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日蓮大聖人・池田大作

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埼玉総合本部幹部会 一人立つところに団結あり

1968.4.24 「池田大作講演集」第1巻

前後
1  皆さん方の健康で明るい姿を見て、これ以上の喜びはありません。
 はじめに、この席を借りて、ある班長さんからいただいた手紙の返事を申し上げたい。その手紙にはこう書いてあった。
 「『人間革命』のなかに『流浪の民』という寂しい詩が出てくる。こういう寂しい詩が出てくるのは、会長の体の具合いが悪いからではないか」と。
 私のことをこのようにご心配くださることは申しわけないし、感謝にたえません。しかし、私はこの通り元気いっぱいです。ますます元気で頑張ってまいりますからご安心ください。(拍手)
 私は世界に、不正、邪悪、傲慢が存在する限り、厳しく、それらに挑戦し、一生涯、皆さん方を守って、身を粉にして戦ってまいります。
 社会と人類の幸福を目指して、正法を護持して真面目に戦っている皆さん方が悠々と胸を張って人生を、潤歩していける土台をつくるまでは、そして皆さん方のお子さんやお孫さんが次の時代に大きく羽ばたいていくための道を開拓しきるまでは、断固、元気いっぱい、戦っていきますから、どうか安心していただきたい。(拍手)
 なお、この「人間革命」に描いている時代は、ちようど朝鮮動乱の真っ最中です。朝鮮民族が″流浪の民″ともいうべき、悲しい状態におかれている。もしも、戸田前会長、そして創価学会が一人立ち上がって広宣流布をしなければ、日本民族も同じように″流浪の民″になってしまうのではないか――そういう思いを託して、この詩を書いたことを、あわせてご了承ください。(拍手)
2  一人立つところに団結はおのずから築かれていく
 戸田前会長も、私達も″一人立て″という言葉をよく使いました。これは非常に深い意味を含んでいるのです。
 まず、信心は、一人立って実践していくということです。自分自身が、御本尊に真剣に題目をあげていかなければ、人間革命はできないし、成仏もできない。これは道理です。自分が信心せずに、妻や子供に代わりにやらせて、それで自分が成仏できるなどという、安易な因果の理法というのはありえない。自分自身が人間革命し、金剛不壊の幸福を築き上げていくには、自らが信心の実践を行なっていかねばならない。これが仏道修行です。
 自分自身が福運を積んでいけば、依正不二の原理で、たとえ信心しない奥さんや子供さんにも、当然、その福運は与同利益として及んでいくでしょう。しかし、それだけでは奥さんや子供さんの宿命打開はできない。いわんや、一家の主人でありながら要領よく奥さんや子供さんに信心させ、その与同利益をうけようという態度は、というべきです。
 したがって、誰人から批判されようが、いかなる苦難にあおうが、自らが主体性をもって一人立つ、自分らしく信心を貫き通していく。ここに信心の究極があると決意して、勇敢なる信心をしていただきたい。(拍手)
3  ここで″一人立つ″の原理と、団結の関係について述べてみたい。
 ″一人立つ″ということと、団結とは、一見違うように思えるが、実は全く同じものであります。自分が責任をって一人立つところに、団結はおのずから築かれていく。その証拠に、戸田前会長は、戦後のあの荒廃した国土に、ただ一人立たれて、死身弘法の戦いを展開された。そして何百万の鉄の団結を築かれたではありませんか。
 ブロックや、地区、隊、班においても、その原理は同じです。だれかがやるだろうと考えている限り、どこまでいっても団結を築くことはできない。一人立って、それが軸となって全部の人が立ち上がり、その結果、堅い団結ができあがる。これが理想的な和合僧であり、異体同心なのです。これは絶対に崩すことのできないものであり、私どもはそれを目指しているのです。
 一人の自覚ある幹部、使命感と責任感に満ちた闘士が立ち上がったとき、そこには常に新しい波動がわきおこり、人々の心を一つにしていく力が必ず出てくる。この方程式、原理を、皆さんのおのおのの立ち場で実践し、見事に実験証明していただきたい。(拍手)
4  仏法は人間主義
