、キリスト復活などの奇跡も、科学の進んでいない古代や中世の無知な人々に対してはともかく、現代人を納得させることはとうていできない。たとえ信じているとしても、それはあくまで観念であり、その人の生命を根本的に救済することは不可能でありましょう。
 中国の儒教も、漢の時代から清末にいたるまで、長く国家の基本理念として尊重されてきたけれども、生命論を説いてはいない。これは、宗教というより、むしろ道徳論であり、道徳は価値判断の反映である故に、時代に応じていくらでも変化するものなのです。したがって、不変の真理ではありえず、近代以後は中国でもかえりみられなくなってきている。
 このほか、ユダヤ教とイスラム教はキリスト教と同じ″一神論″の系列に立つものであり、いずれも生命の本質、因果律を説かない外道です。ヒンズー教は釈尊によって打ち破られたバラモン教の復活にすぎない。チベットのラマ教も、仏教の一派とされていますが、教主を観音の化身であるとする、あいまいな低い教えです。
 しかし、天台や伝教の末法を渇仰する声、かのインドの詩人・タゴールの「私は目を東のほうに向けている。日がすでに夜明けを迎え、アジアの最も東の地平線に太陽が昇つたのではないとだれがいえよう。私は祖先がなしたと同じように、全世界を再び照らすべき運命を担う東洋の夜明けに敬礼する」、アインシュタインの「今日の社会はあまりにも科学が発達しすぎた、今これを使いこなす新しい精神文明が発達しなくてはならない。それを私は東洋に期待する」、サートンの「おそらく偉大な思想は今後もなお、東から我々に達するであろう」等々、全ての思想家、哲学者は、偉大な日蓮大聖人の生命哲学の出現を待ちこがれていたと確信できるのです。
 それ故に、一切の思想・哲学は、大聖人の仏法の偉大さを証明する序分であり、あるいは流通分として、説いていると断定してよい。
 事実、大聖人の仏法哲理、一念三千論からみるならば、フロイトの心理学も、ガモフの宇宙論も、現代において独創的といわれる種々の学説・学問も、全て仏法哲理のなかに、その一部分として包含される。皆さん方は、それほど偉大な妙法をもっているということを知っていただきたい。
7  一念三千は王仏冥合論
 話は変わりますが、一瞬の生命のなかに三千の生命を具するという妙法の一念三千論は、敷延していえば、王仏冥合論となります。すなわち、一念三千を一念一千ずつ立て分ければ、五陰世間とは個人の生命であり、衆生世間とは社会、国土世間とは国土、世界に対応させることができる。信心、実践の立ち場からいうならば、各人が自らを改革しながら、同時に衆生、国土に利益を与えていく偉大な方程式なのです。決して観念論ではない。現実に七百万世帯になんなんとする人々が、喜々として信心に励み功徳をうけているではありませんか。これこそ大聖人の一念一千が、全衆生、日本を救っていく明白な証拠であると思うのです。事の一念三千論の見事なる展開の現証といえましょう。
 これと同じく、大聖人の弟子である私どもの活動、すなわち、折伏によって、自分自身の人間革命を成就し、同時に一人一人に信心の主体性をもたせ、永遠の栄光ある人生の道を開かせるとともに、常寂光の理想社会を建設することができるのです。
 したがって、いわれなき批判や中傷があろうとも、決してくじけてはいけない。十年、二十年、五十年、百年先に、全民衆が創価学会のおかげで幸せになったと心から感謝する時代がくることを深く強く確信し、勇気をもって私とともに進んでいっていただきたい。(大拍手)
 (これは関西・中部両幹部会での指導を整理したものです)

1
1