 次に、一人一人の学会員、そしてまた、親戚、友人、隣人を大切にし、真心こめて語り合っていくことが重要であると思います。特に同志、後輩に対しては、権威主義や命令主義であっては、絶対にならない。これは創価学会の根本精神に反してしまう。私達は、御本尊のもとに、全て平等です。仏法は、人間一人一人を專重していく人間主義です。中道主義とは、このような人間主義なのです。
 したがって信心していない人をも、大きく包容していっていただきたい。相手が信心に対して誹謗した場合には、厳然と戦わなければなりませんが、そうでない場合は、大聖人も「柔和忍辱の衣を著て」と仰せのように、相手を包容してあげなければならない。時代も大きく変わっているし、学会も大きく発展しています。
 学会再建当時のように、周囲が全て学会に反対していた時代と違って、現在は、順縁広布の時です。むしろ、利己主義でバラバラになっている他の団体や組織を覚醒させ包容していく時代に入っているのです。
 後輩、隣人、友人に対しても大きく包容し、創価学会の真実のあり方、公明党の実績等を、淡々と、そして真剣に話してあげれば、その人達は必ず感動し、認識もし、立ち上がっていくことも間違いない。相手も人間です。だから人間主義の仏法に、感じないわけがありません。
 私達は、これまでもこうした一つ一つの戦いを、地道に繰り返してきました。これからも、何回も繰り返して初めて広宣流布は成就するのです。
 民主主義は、対話を基調とした原理です。たとえ、一時的に買収やお世辞や策略で人を釣って、効果が上がっているようにみえても、やがて崩れ去ることは、長い歴史がなによりも証明しております。このことをよく自覚して、着実に、粘り強く実践し、その波動を全国に及ぼしいこうではありませんか。(拍手)
5  幹部は自ら積極的に勉強しょう
 次に、幹部の皆さん方は、自ら積極的に勉強しなければなりません。幹部とは、指導する相手よりも多く勉強し、一歩前進している人でなければなりません。もし幹部が勉強もせず、教えることもできないならば、後輩が可哀想です。それは大変に不幸なことです。
 学会の幹部というのは、人よりも力があり、揺るぎない信心の確信をもって、絶えず勉強している人の異名でなければなりません。すなわち、勉強していない人は、真の指導者とはいえないのです。
 学会の機関紙はもちろん一般紙や良い本も、どしどし読んでいただきたい。結局、それが全部自分のものになるのです。普段から少しでも勉強していれば、聖教新聞にしても、肝心なところは十分か二十分で読めるようになります。
 だいたい勉強というものは、何時間もかけなければできないというものではありません。会合に行く電車の中とか、人を待つあいだとか、少しでも時間をみつけてするのが、本当の勉強になるのです。
 多忙のなかに、激動のなかにこそ成長があり、本当の勉強ができるものです。勉強は、結局、自分のためです。どうか幹部の皆さんは、いろいろ大変でしょうが、あらゆることを勉強していっていただきたいと思います。
 更に幹部は、よく勉強すると同時に、根幹に確固とした信心の確信をもたなければなりません。御本尊に対する絶対の確信があれば、そこに尽きない智恵が湧現し、あらゆる知識も生きてくるし、後輩もその確信にふれて成長するのです。
6  結局は歩兵戦が勝敗を決する
 次に申し上げたいことは、兵法の原理というか、戦いの勝敗を決するものは、結局は歩兵戦であるということです。
 どんなに空中戦や海戦で勝っていたとしても、最後に歩兵戦で負けてしまえば、その戦いは負けということになります。世間の販売競争でも、どんなに一流メーカーが立派な商品を作ったとしても、結局、消費者が買ってくれなければ、商売にならないし、負けです。
 また、ベトナムの民族解放戦線が強いのも、ゲリラ戦術の歩兵戦で、地上、すなわち自らの国土世間を確保していたから勝ったのです。
 アメリカは、空から近代兵器を使って猛烈な爆撃を加えたのに、なぜ勝てなかったのか。それは、歩兵がジャングルを恐がったり、訓練がたらなかったからです。解放戦線のほうは、ジャングルのなかでも、動物のように動き回って、結局、現実に勝っているではありませんか。
 同様に私どもの立ち場についても、民衆の一人一人と話し合い、味方にしていく戦いが、最も大事になってきます。壇上で雄弁をふるったり、テレビなどを利用したほうが得策であると考える人がいるかもしれませんが、それは皮相的な見方で、真の勝利の要諦とはなりません。
 このことは、私もよく知っておりますし、初代牧口会長、戸田前会長以来、よくいわれてきたことであります。我が学会には、見栄や外聞は必要ありません。一人一人を確実に幸せにしていくことが目的です。
 それに対し他党では、いろいろ有名人をかつぎだしたり、派手なPRで票を取ろうとしたり、自党のいいところを躍起になって見せようとしております。または、巨大な組織をもっておごりたかぶっていたり、金銭をもって人を買収したりしています。
 しかし私どもは、真実の大衆の味方として、民衆のなかへ入り、民衆のなかで戦い、民衆一人一人を納得させ、民衆を味方にする戦いを進めております。そのうえにこそ、広宣流布の金字塔が打ち立てられるのです。(拍手)
 十年前の学会と今日の学会の大発展を比較したときに、一人一人に認識を与え、味方にしていくという我々の地味な活動の積み重ねが、この十年間に想像もつかない強固な土台を築き上げてきたことを知るのであります。これによっても、今日のこれほど大きい土台のうえに、今後十年間、同じ方程式で前進していったならば、まさに幾何級数的な大飛躍を遂げることになるでしょう。また、これこそ民主主義の、深い強い基盤を築く方程式であるといえるのです。
7  あらゆる闘争の根本は信心
 次に申し上げたいことは、信心こそ一切の戦いの原動力であるということであります。あらゆる闘争、法戦の根本は、信心なのです。
 自分自身が信心に奮い立って激励すれば、相手の信心の歯車を合わせてあげることができる。また、真剣な信心、真剣な祈りがあれば、広宣流布を阻む者は、自らの身を滅ぼしていくのです。
 広宣流布への重大な楔を打とうとしている今、全員が心を合わせ、御本尊に真剣に祈っていくならば、あらゆる点で妙法の加護がないわけは絶対にありません。この信心の力と法則は、他のいかなる団体や政党にもない。ただ、私ども創価学会のみにある力であることを誇りとし、襟度をもって進んでいただきたい。(拍手)
 だが、いったん、実戦の場に臨んだならば、信心しているからなんとかなるといった、ただ一方的に御本尊に甘えるような気持ちがあってはなりません。あくまでも、信心即生活、信心即戦いです。おのおのが戦いのなかにあって、ぐんぐん力を発揮し結果を出していく――それで初めて、信心といえるのです。
 かつて、太平洋戦争のときに、国民の心のなかにお愚かにも「神風が吹くのではないか」といった甘い考えがあった。惨めな結末になったことはご承知の通りであります。
 仏法をもった我々の場合も、ただ、御本尊に甘えているのは、観念的な信心です。現実の世界や社会は、決して甘いものではありません。現実の社会に挑んで真剣に祈り、戦ったか否かの一点の差で、百八十度も違う結果が出てきてしまうものです。したがって、御本尊に、真心こめて仕えようという決意と実践があってこそ、そこに初めて御本尊の加護があるというのが仏法の原理なのであります。
 すなわち、御本尊に真心こめて仕えることは、即大聖人に仕えることであります。皆さん方が、大聖人の弟子として、王仏冥合の法戦におのおのの立ち場で実践し、責任を果たすことは、御本尊に通じ、結局、自分自身のためになり、加護をうけることになるのです。
8  常に価値的、合理的な戦いを
 広布の進展につれ、戦いはますます多角的になってきます。この時にあたって、私が望みたいことは、常に価値的、合理的に戦いを進めてほしいということであります。
 前時代的な、無鉄砲なやり方は、絶対に慎んでいただきたい。あくまでも、きちんと計画を立て、その計画を一つ一つ着実に達成していく戦いでなければなりません。決して事故を起こさないでいただきたい。今は、会合などにしても、夜遅くまで、時間を考えずに、がむしやらに活動するような時代ではないのです。
 それとともに、幹部の皆さん方は、同志が行き詰まらないように、先手、先手と戦いの手を打っていただきたい。それで初めて、戦いが更に大きく開かれていくわけです。
 忙しいからといって幹部のわがままで、いきあたりばったりのいいかげんな計画を立てるようなことがあれば、大勢の人が迷惑するだけでなく、逆に力を浪費してしまう。これでは指導者として致命傷です。そういう行き方は厳に戒めたい。
 みんなが戦いやすいようにしていくのが指導者です。したがって、常に先手、先手を打ち、みんなで決めた計画は、変更しないということを実行していこうではありませんか。(拍手)
 ともあれ幹部は、全員が自信をもって、伸びのびと、思う存分戦えるように、神経を細かく使っていくべきである。同志を守り、人々を包容し、事故が起こらないようにするため、ある意味では、神経質なぐらいでなければならない。かつて、アメリカの第十六代大統領リンカーンは、小学校しか出ていなかったが、大学出の代議士や閣僚のだれよりも威厳があり、力があり、人から尊敬されていた。その顔は、国のこと、民衆のことを考えて、いつもう憂いに満ちていたといわれています。
 これでこそあたりまえなのです。国が危機に瀕しているのに、なにもできないで笑っているような日本の指導者では、話になりません。学会もそうであってはならない。したがって幹部は、神経を細かく使って後輩を育成していただきたい。
9  多忙な活動のなかにこそ充実感
 十八世紀のフランスの思想家であるボルテールは「人生は活動の中にあり、貧しき休息は死を意味す」と述べております。
 これを私どもの立ち場で読むならば、最も偉大な尊い目的のために活動していくことこそ、真の生きがいのある人生であるといえるのであります。すなわち、私どもは毎日、妙法広布という崇高な仕事に励んでおります。これほど張り合いがあり、喜びのある人生はないと断言するものですが、いかがでしょうか。(拍手)
 世間の人々は、表面上は楽しそうに見えても、本質をみていくと、張り合いのない空虚な人生です。目的観も低く、毎日をもんもんとして楽しまない生活を送っている。私どもが、全世界の平和のため、王仏冥合という大偉業を目指し、日夜活動しているのに対し、彼らのある人はなんの責任も感じないでいい気持ちになって遊び暮らし、またある人は自分の利欲のために汲々としている。しかし、その本質は、かのボルテールのいう「貧しき休息」であり、無責任で、小市民的な生活に安住する、うつろな人生といわざるをえない。
 したがって、私達は学会活動で多忙に動き回り、活躍している毎日こそ、最高に生きがいのある充実した人生であると確信し、ともどもに進んでいこうではありませんか。(拍手)
 「休息」といえば皆さん方も、たまに一週間ぐらい、学会活動をしないで家にいるときなどは、なんとなく寂しい気持ちになった場合があるのではありませんか。(笑い)初めは気楽になっていても(笑い)だんだんつまらなくなり、そのうちに″だれか支部の人はきてくれないか、一緒に題目をあげ、勤行をしたい″(笑い)というように、なんともいえない寂しさが込み上げてくることを体験した人もいることでしょう。
 一度、そういう体験をした人は、遊んでいる人を見ると、今度は″ああ、気の毒だ″と思うようになってくる。
 このように、休めばかえってつらく苦しい。これがわかった以上、あとはもう、途中で休んだりせずに、着実に前へ進みましょう。(笑い、拍手)
 ゆっくりにみえても、こうして、一歩一歩じわりじわりと、積み重ねていって、真実の人間革命ができるのです。メッキではなく本物の自分が確立されるのです。福運に満ちみちて、生きること自体が楽しくなり、どんなことがあっても変毒為薬をしていくことができるようになる。そういう絶対に壊すことのできない幸福境涯を、自分自身で確立し、感得しきっていただきたい。(拍手)
10  広宣流布は一人一人の生きた人間革命の集積
 最後に持妙法華問答抄の一節を引いてお話し申し上げたい。いわく、「つらつら世間を見るに法をば貴しと申せども其の人をば万人是をにくむ汝能く能く法の源に迷へりいかにと云うに一切の草木は地より出生せり、是を以て思うに一切の仏法も又人によりて弘まるべし之に依つて天台は仏世すら猶人を以て法を顕はす末代いづくんぞ法は貴けれども人は賤しと云はんやとこそ釈して御坐おわし候へ、されば持たるる法だに第一ならば持つ人随つて第一なるべし」と。
 これは、法、すなわち仏法がいかに偉大であるといっても、所詮は人によって実証され、人によって顕揚されていくことを説かれた御文です。
 「倩ら世間を見るに法をば貴しと申せども其の人をば万人是を悪む汝能く能く法の源に迷へり」――世間の人々は、仏法が尊いということは、おぼろげながらも感じている。しかし、この尊い法を弘める人に対しては、反対に憎み、批判してくる。これは、皆さん方も、すでに体験されて、ご存知と思います。
 力のない宗教では、それ自体に作用がないため、このような反作用もありません。だが、大聖人は、こうした憎しみや批判は、結局、尊い「法」の根源が「人」であるということを知らない迷妄もからくるものであると仰せなのであります。
 法本尊を説いている観心本尊抄も、せんじつめると、日蓮大聖人という「人」にきてしまう。すなわち、法といえども、結局は人なのです。
 「何にと云うに一切の草木は地より出生せり、是を以て思うに一切の仏法も又人によりて弘まるべし」――ここが大事なところです。一切の草木が、大地より出生するごとく、一切の仏法もまた人によって弘まるのであるとの仰せであります。一切の功徳の源泉は、八万法蔵の根本極理たる大御本尊であられる。だがその偉大な功力を現実にあらわしていくという立ち場に立った場合には、人が根本となる。人を大地にたとえるならば、大御本尊の功徳は、そのうえに競い咲く草木という関係になるのであります。したがって、皆さん方の立ち場は本当に大事であり、皆さん方を誹謗すれば厳罰・仏罰があるのは当然です。どうか皆さん方は、その確信を強くもっていただきたい。(拍手)
 広宣流布の主体、根底もまた人であり、広宣流布を成就するもしないも、究極のところは私達自身の胸中にあり、一念のなかにあるとの、厳しい指針を示された御書であります。
 したがって、私どもは、この御金言は「広宣流布は、手をこまねいて待っていても絶対に成就するものではない、広宣流布の道を切り開くか否か、王仏冥合の大偉業の成否も、全て私ども一人一人の人間の、現在の決意、責任、行動によって決まる」と大聖人が仰せであると再確認して、強い自覚をもって進んでまいろうではありませんか。(拍手)
 「之に依つて天台は仏世すら猶人を以て法を顕はす末代いづくんぞ法は貴けれども人は賤しと云はんやとこそ釈して御坐候へ」――この御文は、法の根底が人であることは、釈迦在世以来変わらざる方程式であることを説かれている。釈迦の場合でも、法が大事であったけれども、せんじつめれば人であった。天台の場合も摩訶止観が大事であったというけれども、更に大事なのは、それを弘める人であった。なかんずく末法の大白法流布の時代においては、弘める人が最も大事のなかの大事であることを示された御文なのであります。
 私は更にこの文を拝読して、末法化儀の広宣流布の今日においては、他のいかなる時代よりも、人が大事である、人材が大事である、一切は人によって始まり、人によって有終の美を飾るものであるということを申し上げておきたい。(拍手)
 「されば持たるる法だに第一ならば持つ人随って第一なるべし」――この御文は私どもの持っている大御本尊は、世界一、否、大宇宙の根本原理であるからその偉大な法力は厳然とそれを持つ人の人間革命の実証としてあらわれてくる。詮ずるところ広宣流布の道はすなわち各人一人一人の人間革命の生きた集積である、ということになるのであります。私達は一人一人が弱き自己と戦い、名聞名利を排し、責任感にあふれ、真心の戦いをしていくところに、広宣流布の勝利、王仏冥合の勝利が到来すると叫んでいこうではありませんか。(拍手)
 また、人と法との関係を組織に約していえば、組織自体は法となります。人とは、それを動かし推進する主体たる私どもであります。したがって、その組織が伸びるかのびないか、上げ潮になるか、逆にし、引き潮になってしまうか、それは全部、組織を支える人によって決まるということになるわけです。
 私どもの組織、環境は、自分自身の姿を映し出す鏡としていただきたい。そして常に自分自身を反省し、奮起し、前進していっていただきたいのであります。それがすなわち、自分自身の人間革命に通じ、広布実現の源泉であり、そしてまた、皆さん方自身の和合僧の模範的な功徳の確立になるわけであります。
 どうか、皆さん方が体を大事にし、事故なく明朗に、駿馬のごとく自己の戦野を雄々しく、楽しく駆け巡っていただきたいことを心からお願い申し上げ、ともに皆さん方のご家庭の安泰とをお祈り申し上げまして、私の話といたします。(拍手)

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